2009/07/02 - 2009/07/02
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三菱財閥のお屋敷 旧岩崎邸庭園
この庭園は、越後高田藩江戸屋敷から元舞鶴藩知事・牧野弼成、そして岩崎家本邸へと変遷し、往時には、1万5,000坪余りに20棟もの建物が並んでいました。
第二時世界大戦後、国有財産となり、最高裁判所司法研修所等として利用されました。平成6年(1994年)に文化庁の所管となり、平成13年(2001年)東京都の管理となりました。昭和36年(1961年)に洋館と撞球室が重要文化財に指定されました。和館大広間は洋館東脇にある柚塀とともに昭和44年(1969年)に、さらに宅地、煉瓦塀を含めた屋敷全体と実測図が平成11年(1999年)に重要文化財に指定されました。
このような経緯をもつ旧岩崎邸は、明治29年(1896年)に三菱創始者・岩崎家本邸として建てられました。現存するのは洋館・撞球室・和館の3棟です。洋館・撞球室は、英国人ジョサイア・コンドル(1852〜1920年)の設計。コンドルは、明治政府の招聘で、明治10年(1877年)、工部大学校造家学課程(現・東京大学工学部建築学課)の教授として来日し、大学で教鞭を執る傍ら、百を越える洋館を日本で建てました。旧岩崎邸は現存するコンドルの作品では最古の建物で、邸宅建築の中では傑作と言われています。
大名庭園の形式を一部踏襲している岩崎邸の庭は、本邸建築時に池を埋めて芝を張り、庭石・灯籠・築山が設けられました。建築様式同様に和洋併置式とされ、「芝庭」をもつ近代庭園の初期の形を残し、その後の日本の邸宅建築に大きな影響を与えました。 -
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スロープを上っていく途中にはお花が咲いています。
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洋館(外観)
装飾が細かい〜。で、この洋館は木造2階建て地下室付き。イギリス17世紀のジャコビアン様式を基調とし、ルネサンスやイスラム様式も折衷。建築面積は160坪。 -
入口
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いろいろな暖炉達
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洋館(1階ホールの飾り柱)
ツルを巻くような装飾が末端に施されているのがジャコビアン様式の特徴の1つだとか。
洋館(大階段)
ゴシック様式の重みを持つ。地下への階段は螺旋階段になっている(地下は非公開)。 -
和館(大広間)
ご覧のように書院造り。岩崎家娘のひな祭りや長男の結婚式など、身内に関する行事で使用したそうです。檜や杉の大木をふんだんに使用。 -
山の絵が描かれているのがかすかに見えます。
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撞球室(外観)
撞球とはビリヤードのこと。洋館の完成からしばらくして、やはりジョサイア・コンドルの設計で完成しました。洋館と対照的な雰囲気で、アメリカ木造ゴシック建築で山小屋風。ちなみに洋館とは地下通路で連絡されていました(撞球室内部も含めて非公開)。 -
洋館(外観)
後ろから見ても立派! 2階にはバルコニーが付いており、外に出ることが出来ます。ちなみに2階には水洗トイレまで設置。かつてはシャワー付きの浴室まであったとか。明治の建物ですよ、これ! -
弁天堂
当初は舟で渡った、寛文年間(1661〜73)に陸続きになった。
本尊は大腎弁才天で脇士は、毘沙門天と大黒天ともに慈覚大師作。
弁天島には不忍弁天堂のほか、碑、塚がある。 -
清水観音堂(重要文化財)
寛永八年に天台宗東叡山寛永寺の開山、慈眼大師天海大僧正によって創建されました。
天海大僧正は寛永二年に、二代将軍徳川秀忠から寄進されていた上野忍が岡に平安京と比叡山の関係に倣って「東叡山寛永寺」を開きました。
それは同時に、比叡山が京都御所の鬼門を守護、王城の鎮護を担うと伝えられるのに倣い、江戸城の鬼門の守りをも意味しました。
そして比叡山や京都の有名寺院になぞらえた堂舎を次々と建立した中の一つが
清水観音堂です。(お参りの時は手をたたかず合掌をしてお祈りします) -
大仏パゴダ 上野大仏の顔
この地にはかつてあった大仏は寛永八年に建立され、正保、天保、安政の地震火災などで損傷したがそのつど再建された。
関東大震災で大仏頭部が落ち上野寛永寺内に胴体と頭部を別々に保存していた。
しかしながら太平洋戦争中の金属供出に伴い胴体部を供出、現在残る顔部分を残しすべて失われた。
昭和四二年上野観光協会が、薬師如来を本尊とし月光菩薩と日光菩薩を安置するパコダを建立した。 -
上野東照宮
元和二年(1616年)二月駿河城に徳川家康を見舞いに赴いた、藤堂高虎、天海大僧正が危篤の家康鋼の病床で末永く鎮魂出きる場所を造って奉ってほしいとの遺言をうけ高虎の屋敷領地であった上野の山に、寛永四年(1617年)本営を造宮した。
その後三代将軍家光がこの寺院に満足出来ず慶安四年、現在の社殿(金色殿)を造形し以後江戸の象徴とした。
上野東照宮には家康、八代吉宗、十五代慶喜が奉られている。 -
平成21年1月より神社の文化財保存修理を開始しているようです。
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ボートワン博士像
上野戦争後この地は、官営病院建設予定地となったが、御雇い外国人医師であるオランダ人ポートワン博士が現地を見聞し景観の良さに公園にするよう明治政府に進言した。
像は上野公園100年記念の昭和51年に建立されたものだが、作られた平成16年に像が弟と判明し作り直され7交換され、交換された物は縁の地である長崎に送られると言う。 -
野口英世博士像
昭和22年日本医師会と北里研究所などにより記念銅像を建てる計画が 進められ
当初は、皇居前広場、日比谷公園内といくつか設置場所の候補があったが,
許可が出ず、上野公園にある国立科学博物館前の木立の中に昭和26年吉田三郎作の銅像として完成した。 -
西郷隆盛像
上野のランドマークである西郷隆盛像は、西南の役時の敗軍の将でありながら明治維新での功績が大きく名誉回復され建立された。像は平服をまとい愛犬を従えた像ではあるが、西郷の現存する写真は無く実際の人相とは異なるといわれ、弟の西郷従道と従兄弟の大山巌の顔を合わせたものともいわれている。
当初は、宮城前に立てる計画であったが賊軍の首領であるため、市民にしたしまれる上野に持ってきたとの説もある
明治31年
顔部; 高村光雲作
その他:岡崎雪声、平塚駒次郎
犬:語頭貞行 -
因州池田屋敷表門
因州池田藩は因幡の国(鳥取県)の国持ち大名で高い格式を持っていました。当時、大名の城や屋敷はその格式によって姿形が決められていたのですが、この表門は最高の格式の門構えです。今は上野公園内の東京国立博物館の敷地の脇にその堂々とした姿を見せていますが、当初は丸の内に藩邸があって、その表門として建てられました。明治以後の一時期に東宮御所の正門となり、さらに高松宮家を経て現在地に移築保存されています。 -
寛永寺旧本坊表門(輪王殿)
江戸時代、現在の上野公園には、寛永寺の堂塔伽藍が、整然と配置されていた。現在の噴水池周辺(竹の台)に、本尊薬師如来を奉安する根本中堂、その後方(現、東京国立博物館敷地内)に、本坊があり、寛永寺の場合、輪王寺宮法親王が居住していた。寛永寺本坊の規模は壮大なものであったが、慶応4年(1866)5月、上野戦争のため、ことごとく焼失し、表門のみ戦火を免れた。
これは、その焼け残った表門である。門には皇室の菊の御紋が印されている。明治11年、帝国博物館(現、東京国立博物館)が開館すると、表門として使われ、関東大震災後、現在の本館を改築するにともない、現在地に移建した。
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