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 NHK大河ドラマ「天地人」の主人公直江兼続が奉納した釣燈籠が奈良春日大社に吊るされている。一部文字部分が剥奪しているが、名文には、「(春日)社(奉納)寄進 御立願成就如意処也 慶長五年庚子極月吉日 越後国直江山城守息女敬白」とあって、兼続の娘おまつが奉納者である。しかし、慶長五年(1600年)ではおまつは10才ぐらいであり、実際には保護者である兼続かお船の奉納か、直江家からの奉納と考えるべきであろう。<br /> ここで問題なのは、慶長五年(1600年)師走(12月)の奉納になっており、時代的には関ヶ原の戦い(9月)に敗れた後のことである。関ヶ原の後、上杉家は奥州120万石から米沢に減俸移封になるが、石高は未決の時期である。ドラマでは、兼続の腹違いの妹お貞が後の上杉家筆頭家老となる色部家の嫡男光長と祝言を挙げるが、祝いの席で酒がないほど困窮していて、酒壷には真水が入っていた。そんな時期に春日の神様に奉納するのであるから、まさに神頼みで上杉家の安泰、直江家の行く末を願ってのことであろう。しかし、そんな食べるのにも事欠く生活の中で釣燈籠を奉納することなど有り得ようか。<br /> そんな神頼みに、慶長三年(1598年)に会津移封になって2年も経つのに越後国直江山城守を名乗っていることである。釣燈籠1個の製作に2年以上を要することなどは考えられず、月に数個製作してもおかしくはないであろう。陸奥国会津郡であれば米沢移封が間に合わなかったで納得できるのであるが、越後国と名乗ったのでは神に虚言を呈してはいないか疑問である。慶長元年であれば彫金が容易であるが、慶長二年や三年では彫金が難しいので五年に書き換えた可能性はないであろうか。<br /> 上杉家の居城春日山城は春日社に因む地名であり、鎮守として春日社が祀られていたことに拠る。長尾家も上杉家も春日の神様を信仰していた。それならば、一層、春日山城に居る慶長三年以前の方が納得がいく。<br /> 慶長年間の釣燈籠の奉納であれば、京屋敷に上杉景勝の正室菊姫のお供にお船が居た訳であるから奈良の春日社と齟齬をきたすことなどは考えられない。すなわち、国名を間違うことなど有り得ないのである。<br /> 私は、直江家から春日社へ釣燈籠が奉納されたのは慶長三年のことであったのではないかと思っている。彫金が難しいので職人が三を五に書き換えたのであろう。これまでにも厳島神社の平家写経のように、納経の年を数年遅らせて記載していたり、お寺の伽藍や山門などももう出来上がっているのに石碑には数年後の年月が彫られていることも目にした。勿論、実施年を記載してあるのに、実際はそれよりも遅れることもあるのは良くあることである。要は、それほど厳密に年を気にはしていないのである。元号を用いていたから、元号をまたいで年を数えるのは尚更大変である。<br /> 兼続の没後の寛永二年(1625年)に、お船は春日社に参拝している。この時に、直江家から奉納された釣燈籠を見てどう思っただろうか。おそらくは、「越後に居た良き時代に奉納した釣燈籠がここに下がっている。」というぐらいの程度のことであろう。慶長三年が慶長五年に書き換えられていても、気が付かないとしても不思議はないが、越後国が陸奥国になっていたならばお船も不可思議に思い、何か発したであろう。そうすれば大宮家文書にもそのことが記載されたはずである。宝物殿主任学芸員の松村和歌子氏の「慶長五年」説とは異なる「慶長三年」説を述べた次第です。<br /> ちなみに、米沢30万石に減封が決するのは翌慶長六年(1601年)のことになる。

直江家(兼続)の釣燈籠

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2009/09 - 2009/09

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ドクターキムル

ドクターキムルさん

 NHK大河ドラマ「天地人」の主人公直江兼続が奉納した釣燈籠が奈良春日大社に吊るされている。一部文字部分が剥奪しているが、名文には、「(春日)社(奉納)寄進 御立願成就如意処也 慶長五年庚子極月吉日 越後国直江山城守息女敬白」とあって、兼続の娘おまつが奉納者である。しかし、慶長五年(1600年)ではおまつは10才ぐらいであり、実際には保護者である兼続かお船の奉納か、直江家からの奉納と考えるべきであろう。
 ここで問題なのは、慶長五年(1600年)師走(12月)の奉納になっており、時代的には関ヶ原の戦い(9月)に敗れた後のことである。関ヶ原の後、上杉家は奥州120万石から米沢に減俸移封になるが、石高は未決の時期である。ドラマでは、兼続の腹違いの妹お貞が後の上杉家筆頭家老となる色部家の嫡男光長と祝言を挙げるが、祝いの席で酒がないほど困窮していて、酒壷には真水が入っていた。そんな時期に春日の神様に奉納するのであるから、まさに神頼みで上杉家の安泰、直江家の行く末を願ってのことであろう。しかし、そんな食べるのにも事欠く生活の中で釣燈籠を奉納することなど有り得ようか。
 そんな神頼みに、慶長三年(1598年)に会津移封になって2年も経つのに越後国直江山城守を名乗っていることである。釣燈籠1個の製作に2年以上を要することなどは考えられず、月に数個製作してもおかしくはないであろう。陸奥国会津郡であれば米沢移封が間に合わなかったで納得できるのであるが、越後国と名乗ったのでは神に虚言を呈してはいないか疑問である。慶長元年であれば彫金が容易であるが、慶長二年や三年では彫金が難しいので五年に書き換えた可能性はないであろうか。
 上杉家の居城春日山城は春日社に因む地名であり、鎮守として春日社が祀られていたことに拠る。長尾家も上杉家も春日の神様を信仰していた。それならば、一層、春日山城に居る慶長三年以前の方が納得がいく。
 慶長年間の釣燈籠の奉納であれば、京屋敷に上杉景勝の正室菊姫のお供にお船が居た訳であるから奈良の春日社と齟齬をきたすことなどは考えられない。すなわち、国名を間違うことなど有り得ないのである。
 私は、直江家から春日社へ釣燈籠が奉納されたのは慶長三年のことであったのではないかと思っている。彫金が難しいので職人が三を五に書き換えたのであろう。これまでにも厳島神社の平家写経のように、納経の年を数年遅らせて記載していたり、お寺の伽藍や山門などももう出来上がっているのに石碑には数年後の年月が彫られていることも目にした。勿論、実施年を記載してあるのに、実際はそれよりも遅れることもあるのは良くあることである。要は、それほど厳密に年を気にはしていないのである。元号を用いていたから、元号をまたいで年を数えるのは尚更大変である。
 兼続の没後の寛永二年(1625年)に、お船は春日社に参拝している。この時に、直江家から奉納された釣燈籠を見てどう思っただろうか。おそらくは、「越後に居た良き時代に奉納した釣燈籠がここに下がっている。」というぐらいの程度のことであろう。慶長三年が慶長五年に書き換えられていても、気が付かないとしても不思議はないが、越後国が陸奥国になっていたならばお船も不可思議に思い、何か発したであろう。そうすれば大宮家文書にもそのことが記載されたはずである。宝物殿主任学芸員の松村和歌子氏の「慶長五年」説とは異なる「慶長三年」説を述べた次第です。
 ちなみに、米沢30万石に減封が決するのは翌慶長六年(1601年)のことになる。

  • おまつが奉納した釣燈籠。ちなみに、ドラマではお松が今日の放送でなくなりましたね。婿殿は、先週の放送で高野山に追放になった大国実頼の娘を後妻にもらいますが、直江家を出て、加賀前田家へ仕官し、後妻も後を追って・・・・。来週の放送をお楽しみに。

    おまつが奉納した釣燈籠。ちなみに、ドラマではお松が今日の放送でなくなりましたね。婿殿は、先週の放送で高野山に追放になった大国実頼の娘を後妻にもらいますが、直江家を出て、加賀前田家へ仕官し、後妻も後を追って・・・・。来週の放送をお楽しみに。

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