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10*20 ヴェネチア <br />///今日は朝一番でヴェネチアに向かった。ユーロス<br />ターの快適さを覚え、プラス11Euro払い乗った。出て来るシャンパン、マジで上<br />手い、結構飲み、少し酔っ払ったのら〜(~o~)/// とう!!ヴェネチア到着!<br />!すげ〜、マジで水の都じゃん!テンション上がり、早く歩きたかったが、荷物<br />と次の目的地を決めて切符をかわなきゃ。何処行こうかな〜、寝床も決めてない<br />し、行きそびれて、夜行があるハンガリーに行き、温泉にでも行こうかな〜!//ヴェネチアは日差しは気持ちいいし、ピザも上手い!でも、建物と建物の間は<br />日蔭になっていて肌寒い。お洒落なゴンドラや道を繋ぐ橋、河から繋がる玄関、<br />どれを見ても飽きない。狭い路地に行き交う人々、どれも絵になる。ただ、マジ<br />で迷路みたいで何度も迷った。ヴェネチアと言えば仮面、超欲しかったけど、荷<br />物増やせないし、潰れて壊れるから諦めた。海辺で日差しを浴びながらずっと音<br />楽を聞いていた、最高ですo(^-^)oブダペスト行きは9時半で、まだまだ時間があ<br />る<br />。ならパドウ゛ァに行っちゃえ〜。<br /><br /><br />概要<br />イタリアの北東部に位置するコムーネ。ヴェネト州の州都、ヴェネツィア県の県庁所在地である。日本においては、英語読みの「ヴェニス」という呼称もしばしば使われる。<br />中世にはヴェネツィア共和国の首都として盛えた都市で、「アドリア海の女王」「水の都」「アドリア海の真珠」などの別名をもつ。<br />アドリア海の最深部、ヴェネツィア湾にできた潟「ラグーナ(Laguna di Venezia または Laguna Veneta)」の上に築かれた、運河が縦横に走る水の都である。<br />ヴェネツィア本島は大きな魚のような形をしており、本島全体が小さな島々からできている。その真ん中を全長約3kmにおよぶ逆S字形の「カナル・グランデ(Canal Grande、大運河)」がヴェネツィアの北西から南東へ、市街を2つに分けながら湾曲して流れる。鉄道路線と土手を走る車道が島々と本土を結び、ラグーナの外側の長い砂州や海岸の防波堤がこの町を海から守っている。150をこえる運河が177の島々を分け、運河には400におよぶ橋がかかる。また市街地と南端のジュデッカ島の間には幅約400mのジュデッカ運河がある。<br />地上では、迷路のように狭くて曲がりくねった路地や通りに自動車は入れず、橋も歩行者専用である。何世紀もの間市内の輸送をになったのは、ゴンドラと呼ばれる手漕ぎボートであった。今は水上バスやフェリーが市民や貨物を運んでいるが、ゴンドラも観光に利用されている。<br /><br />ヴェネツィアは、6区を意味するセスティエーレ(sestiere)から成り、ドルソドゥーロ(Dorsoduro)、サンタ・クローチェ(Santa Croce)、サン・ポーロ(San Polo)、サン・マルコ(San Marco)、カンナレージョ(Cannaregio)、カステッロ(Castello)の6つの地区に分かれている。<br />本島のすぐ南には、「サン・ジョルジョ・マッジョーレ島」「ジュデッカ島」、さらに南に下ると映画『ベニスに死す』で有名な「リード島」がある。また、本島のすぐ北には、墓地となっている「サン・ミケーレ島」、さらに北にはヴェネツィアン・グラスで有名な「ムラーノ島」、レース編み産業の地「ブラーノ島」、そして、もっとも古い時代に栄えた「トルチェッロ島」がある。<br />干潟に建物を建てるため、大量の丸太の杭を打ち込みそれを建物の土台とした。そのため、&quot;ヴェネツィアを逆さまにすると森ができる&quot;(地中に丸太が乱立するがごとく大量に打ち込まれたため)、と言われている。<br />かつては海上に浮かぶ孤島であったが、オーストリア帝国治世下の1846年にイタリア本土との間に鉄道が敷かれ、後に自動車用道路の「リベルタ橋」も架けられ、イタリア本土との往来は容易である。ただし、ヴェネツィア本島内は自動車での移動は不可能であり、自転車の使用も禁止されている(乳母車、車椅子は可。また、カンポ(campo)と呼ばれる広場では子供用自転車の乗り回しは可。)ため、車はリベルタ橋を渡ってすぐの所にある「ローマ広場」の駐車場に置いて、島内を徒歩か船舶で移動することになる。<br />自動車が入れないために、また運河が発達していることもあり、主な交通機関は必然的に船になり、水上路線バスの「ヴァポレット(vaporetto)」や水上タクシーの「モトスカーフィ(motoscafi)」、カナル・グランデの岸と岸を渡る渡し舟「トラゲット(traghetto)」が、カナル・グランデおよびヴェネツィア湾内を縦横無尽に走っている。警察もボートで警邏を行う。また、運河に面した玄関を持つ建物も多い。なお、「ゴンドラ(gondola)」と呼ばれる手漕ぎの舟が有名だが、現在では一部の渡し舟を除き観光用途で運航されている。<br />ヴェネタ潟内の島々の位置関係 <br />サン・ジョルジョ・マッジョーレ島現代のヴェネツィアは、他地域への人口流出、水害や地盤沈下、大気や水の汚染、建造物の老朽化など多くの問題に直面している。1966年の大水害の後には、歴史的な町を守るための国際的な運動がユネスコの主唱で組織された。<br />大潮、気圧の変化、そしてアドリア海を南から吹く風「シロッコ(scirocco)」の3つの要因が重なると、「アックア・アルタ(acqua alta、高水の意)」と呼ばれる高潮がヴェネツィア湾で起こる。このとき、ヴェネツィアの街中まで水が入り込み、特に一番低い「サン・マルコ広場」は水没する(広場や道路には臨時の高床が組まれ、通行を確保する)。過去に北の対岸の本土マルゲーラ地区で工業用の地下水のくみ上げが行われたことにより地盤沈下が起こり、アックア・アルタによる洪水の水位が1m以上になったこともある。建造物の沈下は、地下の帯水層の流出が原因とされるため、地下水使用の制限やアルプスからの水道の導入などで対処している。更に今後の地球温暖化によって海面上昇が加速されることとなれば、将来ヴェネツィアの街全体がアドリア海に水没してしまうことが懸念されている。水没を防ぐために、アドリア海との間の3カ所に可動式の防潮堤を設ける「モーゼ計画(Progetto Mose)」が提案され、工事も着手されているが、環境やヴェネツィアの潟(ラグーナ)に与える影響が懸念されるため、市長や多くのヴェネツィア市民の反対もある。<br />ヴェネツィアの土地は、大陸からの川の流れに乗ってくる土砂、そしてアドリア海の波と風の力によって作られた湿地帯である。<br />古代、ヴェネツィア周辺の地域にはウェネティ人が住んでいた。伝説では、アクイレイア、パドヴァなどの北イタリアの都市の住民が、5世紀のゲルマン人のイタリア侵略からのこの湿地帯へと避難してくることから、452年にヴェネツィアの歴史が始まる。この時避難してきた先が現在の「トルッチェロ島」である。足場が悪い湿地帯のため、侵入者は追ってくることが出来ず、避難した人々はここに暮らし続けるようになる。干潟に住むメリットを保つため、干潟を荒らしたり干拓したものを極刑にする、という法を作ったり、普段は船が通れる道を杭で示していたが非常時にはその杭を抜く、など、干潟を守り、かつ、有効に利用していた。<br />サン・マルコ大聖堂彼らは12のおもな島からの護民官たちを中心とした政府を組織し、アドリア海沿岸地域は元々東ローマ帝国の支配下にあるため、名目上は東ローマ帝国に属したが、実質的には自治権を持っていた。697年、ヴェネツィア人は初代総督を選出して独自の共和制統治を始めた。これがヴェネツィア共和国の始まりである。つづく1世紀間は政府内部の不和のため不安定な政治が続いたが、外敵の脅威に対して結束し、836年にはイスラムの侵略を、900年にはマジャールの侵略を撃退した。10世紀後半からはイスラム諸国と商業条約を結んだが、これはムスリム(イスラム教徒)と戦うよりも貿易をしようというヴェネツィア人の現実的な政策によるものである。<br />9世紀始め、フランク王国がヴェネツィアを支配下に置こうとして軍を派遣、そのため、トルチェッロにいた人々は更なる避難を余儀なくされ、現在のヴェネツィア本島へと移り住むことになった。このときにたどり着いたのが今の「リアルト地区」である。810年に東ローマ帝国‐フランク王国間で結ばれた条約で、ヴェネツィアは東ローマ帝国に属するが、フランク王国との交易権ももつこととなり貿易都市への布石が置かれた。<br />サン・マルコ広場の聖マルコを象徴するライオンこのころ、ヨーロッパ各国では、その国の存在をアピールする目的でその国の守護聖人を求める風潮にあった。ヴェネツィアも同様に守護聖人を求めていたところ、福音書著者聖マルコの遺骸がエジプトのアレクサンドリアにあり、ムスリムに奪われる恐れがあることを聞きつけ、828年、それを奪い取りヴェネツィアに運んだ。この時よりヴェネツィアは聖マルコを守護聖人とすることになった。<br />10世紀後半からはイスラム諸国とも商業条約を結び交易を拡大した。さらにアドリア海沿岸への支配地域の拡大に努めていった。ジェノヴァ共和国などの同じイタリアの貿易都市とは違い、都市の周辺海域が大国・東ローマ帝国の制海権内にあったために、イスラム勢力による海上からの直接的脅威を感じることが少なかったことも、イスラム諸国との関係を積極的に進める要因となった。<br />11世紀、弱体化した東ローマ帝国の要請でアドリア海沿岸の海上防衛を担うことになり、その代償として東ローマ帝国内での貿易特権を得た。<br />1204年、第4回十字軍とともにヴェネツィア艦隊は東ローマ帝国首都のコンスタンティノポリスを攻略、援助への代償としてクレタ島などの海外領土を得て東地中海最強の海軍国家となり、アドリア海沿岸の港市の多くがヴェネツィアの影響下におかれた。ヴェネツィア共和国は東ローマ帝国分割で莫大な利益を獲得し、政治的にも地中海地域でヨーロッパ最大の勢力をほこるようになった。東地中海から黒海にかけての海域が、いわば「イタリア商人の海」ともいうべき状況になったことは、おなじ13世紀に、ヴェネツィアのマルコ・ポーロが黒海北岸から中央アジアを経て元へ向かうことを容易にさせた。<br />富裕な貴族たちは政治の支配権の獲得をくわだて、13世紀末ごろには寡頭政治がおこなわれるようになった。13&#12316;14世紀には商業上の宿敵であるジェノヴァとの戦いがつづいた。1378&#12316;81年の戦いで、ジェノヴァはヴェネツィアの優位を認めた。その後も侵略戦争で周辺地域に領土を獲得したヴェネツィアは、15世紀後半にはキリスト教世界でも屈指の海軍力をもつ都市国家となった。<br />カナル・グランデの日の出15世紀半ばのオスマン帝国の進出により、ヴェネツィアの海外領土が少しずつ奪われていき、最盛期は終わりを告げた。1538年におけるプレヴェザの海戦で、オスマン帝国は地中海の制海権をほぼおさえ、さらにヴェネツィアにとっての圧力となった。その上、大砲の登場により干潟に住むメリットがなくなってしまった。その後の諸外国の侵略や、ほかのイタリア都市の攻撃で、ヴェネツィアの力は弱まった。また、1497&#12316;98年にポルトガルの航海者ヴァスコ・ダ・ガマが喜望峰をまわるインド航路を発見したため、貿易の対象がアジアに移り、アメリカ大陸が発見され、時は大航海時代。貿易の舞台はアドリア海から大西洋や太平洋に移り、ヴェネツィアの貿易に対する影響力は低下、衰退は加速された。これに対してヴェネツィアはガラスやレースなどの工芸品を作ることで対処した。1508年、ヴェネツィアに対抗して神聖ローマ帝国、教皇、フランス、スペインは同盟をむすび、ヴェネツィア領土内にある財産を没収した。1516年、ヴェネツィアは巧妙な外交でイタリアでの支配権をとりもどしたが、海洋国家としての地位は回復できなかった。<br />1797年、ヴェネツィア共和国はナポレオン・ボナパルトに侵略され、ついに崩壊した。ナポレオンはその領土をオーストリアに引き渡した。オーストリアは1805年にフランスが支配するイタリア王国に譲ったが、1814年には奪回。オーストリアは港湾都市としてヴェネツィアよりトリエステを重視したため、ヴェネツィア経済は衰退した。その翌年、ヴェネツィアとロンバルディアはロンバルド=ヴェネト王国をつくった。ヴェネツィア人はイタリアの政治家マニンの指導のもとで、1848年にオーストリア支配に対する反乱をおこし、ヴェネト共和国を建国した。しかし、その翌年にオーストリアの攻撃により降伏した。1866年に普墺戦争がはじまると、イタリア王国はこれを第三次イタリア統一戦争としてオーストリアに宣戦布告し、この結果ヴェネツィアとヴェネト地方はイタリア王国に編入された。<br />1987年、世界遺産(文化遺産)に『ヴェネツィアとその潟』として登録された

やばいっすね、ベネチアさん イタリア ベネチア

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2009/10/20 - 2009/10/20

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kawabekentarou

kawabekentarouさん

10*20 ヴェネチア
///今日は朝一番でヴェネチアに向かった。ユーロス
ターの快適さを覚え、プラス11Euro払い乗った。出て来るシャンパン、マジで上
手い、結構飲み、少し酔っ払ったのら〜(~o~)/// とう!!ヴェネチア到着!
!すげ〜、マジで水の都じゃん!テンション上がり、早く歩きたかったが、荷物
と次の目的地を決めて切符をかわなきゃ。何処行こうかな〜、寝床も決めてない
し、行きそびれて、夜行があるハンガリーに行き、温泉にでも行こうかな〜!//ヴェネチアは日差しは気持ちいいし、ピザも上手い!でも、建物と建物の間は
日蔭になっていて肌寒い。お洒落なゴンドラや道を繋ぐ橋、河から繋がる玄関、
どれを見ても飽きない。狭い路地に行き交う人々、どれも絵になる。ただ、マジ
で迷路みたいで何度も迷った。ヴェネチアと言えば仮面、超欲しかったけど、荷
物増やせないし、潰れて壊れるから諦めた。海辺で日差しを浴びながらずっと音
楽を聞いていた、最高ですo(^-^)oブダペスト行きは9時半で、まだまだ時間があ

。ならパドウ゛ァに行っちゃえ〜。


概要
イタリアの北東部に位置するコムーネ。ヴェネト州の州都、ヴェネツィア県の県庁所在地である。日本においては、英語読みの「ヴェニス」という呼称もしばしば使われる。
中世にはヴェネツィア共和国の首都として盛えた都市で、「アドリア海の女王」「水の都」「アドリア海の真珠」などの別名をもつ。
アドリア海の最深部、ヴェネツィア湾にできた潟「ラグーナ(Laguna di Venezia または Laguna Veneta)」の上に築かれた、運河が縦横に走る水の都である。
ヴェネツィア本島は大きな魚のような形をしており、本島全体が小さな島々からできている。その真ん中を全長約3kmにおよぶ逆S字形の「カナル・グランデ(Canal Grande、大運河)」がヴェネツィアの北西から南東へ、市街を2つに分けながら湾曲して流れる。鉄道路線と土手を走る車道が島々と本土を結び、ラグーナの外側の長い砂州や海岸の防波堤がこの町を海から守っている。150をこえる運河が177の島々を分け、運河には400におよぶ橋がかかる。また市街地と南端のジュデッカ島の間には幅約400mのジュデッカ運河がある。
地上では、迷路のように狭くて曲がりくねった路地や通りに自動車は入れず、橋も歩行者専用である。何世紀もの間市内の輸送をになったのは、ゴンドラと呼ばれる手漕ぎボートであった。今は水上バスやフェリーが市民や貨物を運んでいるが、ゴンドラも観光に利用されている。

ヴェネツィアは、6区を意味するセスティエーレ(sestiere)から成り、ドルソドゥーロ(Dorsoduro)、サンタ・クローチェ(Santa Croce)、サン・ポーロ(San Polo)、サン・マルコ(San Marco)、カンナレージョ(Cannaregio)、カステッロ(Castello)の6つの地区に分かれている。
本島のすぐ南には、「サン・ジョルジョ・マッジョーレ島」「ジュデッカ島」、さらに南に下ると映画『ベニスに死す』で有名な「リード島」がある。また、本島のすぐ北には、墓地となっている「サン・ミケーレ島」、さらに北にはヴェネツィアン・グラスで有名な「ムラーノ島」、レース編み産業の地「ブラーノ島」、そして、もっとも古い時代に栄えた「トルチェッロ島」がある。
干潟に建物を建てるため、大量の丸太の杭を打ち込みそれを建物の土台とした。そのため、"ヴェネツィアを逆さまにすると森ができる"(地中に丸太が乱立するがごとく大量に打ち込まれたため)、と言われている。
かつては海上に浮かぶ孤島であったが、オーストリア帝国治世下の1846年にイタリア本土との間に鉄道が敷かれ、後に自動車用道路の「リベルタ橋」も架けられ、イタリア本土との往来は容易である。ただし、ヴェネツィア本島内は自動車での移動は不可能であり、自転車の使用も禁止されている(乳母車、車椅子は可。また、カンポ(campo)と呼ばれる広場では子供用自転車の乗り回しは可。)ため、車はリベルタ橋を渡ってすぐの所にある「ローマ広場」の駐車場に置いて、島内を徒歩か船舶で移動することになる。
自動車が入れないために、また運河が発達していることもあり、主な交通機関は必然的に船になり、水上路線バスの「ヴァポレット(vaporetto)」や水上タクシーの「モトスカーフィ(motoscafi)」、カナル・グランデの岸と岸を渡る渡し舟「トラゲット(traghetto)」が、カナル・グランデおよびヴェネツィア湾内を縦横無尽に走っている。警察もボートで警邏を行う。また、運河に面した玄関を持つ建物も多い。なお、「ゴンドラ(gondola)」と呼ばれる手漕ぎの舟が有名だが、現在では一部の渡し舟を除き観光用途で運航されている。
ヴェネタ潟内の島々の位置関係
サン・ジョルジョ・マッジョーレ島現代のヴェネツィアは、他地域への人口流出、水害や地盤沈下、大気や水の汚染、建造物の老朽化など多くの問題に直面している。1966年の大水害の後には、歴史的な町を守るための国際的な運動がユネスコの主唱で組織された。
大潮、気圧の変化、そしてアドリア海を南から吹く風「シロッコ(scirocco)」の3つの要因が重なると、「アックア・アルタ(acqua alta、高水の意)」と呼ばれる高潮がヴェネツィア湾で起こる。このとき、ヴェネツィアの街中まで水が入り込み、特に一番低い「サン・マルコ広場」は水没する(広場や道路には臨時の高床が組まれ、通行を確保する)。過去に北の対岸の本土マルゲーラ地区で工業用の地下水のくみ上げが行われたことにより地盤沈下が起こり、アックア・アルタによる洪水の水位が1m以上になったこともある。建造物の沈下は、地下の帯水層の流出が原因とされるため、地下水使用の制限やアルプスからの水道の導入などで対処している。更に今後の地球温暖化によって海面上昇が加速されることとなれば、将来ヴェネツィアの街全体がアドリア海に水没してしまうことが懸念されている。水没を防ぐために、アドリア海との間の3カ所に可動式の防潮堤を設ける「モーゼ計画(Progetto Mose)」が提案され、工事も着手されているが、環境やヴェネツィアの潟(ラグーナ)に与える影響が懸念されるため、市長や多くのヴェネツィア市民の反対もある。
ヴェネツィアの土地は、大陸からの川の流れに乗ってくる土砂、そしてアドリア海の波と風の力によって作られた湿地帯である。
古代、ヴェネツィア周辺の地域にはウェネティ人が住んでいた。伝説では、アクイレイア、パドヴァなどの北イタリアの都市の住民が、5世紀のゲルマン人のイタリア侵略からのこの湿地帯へと避難してくることから、452年にヴェネツィアの歴史が始まる。この時避難してきた先が現在の「トルッチェロ島」である。足場が悪い湿地帯のため、侵入者は追ってくることが出来ず、避難した人々はここに暮らし続けるようになる。干潟に住むメリットを保つため、干潟を荒らしたり干拓したものを極刑にする、という法を作ったり、普段は船が通れる道を杭で示していたが非常時にはその杭を抜く、など、干潟を守り、かつ、有効に利用していた。
サン・マルコ大聖堂彼らは12のおもな島からの護民官たちを中心とした政府を組織し、アドリア海沿岸地域は元々東ローマ帝国の支配下にあるため、名目上は東ローマ帝国に属したが、実質的には自治権を持っていた。697年、ヴェネツィア人は初代総督を選出して独自の共和制統治を始めた。これがヴェネツィア共和国の始まりである。つづく1世紀間は政府内部の不和のため不安定な政治が続いたが、外敵の脅威に対して結束し、836年にはイスラムの侵略を、900年にはマジャールの侵略を撃退した。10世紀後半からはイスラム諸国と商業条約を結んだが、これはムスリム(イスラム教徒)と戦うよりも貿易をしようというヴェネツィア人の現実的な政策によるものである。
9世紀始め、フランク王国がヴェネツィアを支配下に置こうとして軍を派遣、そのため、トルチェッロにいた人々は更なる避難を余儀なくされ、現在のヴェネツィア本島へと移り住むことになった。このときにたどり着いたのが今の「リアルト地区」である。810年に東ローマ帝国‐フランク王国間で結ばれた条約で、ヴェネツィアは東ローマ帝国に属するが、フランク王国との交易権ももつこととなり貿易都市への布石が置かれた。
サン・マルコ広場の聖マルコを象徴するライオンこのころ、ヨーロッパ各国では、その国の存在をアピールする目的でその国の守護聖人を求める風潮にあった。ヴェネツィアも同様に守護聖人を求めていたところ、福音書著者聖マルコの遺骸がエジプトのアレクサンドリアにあり、ムスリムに奪われる恐れがあることを聞きつけ、828年、それを奪い取りヴェネツィアに運んだ。この時よりヴェネツィアは聖マルコを守護聖人とすることになった。
10世紀後半からはイスラム諸国とも商業条約を結び交易を拡大した。さらにアドリア海沿岸への支配地域の拡大に努めていった。ジェノヴァ共和国などの同じイタリアの貿易都市とは違い、都市の周辺海域が大国・東ローマ帝国の制海権内にあったために、イスラム勢力による海上からの直接的脅威を感じることが少なかったことも、イスラム諸国との関係を積極的に進める要因となった。
11世紀、弱体化した東ローマ帝国の要請でアドリア海沿岸の海上防衛を担うことになり、その代償として東ローマ帝国内での貿易特権を得た。
1204年、第4回十字軍とともにヴェネツィア艦隊は東ローマ帝国首都のコンスタンティノポリスを攻略、援助への代償としてクレタ島などの海外領土を得て東地中海最強の海軍国家となり、アドリア海沿岸の港市の多くがヴェネツィアの影響下におかれた。ヴェネツィア共和国は東ローマ帝国分割で莫大な利益を獲得し、政治的にも地中海地域でヨーロッパ最大の勢力をほこるようになった。東地中海から黒海にかけての海域が、いわば「イタリア商人の海」ともいうべき状況になったことは、おなじ13世紀に、ヴェネツィアのマルコ・ポーロが黒海北岸から中央アジアを経て元へ向かうことを容易にさせた。
富裕な貴族たちは政治の支配権の獲得をくわだて、13世紀末ごろには寡頭政治がおこなわれるようになった。13〜14世紀には商業上の宿敵であるジェノヴァとの戦いがつづいた。1378〜81年の戦いで、ジェノヴァはヴェネツィアの優位を認めた。その後も侵略戦争で周辺地域に領土を獲得したヴェネツィアは、15世紀後半にはキリスト教世界でも屈指の海軍力をもつ都市国家となった。
カナル・グランデの日の出15世紀半ばのオスマン帝国の進出により、ヴェネツィアの海外領土が少しずつ奪われていき、最盛期は終わりを告げた。1538年におけるプレヴェザの海戦で、オスマン帝国は地中海の制海権をほぼおさえ、さらにヴェネツィアにとっての圧力となった。その上、大砲の登場により干潟に住むメリットがなくなってしまった。その後の諸外国の侵略や、ほかのイタリア都市の攻撃で、ヴェネツィアの力は弱まった。また、1497〜98年にポルトガルの航海者ヴァスコ・ダ・ガマが喜望峰をまわるインド航路を発見したため、貿易の対象がアジアに移り、アメリカ大陸が発見され、時は大航海時代。貿易の舞台はアドリア海から大西洋や太平洋に移り、ヴェネツィアの貿易に対する影響力は低下、衰退は加速された。これに対してヴェネツィアはガラスやレースなどの工芸品を作ることで対処した。1508年、ヴェネツィアに対抗して神聖ローマ帝国、教皇、フランス、スペインは同盟をむすび、ヴェネツィア領土内にある財産を没収した。1516年、ヴェネツィアは巧妙な外交でイタリアでの支配権をとりもどしたが、海洋国家としての地位は回復できなかった。
1797年、ヴェネツィア共和国はナポレオン・ボナパルトに侵略され、ついに崩壊した。ナポレオンはその領土をオーストリアに引き渡した。オーストリアは1805年にフランスが支配するイタリア王国に譲ったが、1814年には奪回。オーストリアは港湾都市としてヴェネツィアよりトリエステを重視したため、ヴェネツィア経済は衰退した。その翌年、ヴェネツィアとロンバルディアはロンバルド=ヴェネト王国をつくった。ヴェネツィア人はイタリアの政治家マニンの指導のもとで、1848年にオーストリア支配に対する反乱をおこし、ヴェネト共和国を建国した。しかし、その翌年にオーストリアの攻撃により降伏した。1866年に普墺戦争がはじまると、イタリア王国はこれを第三次イタリア統一戦争としてオーストリアに宣戦布告し、この結果ヴェネツィアとヴェネト地方はイタリア王国に編入された。
1987年、世界遺産(文化遺産)に『ヴェネツィアとその潟』として登録された

  • このシャンパン、マジでうますぎ

    このシャンパン、マジでうますぎ

  • サンタ・マリア・グロリオーザ・デイ・フラーリ聖堂 <br /><br />通常フラーリと縮めて呼ばれる、ヴェネツィアにあるカトリック教会のバシリカ。サン・ポーロ地区の心臓部カンポ・デイ・フラーリに建つ。教会は『聖母の被昇天』に献堂された。<br />1250年、フランチェスコ会は教会を建てるべく土地を譲渡された。しかし建物は1338年まで完成しなかった。完成後ほとんどすぐに、より大きな後継者である現在の教会が1世紀で建てられた。鐘楼(カンパニエーレ)は、1396年に完成したサン・マルコ寺院の次にヴェネツィアで2番目に高い。<br />威圧される教会は、イタリアのゴシック様式により煉瓦で建てられた。多くのヴェネツィアの教会とともに、外観はむしろ簡素である。内部には、ヴェネツィアに唯一現存する内陣仕切りを含む。

    サンタ・マリア・グロリオーザ・デイ・フラーリ聖堂

    通常フラーリと縮めて呼ばれる、ヴェネツィアにあるカトリック教会のバシリカ。サン・ポーロ地区の心臓部カンポ・デイ・フラーリに建つ。教会は『聖母の被昇天』に献堂された。
    1250年、フランチェスコ会は教会を建てるべく土地を譲渡された。しかし建物は1338年まで完成しなかった。完成後ほとんどすぐに、より大きな後継者である現在の教会が1世紀で建てられた。鐘楼(カンパニエーレ)は、1396年に完成したサン・マルコ寺院の次にヴェネツィアで2番目に高い。
    威圧される教会は、イタリアのゴシック様式により煉瓦で建てられた。多くのヴェネツィアの教会とともに、外観はむしろ簡素である。内部には、ヴェネツィアに唯一現存する内陣仕切りを含む。

  • 埋葬されている人々 <br /><br /><br />フランチェスコ・バルバロ- (1390年-1454年) 人文主義者 <br />ピエトロ・ベルナルド- (1538年死去) 議員 <br />アントニオ・カノヴァ -(心臓のみがフラーリに埋葬されている。) <br />フェデリコ・コルネル <br />フランチェスコ・ダンドロ -ドージェ <br />フランチェスコ・フォスカリ -(1457年死去) ドージェ <br />ヤコポ・マルチェッロ <br />クラウディオ・モンテヴェルディ- 17世紀の作曲家 <br />ベアト・パシフィコ -現在の教会の創設者 <br />アルヴィーゼ・パスカリーノ -(1528年死去) ヴェネツィアの行政長官 <br />ベネデット・ペーザロ -(1503年死去) 将軍 <br />ジョヴァンニ・ペーザロ <br />ヤコポ・ペーザロ -(1547年死去) 司教 <br />パオロ・サヴェッリ -(コンドッティエーレ) <br />ティツィアーノ -(1576年死去) <br />メルキオッレ・トレヴィザン -(1500年死去) 将軍 <br />ニッコロ・トロン <br />

    埋葬されている人々


    フランチェスコ・バルバロ- (1390年-1454年) 人文主義者
    ピエトロ・ベルナルド- (1538年死去) 議員
    アントニオ・カノヴァ -(心臓のみがフラーリに埋葬されている。)
    フェデリコ・コルネル
    フランチェスコ・ダンドロ -ドージェ
    フランチェスコ・フォスカリ -(1457年死去) ドージェ
    ヤコポ・マルチェッロ
    クラウディオ・モンテヴェルディ- 17世紀の作曲家
    ベアト・パシフィコ -現在の教会の創設者
    アルヴィーゼ・パスカリーノ -(1528年死去) ヴェネツィアの行政長官
    ベネデット・ペーザロ -(1503年死去) 将軍
    ジョヴァンニ・ペーザロ
    ヤコポ・ペーザロ -(1547年死去) 司教
    パオロ・サヴェッリ -(コンドッティエーレ)
    ティツィアーノ -(1576年死去)
    メルキオッレ・トレヴィザン -(1500年死去) 将軍
    ニッコロ・トロン

  • 芸術作品 <br /><br /> <br />ティツィアーノの祭壇画のある祭壇ジョヴァンニ・ベッリーニ, 聖ニコラス、ペテロ、マルコ、ベネディトゥスとともにいる聖母子, 堂内保管所祭壇衝立 <br />バルトロメオ・ボンの工房, 聖母像と聖フランチェスコ像、西入口 <br />アントニオ・ブレーニョとパオロ・ブレーニョ, ドージェ、フランチェスコ・フォスカリの墓碑(ニッコロ・ディ・ジョヴァンニ・フィオレンティーノの作品とみなされている) <br />ロレンツォ・ブレーニョ <br />保管所扉上部の、ベネデット・ペーザロの墓碑 <br />西壁にあるアルヴィーゼ・パスカリアーノの墓碑 <br />ジローラモ・カンパーニャ, パドヴァのアントニオ像と聖アニェーゼ像。 <br />マルコ・コッツィ <br />ドナテッロ, 洗礼者ヨハネ像。ヴェネツィアで最初にドナテッロが仕上げたとされる作品 <br />チュッリオ・ロンバルド, ピエトロ・ベルナルドの墓碑。西壁(実際はジョヴァンニ・ブオーラ作とされる) <br />アントニオ・リッツォ, ドージェ、ニッコロ・トロンの墓碑 <br />ヤーコポ・サンソヴィーノ, 洗礼者ヨハネ像。損傷している。 <br />ティツィアーノ <br />聖母被昇天,ヴェネツィアで一番大きい祭壇画。 <br />聖会話とペーザロ家の寄進者たち(ペーザロ家祭壇画),本堂北壁 <br />パオロ・ヴェネツィアーノ <br />アレッサンドロ・ヴィットーリア <br />アルヴィーゼ・ヴィヴァリーニ, 聖アンブロジウスと聖人たち <br />バルトロメオ・ヴィヴァリーニ <br />王座の聖マルコ <br />聖人たちと聖母子 <br />

    芸術作品


    ティツィアーノの祭壇画のある祭壇ジョヴァンニ・ベッリーニ, 聖ニコラス、ペテロ、マルコ、ベネディトゥスとともにいる聖母子, 堂内保管所祭壇衝立
    バルトロメオ・ボンの工房, 聖母像と聖フランチェスコ像、西入口
    アントニオ・ブレーニョとパオロ・ブレーニョ, ドージェ、フランチェスコ・フォスカリの墓碑(ニッコロ・ディ・ジョヴァンニ・フィオレンティーノの作品とみなされている)
    ロレンツォ・ブレーニョ
    保管所扉上部の、ベネデット・ペーザロの墓碑
    西壁にあるアルヴィーゼ・パスカリアーノの墓碑
    ジローラモ・カンパーニャ, パドヴァのアントニオ像と聖アニェーゼ像。
    マルコ・コッツィ
    ドナテッロ, 洗礼者ヨハネ像。ヴェネツィアで最初にドナテッロが仕上げたとされる作品
    チュッリオ・ロンバルド, ピエトロ・ベルナルドの墓碑。西壁(実際はジョヴァンニ・ブオーラ作とされる)
    アントニオ・リッツォ, ドージェ、ニッコロ・トロンの墓碑
    ヤーコポ・サンソヴィーノ, 洗礼者ヨハネ像。損傷している。
    ティツィアーノ
    聖母被昇天,ヴェネツィアで一番大きい祭壇画。
    聖会話とペーザロ家の寄進者たち(ペーザロ家祭壇画),本堂北壁
    パオロ・ヴェネツィアーノ
    アレッサンドロ・ヴィットーリア
    アルヴィーゼ・ヴィヴァリーニ, 聖アンブロジウスと聖人たち
    バルトロメオ・ヴィヴァリーニ
    王座の聖マルコ
    聖人たちと聖母子

  • この写真うまく撮れすぎ!!<br /><br />サンタ・マリア・デッラ・サルーテ聖堂 <br />和名:救済の聖母マリア聖堂は、一般にサルーテと縮めて呼ばれる、ヴェネツィアにあるカトリック教会のバシリカ。カナル・グランデとヴェネツィアの潟の一つバチノ・ディ・サン・マルコの間に横たわる、狭い指状の土地の上に建つ。水上からサン・マルコ広場へ上がる玄関口の目印となっている。マイナー・バシリカの地位であるが、美しい外観と顕著な履歴を持ち、イタリアで最も写真におさめられる場所となっている。

    この写真うまく撮れすぎ!!

    サンタ・マリア・デッラ・サルーテ聖堂
    和名:救済の聖母マリア聖堂は、一般にサルーテと縮めて呼ばれる、ヴェネツィアにあるカトリック教会のバシリカ。カナル・グランデとヴェネツィアの潟の一つバチノ・ディ・サン・マルコの間に横たわる、狭い指状の土地の上に建つ。水上からサン・マルコ広場へ上がる玄関口の目印となっている。マイナー・バシリカの地位であるが、美しい外観と顕著な履歴を持ち、イタリアで最も写真におさめられる場所となっている。

  • ほしい食器がいっぱい<br />これに料理を載せたら、最高の食事ができそう!!<br />でも、持って帰れない。。。絶対に割れる。。。

    ほしい食器がいっぱい
    これに料理を載せたら、最高の食事ができそう!!
    でも、持って帰れない。。。絶対に割れる。。。

  • オペラ座

    オペラ座

  • ドゥカーレ宮殿<br />ヴェネツィアのドゥカーレ宮殿 <br />イタリア語でDucale(形容詞)は○○公の、公爵の、総督の、を意味し、Palazzoは館、宮殿(英語のpalaceに相当)を意味する。従って、Palazzo Ducaleは総督や○○公の宮殿のことで、ヴェネツィア、ウルビーノなどのものが知られる。 また英語のDoge&#39;s Palaceからの訳で「ドージェ宮」と呼ばれることもある。<br /><br />

    ドゥカーレ宮殿
    ヴェネツィアのドゥカーレ宮殿
    イタリア語でDucale(形容詞)は○○公の、公爵の、総督の、を意味し、Palazzoは館、宮殿(英語のpalaceに相当)を意味する。従って、Palazzo Ducaleは総督や○○公の宮殿のことで、ヴェネツィア、ウルビーノなどのものが知られる。 また英語のDoge's Palaceからの訳で「ドージェ宮」と呼ばれることもある。

  • サン・マルコ寺院<br />福音記者マルコにささげられた、イタリアのヴェネト州の州都ヴェネツィアで最も有名な大聖堂である。<br />ビザンティン建築を代表する記念建築物であるとされるが、その当時、コンスタンティノポリスで500年以上も前に流行した形式を採用している。サン・マルコ広場に面して建ち、ドージェの館であるドゥカーレ宮殿に隣接し繋がっている。建物内は、黄金に煌く壁や天井と、祭壇には2,000個もの眩い宝石が埋め込まれた黄金の衝立がある。<br />1807年からはヴェネツィア大司教座が置かれているため、本来現在は「サン・マルコ大聖堂」と呼ばれるのが適切である。しかし長らく「司教座聖堂(大聖堂)ではなかった」点が特徴の一つでもあり、現在も歴史上の呼称に合わせた「寺院(ないしは聖堂)」の呼び名が一般的である

    サン・マルコ寺院
    福音記者マルコにささげられた、イタリアのヴェネト州の州都ヴェネツィアで最も有名な大聖堂である。
    ビザンティン建築を代表する記念建築物であるとされるが、その当時、コンスタンティノポリスで500年以上も前に流行した形式を採用している。サン・マルコ広場に面して建ち、ドージェの館であるドゥカーレ宮殿に隣接し繋がっている。建物内は、黄金に煌く壁や天井と、祭壇には2,000個もの眩い宝石が埋め込まれた黄金の衝立がある。
    1807年からはヴェネツィア大司教座が置かれているため、本来現在は「サン・マルコ大聖堂」と呼ばれるのが適切である。しかし長らく「司教座聖堂(大聖堂)ではなかった」点が特徴の一つでもあり、現在も歴史上の呼称に合わせた「寺院(ないしは聖堂)」の呼び名が一般的である

  • 歴史 <br />統領によって支配されていたヴェネツィアはラヴェンナの属領で、751年にラヴェンナが東ローマ帝国の領土から失われて以降も、名目上では東ローマ帝国の宗主権下にある自治領という扱いであった。しかし、歴代総督は隣国の勢力を巧みにあしらって独自性を保ち続け、交易によって巨万の富を得ることになった。<br />聖マルコに捧げられた最初の教会は、現在のドゥカーレ宮の位置に建てられたものだった。828年にヴェネツィア商人がアレキサンドリアから聖マルコの聖遺物(遺骸)を運んできたことを記念して建てられたが、恒久的なものではなく、832年にこの建物は現在の場所に建てられた新しい教会に取って代わられた。この聖堂は976年の暴動により消失し、978年に再建されたが、現在の聖堂の基礎になっているのは、その後さらに再建されたもので、総督ドメニコ・コンタリーニが1063年頃に起工し、総督ヴィターレ・ファリエルが1090年代完成させたものである。その後900年にわたって建て増しされ、幾度となく改修を受けている。<br />サン・マルコ聖堂は、東ローマ帝国の首都コンスタンティノポリスにあった聖諸使徒大聖堂を模して、建てられたといわれている。1090年代に建設された聖堂は十字形平面で、中央部に円蓋を持つ典型的なクロス・ドーム形式で、その意味では由緒正しいビザンティン建築である。正面入口の上に置かれている4頭の馬の銅像(現在置かれているものはレプリカ)は、もともとコンスタンティノポリスの競馬場にあったものだが、1204年の第四回十字軍の時に略奪され、ヴェネツィアに運ばれたものである。<br />サン・マルコ聖堂はヴェネツィア随一の聖堂だが、他の多くの都市の中心的聖堂とは異なり、ヴェネツィア共和国時代はカトリック教会の司教座聖堂(ドゥオーモ)ではなく、公式には共和国総督の礼拝堂であった。これはヴェネツィア共和国のカトリック教会からの政治的独立性の象徴とされている。1451年にグラードから大司教座がヴェネツィア本島に移されているが、その際もサン・マルコ聖堂ではなくヴェネツィア本島東端にあるサン・ピエトロ・ディ・カステッロ聖堂が正式に大聖堂とされていた。1807年、ヴェネツィアを占領したナポレオンの命により大司教座がサン・マルコ聖堂に移され大聖堂となったが、前述のように現在もサン・マルコ聖堂(寺院)の呼称が一般的のままである。

    歴史
    統領によって支配されていたヴェネツィアはラヴェンナの属領で、751年にラヴェンナが東ローマ帝国の領土から失われて以降も、名目上では東ローマ帝国の宗主権下にある自治領という扱いであった。しかし、歴代総督は隣国の勢力を巧みにあしらって独自性を保ち続け、交易によって巨万の富を得ることになった。
    聖マルコに捧げられた最初の教会は、現在のドゥカーレ宮の位置に建てられたものだった。828年にヴェネツィア商人がアレキサンドリアから聖マルコの聖遺物(遺骸)を運んできたことを記念して建てられたが、恒久的なものではなく、832年にこの建物は現在の場所に建てられた新しい教会に取って代わられた。この聖堂は976年の暴動により消失し、978年に再建されたが、現在の聖堂の基礎になっているのは、その後さらに再建されたもので、総督ドメニコ・コンタリーニが1063年頃に起工し、総督ヴィターレ・ファリエルが1090年代完成させたものである。その後900年にわたって建て増しされ、幾度となく改修を受けている。
    サン・マルコ聖堂は、東ローマ帝国の首都コンスタンティノポリスにあった聖諸使徒大聖堂を模して、建てられたといわれている。1090年代に建設された聖堂は十字形平面で、中央部に円蓋を持つ典型的なクロス・ドーム形式で、その意味では由緒正しいビザンティン建築である。正面入口の上に置かれている4頭の馬の銅像(現在置かれているものはレプリカ)は、もともとコンスタンティノポリスの競馬場にあったものだが、1204年の第四回十字軍の時に略奪され、ヴェネツィアに運ばれたものである。
    サン・マルコ聖堂はヴェネツィア随一の聖堂だが、他の多くの都市の中心的聖堂とは異なり、ヴェネツィア共和国時代はカトリック教会の司教座聖堂(ドゥオーモ)ではなく、公式には共和国総督の礼拝堂であった。これはヴェネツィア共和国のカトリック教会からの政治的独立性の象徴とされている。1451年にグラードから大司教座がヴェネツィア本島に移されているが、その際もサン・マルコ聖堂ではなくヴェネツィア本島東端にあるサン・ピエトロ・ディ・カステッロ聖堂が正式に大聖堂とされていた。1807年、ヴェネツィアを占領したナポレオンの命により大司教座がサン・マルコ聖堂に移され大聖堂となったが、前述のように現在もサン・マルコ聖堂(寺院)の呼称が一般的のままである。

  • サン・マルコ広場<br /><br />ヴェネツィアの中心的な広場で、回廊のある建物に囲まれ、ドゥカーレ宮殿やサン・マルコ寺院などがある。ヴェネツィアの広場は方言でカンポと呼ばれるが、サン・マルコ広場は別格であり、ピアッツァ と呼ばれる。世界で最も美しい広場とも言われており、観光名所のほか、海からの玄関口でもある。<br />サン・マルコは、ヴェネツィアの守護聖人である福音記者マルコに、由来する。サン・マルコ寺院の聖堂の正面部分は柱廊に囲まれた台形になっていて、実際より奥行きがあるようにみえる。この台形広場に、海に面したサン・マルコ小広場が続いており、全体としてL字型になっている。小広場には2本の柱があり、それぞれ頂上にはサン・マルコの獅子の彫像と聖テオドーロの彫像がある。中世にはこの柱の間に死刑執行台を設置したため、ヴェネツィアっ子は柱の間を通り抜けないという。

    サン・マルコ広場

    ヴェネツィアの中心的な広場で、回廊のある建物に囲まれ、ドゥカーレ宮殿やサン・マルコ寺院などがある。ヴェネツィアの広場は方言でカンポと呼ばれるが、サン・マルコ広場は別格であり、ピアッツァ と呼ばれる。世界で最も美しい広場とも言われており、観光名所のほか、海からの玄関口でもある。
    サン・マルコは、ヴェネツィアの守護聖人である福音記者マルコに、由来する。サン・マルコ寺院の聖堂の正面部分は柱廊に囲まれた台形になっていて、実際より奥行きがあるようにみえる。この台形広場に、海に面したサン・マルコ小広場が続いており、全体としてL字型になっている。小広場には2本の柱があり、それぞれ頂上にはサン・マルコの獅子の彫像と聖テオドーロの彫像がある。中世にはこの柱の間に死刑執行台を設置したため、ヴェネツィアっ子は柱の間を通り抜けないという。

  • リアルト橋<br /><br />ヴェネツィアのカナル・グランデに架かる4つの橋の一つ。「白い巨象」とも呼ばれる。<br />この橋の周辺は海抜が比較的高く洪水の被害も少ないため、ヴェネツィアでは最も早くこの周りに集落ができ商業の中心地となった。 最初は木製の跳ね橋で、銀行や商品取引所で賑っていたため「富の橋」と呼ばれた。しかし、女公爵の結婚式の時、見物人の重みで崩壊したり、火災に遭ったりしたため、石造りの橋に変えようと提言され、1557年、ヴェネツィア共和国は橋の設計案を一般から募集した。一般公募にはミケランジェロも参加したが、結局、採用されたのはアントニオ・ダ・ポンテの案だった。<br />ポンテの案は、橋の下を多くの船が通ることを考えた単一アーチで、そりの大きい太鼓橋だった。工事は軟弱な地盤や技術上の問題から困難とされたが、4年後には長さ48m、幅22m、水面からの高さ7.5mのそりの大きい太鼓橋が完成した。<br />橋の上にはアーケードが作られ、商店が並んでいる。ヨーロッパの橋としては珍しく、カナル・グランデを見晴らす欄干と花瓶型の手摺がついている。

    リアルト橋

    ヴェネツィアのカナル・グランデに架かる4つの橋の一つ。「白い巨象」とも呼ばれる。
    この橋の周辺は海抜が比較的高く洪水の被害も少ないため、ヴェネツィアでは最も早くこの周りに集落ができ商業の中心地となった。 最初は木製の跳ね橋で、銀行や商品取引所で賑っていたため「富の橋」と呼ばれた。しかし、女公爵の結婚式の時、見物人の重みで崩壊したり、火災に遭ったりしたため、石造りの橋に変えようと提言され、1557年、ヴェネツィア共和国は橋の設計案を一般から募集した。一般公募にはミケランジェロも参加したが、結局、採用されたのはアントニオ・ダ・ポンテの案だった。
    ポンテの案は、橋の下を多くの船が通ることを考えた単一アーチで、そりの大きい太鼓橋だった。工事は軟弱な地盤や技術上の問題から困難とされたが、4年後には長さ48m、幅22m、水面からの高さ7.5mのそりの大きい太鼓橋が完成した。
    橋の上にはアーケードが作られ、商店が並んでいる。ヨーロッパの橋としては珍しく、カナル・グランデを見晴らす欄干と花瓶型の手摺がついている。

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