サラエヴォ旅行記(ブログ) 一覧に戻る
10*27ボスニア  サラエボ///<br />今日はちゃんと早起きして、ボスニアのサラエボに向かいました。向かう途中内戦時代に崩壊した沢山の建物や銃弾痕跡を見ました。あちらこちらで沢山の墓もありました。サラエボはクロアチア人、スラブ人、ムスリム人の主要三民族の血が何代にも混ざり合ってきたが、徐々にそれぞれの民族が領域拡大を目指し、民族浄化が始まってしまった。各民族で争うということは、隣人殺し、兄弟殺しを意味する。互いの民族浄化で多数の死者や難民も出ている。平和な時代に産まれた俺には想像もつかないし、俺が生まれてからも実際に民族浄化は行われていた。だから俺はどうしても自分の目で見たかったし、この旅を決めた理由の一つでもある。街を歩いていても難民やジプシーにお金を求められる。だから俺は日本からもってきた飴玉をあげる。少し不満そうな顔はするが、舐めると笑顔になってくれたりもする。でも、今のサラエボで生活している人びとは、心の中では複雑な気持ちを抱えているにもかかわらず、違う民族同士、仲良くやっているのかなと感じた。バルシチャ通りやいろんなモスクにも行った。いろいろ聞いても皆親切に教えてくれたり、トラム詐欺の回避方法など教えてくれた。スラブ人の女の子はいつみても可愛いいな〜。夜の夜行列車で、セルビアのベオグラードに行く事にした。寝台車もなく、少し怖かったが、ニュージーランドの若い子達のバッパーと一緒になり、ベオグラード迄一緒にきた。<br /><br />概要<br />ボスニア・ヘルツェゴビナの首都であり、同国で最大の人口をもつ都市である。2007年7月の推計では、ボスニア・ヘルツェゴビナのサラエヴォ県に属する4つの自治体の人口は合わせて304,065人である。サラエヴォはまた、ボスニア・ヘルツェゴビナを構成する2つの構成体(エンティティ)のうちのひとつであるボスニア・ヘルツェゴビナ連邦の首都でもあり、またサラエヴォ県の県都でもある。サラエヴォはボスニア地方のサラエヴォ渓谷のなかにあり、ディナール・アルプスに取り囲まれ、ミリャツカ川(Miljacka)周辺に広がっている。サラエヴォの町は宗教的な多様性で知られており、イスラム教、正教会、カトリック教会、ユダヤ教が何世紀にもわたって共存してきた。<br /><br />歴史<br />この地域に人が居住を始めたのは先史時代にまでさかのぼるものの、現代のサラエヴォにつながる町ができたのは15世紀のオスマン帝国の統治下でのことであった。サラエヴォは近代、何度かにわたって国際的な注目を受けることになった。1914年にはこの地はオーストリア帝位継承者の暗殺事件の現場となり、この事件によって第一次世界大戦が引き起こされた。1984年にはサラエヴォは1984年冬季オリンピックの会場となり、更に後のユーゴスラビア崩壊のときには、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争において数年間にわたるセルビア人勢力による包囲を受けた。サラエヴォは紛争後の復興開発が進み、21世紀初頭において紛争前の水準を回復しつつある。サラエヴォは、ボスニア・ヘルツェゴビナの経済・文化活動の拠点となっている。サラエヴォはヨーロッパで初めて、そして全世界で2番目に早く終日(朝から夜まで)運行の路面電車が運行された町である。<br /><br /><br /><br />ボスニア・ヘルツェゴビナについて<br />バルカン半島の北西に位置する共和国。クロアチア、セルビア、モンテネグロと国境を接する。ユーゴスラビアからの独立時、独立の可否や国のあり方をめぐってボシュニャク人、クロアチア人、セルビア人がそれぞれ民族ごとに分かれてボスニア・ヘルツェゴビナ紛争を戦った。<br /><br /><br />歴史<br />古代・中世 <br />現在のボスニア、ヘルツェゴビナには当初インドヨーロッパ語族のイリリア人が住んでいたが、紀元前1世紀にローマ帝国の支配下に入った。その後、6世紀後半からスラヴ人が定住し始め、中世のころにはそれぞれ王国を形成していた。この地域は地理的環境から、カトリックと正教会の対立の最前線となり、両宗教の激しい布教争いの場となった。このため多くの人々はブルガリアから入ってきたボゴミル派に救いを求める。12世紀後半にはボスニア王国がボスニア、ヘルツェゴビナを統治した。<br /> オスマン帝国統治時代 <br />モスタルのスタリ・モスト。ボスニア・ヘルツェゴビナの代表的なオスマン建築のひとつ。15世紀後半までにはボスニア・ヘルツェゴビナの全域がオスマン帝国の支配下に入る。正統派のキリスト教勢力から弾圧を受けていたボゴミル教徒たちの多くはこのときイスラムに改宗した。またこのほかにもイスラム教に改宗した現地のスラヴ人、トルコなどから移り住んでボスニア・ヘルツェゴビナに定着したイスラム教徒などによって、この地方ではムスリムの人口比率が高まった。サラエヴォはオスマン帝国のボスニア州の中心となり、宮殿が築かれ、帝国の州知事たちによってオスマン風の都市建設が進められた。多くの住民がイスラム教を受容していたことや、その戦略的重要性のために、ボスニア・ヘルツェゴビナでは他のバルカン諸国に例がないほど文化のトルコ化が進行した。16世紀から17世紀にかけて、オスマン帝国がハプスブルク帝国、及びヴェネチア共和国と戦争を行った際に、ボスニアは重要な前哨基地としての役目を果たしている。<br /> 近代 <br />19世紀後半、オスマン帝国の衰退に伴い、バルカン半島はオーストリア・ハンガリー帝国とロシア帝国の勢力争いの場となる。1875年にボスニア蜂起が起きると、この反乱を口火として露土戦争が起こった。戦後、ロシアの南下政策にオーストリアとイギリスが反対したことにより1878年に開かれたベルリン会議によって、オーストリアはボスニア、ヘルツェゴビナ、サンジャクのオスマン帝国主権下の施政権を獲得する。オーストリアは1908年、ボスニア、ヘルツェゴビナ両地域を併合した。このことがセルビアの大セルビア主義や、汎スラブ主義を刺激し、第一次世界大戦の一因となる。第一次世界大戦後、サン=ジェルマン条約 によりオーストリア・ハンガリー帝国は解体され、セルビアの南スラブ連合構想に基づいてセルボ・クロアート・スロヴェーヌ王国が建国されると、ボスニア、ヘルツェゴビナはその一部となった。<br /> 第二次世界大戦 <br />第二次世界大戦時、ボスニア・ヘルツェゴビナの大部分は、ナチス・ドイツの傀儡ファシスト国家であるクロアチア独立国の支配下に置かれた。クロアチア独立国の支配下では、クロアチア人の民族主義組織ウスタシャによって、セルビア人はユダヤ人、ロマ、反体制派などとともに激しい迫害を受け、数万から数十万人が各地で殺害されるか、強制収容所に送られて殺害された。また、これに対抗したセルビア人の民族主義者チェトニクによって、クロアチア人やボシュニャク人が大量に殺害された。この時代、フォチャをはじめとする各地で、ウスタシャとチェトニクによる凄惨な民族浄化の応報が繰り広げられた。これらの民族主義者や、ナチス・ドイツ、ファシスト・イタリア等に対して、多民族混成の抵抗組織としてパルチザンが結成され、ボスニア各地で戦いを繰り広げた。パルチザンによるユーゴスラビア人民解放反ファシスト会議(AVNOJ)の第1回の会合はビハチで、第2回の会合はヤイツェで行われた。<br /> 社会主義時代 <br />ユーゴスラビア連邦人民共和国が成立すると、1946年にボスニアおよびヘルツェゴビナ地方には、ユーゴスラビア連邦の構成共和国の一つとしてボスニア・ヘルツェゴビナ人民共和国が誕生した。戦後、共産主義国家として誕生したユーゴスラビア連邦では、クロアチアやセルビアなどが民族ごとの国家として誕生したが、多民族による混住が進んでいたボスニアでは特定民族の国家をつくることはできず、地域的な共和国としてボスニア・ヘルツェゴビナが置かれた。ユーゴスラビアがソビエト連邦と決別してからは、ユーゴスラビア独自の自主管理社会主義が導入され、経済活動や政治的権利はより下位の単位に移管されていった。<br />ボスニア・ヘルツェゴビナのムスリムたちは、多くの場面でセルビア人、クロアチア人、あるいはトルコ人と名乗っていたが、固有の民族「ボスニア人」としての扱いを求めていた。1974年にユーゴスラビア連邦の憲法が改定された際、ボスニアのムスリムは「ムスリム人」の呼称で独自の民族とされた。これは、連邦の中央政府の意向によって、ボスニア・ヘルツェゴビナを多民族混住の純粋に地理的な単位とみなす上で、ムスリム(ボシュニャク人)のみが「ボスニア」の呼称を使用することに対する懸念によるものである。長らく民族間の緊張の少ない状態が続き、都市部では多民族の混住、民族間の結婚なども進んだ。また、いわゆる東側諸国とは一線を画したユーゴスラビア独自の路線によって、言論や文化的活動に関して他の共産主義諸国よりもはるかに多くの自由が認められていた。体制批判的な映画も製作され、またサラエヴォはユーゴスラビアのロック・ポップスの一大拠点となった。また、1984年にはサラエボオリンピックが開催された。<br /> ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争 <br />1990年に共産主義独裁が公式に放棄され、多党制が認められると、ボスニア・ヘルツェゴビナではそれぞれの民族を代表する政党が議会の大半を占めるようになった。1991年にスロベニア、クロアチア、マケドニア共和国が相次いでユーゴスラビアからの独立を宣言し、クロアチアではクロアチア紛争が始まった。相次ぐ独立宣言や隣国での民族間紛争の勃発によって、次第にボスニア・ヘルツェゴビナの各民族間には緊張・不信が広がり、一部では武器を準備する動きも進んだ。正教徒主体のボスニア・ヘルツェゴビナのセルビア人たちは、セルビアやモンテネグロとともにユーゴスラビア連邦に留まることを望んでいたが、イスラム教徒中心のボシュニャク人や、ローマ・カトリック教徒主体のクロアチア人はユーゴスラビアからの独立を望んだ(この3つの民族は互いに言語・文化の多くを同じくする一方、異なる宗教に属していた)。1992年、ボスニア政府は、セルビア人がボイコットする中で国民投票を強行し、独立を決定した。3月に独立を宣言してユーゴスラビアから独立した。大統領アリヤ・イゼトベゴヴィッチなどの、数の上で最多となるボシュニャク人の指導者たちは、ボスニア・ヘルツェゴビナを統一的な国家とすることによって、自民族が実質的に国家を支配できると考えていた。これに対して、セルビア人やクロアチア人は、ボシュニャク人による支配を嫌い、独自の民族ごとの共同体を作って対抗した。クロアチア人によるヘルツェグ=ボスナ・クロアチア人共同体や、セルビア人によるボスニア・ヘルツェゴビナ・セルビア人共同体は、それぞれ独自の議会を持ち、武装を進めた。ボスニア・ヘルツェゴビナ・セルビア人共同体は、ラドヴァン・カラジッチを大統領とする「ボスニア・ヘルツェゴビナ・セルビア人共和国(スルプスカ共和国)」としてボスニア・ヘルツェゴビナからの分離を宣言した。1992年5月にユーゴスラビア人民軍が公式に撤退すると、その兵員や兵器の一部はそのままスルプスカ共和国軍となった。また、ヘルツェグ=ボスナ・クロアチア人共同体も、マテ・ボバンの指導のもと、「ヘルツェグ=ボスナ・クロアチア人共和国」の樹立を宣言し、同国の軍としてクロアチア防衛評議会を設立し、クロアチア人による統一的な軍事組織とした。2つの民族ごとの分離主義国家、および事実上ボシュニャク人主導となったボスニア・ヘルツェゴビナ中央政府の3者による争いは、それぞれの支配地域の拡大を試みる「陣取り合戦」の様相を呈し、それぞれ自勢力から異民族を排除する目的で虐殺や見せしめ的な暴行による追放を行う民族浄化が繰り広げられた。1994年にはアメリカ合衆国の主導でボスニア中央政府とクロアチア人勢力との間で停戦が成立した。これによって両勢力はセルビア人勢力に対して反転攻勢をはじめ、またNATOによる空爆などの軍事介入も行われた。1995年に国際連合の調停で和平協定デイトン合意に調印し、紛争は終結した。<br /> ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争終結後<br />トレビニェ川にかかる橋。トレビニェにて。デイトン合意によってボスニア・ヘルツェゴビナは、ボシュニャク人(ムスリム人)とクロアチア人主体のボスニア・ヘルツェゴビナ連邦と、セルビア人主体のスルプスカ共和国(セルビア人共和国)という2つの構成体から成る連合国家となった。民生面を上級代表事務所(OHR)、軍事面をNATO中心の多国籍部隊(平和安定化部隊、SFOR)が担当し、停戦の監視と和平の履行を進めた。また、紛争中の戦争犯罪者の逮捕と起訴、民族浄化によって移住を強いられた人々の帰還支援や民族間の和解に向けた取り組みが続けられているが、住民の強い抵抗によって帰還は遅々として進んでいない。選挙では民族主義政党が勝利し、民族間対立によって政治が行き詰まり、国外から派遣されるボスニア・ヘルツェゴビナ上級代表の強権発動によって政治的困難を打破せざるを得ない事態もたびたび起こっている。2004年6月のNATO首脳会合で、各国首脳はボスニアの治安改善を考慮し、SFORの展開を2004年末で終了させることで合意した。2004年12月からはEUの部隊である欧州連合部隊 アルテア(EUFOR Althea)がボスニアの治安を維持する目的で展開している。EUFOR Altheaは順次部隊を縮小しており、当初7,000名であった兵力は2008年時点では約2,200名となっている。

複雑な心情  ボスニア   サラエボ

5いいね!

2009/10/27 - 2009/10/27

310位(同エリア402件中)

0

33

kawabekentarou

kawabekentarouさん

10*27ボスニア サラエボ///
今日はちゃんと早起きして、ボスニアのサラエボに向かいました。向かう途中内戦時代に崩壊した沢山の建物や銃弾痕跡を見ました。あちらこちらで沢山の墓もありました。サラエボはクロアチア人、スラブ人、ムスリム人の主要三民族の血が何代にも混ざり合ってきたが、徐々にそれぞれの民族が領域拡大を目指し、民族浄化が始まってしまった。各民族で争うということは、隣人殺し、兄弟殺しを意味する。互いの民族浄化で多数の死者や難民も出ている。平和な時代に産まれた俺には想像もつかないし、俺が生まれてからも実際に民族浄化は行われていた。だから俺はどうしても自分の目で見たかったし、この旅を決めた理由の一つでもある。街を歩いていても難民やジプシーにお金を求められる。だから俺は日本からもってきた飴玉をあげる。少し不満そうな顔はするが、舐めると笑顔になってくれたりもする。でも、今のサラエボで生活している人びとは、心の中では複雑な気持ちを抱えているにもかかわらず、違う民族同士、仲良くやっているのかなと感じた。バルシチャ通りやいろんなモスクにも行った。いろいろ聞いても皆親切に教えてくれたり、トラム詐欺の回避方法など教えてくれた。スラブ人の女の子はいつみても可愛いいな〜。夜の夜行列車で、セルビアのベオグラードに行く事にした。寝台車もなく、少し怖かったが、ニュージーランドの若い子達のバッパーと一緒になり、ベオグラード迄一緒にきた。

概要
ボスニア・ヘルツェゴビナの首都であり、同国で最大の人口をもつ都市である。2007年7月の推計では、ボスニア・ヘルツェゴビナのサラエヴォ県に属する4つの自治体の人口は合わせて304,065人である。サラエヴォはまた、ボスニア・ヘルツェゴビナを構成する2つの構成体(エンティティ)のうちのひとつであるボスニア・ヘルツェゴビナ連邦の首都でもあり、またサラエヴォ県の県都でもある。サラエヴォはボスニア地方のサラエヴォ渓谷のなかにあり、ディナール・アルプスに取り囲まれ、ミリャツカ川(Miljacka)周辺に広がっている。サラエヴォの町は宗教的な多様性で知られており、イスラム教、正教会、カトリック教会、ユダヤ教が何世紀にもわたって共存してきた。

歴史
この地域に人が居住を始めたのは先史時代にまでさかのぼるものの、現代のサラエヴォにつながる町ができたのは15世紀のオスマン帝国の統治下でのことであった。サラエヴォは近代、何度かにわたって国際的な注目を受けることになった。1914年にはこの地はオーストリア帝位継承者の暗殺事件の現場となり、この事件によって第一次世界大戦が引き起こされた。1984年にはサラエヴォは1984年冬季オリンピックの会場となり、更に後のユーゴスラビア崩壊のときには、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争において数年間にわたるセルビア人勢力による包囲を受けた。サラエヴォは紛争後の復興開発が進み、21世紀初頭において紛争前の水準を回復しつつある。サラエヴォは、ボスニア・ヘルツェゴビナの経済・文化活動の拠点となっている。サラエヴォはヨーロッパで初めて、そして全世界で2番目に早く終日(朝から夜まで)運行の路面電車が運行された町である。



ボスニア・ヘルツェゴビナについて
バルカン半島の北西に位置する共和国。クロアチア、セルビア、モンテネグロと国境を接する。ユーゴスラビアからの独立時、独立の可否や国のあり方をめぐってボシュニャク人、クロアチア人、セルビア人がそれぞれ民族ごとに分かれてボスニア・ヘルツェゴビナ紛争を戦った。


歴史
古代・中世
現在のボスニア、ヘルツェゴビナには当初インドヨーロッパ語族のイリリア人が住んでいたが、紀元前1世紀にローマ帝国の支配下に入った。その後、6世紀後半からスラヴ人が定住し始め、中世のころにはそれぞれ王国を形成していた。この地域は地理的環境から、カトリックと正教会の対立の最前線となり、両宗教の激しい布教争いの場となった。このため多くの人々はブルガリアから入ってきたボゴミル派に救いを求める。12世紀後半にはボスニア王国がボスニア、ヘルツェゴビナを統治した。
オスマン帝国統治時代
モスタルのスタリ・モスト。ボスニア・ヘルツェゴビナの代表的なオスマン建築のひとつ。15世紀後半までにはボスニア・ヘルツェゴビナの全域がオスマン帝国の支配下に入る。正統派のキリスト教勢力から弾圧を受けていたボゴミル教徒たちの多くはこのときイスラムに改宗した。またこのほかにもイスラム教に改宗した現地のスラヴ人、トルコなどから移り住んでボスニア・ヘルツェゴビナに定着したイスラム教徒などによって、この地方ではムスリムの人口比率が高まった。サラエヴォはオスマン帝国のボスニア州の中心となり、宮殿が築かれ、帝国の州知事たちによってオスマン風の都市建設が進められた。多くの住民がイスラム教を受容していたことや、その戦略的重要性のために、ボスニア・ヘルツェゴビナでは他のバルカン諸国に例がないほど文化のトルコ化が進行した。16世紀から17世紀にかけて、オスマン帝国がハプスブルク帝国、及びヴェネチア共和国と戦争を行った際に、ボスニアは重要な前哨基地としての役目を果たしている。
近代
19世紀後半、オスマン帝国の衰退に伴い、バルカン半島はオーストリア・ハンガリー帝国とロシア帝国の勢力争いの場となる。1875年にボスニア蜂起が起きると、この反乱を口火として露土戦争が起こった。戦後、ロシアの南下政策にオーストリアとイギリスが反対したことにより1878年に開かれたベルリン会議によって、オーストリアはボスニア、ヘルツェゴビナ、サンジャクのオスマン帝国主権下の施政権を獲得する。オーストリアは1908年、ボスニア、ヘルツェゴビナ両地域を併合した。このことがセルビアの大セルビア主義や、汎スラブ主義を刺激し、第一次世界大戦の一因となる。第一次世界大戦後、サン=ジェルマン条約 によりオーストリア・ハンガリー帝国は解体され、セルビアの南スラブ連合構想に基づいてセルボ・クロアート・スロヴェーヌ王国が建国されると、ボスニア、ヘルツェゴビナはその一部となった。
第二次世界大戦
第二次世界大戦時、ボスニア・ヘルツェゴビナの大部分は、ナチス・ドイツの傀儡ファシスト国家であるクロアチア独立国の支配下に置かれた。クロアチア独立国の支配下では、クロアチア人の民族主義組織ウスタシャによって、セルビア人はユダヤ人、ロマ、反体制派などとともに激しい迫害を受け、数万から数十万人が各地で殺害されるか、強制収容所に送られて殺害された。また、これに対抗したセルビア人の民族主義者チェトニクによって、クロアチア人やボシュニャク人が大量に殺害された。この時代、フォチャをはじめとする各地で、ウスタシャとチェトニクによる凄惨な民族浄化の応報が繰り広げられた。これらの民族主義者や、ナチス・ドイツ、ファシスト・イタリア等に対して、多民族混成の抵抗組織としてパルチザンが結成され、ボスニア各地で戦いを繰り広げた。パルチザンによるユーゴスラビア人民解放反ファシスト会議(AVNOJ)の第1回の会合はビハチで、第2回の会合はヤイツェで行われた。
社会主義時代
ユーゴスラビア連邦人民共和国が成立すると、1946年にボスニアおよびヘルツェゴビナ地方には、ユーゴスラビア連邦の構成共和国の一つとしてボスニア・ヘルツェゴビナ人民共和国が誕生した。戦後、共産主義国家として誕生したユーゴスラビア連邦では、クロアチアやセルビアなどが民族ごとの国家として誕生したが、多民族による混住が進んでいたボスニアでは特定民族の国家をつくることはできず、地域的な共和国としてボスニア・ヘルツェゴビナが置かれた。ユーゴスラビアがソビエト連邦と決別してからは、ユーゴスラビア独自の自主管理社会主義が導入され、経済活動や政治的権利はより下位の単位に移管されていった。
ボスニア・ヘルツェゴビナのムスリムたちは、多くの場面でセルビア人、クロアチア人、あるいはトルコ人と名乗っていたが、固有の民族「ボスニア人」としての扱いを求めていた。1974年にユーゴスラビア連邦の憲法が改定された際、ボスニアのムスリムは「ムスリム人」の呼称で独自の民族とされた。これは、連邦の中央政府の意向によって、ボスニア・ヘルツェゴビナを多民族混住の純粋に地理的な単位とみなす上で、ムスリム(ボシュニャク人)のみが「ボスニア」の呼称を使用することに対する懸念によるものである。長らく民族間の緊張の少ない状態が続き、都市部では多民族の混住、民族間の結婚なども進んだ。また、いわゆる東側諸国とは一線を画したユーゴスラビア独自の路線によって、言論や文化的活動に関して他の共産主義諸国よりもはるかに多くの自由が認められていた。体制批判的な映画も製作され、またサラエヴォはユーゴスラビアのロック・ポップスの一大拠点となった。また、1984年にはサラエボオリンピックが開催された。
ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争
1990年に共産主義独裁が公式に放棄され、多党制が認められると、ボスニア・ヘルツェゴビナではそれぞれの民族を代表する政党が議会の大半を占めるようになった。1991年にスロベニア、クロアチア、マケドニア共和国が相次いでユーゴスラビアからの独立を宣言し、クロアチアではクロアチア紛争が始まった。相次ぐ独立宣言や隣国での民族間紛争の勃発によって、次第にボスニア・ヘルツェゴビナの各民族間には緊張・不信が広がり、一部では武器を準備する動きも進んだ。正教徒主体のボスニア・ヘルツェゴビナのセルビア人たちは、セルビアやモンテネグロとともにユーゴスラビア連邦に留まることを望んでいたが、イスラム教徒中心のボシュニャク人や、ローマ・カトリック教徒主体のクロアチア人はユーゴスラビアからの独立を望んだ(この3つの民族は互いに言語・文化の多くを同じくする一方、異なる宗教に属していた)。1992年、ボスニア政府は、セルビア人がボイコットする中で国民投票を強行し、独立を決定した。3月に独立を宣言してユーゴスラビアから独立した。大統領アリヤ・イゼトベゴヴィッチなどの、数の上で最多となるボシュニャク人の指導者たちは、ボスニア・ヘルツェゴビナを統一的な国家とすることによって、自民族が実質的に国家を支配できると考えていた。これに対して、セルビア人やクロアチア人は、ボシュニャク人による支配を嫌い、独自の民族ごとの共同体を作って対抗した。クロアチア人によるヘルツェグ=ボスナ・クロアチア人共同体や、セルビア人によるボスニア・ヘルツェゴビナ・セルビア人共同体は、それぞれ独自の議会を持ち、武装を進めた。ボスニア・ヘルツェゴビナ・セルビア人共同体は、ラドヴァン・カラジッチを大統領とする「ボスニア・ヘルツェゴビナ・セルビア人共和国(スルプスカ共和国)」としてボスニア・ヘルツェゴビナからの分離を宣言した。1992年5月にユーゴスラビア人民軍が公式に撤退すると、その兵員や兵器の一部はそのままスルプスカ共和国軍となった。また、ヘルツェグ=ボスナ・クロアチア人共同体も、マテ・ボバンの指導のもと、「ヘルツェグ=ボスナ・クロアチア人共和国」の樹立を宣言し、同国の軍としてクロアチア防衛評議会を設立し、クロアチア人による統一的な軍事組織とした。2つの民族ごとの分離主義国家、および事実上ボシュニャク人主導となったボスニア・ヘルツェゴビナ中央政府の3者による争いは、それぞれの支配地域の拡大を試みる「陣取り合戦」の様相を呈し、それぞれ自勢力から異民族を排除する目的で虐殺や見せしめ的な暴行による追放を行う民族浄化が繰り広げられた。1994年にはアメリカ合衆国の主導でボスニア中央政府とクロアチア人勢力との間で停戦が成立した。これによって両勢力はセルビア人勢力に対して反転攻勢をはじめ、またNATOによる空爆などの軍事介入も行われた。1995年に国際連合の調停で和平協定デイトン合意に調印し、紛争は終結した。
ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争終結後
トレビニェ川にかかる橋。トレビニェにて。デイトン合意によってボスニア・ヘルツェゴビナは、ボシュニャク人(ムスリム人)とクロアチア人主体のボスニア・ヘルツェゴビナ連邦と、セルビア人主体のスルプスカ共和国(セルビア人共和国)という2つの構成体から成る連合国家となった。民生面を上級代表事務所(OHR)、軍事面をNATO中心の多国籍部隊(平和安定化部隊、SFOR)が担当し、停戦の監視と和平の履行を進めた。また、紛争中の戦争犯罪者の逮捕と起訴、民族浄化によって移住を強いられた人々の帰還支援や民族間の和解に向けた取り組みが続けられているが、住民の強い抵抗によって帰還は遅々として進んでいない。選挙では民族主義政党が勝利し、民族間対立によって政治が行き詰まり、国外から派遣されるボスニア・ヘルツェゴビナ上級代表の強権発動によって政治的困難を打破せざるを得ない事態もたびたび起こっている。2004年6月のNATO首脳会合で、各国首脳はボスニアの治安改善を考慮し、SFORの展開を2004年末で終了させることで合意した。2004年12月からはEUの部隊である欧州連合部隊 アルテア(EUFOR Althea)がボスニアの治安を維持する目的で展開している。EUFOR Altheaは順次部隊を縮小しており、当初7,000名であった兵力は2008年時点では約2,200名となっている。

  • あちらこちらに墓がある。<br />内戦のむごさを感じる。<br />だんだん気持ちが辛くなってきた

    あちらこちらに墓がある。
    内戦のむごさを感じる。
    だんだん気持ちが辛くなってきた

  • NATOによるボスニア・ヘルツェゴビナ空爆 は1995年、俺は当時は何も知らなかった。。。平凡に暮らしていた。。。ボスニアのセルビア陸軍に対する空爆及びその防空作戦である。作戦は、1995年8月30日から9月20日の間に実行され、15カ国から400機の軍用機と5000人の人員が投入された。ボスニア・ヘルツェゴビナ領内のセルビア人勢力は、首都サラエヴォを狙って発射した迫撃砲弾がサラエヴォ市内の市場に落下し、市民38人の死亡者がでた。この地域は、国際連合によって決定された、ボスニアの安全地域(非戦闘地域)に含まれていた。<br />この事件には世界各国から広く抗議の声が上がり、国際連合保護軍の司令官やNATO南部司令官は、アメリカ海軍の原子力空母『セオドア・ルーズベルト』をアドリア海に派遣、連合国軍機も攻撃態勢を整えた。<br />その後、NATOは数ヶ月間に渡って、セルビアのボスニアへの攻撃活動を阻止する空爆作戦を練り、290機の軍用機をイタリアを中心とする18カ所の基地に配備し、空母セオドア・ルーズベルトでも多くの艦上戦闘機を配備した。配備完了後、デリベレート・フォース作戦という作戦名のもと、空爆作戦が実施された。作戦に参加する軍用機の大半はアメリカ軍機で占められていた。<br /><br /><br />

    NATOによるボスニア・ヘルツェゴビナ空爆 は1995年、俺は当時は何も知らなかった。。。平凡に暮らしていた。。。ボスニアのセルビア陸軍に対する空爆及びその防空作戦である。作戦は、1995年8月30日から9月20日の間に実行され、15カ国から400機の軍用機と5000人の人員が投入された。ボスニア・ヘルツェゴビナ領内のセルビア人勢力は、首都サラエヴォを狙って発射した迫撃砲弾がサラエヴォ市内の市場に落下し、市民38人の死亡者がでた。この地域は、国際連合によって決定された、ボスニアの安全地域(非戦闘地域)に含まれていた。
    この事件には世界各国から広く抗議の声が上がり、国際連合保護軍の司令官やNATO南部司令官は、アメリカ海軍の原子力空母『セオドア・ルーズベルト』をアドリア海に派遣、連合国軍機も攻撃態勢を整えた。
    その後、NATOは数ヶ月間に渡って、セルビアのボスニアへの攻撃活動を阻止する空爆作戦を練り、290機の軍用機をイタリアを中心とする18カ所の基地に配備し、空母セオドア・ルーズベルトでも多くの艦上戦闘機を配備した。配備完了後、デリベレート・フォース作戦という作戦名のもと、空爆作戦が実施された。作戦に参加する軍用機の大半はアメリカ軍機で占められていた。


  • バシチャルシャ通り

    バシチャルシャ通り

  • 銃残の跡<br /><br />ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争について<br /><br /> 背景 <br />ユーゴスラビア解体の動きの中で、ボスニア・ヘルツェゴビナは1992年に独立を宣言したが、独立時に約430万人の人口のうち、民族構成の33%を占めるセルビア人と、17%のクロアチア人・44%のボシュニャク人(ムスリム人)が対立し、セルビア人側が分離を目指して4月から3年半以上にわたり戦争となった。<br />両者は全土で覇権を争って戦闘を繰り広げた結果、死者20万、難民・避難民200万が発生したほか、ボシュニャク人女性に対するレイプや強制出産などが行われ、第二次世界大戦後のヨーロッパで最悪の紛争となった。<br /><br /><br /><br />紛争のはじまり <br />1991年6月、クロアチアの独立宣言をきっかけに、クロアチア警察軍とユーゴスラビア連邦軍との間で武力衝突が勃発した(クロアチア紛争)。それを契機に、ボスニア・ヘルツェゴビナの独立を求めるボシュニャク人・クロアチア人と、独立に反対するセルビア人との間で対立が深まり、セルビア人はクロアチアと同様に自治区を設立して独立の動きに対抗しようとした。だが、当時ボシュニャク人主導だったボスニア・ヘルツェゴビナ政府は自治区設立を認めなかったので、セルビア人との間で武力衝突も生じるようになった。<br />そのような状況の中、セルビア人の反発を無視し、ボスニア・ヘルツェゴビナ政府は1991年10月に主権国家宣言を行い、1992年2月29日から3月1日にかけて独立の賛否を問う住民投票を行なった。住民投票は、セルビア人の多くが投票をボイコットしたため、90%以上が独立賛成という結果に終わる。これに基づいて、ボスニア・ヘルツェゴビナは独立を宣言、4月6日にはECが独立を承認し、5月には国際連合に加盟した。独立に不満を抱いていたセルビア人は、ECの独立承認をきっかけに大規模な軍事行動を開始し、翌日にはボスニア・セルビア議会がボスニア北部を中心に「スルプスカ共和国」の独立を宣言した。<br /><br /> 92 - 93年 セルビア人勢力の優勢 <br />紛争の開始直後は、その数と装備の質において、セルビア人勢力が優勢であった。ボシュニャク人勢力は装備の質で劣り、クロアチア人勢力は数の面で劣っていた。しかも、ボシュニャク人勢力とクロアチア人勢力は、必ずしも緊密に連携しているわけではなかったのである。そのため、セルビア人勢力は、最初の攻勢でボスニア・ヘルツェゴビナ全土の6割以上を制圧、サラエヴォを包囲する。クロアチア人勢力は、ヘルツェゴビナ西部の確保に専念、ボシュニャク人勢力は残るサラエヴォ、スレブレニツァ、ゴラジュデ、ジェパなど主要都市を含む3割弱を必死に防衛するという状況になった。国際社会は、セルビアへの制裁、サラエヴォへの人道支援などを行うが、戦局の大勢を動かすまでには至らず、92年中はその状況が続いた。<br />1993年春、ボシュニャク人勢力とクロアチア人勢力の間での対立が深まり、クロアチア人勢力は同年8月にヘルツェグ=ボスナ・クロアチア人共和国の樹立を宣言した。セルビア人勢力と争う地域が少なくなっていたこともあり、クロアチア人勢力はセルビア人勢力と同盟を結ぶ。モスタルなどでは、ボシュニャク人勢力とクロアチア人勢力の間で激しい戦闘が開始された。これにより、ボシュニャク人勢力は一層の苦境に立たされた。<br /><br />94年 - 95年春 対セルビア人勢力包囲網の構築。 <br />94年に入ると、アメリカの圧力によりクロアチア人勢力が再びボシュニャク人勢力と同盟を結んだ。3月1日にはワシントンで、ボシュニャク人・クロアチア人の連邦国家が結成されることも決定された。これは、アメリカによる対セルビア人勢力弱体化への第一歩であった。4月10日から11日にかけては、小規模なものではあるが、北大西洋条約機構(NATO)によるセルビア人勢力への空爆が実施された。8月5日、セルビア人勢力が国連管理下の武器集積所を襲撃するという事件が起きる。これに対してもNATOによる空爆が行われた。NATOによる空爆に加えて、秋ごろからは、アメリカによるボシュニャク人・クロアチア人勢力に対する軍事援助も開始された。<br />これにより勢いづいたボシュニャク人勢力は、10月下旬、セルビア人勢力に対して、ビハチ周辺で攻勢に転じる。この攻勢は一時的には成功したが、11月初めには早くもセルビア人勢力による反撃に遭い撤退を余儀なくされた。これを支援するため、11月21日および23日にNATOによる3度目の空爆が実施される。繰り返される空爆に対し、セルビア人勢力は少数・軽武装で活動していた国際連合保護軍兵士を人質として拘束するという手段をとった。これにより、国連保護軍に兵士を派遣しているイギリス・フランスとさらなる空爆を求めるアメリカとの間で意見が対立、NATOは機能不全に陥る。紛糾した事態は、ジミー・カーター元アメリカ大統領による和平交渉で打開された。これにより、95年1月1日から4ヶ月の停戦が実現した。<br /><br /> 戦闘の終結 <br />1995年春、4ヶ月停戦の期限が切れると、再び激しい戦闘が始まった。セルビア人勢力とボシュニャク人勢力の間では、セルビア人勢力が最後の攻勢に出た。7月にはボシュニャク人勢力が保持していたスレブレニツァ、ジェパが陥落、サラエヴォ、ゴラジュデも激しい攻撃にさらされた。一方、セルビア人勢力とクロアチア人勢力の間では、クロアチア軍と連携したクロアチア人勢力が優勢であった。戦闘は、ボスニア・ヘルツェゴビナではなく、隣接するクロアチア国内のセルビア人居住区で行われた(嵐作戦参照)。この間の5月から7月にかけて、セルビア人勢力の攻勢に対し、NATOはセルビア人勢力の拠点を攻撃することで対応した。また、6月3日にNATOは、国連保護軍の保護を目的とする緊急対応部隊を設立、セルビア人勢力による人質作戦への対応を行った。8月28日、サラエヴォ中央市場に砲撃が行われ、37人が死亡する事件が起きた。この事件をきっかけに、NATOはこれまでにない大規模空爆・デリバリット・フォース作戦を実施する。8月30日から9月14日まで(9月2日から4日は一時停止)というこれまでにないものであった。この結果、セルビア人勢力は、クロアチア方面で敗退しただけでなく、ボシュニャク人勢力からの反撃を支える力も失った。これにより、セルビア人勢力も和平交渉への本格的な参加を決定し、10月13日には停戦が実現して戦闘が終結した。<br />

    銃残の跡

    ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争について

    背景
    ユーゴスラビア解体の動きの中で、ボスニア・ヘルツェゴビナは1992年に独立を宣言したが、独立時に約430万人の人口のうち、民族構成の33%を占めるセルビア人と、17%のクロアチア人・44%のボシュニャク人(ムスリム人)が対立し、セルビア人側が分離を目指して4月から3年半以上にわたり戦争となった。
    両者は全土で覇権を争って戦闘を繰り広げた結果、死者20万、難民・避難民200万が発生したほか、ボシュニャク人女性に対するレイプや強制出産などが行われ、第二次世界大戦後のヨーロッパで最悪の紛争となった。



    紛争のはじまり
    1991年6月、クロアチアの独立宣言をきっかけに、クロアチア警察軍とユーゴスラビア連邦軍との間で武力衝突が勃発した(クロアチア紛争)。それを契機に、ボスニア・ヘルツェゴビナの独立を求めるボシュニャク人・クロアチア人と、独立に反対するセルビア人との間で対立が深まり、セルビア人はクロアチアと同様に自治区を設立して独立の動きに対抗しようとした。だが、当時ボシュニャク人主導だったボスニア・ヘルツェゴビナ政府は自治区設立を認めなかったので、セルビア人との間で武力衝突も生じるようになった。
    そのような状況の中、セルビア人の反発を無視し、ボスニア・ヘルツェゴビナ政府は1991年10月に主権国家宣言を行い、1992年2月29日から3月1日にかけて独立の賛否を問う住民投票を行なった。住民投票は、セルビア人の多くが投票をボイコットしたため、90%以上が独立賛成という結果に終わる。これに基づいて、ボスニア・ヘルツェゴビナは独立を宣言、4月6日にはECが独立を承認し、5月には国際連合に加盟した。独立に不満を抱いていたセルビア人は、ECの独立承認をきっかけに大規模な軍事行動を開始し、翌日にはボスニア・セルビア議会がボスニア北部を中心に「スルプスカ共和国」の独立を宣言した。

    92 - 93年 セルビア人勢力の優勢
    紛争の開始直後は、その数と装備の質において、セルビア人勢力が優勢であった。ボシュニャク人勢力は装備の質で劣り、クロアチア人勢力は数の面で劣っていた。しかも、ボシュニャク人勢力とクロアチア人勢力は、必ずしも緊密に連携しているわけではなかったのである。そのため、セルビア人勢力は、最初の攻勢でボスニア・ヘルツェゴビナ全土の6割以上を制圧、サラエヴォを包囲する。クロアチア人勢力は、ヘルツェゴビナ西部の確保に専念、ボシュニャク人勢力は残るサラエヴォ、スレブレニツァ、ゴラジュデ、ジェパなど主要都市を含む3割弱を必死に防衛するという状況になった。国際社会は、セルビアへの制裁、サラエヴォへの人道支援などを行うが、戦局の大勢を動かすまでには至らず、92年中はその状況が続いた。
    1993年春、ボシュニャク人勢力とクロアチア人勢力の間での対立が深まり、クロアチア人勢力は同年8月にヘルツェグ=ボスナ・クロアチア人共和国の樹立を宣言した。セルビア人勢力と争う地域が少なくなっていたこともあり、クロアチア人勢力はセルビア人勢力と同盟を結ぶ。モスタルなどでは、ボシュニャク人勢力とクロアチア人勢力の間で激しい戦闘が開始された。これにより、ボシュニャク人勢力は一層の苦境に立たされた。

    94年 - 95年春 対セルビア人勢力包囲網の構築。
    94年に入ると、アメリカの圧力によりクロアチア人勢力が再びボシュニャク人勢力と同盟を結んだ。3月1日にはワシントンで、ボシュニャク人・クロアチア人の連邦国家が結成されることも決定された。これは、アメリカによる対セルビア人勢力弱体化への第一歩であった。4月10日から11日にかけては、小規模なものではあるが、北大西洋条約機構(NATO)によるセルビア人勢力への空爆が実施された。8月5日、セルビア人勢力が国連管理下の武器集積所を襲撃するという事件が起きる。これに対してもNATOによる空爆が行われた。NATOによる空爆に加えて、秋ごろからは、アメリカによるボシュニャク人・クロアチア人勢力に対する軍事援助も開始された。
    これにより勢いづいたボシュニャク人勢力は、10月下旬、セルビア人勢力に対して、ビハチ周辺で攻勢に転じる。この攻勢は一時的には成功したが、11月初めには早くもセルビア人勢力による反撃に遭い撤退を余儀なくされた。これを支援するため、11月21日および23日にNATOによる3度目の空爆が実施される。繰り返される空爆に対し、セルビア人勢力は少数・軽武装で活動していた国際連合保護軍兵士を人質として拘束するという手段をとった。これにより、国連保護軍に兵士を派遣しているイギリス・フランスとさらなる空爆を求めるアメリカとの間で意見が対立、NATOは機能不全に陥る。紛糾した事態は、ジミー・カーター元アメリカ大統領による和平交渉で打開された。これにより、95年1月1日から4ヶ月の停戦が実現した。

    戦闘の終結
    1995年春、4ヶ月停戦の期限が切れると、再び激しい戦闘が始まった。セルビア人勢力とボシュニャク人勢力の間では、セルビア人勢力が最後の攻勢に出た。7月にはボシュニャク人勢力が保持していたスレブレニツァ、ジェパが陥落、サラエヴォ、ゴラジュデも激しい攻撃にさらされた。一方、セルビア人勢力とクロアチア人勢力の間では、クロアチア軍と連携したクロアチア人勢力が優勢であった。戦闘は、ボスニア・ヘルツェゴビナではなく、隣接するクロアチア国内のセルビア人居住区で行われた(嵐作戦参照)。この間の5月から7月にかけて、セルビア人勢力の攻勢に対し、NATOはセルビア人勢力の拠点を攻撃することで対応した。また、6月3日にNATOは、国連保護軍の保護を目的とする緊急対応部隊を設立、セルビア人勢力による人質作戦への対応を行った。8月28日、サラエヴォ中央市場に砲撃が行われ、37人が死亡する事件が起きた。この事件をきっかけに、NATOはこれまでにない大規模空爆・デリバリット・フォース作戦を実施する。8月30日から9月14日まで(9月2日から4日は一時停止)というこれまでにないものであった。この結果、セルビア人勢力は、クロアチア方面で敗退しただけでなく、ボシュニャク人勢力からの反撃を支える力も失った。これにより、セルビア人勢力も和平交渉への本格的な参加を決定し、10月13日には停戦が実現して戦闘が終結した。

  • ここから第一次世界大戦は始まった<br />オーストリア皇太子殺人現場<br /><br />サラエヴォ事件<br />1914年6月28日、オーストリア=ハンガリー帝国皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の世継、フランツ・フェルディナント大公が、ボスニアの首都、サラエヴォでセルビア人民族主義者ガヴリロ・プリンツィプにより暗殺された。オーストリアのレオポルト・フォン・ベルヒトルト外相は懲罰的な対セルビア戦を目論み、7月23日セルビア政府に10箇条のいわゆるオーストリア最後通牒を送付して48時間以内の無条件受け入れを要求した。セルビア政府はオーストリア官憲を事件の容疑者の司法手続きに参加させることを除き、要求に同意したが、オーストリアはセルビアの条件付き承諾に対し納得せず、7月25日に国交断絶に踏み切った。躊躇するイシュトヴァーン・ティサ首相と皇帝の反対を押し切る形で、7月28日にセルビアに対する宣戦布告が行われた。<br /><br />

    ここから第一次世界大戦は始まった
    オーストリア皇太子殺人現場

    サラエヴォ事件
    1914年6月28日、オーストリア=ハンガリー帝国皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の世継、フランツ・フェルディナント大公が、ボスニアの首都、サラエヴォでセルビア人民族主義者ガヴリロ・プリンツィプにより暗殺された。オーストリアのレオポルト・フォン・ベルヒトルト外相は懲罰的な対セルビア戦を目論み、7月23日セルビア政府に10箇条のいわゆるオーストリア最後通牒を送付して48時間以内の無条件受け入れを要求した。セルビア政府はオーストリア官憲を事件の容疑者の司法手続きに参加させることを除き、要求に同意したが、オーストリアはセルビアの条件付き承諾に対し納得せず、7月25日に国交断絶に踏み切った。躊躇するイシュトヴァーン・ティサ首相と皇帝の反対を押し切る形で、7月28日にセルビアに対する宣戦布告が行われた。

  • 「民族浄化」とは、異民族を排除し、ある一定の地域を民族的に単一にしようとする政策である。ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争において、各当事者はそれぞれ自民族の勢力圏を拡大することを目的とし、紛争は「陣取り合戦」の様相を呈していた。このような中で、安定的な自民族の勢力圏を確保し、支配地域から不安要因を取り除く目的で、自勢力の支配下に住む異民族を排除し、勢力圏を民族的に単一にする「民族浄化」が行われた。<br />「民族浄化」は、異民族に対する各種の嫌がらせや差別的な待遇、武器の没収、資産の強制接収、家屋への侵入と略奪、見せしめ的な殺人や強姦によって、その地域の異民族が退去せざるを得ない状況に追いやる方法や、強制追放、強制収容、あるいは大量虐殺によって物理的に異民族を地域から取り除く方法がとられた。<br />従軍可能年齢にある男性は各地で集団殺害や強制収容の対象とされた。また、女性らは強制収容後、組織的に強姦を繰り返し、妊娠後暫くしてから解放することによって出産せざるを得ない状況に追い込まれた。家父長的な男権社会の影響が残るボスニア・ヘルツェゴビナの村部では、女性を強姦によって妊娠させるこの方法は、効果的に異民族を排除する方法として用いられた。<br />ボスニア・ヘルツェゴビナでは、それぞれの民族の間のわだかまりは根強く残っている。紛争のさなか、特にセルビア人による蛮行が大きく報じられ、セルビア人を取り立てて悪とみなす論調が広まった。一方でクロアチア人やボシュニャク人も、少なからざる虐殺や強制連行などの蛮行を行っていたことが証明されており、セルビア人だけが非人道的行為に及んでいたわけではない。

    「民族浄化」とは、異民族を排除し、ある一定の地域を民族的に単一にしようとする政策である。ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争において、各当事者はそれぞれ自民族の勢力圏を拡大することを目的とし、紛争は「陣取り合戦」の様相を呈していた。このような中で、安定的な自民族の勢力圏を確保し、支配地域から不安要因を取り除く目的で、自勢力の支配下に住む異民族を排除し、勢力圏を民族的に単一にする「民族浄化」が行われた。
    「民族浄化」は、異民族に対する各種の嫌がらせや差別的な待遇、武器の没収、資産の強制接収、家屋への侵入と略奪、見せしめ的な殺人や強姦によって、その地域の異民族が退去せざるを得ない状況に追いやる方法や、強制追放、強制収容、あるいは大量虐殺によって物理的に異民族を地域から取り除く方法がとられた。
    従軍可能年齢にある男性は各地で集団殺害や強制収容の対象とされた。また、女性らは強制収容後、組織的に強姦を繰り返し、妊娠後暫くしてから解放することによって出産せざるを得ない状況に追い込まれた。家父長的な男権社会の影響が残るボスニア・ヘルツェゴビナの村部では、女性を強姦によって妊娠させるこの方法は、効果的に異民族を排除する方法として用いられた。
    ボスニア・ヘルツェゴビナでは、それぞれの民族の間のわだかまりは根強く残っている。紛争のさなか、特にセルビア人による蛮行が大きく報じられ、セルビア人を取り立てて悪とみなす論調が広まった。一方でクロアチア人やボシュニャク人も、少なからざる虐殺や強制連行などの蛮行を行っていたことが証明されており、セルビア人だけが非人道的行為に及んでいたわけではない。

  • モスクがたくさんありました。イスラム系の建物や他宗教の教会などあり、様々な宗教や民族が共存しているのだと感じました。<br /><br />ボシュニャク人<br />15世紀から19世紀にかけてオスマン帝国支配下で、イスラム教に改宗した南スラブ人の末裔である。民族の言語はボスニア語だがセルビア・クロアチア諸語で、言語的にはクロアチア人、セルビア人と大きな差はない。かつてのユーゴスラビア社会主義連邦共和国ではムスリム人(モスレム人)と呼ばれた。日本語表記としては他にボシュニャック人、ボスニャク人、ボスニアク人、ボスニアック人などの表記が存在する。ボシュニャク人という名前はバルカン西部にあるボスニアの名前に由来している。<br /><br />バルカン諸国の全てのムスリムがボシュニャク人というわけではなく、他にもポマク人のようなブルガリア人ムスリムの民族や、アルバニア人、トルコ人、ロマのような非スラブ系ムスリムも存在する。<br /><br />ボシュニャク人はボスニア・ヘルツェゴビナを彼らの民族的故地と考えている。<br /><br />

    モスクがたくさんありました。イスラム系の建物や他宗教の教会などあり、様々な宗教や民族が共存しているのだと感じました。

    ボシュニャク人
    15世紀から19世紀にかけてオスマン帝国支配下で、イスラム教に改宗した南スラブ人の末裔である。民族の言語はボスニア語だがセルビア・クロアチア諸語で、言語的にはクロアチア人、セルビア人と大きな差はない。かつてのユーゴスラビア社会主義連邦共和国ではムスリム人(モスレム人)と呼ばれた。日本語表記としては他にボシュニャック人、ボスニャク人、ボスニアク人、ボスニアック人などの表記が存在する。ボシュニャク人という名前はバルカン西部にあるボスニアの名前に由来している。

    バルカン諸国の全てのムスリムがボシュニャク人というわけではなく、他にもポマク人のようなブルガリア人ムスリムの民族や、アルバニア人、トルコ人、ロマのような非スラブ系ムスリムも存在する。

    ボシュニャク人はボスニア・ヘルツェゴビナを彼らの民族的故地と考えている。

  • スレブレニツァの虐殺 <br /><br />1995年7月6日、ムラディッチ率いるセルビア人勢力は、国際連合の指定する「安全地帯」であったスレブレニツァに侵攻をはじめ、7月11日には中心部を制圧した。7月12日には、セルビア人勢力はスレブレニツァに居住していたボシュニャク人の男性すべてを絶滅の対象とし、8000人以上が組織的に殺害されるスレブレニツァの虐殺が引き起こされた。スレブレニツァの虐殺は、旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷および国際司法裁判所によってジェノサイドと認定された。<br /><br />

    スレブレニツァの虐殺

    1995年7月6日、ムラディッチ率いるセルビア人勢力は、国際連合の指定する「安全地帯」であったスレブレニツァに侵攻をはじめ、7月11日には中心部を制圧した。7月12日には、セルビア人勢力はスレブレニツァに居住していたボシュニャク人の男性すべてを絶滅の対象とし、8000人以上が組織的に殺害されるスレブレニツァの虐殺が引き起こされた。スレブレニツァの虐殺は、旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷および国際司法裁判所によってジェノサイドと認定された。

  • ボスニアコーヒー<br />苦く、砂糖を噛みながら飲むようにと、店員が丁寧に教えてくれた。<br />俺が出会ったボスニア人は辛い過去を抱いているはずなのに、親切な人が多い。人間の暖かさを感じた

    ボスニアコーヒー
    苦く、砂糖を噛みながら飲むようにと、店員が丁寧に教えてくれた。
    俺が出会ったボスニア人は辛い過去を抱いているはずなのに、親切な人が多い。人間の暖かさを感じた

  • 親切なボスニア人<br />話を聞くことができた

    親切なボスニア人
    話を聞くことができた

この旅行記のタグ

5いいね!

利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。 問題のある投稿を連絡する

コメントを投稿する前に

十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?

サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)

報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。

旅の計画・記録

マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?

ボスニア・ヘルツェゴビナで使うWi-Fiはレンタルしましたか?

フォートラベル GLOBAL WiFiなら
ボスニア・ヘルツェゴビナ最安 766円/日~

  • 空港で受取・返却可能
  • お得なポイントがたまる

ボスニア・ヘルツェゴビナの料金プランを見る

フォートラベル公式LINE@

おすすめの旅行記や旬な旅行情報、お得なキャンペーン情報をお届けします!
QRコードが読み取れない場合はID「@4travel」で検索してください。

\その他の公式SNSはこちら/

PAGE TOP