2009/08/29 - 2009/08/29
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しんちゃんさん
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シモツケコウホネ(下野河骨)の探索記をアップしましたが、“コウホネ”をネットで検索していると、河骨川(こうほねがわ)が出てきました。「春の小川」のモデルの川であり、渋谷区に昔々、存在していました。作詞家の高野辰之はこの近くに長野県から来て住んでいました。浅草サンバ見学の前に探索に行きました。コンクリートジャングル内「河骨川」探しです。寄り道多く、中々目的地に辿り着けないのが悩みです。
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土曜日、朝9時40分。JR山の手線「代々木駅」から探索開始です。改札口を出ると警察官がタクシー内の若いカップルに尋問中。眠そうに酔っ払っているのか、シャブでも打ったのか、料金未払いなのか。遠くから駅と共に撮影。だ〜れも知らん振りして通り過ぎるので、都会は怖い。田舎だったら、人盛り。
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事前に地図により、高野辰之住居跡はJR代々木駅からが新宿駅より近いという事を確認して行きました。小田急線のガードを潜って直ぐのはずですが。
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小田急線のガードを潜って、右側の路地に神社発見。こんな住宅地に…コンクリート造りでした。「平田神社」
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説明版からの概略です。【平田篤胤(ひらたあつたね)大人命1776〜1843 近代日本の夜明け前を開き、宗教改革と古典文化復興を通じて、明治維新の指導原理の基となった偉大な宗教家、思想家、学者、教育者として知られています。国学の四大人の一人として崇められ、没後に神霊柱大人という諡名霊神号を賜り、神として祀られました。】
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続きです。【明治初年、東京柳島横川町(*現在の墨田区~江東区)平田家邸内に邸内社として創祀。明治14年、明治天皇の御下賜金をもとに東京都小石川に遷座。昭和34年現在地に遷座。昭和62年社殿その他施設前面新築完成。東京都渋谷区代々木3-8-10】
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ぐるり回って、北側の路地には「田山花袋終えんの地」
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【田山 花袋(たやま かたい、1872年1月22日(明治4年12月13日) - 1930年(昭和5年)5月13日)は、日本の小説家。本名、録弥(ろくや)。群馬県(当時は栃木県)生れ。尾崎紅葉のもとで修行したが、後に国木田独歩、柳田国男らと交わる。『蒲団』『田舎教師』などの自然主義派の作品を発表し、その代表的な作家の一人。紀行文にも優れたものがある。】フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より。この手の本は苦手だな…次回読んで見るか。
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また、表通りへ戻って、高野辰之住居跡へ。長野県から上京して、ここに住んで清流のながれる河骨川を散策「春の小川」を作詞したのでしょうか。故郷長野県下水内郡豊田村(現中野市)を思い出しながら作詞をしたのでしょうか。
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表札から子孫の方が住んでいるようです。
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道路の片隅に道標の様な説明版。探索者には優しいです。【国文学者高野辰之は、明治九年(1876)長野県生まれ、明治四十一年(1908)からここに住み、この付近の風景を愛してうたったといわれる「春の小川」「おぼろ月夜」などを次々と作詞しました。論文「日本歌謡史」により学士院賞を授与されています】
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東京都渋谷区代々木3-3-2付近です。代々木は「代々木ゼミナール」予備校でも有名です。高いビルがで〜んと建ってました。「代々木」の名前の由来は渋谷区のHPからですと【戦国時代の書状に、「代々木村」の名がすでにあり、江戸時代には大名・旗本の屋敷地がありました。
この名は、村人が代々サイカチの木(豆科の落葉高木)を生産したことにちなんでいるという説があります。
また、現在の明治神宮御苑の東門近くに、「代々木の大樅」といわれたモミの木があり、その名が由来ともいわれます。
現在は残っていませんが、井伊家 の下屋敷があったころの大樅は、当時の記録に残るほど大きなものでした。
黒船が江戸湾を測量していたころ、その動静をこの木の上から見張らせ、桜田門外の 上屋敷に報告させたそうです。
】と載っていました。なるほど。新宿からは高層ビルからでないと東京湾が見えない。 -
通りを西へ歩いて行くと「高野友梨」「たかの友梨ビューティクリニック」有名な本社ビルがあります。
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「たかの友梨レインボービル」本人が出てこないかな。玄関にはランの花がいっぱいでした。さすがに受付と玄関を撮る勇気はありませんでした。
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西参堂と上の首都高速道路四号線をくぐると右手にお寺前に説明版【当地は土佐二十三万石の大名山之内一豊公江戸下屋敷にて歴史の薫りと時空を超えた生命の永遠性を湧きいだしています】【代々木七福尊神奉】と【岸田劉生が描いた 切通しの坂】と立正寺前に道標が競い合っていました。
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下屋敷と上屋敷、中屋敷はどう違うのか。裏辺金好さんの「歴史研究所日本史レポート第5回 上・中・下屋敷の違いは?」によりますと。下屋敷は別邸の役目のほかに、菜園、海岸では荷揚げ場、加賀藩の場合は江戸で売買・消費する米を収納した蔵屋敷まであったそうです。「http://www.uraken.net/rekishi/reki-nihon005.html」
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【岸田劉生が描いた 切通しの坂】何だろう?
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これが、切通しの坂です。
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「切通しの坂」途中の説明道標。東側の面に【画家岸田劉生は、大正三年(1914)から五年(1916)にかけて代々木に住んでいたので、このあたりを描写した作品がたくさんあります。そのうちの一点に名作「切通しの写生」(重要文化財)があり、大正四年(19159に発表しました】と書いてあります。
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下から見上げた「切通しの坂」現在は、切り通しの面影はまったくありません。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』に切通しの坂の絵が載っています。参考にして下さい。。「http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%B8%E7%94%B0%E5%8A%89%E7%94%9F」
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坂道を下りて、右側に曲がりましたら、日本刀のお店がありました。こんなところに日本刀?
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またも、日本刀のお店。
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やっと見つけた、「春の小川」案内板。
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うろうろ、きょろきょろ、していたら猫に睨まれてしまった。怪しい者ではありませんよ!いや、怪しかった。
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日本刀のお店は近くに「刀剣博物館」があるからですね。入館料500円。写真NGでは見ても詰まらない。外からだけにします。
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なんか説明が、だら・だら〜とたくさん書いてあった。
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刀剣博物館の北側の道から、東側を見た路地裏。ここの一番低いところを河骨川(こうほねがわ)が流れていました。
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このマンションの現在地下部分に、湧き水できた池があり、そこから川が流れていたそうです。遺産相続とか、何かあったのでしょう。土地は売却されマンション建設で池は埋め立てられたようです。河骨川の暗渠化はここからなのでしょうか。記念碑、説明版は一切ありませんでした。
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道路より、マンションの駐車場は一段低くなっていました。土地は両隣りより、低く。湧き水があっても不思議ではありませんでした。
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東京都建設局「渋谷川・古川流域図」より
【河骨川は宇田川へ注いで渋谷駅近辺で渋谷川(2.6Km)となり、次に名前が古川(4.4Km)となり、JR浜松駅近くで、東京湾に注いでいます。河骨川と宇田川は暗渠構造で下水道化されています】 -
電柱の看板では「すぐそこ」ですが、記念碑・説明版まったくなし。
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住民にとっては、有名な「春の小川」探索人は迷惑なのかも知れませんね。
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多分、暗渠の河骨川がこの下にあるのかも知れません。永遠に地下に潜ったままなのでしょう。
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河骨川が流れるだろうという筋道と、地図とをにらめっこして、宇田川の上流を探索しました。
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山手通りの東側で谷部分は崖となり、谷が無くなってしまいました。埋め立てられられたと思います。
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分岐点まで戻って、一段と低い場所の方へ歩いて行きました。南の方角です。
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素晴らしい勘(かん)でしょ。電柱に「春の小川 この通り」の看板がありました。「えっヘン!」
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歩けど、歩けど、この看板でした。本物はありません。
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住宅の玄関に変わった植物、なんて言う名前なのだろう。
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ゆっくり進む、しんちゃんを足早に通り過ぎる都会のお嬢さん。センスが何処と無く違う。
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江東区(こうとうく)の下町とは雰囲気がなんとなく違う路地裏。南にテクテク歩いて行きます。
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間違い無し、道は「春の小川」が存在した場所にあります。
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途中で振り返って、北側を眺めると路地の隙間に「東京オペラシティ(Tokyo Opera City)」54階建て、高さ約234mのビルが見えます。東京都23区内で7番目に高いそうです。No1は東京ミッドタウン(248m)です。
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程なく行くと、小田急線にぶつかってしまいました。道は行き止まりです。線路の北側が一番、“低地”のようですが、道はありませんでした。東側の踏み切りより、線路の南側に渡る事にしました。
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踏み切りを渡ります。小田急線の「参宮橋駅」が見えます。
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代々木公園、旧東京オリンピック村(現在、国立オリンピック記念青少年総合センター)の西側の道路にでました。案内板があるので間違い無し、しかし線路脇には道は無し、歩道を歩く事とする。
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青い線が歩いた道です。現在地は?
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線路脇に小さな道がありました。春の小川はこの辺を“サラサラ”流れていたのでしょう。
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ありました。小田急線と代々木小公園の道に挟まれた木陰に「春の小川記念碑」ピカピカに磨かれ反対側の家並みがばっちり映っています。線路側の記念碑の文は下記の通りです。【春の小川記念碑 表記の詩は大正元年に高野辰之博士がこの下を流れる宇田川の支流河骨川の岸べを散策し作詞したものです。そのことを後世に伝えるためにこの碑を建立します。昭和五十三年十二月六日 東京都渋谷区教育委員会 表面の碑詩は故博士の息女弘子書】
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道路側の記念碑です。
【春の小川は さらさら流る
岸のすみれや れんげの花に
にほひめでたく 色うつくしく
咲けよ咲けよと ささやく如く
高野辰之作詞 岡野貞一作曲
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代々木小公園を監視にきたのか、自転車で警察官が見回りでした。
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説明版からです。【代々木五丁目65番 『春の小川』歌
ここにはかつて清らかな小川が流れ、黄色
のかわいらしい“こうほね”が咲いていたので、河骨(こうほね)川と呼ばれていました。春になると、岸辺にはれんげやすみれが咲く、のどかな所でした。明治四十二年(一九〇九)から代々木山谷(現代々木三丁目三号)に住んでいた国文学者の高野辰之氏は、このあたりの風景を愛して、しばしばこのほとりを散策したといわれています。そして、今も歌い続けられている『春の小川』を作詩して、大正元年(一九一二)に発表しました。 -
この詩は、小学唱歌となり、現在に至るまで広く愛唱されています。現在、河骨川は暗渠となり、もはや当時のおもかげはありませんが、この詩から明治末ごろの付近の様子を知ることができます。ここにある歌碑は、このことを永く後世に伝えるために、地元の篤志家が建設し、渋谷区に寄贈されたものであります。渋谷区教育委員会】
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小田急線、線路わき、電車が通過して行きます。
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踏み切りの北側は勾配が高くなって行き、この辺が一番低い場所です。河骨川は宇田川に合流して、線路に沿って、小川は右側から左側に流れていたのでしょう。
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踏み切りからさらに、線路の南側に路地があり、歩きました。
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線路から外れて、路地裏を蛇行して小田急線「代々木八幡駅」へ向かいます。人の流れが駅へ向かっていると思い、後を付いて行きました。今回の春の小川探索も終盤です。住所は渋谷区富ヶ谷1-1あたりでした。
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歩き疲れて小田急線「代々木八幡駅」到着。JR代々木駅から約1時間10分歩きました。夏の日差しで汗びっしょりでした。普通電車が中々来ない。
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春の小川記念碑から代々木八幡(よよぎはちまん)駅までのコース。ここで小田急線は90度カーブします。
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小田急線、正式名称「小田急電鉄株式会社」特急ロマンスカーが通過。普通電車が中々来ない、3本通過して、新宿駅へ辿り着きました。午後の部の「浅草サンバカーニバル」に向いました。「春の小川探索記・完」
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