2009/07/17 - 2009/07/18
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ライオンベラーさん
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つい数ヶ月ほど前までは、東北地方についてはほとんど意識することはなくて、どんなところかもほとんど具体的なイメージはありませんでした。
将来的にはいつかは訪れてみたいとは思っていましたが、車や列車で訪れるとすれば時間も費用もかかるし、飛行機を使うとしても、着いてからレンタカーで周るとなると、あまりに広いのでやはり相応の時間や費用がかかってしまいます。
だからこれからの旅の順序としては、まず距離的に手ごろな中部地方や関東地方を訪れて、それと前後して飛行機とレンタカーで北海道を周ろうと思っていました。
ということで、東北地方を訪れるのはもっとずっとずっと先になるはずでした。
でも突然、高速道路は休日はどこまで走っても千円ということになりました。
それも、ここ数年(?)の間の割引だということです。
こうなれば条件は大きく変わってきます。
これはもう一番遠い東北地方から順に訪れていくのが経済的にはもっとも得策だということになります。
そこで早速、ゴールデンウイークに福島を訪れて来ました。
未体験の距離なので不安もありましたが、実際に行ってみると、思ったほどの疲労感もなくて、十分に旅を楽しむことができました。
これなら青森まででも十分に走れるという確信をもつことができたので、早速、”みちのく6県巡りの旅”を計画しました。
これまでため込んでいた休暇を使って、仕事に余裕のあるこの時期に何とかやり繰りして、1週間の休みを2回取ることができました。
急に決めたため、つい3ヶ月程前までは東北地方についてはほとんど何もわかりませんでした。
もちろん有名な都市や観光地の名前などは耳にしていましたが、それがどこにあってどんなところなのかというようなことは、まったく知りませんでした。
それまでは、東北地方はまだ藁葺(わらぶき)屋根の家が点在しているようなところのような漠然(ばくぜん)としたイメージがありました。
でも、ゴールデンウイークに福島を訪れて、それは昔のことで、今は全国どこへ行っても、同じような大型のショッピングセンターや全国チェーンの店舗が建ち並んでいるということを知りました。
もしかして、昔の東北の風情などといったものもなくなってしまっているのだろうか、実際にはどうなんだろうという気持ちで出発の日を迎えました。
さあ、今回はどんな旅になるでしょうか、とても楽しみです。
では早速、ベラーの東北地方の旅の幕を開けることにしましょう。
スルスルスル〜〜〜 (← 幕が開く音)
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 3万円 - 5万円
- 交通手段
- 自家用車 徒歩
-
7時半頃、京都の桂川PA(パーキングエリア)で休憩(きゅうけい)です。
-
福井県の尼御前(あまごぜん)SAです。
もうすぐ11時になろうとしています。
前回の旅でもここで、この看板の写真を撮りました。
(旅行記「ゴールデンウィーク高速道路千円の旅 1 会津へ」の写真を見てください。)
前回は車でこんなところまで来たのは始めてだったので、見るものすべてが新鮮で感動の連続でした。
今回は、再び前回と同じ所で同じものを見ているということに対して、感動しています。
おおお・・・、あああ・・・、という感じです。 -
新潟県の蓮台寺(れんだいじ)PAです。
時刻は1時を回っています。
もう18日の土曜日です。
今晩はここで寝ることにします。
パーキング泊を利用すれば、寝る直前まで走り続けることができるので、ホテル泊に比べて、4〜5時間分もの距離を余計に走ることがでます。
歯を磨いて、長袖のスエットに着替えて、シートを倒して、その上に小さなマットを敷いて、身体にタオルケットを掛けて、お休みなさ〜い。 -
翌朝です。
新潟ジャンクションまでやってきました。
新潟はゴールデンウイークの旅で、帰りに訪れた懐かしい街です。
今日も前回同様に、ここから磐越自動車道に入って、会津若松に向かいます。
時刻は8時23分です。 -
新潟PA(パーキングエリア)です。
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ゴールデンウイークに来たときは、ここはこのように一面の水田でした。
※ これは5月2日の写真です。
(旅行記「ゴールデンウィーク高速道路千円の旅 1 会津へ」の写真を見てください。) -
あれから2ヵ月半で、こんなにも風景が変わるのですね。
日本中がこんな色になるのは、本当にすごいことだと思います。
春、夏、秋、冬と日本の色がどんどん移り変わっていくのですね。
旅に出ないとなかなか実感できないことです。
ああ、やはり旅は最高! -
※ これは5月2日の写真です。
(旅行記「ゴールデンウィーク高速道路千円の旅 1 会津へ」の写真を見てください。) -
あれあれ雨がひどくなってきました。
-
会津若松出口です。
都市圏を通ったので、千円を越えています。
でも、割引がなければ1万円以上になります。
この違いは、気持ちの違いに直結しています。
1万円以上なら、ここでぐっと重苦しい気分になりますが、2千円程度なら、何かに当選したときのような晴れやかな気持ちで通過することができます。
この表示を見ればどうしても笑顔になってしまいます。
うっれし〜い、るんるんるん! -
大内宿(じゅく)にやってきました。
前回、時間がなくて来れなかったところです。
それにしても駐車場はすごく混雑しています。
停めるまでに十数分ほど並びました。 -
大変な観光地になってしまっています。
以前はこの村は、静かな山里だったに違いありません。
この写真の右後ろ側が駐車場です。
小雨が降っていたので傘を差して、他の人たちの後について行きました。 -
ここが大内宿です。
雨だというのにたくさんの人が来ていました。
思ったより大きな家が並んでいたので驚きました。
ほえぇ・・・! (←驚いている) -
大内宿の風景です。
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大内宿の風景です。
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このようにいろいろな物を売っています。
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本当に雨だというのに賑(にぎ)わっています。
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ここは会津の殿様が参勤交代のときに泊まる本陣だったようです。
ここは会津を出て1日目の宿となるような距離です。
東京でいえば、日本橋に対して品川のようなものでしょうか。
今はここは”大内宿町並み展示館”になっています。
早速、中に入ってみることにしましょう。 -
中はこんな感じです。
殿様はここに着いて「ああ、やれやれ」と言いながら側近と雑談しながらくつろいでいたのでしょうか。
それともとりすました様子で周りのものに接し、別室でひとりでくつろいでいたのでしょうか?
今は展示館として、昔のいろいろなものが展示してありました。 -
このようにいろいろな物が展示してありました。
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2階にも上がってみました。
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それにしても一軒一軒がとても大きな家です。
-
こちらから歩いて来ました。
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通りの突き当りにはこのようなお地蔵さんがありました。
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このようにここは写真の右から坂道を登ってきた突き当りです。
そして、このお地蔵さんの左には・・・ -
このような階段があります。
さっそく登ってみましょう。 -
ああ、店が上から見えます。
(当たり前です。) -
いい感じですが、この樹が邪魔(じゃま)です。
おそらく何十年か前に植えられた樹で、昔はここにこの樹はなくて、もっとよく見渡せたに違いありません。 -
おお、ここからはよく見渡せます。
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よく賑(にぎ)わっています。
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こんな風景がよく保存されていたものです。
-
時刻は12時を回っています。
さあ、そろそろ会津若松に戻ることにしましょう。 -
会津若松の”会津武家屋敷”にやって来ました。
大きな武家屋敷です。
江戸時代の家老の屋敷のようです。
江戸時代のように安定政権が長く続くと、安定した世襲(せしゅう)制によって、権力者に富や権力が集中して、その力はどんどん巨大化していくのでしょう。 -
農民たちは貧しかったのでしょうか?
実際には収穫が安定しているときは”長いものに巻かれろ”的に農民も権力者と共に裕福に暮らしていたのかも知れません。
しかし飢饉(ききん)などで苦しくなると、チェンジを求める機運が高まってくるはずです。
そのようなことが起こらなかったということは、東北地方には米沢の上杉鷹山(ようざん)のような名君が多かったということでしょうか?
その辺のところはよくわかりません。 -
こんな感じの屋敷です。
-
駐車場です。
ここに車を停めて、写真の左奥にある階段を登って入って来ました。
このようにとても広い屋敷です。 -
このように鎧兜(よろいかぶと)なんかも展示してあります。
もし、毎夜この鎧兜の目が光ったり、動き出したりしていると考えると・・・
怖い・・・ -
屋敷の中から庭を見たところです。
-
むむ?
御成(おな)りの間・・・?
この家老の家に藩主を迎えるときの部屋だったのでしょうか? -
ドン、ドンドンドンドンドン・・・
殿の、おな〜り〜〜い!
あ、いや、この広さであれば、あっさりと
「殿の御成りでございまする。」
と告げられた後に、歩き方や座り方などよく練習を積んだ城主が部屋に入って来て、相応の仕草で座についていたのでしょう。 -
何と、庭にはこのような茶室までありました。
-
茶室を通して庭を見ています。
昔はどんな庭だったのでしょうか?
この庭は昔の絵か何かを参考にして復元してあるのでしょうか、それともまったくの想像で造ってあるのでしょうか、その辺は定かではありませぬ。 -
白虎隊伝承(びゃっこたいでんしょう)史学館にやって来ました。
前回は時間が遅くて閉まっていました。
入ると、戊辰(ぼしん)戦争時の生々しい遺品(いひん)やら写真やらが展示してありました。
どうやらここは、未(いま)だに当時の怨恨(えんこん)のようなものが残っているような気がしました。
当時は保守的な会津軍と革新的な新政府軍の思想はまったく相容れないものだったのでしょう。 -
そのため憎悪と報復の感情が高まっていって、このような悲惨(ひさん)な結果を引き起こしてしまったのではないでしょうか。
残念ながら、この中は撮影禁止でした。
その後、前回、遅くて閉まっていた”白虎隊記念館”に行ってみました。
ここも同じように戊辰戦争関連のものが展示してありました。
そして、ここも撮影禁止でした。 -
この写真の右(南)が、前回訪れた飯盛山です。
この写真は西向きで、新政府軍がなだれ込んで来た母成峠もこの向きです。
この向こうには、自決した白虎隊員がこの飯盛山まで退却してきたときに通ったという洞穴(どうけつ)があります。
前回、すぐ近くまで来ていたのに知りませんでした。
帰宅してから知って、とても残念に思っていました。
さあ、これからその洞穴に向かいます。
少し、緊張してきました。 -
ああ、ありました。
”戸の口堰(せき)洞穴”というようです。
今から400年前に掘られた水路だと描いてあるので、戊辰戦争のときは、既にその260年前に掘られていたということになります。
水量などは今とは異なるでしょうが、長さや形はほとんど変わっていないはずです。 -
おお、これがその洞穴のようです。
長さは150mほどだと描いてあります。 -
そのことを知っている人であれば誰が見ても、ここから隊士たちが次々に出てくる様子を思い浮べるでしょう。
ここを通って来た隊士は全部で20人だったそうです。
さあ、気になっていた場所に来たので、これでもう心残りはなくなった・・・はずでした。
しかし、新たに気になることが出てきました。
この洞穴の反対側の入り口はどうなっているのだろう?
今度はそれを確かめるためにまた会津を訪れることになりそうな気がしてきました。 -
洞穴(飯盛山)のすぐ北に滝沢本陣があります。
本陣とは江戸時代の参勤交代のときに大名が泊まる宿だったところです。
会津戦争で母成峠の戦いのときは、藩主の松平容保(かたもり)は、鶴ヶ城からここに出向いて指揮をとっていたようです。
写真の向きは北向きです。
飯盛山は写真の右後ろ(南東)で、鶴ヶ城は写真の左後ろ(南西)2〜3kmです。
新政府軍が攻め込んできた母成峠は、写真の右前方(北東)40kmほどのところです。 -
滝沢本陣跡です。
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滝沢本陣跡です。
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滝沢本陣跡です。
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滝沢本陣跡です。
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滝沢本陣跡です。
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滝沢本陣跡の庭です。
時刻は4時を過ぎています。
今日の8時までに山形のホテルにチェックインしなければなりません。
果たして間に合うでしょうか? -
会津若松の中心街の街並みです。
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写真の左角(かど)の建物が、野口英世が16歳から19歳までを過ごしたという”野口英世青春館”です。
当時はここは英世が手の手術を受けた会陽医院で、この2階で書生として過ごし、医学に対する志を高めていました。
現在のお医者さんもその7割以上の人が、このような高い志を持っておられるであろうと思います。
尊敬すべきことだと思います。 -
青春館の1階はこのような喫茶店になっています。
2階は展示室です。
入館料100円を払って、写真の左にある階段から2階に上がって行きました。 -
2階です。
当時もこのテーブルが置いてあったようです。 -
部屋はこんな感じです。
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英世はこの窓から外を見下ろしながらどんなことを考えていたのでしょうか?
-
あれ、こんなものも張ってありました。
昔の千円札の肖像は、明治維新に功労のあった”伊藤博文”でした。
しかし伊藤博文は会津を敵(かたき)としていた長州の人です。
当時、会津の人たちは複雑な思いでその千円札を使っていたに違いありません。
現在の千円札が会津出身の野口博士になったのは、その辺の配慮(はいりょ)もあったのかも知れません。 -
青春館の近くの”昭和なつかし館”にやって来ました。
ここには、昔の道具や玩具など、いろいろな物が置いてありました。 -
昭和なつかし館の庭です。
時刻は5時になろうとしています。
今日の8時までに山形のホテルにチェックインしなければなりません。
果たして間に合うでしょうか? -
神指(こうざし)城跡にやってきました。
ここも前回時間がなくて来れなかったところです。
実際の神指城はこの盛り土の部分から向こう側(西)へ180m、左側へ300mほど続いていたようです。
それは鶴ヶ城の2倍ほどの広さになるようです。
鶴ヶ城はこの写真の左後ろ(北西)、4〜5kmほどのところのあります。 -
この城の築城の担当者は、今年のNHK大河ドラマ「天地人」の主人公、直江兼継でした。
天下人、豊臣秀吉が亡くなったのは1598年の9月です。
この神指城の築城が始まったのは1600年の4月です。
そして天下分け目といわれた関が原の戦いは1600年10月です。
そしてこの2年間の出来事が、ドラマ「天地人」で、これから今年の年末にかけて描かれていくことになります。 -
秀吉が亡くなる年の1598年までは、直江兼継の主君、上杉景勝は、豊臣政権の五大老の一人として、越後(新潟県)を治めていました。
しかしその年に突然、秀吉から会津に移るように命じられました。
そのとき秀吉は、自分の死期が近いことを悟(さと)っていたのかも知れません。
秀吉の頭の中には日本地図があって、○○をここに、△△をここに・・・というように、自分の死後も豊臣家が安泰(あんたい)となるように大名の配置を考えたのでしょう。
その結果景勝は会津に移り、120万石という徳川家康、毛利輝元に継いで多くの収入を得る大名となりました。 -
兼継はそのとき、景勝の家臣として米沢城主となり、そのうちの30万石を得ることになりました。
ところがその半年後に、秀吉は病没してしまいました。
その後は五大老の中で最も実力のあった徳川家康が頭角を現し、独断的な行動をとり始めました。
そこで景勝や毛利輝元などの大名や石田光成などの奉行と次第に対立するようになりました。
会社に例えれば、大名は支店長や営業所長で奉行は本社役員といったところでしょうか。
また今の政府に例えれば、大名は都道府県知事で、奉行は大臣といったところでしょうか。
しかしその中で家康に関しては10都道府県分ぐらいの石高(こくだか)があったかも知れません。
景勝は家康に対抗するために、軍備を拡充しておかなければならないと考えたのでしょう、兼継にこの神指城の建設を命じました。
鶴ヶ城を拡張するには周りの城下を取り壊す必要があったし、拡張工事の最中に攻め込まれることを危惧(きぐ)したのかも知れません。 -
しかし、天下を手中に収めようとしていた家康にとっては、当然この新城の建設を見過ごす訳にはいきません。
使者を派遣して新城建設の中止を迫りましたが、景勝や兼継は、返書で服従する意思のないことを示しました。
それを受けた家康は、大軍を率いて会津征伐(せいばつ)に向かうことになりました。
6月に大坂城を発って、8月には居城の江戸に入り、そのまま小山(栃木県)まで進軍しました。
そのため景勝と兼継は7月にこの神指城の建設を中断し、迫り来る家康軍に備える体制をとりました。 -
支城も含め、上杉方はかなりの防備を整えていたようなので、そのまま家康軍が進攻してくれば、例え大軍であっても、相応の長期戦になっていたかも知れません。
もし石田光成を中心とする西軍が、そのようなタイミングまで待ってから挙兵(きょへい)していたら、東軍は破れ、家康の天下も実現していなかったかも知れません。
しかし当時の事情は、当時の人でないとわからないということもあるでしょう。
光成は熟考の末、今しかないという、千載一遇(せんざいいちぐう)のタイミングで挙兵したと考えるのが最も自然な解釈かも知れません。 -
神指城の図です。
現在は図の右下(北東)の隅(すみ)にいます。
本当はこの後、本丸跡などを見て周りたいのですが、残念ながら今日中に山形に着かなければならないので、そのような時間はありません。
もし、もう一度会津に来ることがあれば、次回はそこら辺りを見て周りたいと思います。 -
大木(たいぼく)がありました。
有名な大木のようです。 -
見学者のためにこのような休憩所が作ってありました。
-
東向きです。
正面の山が先ほど訪れた滝沢本陣などがある飯盛山です。
ここから4〜5kmほどの距離です。
鶴ヶ城はこの写真の右外あたりでしょうか。
そこもここから4〜5kmほどの距離です。
時刻は5時20分を回りました。
今日の8時までに山形のホテルにチェックインしなければなりません。
果たして間に合うでしょうか?
(「2 山形から秋田へ」http://4travel.jp/traveler/wanyamapori/album/10368078/ に続く)
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