2009/05 - 2009/05
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西部旅情さん
西夏碑と羅什寺塔にみるシルクロードの余韻
武威はシルクロード上の要衝でありながら、その市街地から受ける印象は、中原の地方都市の気風に似ている。河西回廊の張掖、酒泉、敦煌がオアシスの町であり、西へ行くほど西域の影響を滲ませるのに対して、武威は漢民族の街の西の「最果て」といった感じがする。けれど、この武威にも、街で時折見掛ける少数民族の人々ばかりでなく、確かにシルクロードの余韻を伝える旧跡が残されている。
旧武威城内の東南隅にある文廟は、西夏碑によって11世紀から13世紀にかけてこの地を支配した西夏の消息を伝える。西夏とは遊牧民族であるタングート族(チベット系)が建てた国で、現在の寧夏回族自治区と甘粛省の全域を支配し『大夏』と号し、中原の宋の人々は西夏と呼んだ。1038年に建国し、1227年にチンギスーハンによって滅ぼされ、そのまま歴史上から忽然と消え去った。仏教を信仰し、独自の西夏文字を用いたが、西夏碑は、この幻の西夏文字を伝える最大かつ最も完全な西夏文の碑である(ちなみに、井上靖の小説『敦煌』は、この西夏が興って河西回廊に進出し敦煌を攻め落とす――その際に莫高窟第17窟「蔵経洞」に万巻の教典が秘匿される――までを描いた小説だ)。
西夏碑は、正式には「重修護国寺感応塔碑」といい、1094年(西夏の天祐民安五年)に建てられ、涼州護国寺塔が地震によって傾いたが自然に元に復し、外敵に神通力のある塔であるということが書かれている。表に西夏文、裏に漢文で書かれ、双方を対照することができる第一級の資料となっている。
文廟そのものは孔子を祀った廟であり、1439年(明代)創建。東西135m、南北187mの敷地内に、建物が東西に2列に並んでいる。現在は市博物館を兼ねており、いくつかの建物が陳列室となっている。西夏碑のほか、高昌王世勲碑、前漢時代のミイラなど、さまざまな展示がある。本来の文廟としては、左(西)側に状元橋、大成殿、尊経閣、右(東)側に山門、文昌祠、崇聖祠がある。明代の特徴である朱と緑を使った色彩の建築群だ。状元とは科挙試験で最も成績の良い人を指し、その人だけが状元橋を渡り、大成殿へ詣でることが許されたと伝えられている。
武威はまた、五胡十六国時代の後涼のときに鳩摩羅什(344〜413年?)が17年間を過ごした地でもある。この鳩摩羅什を記念して建てられた羅什寺塔が北大街にある。現在は公安局の敷地内になっていて非公開だが、塔の姿は敷地の外からみることができる。
羅什は天竺人を父、亀茲国王の妹と母として、亀茲国(クチャ)に生まれた天才であった。彼の名は西域から漢土にも達し、前秦の苻堅は将軍呂光を西域に送ってその地を討伐と羅什を迎えることを命じた。呂光は首尾よく亀茲を占領し羅什を得る。その間に前秦は傾き、呂光は亀茲に留まろうとするが、亀茲を「凶亡の地」と断じる羅什の勧めに従って帰途につく。実は、羅什の心は、母の予言によって、幼いころから東方に仏法を伝えようと志していたのである。羅什を伴って呂光は結局、涼州に到って自立し後涼が滅ぼされると、羅什はようやく長安に入る。羅什35歳から52歳の間、武威で過ごした17年間は空白であるともいわれるが、この間に羅什が漢民族の言語を習得したことが、後に『妙法蓮華経』など教典の精神をとらえた名訳を可能にしたのだといわれている(羅什の訳した教典は日本にも多く伝えられた。「仏法を東へ」という羅什の志は果たされたのである)。
羅什寺塔は12層で高さ32M、高く跳ね上がった屋根の角には風鐸が吊るされている。唐のころに建てられたといわれ、武威では塔の下に羅什の舌を埋めたので、舌頭塔と呼ぶといい伝えられている。仏法の道でもあったシルクロードの一面を伝える塔であり、公安局の外からその姿を遠く眺めるしかないとしても、羅什を偲ぶ妨げとはならない。
参考:中国旅行専門サイト http://www.westpassion.com
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