2009/10/23 - 2009/10/23
919位(同エリア1403件中)
ムッシュさん
上松宿 第三十八宿(日本橋より286.5km)
尾張藩が管理した材木役所が置かれた上松は、日本三大美林の木曽五木の集散地として発展しヒノキの里と呼ばれる。
【上松宿】
天保14年の宿場データ
人口2482人、旅籠35軒、本陣1,脇本1,
江戸時代に、尾張藩の材木役所を設置。
-
【ここは、どこさ?】
木曽福島駅を出ると直ぐの所にある【御獄神社】です。
御嶽教木曽大教殿があります、木曽における御嶽教の拠点として昭和23年(11948年に創建されました、残念ながら今は荒れるに任されています。 -
【これが一里塚跡なんだー、塩渕の一里塚跡】
これより、江戸まで70里、京都まで67里です。
少し、京都に近づいたようです。
【塩渕】
天正十二年(1584)の木曽義昌朱印状には、「上塩渕」、「塩渕中屋」、「塩渕彦三郎」の名がでてくる。享保九年(1724)の「岩郷村家数書上帳」には、「家数拾四軒塩渕」とある。
シオという地名は川の曲流部につけられることが多く、塩渕も木曽川の曲流部にできた渕とすると地形的にあっている。
又、塩渕には次のような言い伝えが残っている。
昔、中山道を馬の背中に塩を載せて運んできたところ、その馬が、木曽川の渕に転落し塩をまいてしまったところから塩渕という地名がついたと伝えられている。
木曽福島町史より -
少し道より小高い所に”二十三夜塔”がありました。
-
-
-
-
石積みの【木曽の桟(かけはし)】が保存されています。
初代の桟は、応永7年(1400)から14年間かけ木曽川沿いに新道を架けたのが始まり。
当初の木曽の桟は岸壁に穴を開け、これに丸太を差し込み、この上に板を架け渡し、蔦(つた)かずらの蔓(つる)で縛り付けた桟(さん)でした。
この桟は「木曽の桟(かけはし) 太田で渡し 碓氷峠がなくばよい」と謡われた中山道三大難所の一つでした。
この木曽の桟は正保4年(1647年)旅人の松明の不始末で焼失し、翌慶安元年(1648年)尾張藩が石積みの桟(かけはし)を完成させました。 -
-
【木曽の梯(かけはし)跡】
石垣がその名残。現在、上を通るは国道。
この木曽の桟は甲斐の猿橋、岩国の錦帯橋と並び日本三大奇橋の一つです。 -
-
左手の斜面左手に【正岡子規碑】
「かけはしや あぶない処に 山つつじ」
「桟や 水へとどかず 五月雨」
「むかしたれ 雲のゆききの あとつけて わたしそめけん 木曽のかけはし」
があります。 -
-
-
【上松宿本町一里塚跡の碑】
枡形内の左手には一里塚の跡碑があります、本町の一里塚跡です。
上松の一里塚とも呼ばれます、碑には「中山道上松宿京へ六十五里 江戸より七十二里」と刻まれています、 -
JR上松駅に到着です。
と言っても、道中はウォーキングで、トイレ休憩のための立ち寄りなり。 -
上松駅前に建つ公衆電話ボックスです。
これって、木曽ヒノキ造りかな? -
【こっれて現役の民宿ですよ】
立場茶屋たせや(多瀬屋)は築三百年で茶屋本陣を勤め、上段の間を残しています。
昔からの旅籠”たせや”。出梁の2階構造です。
この家の奥を右折、坂を下ると有名な寝覚めの床である -
有名なそば屋だった家。”越前屋”
-
向いの越後屋は寛永元年(1624年)創業の名物寿命そば(蕎麦切り)の老舗です。
こんな洋風構造も! -
【なんと、300年の歴史を持つ蕎麦屋さん。
江戸時代の有名人も多くが立ち寄ったとか】
民宿たせやの向にある”越前屋”元祖寿命蕎麦。坂を
下って、国道沿いにあるのが、こちらのお店。
「そば白くやくみは青く入れものは
赤いせいろに黄なるくろもじ」
十返舎一九(木曾街道膝栗毛) -
【臨済宗妙心寺派寝覚山臨川寺(りんせんじ)】
境内に入ると芭蕉句碑「昼顔に ひる寝せふもの 床の山」があります。
弁才天堂は尾張藩主第四代徳川吉通が、正徳元年(1711)寝覚の地に立ち寄った折に、母堂の長寿を祈願して弁才天堂を建立したものです。
浦島太郎旧縁趾碑があり、浦島太郎姿見の池があります。
境内から寝覚ノ床に下ることができる -
JR中央線と寝覚めの床
-
浦島太郎がここで玉手箱を開けてしまったところである
その後、浦島太郎はどこかへ立ち去ったが
乙姫様から貰ったという、弁才天の像だけがこの岩の上に残されていた
その弁才天を祭ったのが臨川寺弁天堂である
それはさておき、この寝覚めの床は見事であった -
-
【寝覚ノ床】(観光パンフレットより)
木曽川の源流が花崗岩を、木曽川が侵食して造り出したのが天下の奇勝寝覚ノ床。奇岩が壁のように連なり美しい景観です。
エメラルドグリーンの淵が白い岩に映る。
浦島太郎が玉手箱を、この地で開けた伝説の舞台。
ここは中山道最大の景勝地、京の貴族にも知られ、多くの歌に詠まれている。 -
浸食された花崗岩の不思議な景観
-
-
寝覚の床 下流側
川面は真に静かで、緑がきれいですよ。 -
-
浦島太郎がここで玉手箱を開けてしまったところである
その後、浦島太郎はどこかへ立ち去ったが
乙姫様から貰ったという、弁才天の像だけがこの岩の上に残されていた
その弁才天を祭ったのが臨川寺弁天堂である
この【寝覚めの床】は見事であった -
【浦島太郎を祭る浦島堂】
寝覚ノ床の大岩を渡ると辿りつけます
国名勝史跡記念物寝覚の床、木曽川の浸食による花崗岩の壁が連なっています。
浦島太郎は龍宮城から帰る際に弁財天尊像、万宝神書、玉手箱を持ち帰りました。
万宝神書には飛行の術が書かれ、太朗はこの術を使い諸方を飛び回り、この地が気に入り、ここに逗留し釣りに興じました。
【弁才天堂】
尾張藩主四代徳川吉通が、正徳元年(1711)寝覚の地に立ち寄った折に、母堂の長寿を祈願して弁才天堂を建てるよう上松の役人に命じ、翌正徳二年に完成したお堂です。
現存する上松町の建築物では最も古い物で、大工の棟梁は、名古屋の岩崎治兵衛他四名で当時の木曽では珍しいお堂の造りといわれています。石屋は三名で高遠から来ています。
ある時玉手箱を開けてしまうと三百歳の翁になり、夢から覚めました、これが寝覚の地名由来となりました。
太朗は何処かに去ってしまったが、岩の上に弁財天尊像が残されていました、この場所に浦島堂が建てられ、その後弁財天尊像は臨川寺に祀られました。 -
浦島堂
-
後方の山並みは木曽駒連峰。木曾駒ケ岳(左)と宝剣岳(右)です。
以前、この尾根を縦走したことあります。 -
かつてここを旅した細川幽斎は「老の木曽越」のなかで
「木曽路の小野の滝は、布引や箕面の滝にも、をさをさおとらじ、これほどの物をこの国の歌枕には、いかにもらしける」と、
手放しで誉めています。
また、浅井洌は、この地を訪れて
「ふきおろす松の嵐も音たえて あたりすずしき小野のたきつせ」
と詠んでいます。 -
江戸時代、木曾八景に選ばれていた落差9mの滝である
十辺舎一九の「続膝栗毛木曾街道」にも紹介されている滝だ -
【名所 小野の滝】 といいます。
*細川幽斎の紀行文で有名になり、歌川広重「木曽街道六十九次」にも描かれた名瀑
*木曽八景の一つ小野の滝があり、浮世絵にも描かれてる。高さ9m。 -
-
荻原のおいしい水です
-
この旅行記のタグ
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。
旅の計画・記録
マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?
0
39