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時は慶応4年、西暦1868年。歴史は江戸時代から明治元年への政変の真っ只中。戊辰戦争の悲しいお話です。会津城下に援軍にきた長岡藩大隊長の山本帯刀(たてわき)以下43名が濃霧のため同盟軍から孤立、銃撃され生き残った三十数名が生け捕りにされた。薩摩藩淵辺直右衛門を含む3人の軍監は降伏を迫ったが、「降伏に来たのではなく戦いに来た」と降伏を拒否した。山本帯刀をはじめ長岡藩士の*斬首が決まり、9月8日藩主そして長岡の方向に別れを告げ、粛々と異郷の地に散っていった。鶴ヶ城開城の14日前の出来事でした。この方々の記念碑「殉節越後長岡藩士の碑」をお参りしてきました。山本家は跡取りが亡くなりましたが高野五十六が家督を相続、山本五十六(やまもといそろく)と改名しました。有名な大日本帝国海軍、連合艦隊司令長官です。「飯寺に散った若き大隊長山本帯刀」「慈眼寺のホームページ”管理人のひとりごと:http://www7a.biglobe.ne.jp/~jigenji/yamamoto.htm」より参考にさせていただきました。後編は「刀とお金を預かった西軍、宇都宮藩士」をアップしました。

長岡藩士殉節の碑 福島県会津若松市門田町大字飯寺字村西674

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2009/09/18 - 2009/09/18

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しんちゃん

しんちゃんさん

時は慶応4年、西暦1868年。歴史は江戸時代から明治元年への政変の真っ只中。戊辰戦争の悲しいお話です。会津城下に援軍にきた長岡藩大隊長の山本帯刀(たてわき)以下43名が濃霧のため同盟軍から孤立、銃撃され生き残った三十数名が生け捕りにされた。薩摩藩淵辺直右衛門を含む3人の軍監は降伏を迫ったが、「降伏に来たのではなく戦いに来た」と降伏を拒否した。山本帯刀をはじめ長岡藩士の*斬首が決まり、9月8日藩主そして長岡の方向に別れを告げ、粛々と異郷の地に散っていった。鶴ヶ城開城の14日前の出来事でした。この方々の記念碑「殉節越後長岡藩士の碑」をお参りしてきました。山本家は跡取りが亡くなりましたが高野五十六が家督を相続、山本五十六(やまもといそろく)と改名しました。有名な大日本帝国海軍、連合艦隊司令長官です。「飯寺に散った若き大隊長山本帯刀」「慈眼寺のホームページ”管理人のひとりごと:http://www7a.biglobe.ne.jp/~jigenji/yamamoto.htm」より参考にさせていただきました。後編は「刀とお金を預かった西軍、宇都宮藩士」をアップしました。

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  • 本光寺の住所は「福島県会津若松市門田町大字飯寺字村西674 」現在は新興住宅地と化してしまいました。田畑も少々残っています。

    本光寺の住所は「福島県会津若松市門田町大字飯寺字村西674 」現在は新興住宅地と化してしまいました。田畑も少々残っています。

  • 境内にあった石碑を写しました。【奥州会津大沼郡新寺村来迎山本光寺は羽黒山東光寺の末葉で天平年間の開基である。元羽黒山の餘風を仰ぎこの地に大宮権現を勧請し且つ層塔を創建して阿弥陀如来を安置してその丈二尺餘。その後洪水のため頽破、康暦元年葦名直盛が鎌倉から来て大守となる。然れども城未だ築かれず当寺に投宿す時に飯を炊いて公に進めたので飯寺と云った。今新寺とゆうは誤って云う所であろう。直盛公当地に小城を築きその陣迹今猶存する境内巽(たつみ)の隅に地蔵堂がある。尚観音堂及三重の塔があったと伝えられる。天台宗羽黒山東光寺末葉大沼郡新寺村本光寺祐清 寛文五己巳年二月下旬 「会津寺院縁起による」】

    境内にあった石碑を写しました。【奥州会津大沼郡新寺村来迎山本光寺は羽黒山東光寺の末葉で天平年間の開基である。元羽黒山の餘風を仰ぎこの地に大宮権現を勧請し且つ層塔を創建して阿弥陀如来を安置してその丈二尺餘。その後洪水のため頽破、康暦元年葦名直盛が鎌倉から来て大守となる。然れども城未だ築かれず当寺に投宿す時に飯を炊いて公に進めたので飯寺と云った。今新寺とゆうは誤って云う所であろう。直盛公当地に小城を築きその陣迹今猶存する境内巽(たつみ)の隅に地蔵堂がある。尚観音堂及三重の塔があったと伝えられる。天台宗羽黒山東光寺末葉大沼郡新寺村本光寺祐清 寛文五己巳年二月下旬 「会津寺院縁起による」】

  • 本光寺境内から「殉節越後長岡藩士の碑」はちょっと離れています。南東へ200mほど歩きます。道標があります。

    本光寺境内から「殉節越後長岡藩士の碑」はちょっと離れています。南東へ200mほど歩きます。道標があります。

  • 新興住宅地にぽっかり空いた、田畑と墓地があります。

    新興住宅地にぽっかり空いた、田畑と墓地があります。

  • 道標その2

    道標その2

  • 農家の方が植えている、FOX FACE(フォックスフェイス、カナリアナス)

    農家の方が植えている、FOX FACE(フォックスフェイス、カナリアナス)

  • 「殉節越後長岡藩士の碑」写しです【明治元年戊辰戦役の際、越後長岡藩士山本帯刀隊長、外に四十三名が八十里越えの難関を越えて会津鶴ヶ城下に至り、九月八日未明に会津藩士四百余人と協力、力戦苦闘一旦西軍を潰走させたが、濃霧の為飯寺河原に於いて孤立、敵の重囲に陥り遂に全員戦死されたのである。後日飯寺村民の手により、供養の碑が建てられ厚い法要が営まれた。昭和三十一年十月会津史談会並に有史の篤志により、新に殉節の碑が建立され、昭和三十四年九月長岡藩士弔霊会(昭和三十八年八月長岡藩士殉節顕彰会と改名)を設立し、爾来毎年法要が営まれている。昭和三十八年九月三日  岡藩士殉節顕彰会(読みづらいため、原本に句点を挿入しました)】<br />

    「殉節越後長岡藩士の碑」写しです【明治元年戊辰戦役の際、越後長岡藩士山本帯刀隊長、外に四十三名が八十里越えの難関を越えて会津鶴ヶ城下に至り、九月八日未明に会津藩士四百余人と協力、力戦苦闘一旦西軍を潰走させたが、濃霧の為飯寺河原に於いて孤立、敵の重囲に陥り遂に全員戦死されたのである。後日飯寺村民の手により、供養の碑が建てられ厚い法要が営まれた。昭和三十一年十月会津史談会並に有史の篤志により、新に殉節の碑が建立され、昭和三十四年九月長岡藩士弔霊会(昭和三十八年八月長岡藩士殉節顕彰会と改名)を設立し、爾来毎年法要が営まれている。昭和三十八年九月三日  岡藩士殉節顕彰会(読みづらいため、原本に句点を挿入しました)】

  • 写しました【明治戊辰(1868年)九月八日 長岡藩士 山本帯刀以下四十三名 飯寺村にて戦死し此の地に葬るその殉節を不朽に傅えんため此の碑を建つ 昭和三十一年(1956年)十月十一日 會津史談會 】

    写しました【明治戊辰(1868年)九月八日 長岡藩士 山本帯刀以下四十三名 飯寺村にて戦死し此の地に葬るその殉節を不朽に傅えんため此の碑を建つ 昭和三十一年(1956年)十月十一日 會津史談會 】

  • 「殉節越後長岡藩士の碑」となりの「無縁供養塔」

    「殉節越後長岡藩士の碑」となりの「無縁供養塔」

  • 福島県会津若松市門田町大字飯寺「殉節越後長岡藩士の碑」近くの陸橋の上から見える会津磐梯山。約20Km北東に見えます。

    福島県会津若松市門田町大字飯寺「殉節越後長岡藩士の碑」近くの陸橋の上から見える会津磐梯山。約20Km北東に見えます。

  • 会津磐梯山の下に見える鶴ヶ城、約2700mあります。

    会津磐梯山の下に見える鶴ヶ城、約2700mあります。

  • 宇都宮 六道辻「戊辰之役戦士墓」ここからは栃木県宇都宮市の写真です。「六道口 戊辰之墓」宇都宮市西原1−5−23の隣にありました。詳細は<br />「會東照大権現」内のPHOTO雑記、六道辻戦士墓に載っています。「http://www.geocities.jp/aogiri40/index.html」<br />

    宇都宮 六道辻「戊辰之役戦士墓」ここからは栃木県宇都宮市の写真です。「六道口 戊辰之墓」宇都宮市西原1−5−23の隣にありました。詳細は
    「會東照大権現」内のPHOTO雑記、六道辻戦士墓に載っています。「http://www.geocities.jp/aogiri40/index.html

  • 「六道の辻」交差点です。今までの概略は以下です。<br />戊辰戦争官軍に捕られられた山本帯刀は「戦いのために来たので降伏はしない」と言って降伏を拒否、斬首刑(ざんしゅけい)(首切り)にさせられた。そのとき持っていた200両と刀を宇都宮藩の家老戸田三男に渡した。受け取った戸田三男は供養のため宇都宮市内の「六道の辻」に石碑を建立した。山本帯刀の刀は立派で、現在故郷に返納され、長岡市の悠久山にある郷土資料館で展示されている。<br />

    「六道の辻」交差点です。今までの概略は以下です。
    戊辰戦争官軍に捕られられた山本帯刀は「戦いのために来たので降伏はしない」と言って降伏を拒否、斬首刑(ざんしゅけい)(首切り)にさせられた。そのとき持っていた200両と刀を宇都宮藩の家老戸田三男に渡した。受け取った戸田三男は供養のため宇都宮市内の「六道の辻」に石碑を建立した。山本帯刀の刀は立派で、現在故郷に返納され、長岡市の悠久山にある郷土資料館で展示されている。

  • 「六道の辻」交差点、西側から眺める。

    「六道の辻」交差点、西側から眺める。

  • 転記内容です。【戊辰役戦士墓、明治百年祭<br /><br />明治戊辰の役官軍に属して勇躍出陣した宇都宮藩兵は九月四日会津城下飯寺(にいでら)村において越後長岡藩兵と戦い本藩戸田三男隊が敵将山本帯刀及び部下七、八名を捕え軍監中村半次郎(後の桐野利秋)の命により帯刀を薩州隊に移し兵たちを斬った彼らは首の座に臨み計二百両を集めて処置を三男に委せ従容として斬られたが実にこの墓こそはこれを基金としさらに三男ら士民の義心により長岡藩将兵の無き霊を弔い併せてこの地六道口の激戦における会津藩等戦没幕兵を合葬した任侠悲涙の結実である(官軍戦死者はすべて官修墳墓として各所に官埋されている)因に帯刀は斬られる時愛刀一張を三男に托し三男は帰国後これを戸田藩主に贈つた現在この由緒の剱は当地の護国神社に秘蔵されている。昭和42年5月21日 宇都宮市文化財保護委員長 栃木県文化功労者 小林友雄 撰文<br />】

    転記内容です。【戊辰役戦士墓、明治百年祭

    明治戊辰の役官軍に属して勇躍出陣した宇都宮藩兵は九月四日会津城下飯寺(にいでら)村において越後長岡藩兵と戦い本藩戸田三男隊が敵将山本帯刀及び部下七、八名を捕え軍監中村半次郎(後の桐野利秋)の命により帯刀を薩州隊に移し兵たちを斬った彼らは首の座に臨み計二百両を集めて処置を三男に委せ従容として斬られたが実にこの墓こそはこれを基金としさらに三男ら士民の義心により長岡藩将兵の無き霊を弔い併せてこの地六道口の激戦における会津藩等戦没幕兵を合葬した任侠悲涙の結実である(官軍戦死者はすべて官修墳墓として各所に官埋されている)因に帯刀は斬られる時愛刀一張を三男に托し三男は帰国後これを戸田藩主に贈つた現在この由緒の剱は当地の護国神社に秘蔵されている。昭和42年5月21日 宇都宮市文化財保護委員長 栃木県文化功労者 小林友雄 撰文

  • 供養碑の場所は数坪の面積しかありませんが、歴史の重さが伝わります。高校がこの近くにあり、ここを度々通りましたが、その時代はまったく興味はありませんでした。最近はどうした事でしょうか。自分でも不思議です。

    供養碑の場所は数坪の面積しかありませんが、歴史の重さが伝わります。高校がこの近くにあり、ここを度々通りましたが、その時代はまったく興味はありませんでした。最近はどうした事でしょうか。自分でも不思議です。

  • 六道の辻、「戊辰之墓」反対側に六道閻魔同跡があり名前の謂れが書いてありました。

    六道の辻、「戊辰之墓」反対側に六道閻魔同跡があり名前の謂れが書いてありました。

  • 六道閻魔堂跡

    六道閻魔堂跡

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