2009/05/04 - 2009/05/04
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ライオンベラーさん
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(8 http://4travel.jp/traveler/wanyamapori/album/10342776/ の続きです。)
会津若松の鶴ヶ城にやって来ました。
ガイドブックには、入場は4時30分までと書いてありました。
4時20分が過ぎました。
でも、付近は混雑していて、車はなかなか進めません。
どうやら、NHKの大河ドラマ「天地人」のブームと重なってしまったようです。
ようやく駐車場が近づいてきましたが、帰る車が多くて、なかなか進めません。
やれやれ、やっと停めることができました。
あ・・・
4時30分を過ぎてしまいました・・・・・。
(5月4日の旅です。)
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 1万円 - 3万円
- 交通手段
- 自家用車 徒歩
-
この後、会津を周り、8時までに新潟でチェックインしなければなりません。
時刻は2時になろうとしているので、昼食を食べる時間はありません。
・・・・・。
仕方がありません・・・。
くまたぱんを食べよう・・・。
しかし、これ以上この菓子を食べると、砂糖で歯の -
表面のエナメル質が溶けてしまって、歯がぼろぼろになってしまいます。
それに、血糖値も急上昇していくことになるでしょう。
でも、わざわざここまでやって来て買った伝統的な菓子です。
それをこのまま処分してしまうことなど、到底できません。
う〜〜ん・・・。
あ、そうだ! -
表面の砂糖の部分は取り除いて、中身だけ食べてみよう!
さっそく、砂糖だけ取り除こうとしましたが、うまくいきません。
結局、中の餡(あん)の部分だけを食べることになりました。
うん、なかなかいけます。
取り除いた表面の部分は、砂糖を分離してコーヒーにでも入れることにしましょう。
ぱくぱく、もぐもぐ、ぱくぱくもぐもぐ。 -
いわきから磐越自動車道で会津に向かいます。
今回の旅でここを通るのは3度目になります。
郡山を通過しました。
磐梯熱海(ばんだいあたみ)インターで自動車道を出ました。
最初の目的地は、信濃家本舗(ほんぽ)です。
ここの大福も何かに紹介してあったので、きっと美味(うま)いのでしょう。 -
信濃家本舗にやってきました。
この真ん中に見える家がそうです。
ここも2〜3度通り過ぎて、やっと探し当てました。
ずい分昔に描かれた看板でしょう、もうほとんど読めません。
入ってみると、陳列棚(ちんれつだな)には、ほとんど何も入っていませんでした。
少し上品そうな若奥さん風の方がいて、言いました。
「大福餅は売り切れました。」 -
3時を過ぎました。
次の目的地に向かいました。
次は、今、日本で毎日、最も多くの人が、その肖像(しょうぞう)画を拝(おが)んでいる人の記念館です。
その人の名はもちろん、
”野口英世!”です。 -
ここが野口英世記念館です。
3時半になろうとしています。
やはりゴールデンウィークのため、たくさんの人が来ていて、駐車場も大混雑です。
伝記などで読んだ記憶では、東北地方の雪深い片田舎の家という印象がありました。
そこは、猪苗代(いなわしろ)湖の畔(ほとり)にありましたが、実際に来て見ると、今では幹線道路も走っていて、すっかり観光化されていました。 -
ここが英世の生家です。
-
野口英世です。
-
「清作〜〜!、清作〜〜!、清作〜〜!」
今から132年前、この場所、この家で、幼少の英世は囲炉裏(いろり)の中に落ちて、手に大火傷(やけど)を負ってしまいました。 -
生家の中です。
-
テレビです。
清作はここで、このテレビを見て育ったのでしょうか?
いや、テレビが日本で普及し始めたのは1960年台のことなので、当時はこのようなものはありませんでした。
おそらくこれは後の人が設置したものでしょう。 -
隣(となり)にある記念館です。
ここは1階で、主に英世の生い立ちに関することが展示してありました。
2階もあって、2階は主に彼の研究内容などが展示してありました。
昨年上野で見たダーウィン展を思い出しました。
(ブログ「ライオンベラー再び東京に現る!(二日目編)」を見てください。)
やはり、偉人(いじん)たちには、共通した何かがあるような気がしました。 -
最も、ダーウィンと英世とでは、船旅の規模(きぼ)や世界での知名度、人類全体に対する影響の度合いなんかも、100対1ほどの違いがあると思いますが・・・。
それでも、後に多くの人の命が救われるということから、英世の業績も、とても大きいと思います。
もし、英世が農家を継いでいたらその後も、世界中で膨大(ぼうだい)な数の人たちが、病気で倒れて亡くなっていたということになるでしょう。
やはり、英世はお札に載(の)るべき偉大(いだい)な人物だったといえるようです。 -
会津若松に向かっています。
カーナビが渋滞(じゅうたい)回避ルートを提案してきたので、それを選びました。
ということは、若松市の近辺は相当混雑しているということになります。
時刻は4時15分になるところです。
最初に向かうのは、鶴ケ城(つるがじょう)です。
でも、ガイドブックには、入場は4時30分までと書いてあります。 -
若松市街に入りました。
昔の風情がある街かと思っていたら、道路なんかも整備されていて、現代風の街でした。
それにしても、混雑しています。
どうやらここは、NHKの大河ドラマ「天地人」の舞台になっているようです。
ようやく城内に入りました。
出てくる車が多くて、なかなか進めません。
あ、4時30分を過ぎてしまいました・・・。 -
あああ、残念です!
やはり「天地人」の影響でしょうか、駐車場にはまだ、たくさんの車が停まっていて、ほとんど満車状態でした。
あれ?
入場時間を過ぎても、車を誘導しています。
もしかして・・・
その駐車場に車を停めて、天守閣(かく)に向かって、歩いて行きました。
すると、備え付けのスピーカーからアナウンスが流れていました。
「本日は、特別に入場時間を延期しています。〜〜〜。」
えええ?
これはラッキー!
天守閣に登れそうです。 -
この鶴ヶ城は、1965年に建てられました。
44年前のことなので、ほぼ半世紀近くもここにこうして建っていることになります。
その間、多くの人たちがここを訪れ、この城を眺めながら、昔の光に思いを馳(は)せて来ました。
それ以前の約90年間は、ここは単なる城跡で、まだこの復元天守閣はありませんでした。(別の物が建っていたかもしれません)
1868年の戊辰(ぼしん)戦争で、会津藩がここで新政府軍に破れ、そのとき傷ついたついた昔の天守閣は、すぐに(6年後に)取り壊されてしまいました。 -
江戸時代は、早くから徳川に縁のある大名(三代将軍家光の弟)がここに入り、以後2百数十年間、その体制が続いてきました。
そのため、幕末の動乱期には、藩主の松平容保(かたもり)が、京都守護職に任命され、この会津藩の武士たちが、京都の治安を守ることになりました。
そして、その組織の末端(まったん)に新撰(しんせん)組をかかえ、京都の警備にあたらせていました。
そのような経緯(けいい)で、後に政権を奪取(だっしゅ)する長州藩と、旧体制の治安維持(いじ)を担当させられた会津藩との間に確執(かくしつ)が起こり、1868年の会津戦争(戊辰戦争)へとつながっていきました。 -
もうすぐ5時になろうとしているのに、たくさんの人たちがいました。
観光者のようです。
ゴールデンウィークだからでしょうか、それとも「天地人」の影響でしょうか、その辺のところはよくわかりません。 -
それにしても混雑しています。
-
ああ、やはりここは天地人の舞台の一つのようです。
この時点でも、「天地人」は本当に「てんちじん」と読んでも間違っていないのかどうか、自信がありませんでした。
てんちじん? てんちびと? あまじびと? あまちじん? ・・・ いや、それとも「あめじびと」かも知れない・・・。
自信がないので、決して係の人には尋(たず)ねないでおこうと思いました。
「今日は、”あまじびと”の影響で、こんなに混んでいるのですか?」・・・・と。 -
「天地人」はNHKの大河ドラマで、上杉謙信の後を継いだ上杉景勝の家臣を主人公とするドラマのようだということぐらいは知っていました。
実際にその通りで、その家臣の名を直江兼継(なおえかねつぐ)といいました。
そのことについては、NHKの「その時歴史が動いた」で見ていましたが、その詳細は覚えていません。
今、これだけの人が来ているということから、ドラマの中でここもかなり重要な舞台になっているようです。 -
天守閣の最上階にやって来ました。
途中の展示物は撮影禁止ということだったので、ここから撮り始めました。 -
こちらは南向きです。
幕末の会津戦争のとき(1868年)は、北方、西方、東方は、会津藩に同調した奥州越列藩同盟に囲まれていたので、当面は、新政府軍はこの南側からやってくることになると思われていたはずです。
事実、その年の6月頃に、新政府軍はこの方向から攻めて来て、日光街道の今市(栃木県日光市)で、激しい戦闘(せんとう)が繰り広げられました。(日光口の戦い)
今市はここからこの向きに70〜80kmぐらいのところです。
そのとき、ここにいた会津藩の人たちは、どんな気持ちだったのでしょうか。
攻め来る新政府軍に対して、ここで最後まで戦い抜いて、死ぬことを覚悟していたのでしょうか。
それともこの戦いに勝利して、その後の講和によって平和になることを願っていたのでしょうか。
あるいはここで勝ち抜いて、奥州越列藩同盟の”日本国東西二分構想”を実現させることを、本気で考えていたのでしょうか。 -
東南向きです。
同じ頃、この山を越えた、ここから50kmぐらいのところ(現在の白河市)でも、白河城をめぐって、激しい戦いが繰り広げられていました。(白河口の戦い)
その白河市があるところは、中通りといって、現在では東北自動車道や新幹線が通っている幹線地域です。
南から北に向かって、白河市、須賀川市(くまたぱんを買ったところ)、郡山市(2泊したところ)、二本松市(東北サファリパークがあるところ)、福島市などが並んでいます。
その中通りはこの写真では、前方(南東)から左後方(北東)で、猪苗代湖の向こう側になります。 -
東向きです。
新政府軍は中通りをじりじりと北上し続け、白河口の戦いが始まってから3ヵ月後の9月には、この向き正面のやや左、40〜50km先にある、二本松城を攻略しました。
新政府軍の中では、そのまま北上して、米沢か仙台を攻めるという意見もあったようですが、結局、ここ会津を攻めることに決まりました。
会津軍としては、南方の日光方面から、この東方の二本松方面までを守らなければならないという状況に追い込まれました。 -
北東向きです。
中央部のはるか向こうに薄(うっす)らと磐梯(ばんだい)山が見えているようです。
とすれば、その手前の山が、白虎隊(びゃっこたい)が戦死した飯盛山ということになります。
会津藩は、新政府軍は幹線街道(国道49号線)から攻めてくるだろうと思って、その中山峠(この写真の少し右外あたり)に大軍を配置していました。
しかし予想に反して新政府軍は、その少し北にある小さな街道の母成(ぼなり)峠(写真の磐梯山の右)から攻めて来ました。 -
10月に入ってからすぐのことです。
新政府軍2000人は、会津軍700人で守る母成峠を突破して、そのままこの会津城になだれ込んできました。
包囲(ほうい)した新政府軍と守る会津軍との間で、この城をめぐって、ここで約1月ほどの激しい戦闘が繰り広げられました。
そのとき新政府軍は、この写真(東向き)の右手前に半分見えている山の上に砲台を築いて、連日、そこから激しい砲火を浴びせてきたといいます。
その間に奥州越列藩同盟の諸藩も、相次いで降伏し、11月に入ると、ついに会津藩も力尽き、降伏しました。
この戦いで、会津兵の死者は約3千人ほどにも上ったといいます。
そのとき、傷つき荒れ果ててしまった会津城は、6年後の1874年(明治7年)に、取り壊されてしまいました。 -
さて、それより270年ほど遡(さかのぼ)った1598年のことです。
この城に大勢の家臣と共に、ある人物が入場して来ました。
その人物とは、「天地人」の中心人物のひとり、上杉景勝です。
景勝は1555年に現在の新潟県南部の上田庄(南魚沼市)で生まれました。
景勝の母は、上杉謙信の実の姉で、政略的にその地(上田庄)に嫁(とつ)いで来ていました。 -
謙信は、そのとき25歳でした。
景勝が5歳のときに、天地人の主人公の直江兼継が、同じく上田庄で生まれました。(1560年)
上杉謙信と武田信玄の第四次川中島の戦いはその翌年の1561年(謙信31歳のとき)に起こりました。
景勝は1564年に9歳で謙信の養子となり、その頃に、現在の上越市の春日山城に入りました。
しかし、春日山城に入ったのは1575年という資料もあって、それが正しいとすれば、20歳の時ということになります。 -
1578年、景勝23歳、兼継18歳の時に、謙信が病没(びょうぼつ)し、その後の後継者争いなどを経て、1587年に、景勝と兼継は、越後(新潟県)を平定しました。
それは謙信の死去から9年後、景勝が32歳、兼継が27歳の時のことでした。
景勝は1597年には豊臣五大老の一人となりました。
五大老は景勝の他には、徳川家康、前田利家、毛利輝元、宇喜多忠家がいました。(小早川隆景死去後)
(旅行記「岡山の旅 備中高松城跡」を見てください。) -
そしてその翌年の1598年、景勝は豊臣秀吉の命によって、越後からこの会津に移ることになりました。
景勝43歳、兼継38歳のときのことでした。
そのときの120万石という石高(こくだか)は、当時の大名としては、徳川家康、毛利輝元に継いで第三位でした。
家臣(家老)の兼継は、そのときそのうちの30万石をもらって、米沢城主として、米沢に入りました。
もうすぐ5時半になります。
さあ、そろそろここを降りることにしましょう。 -
ぐるぐる、ぐるぐる、・・・
ぐるぐる、ぐるぐる、・・・ -
ここでは、戦国時代の衣装を着て、記念写真が撮れるようです。
きっと、志村けんさんが演じる殿様のような気分になれるに違いありません。
さっそく、撮ってみたいのですが、大勢の人が並んでいます。
この人たちも皆、私と同じように志村けんさんの番組を見ている人たちなのでしょう。
私はこの後、新潟まで行かなければなりません。
そのため、ここで時間をかけるわけには行きません。
残念ながら、衣装を着るのはあきらめまた。 -
階段のところに、天地人のポスターがありました。
主人公を演じる俳優です。
昨日米沢で、インタビューに答えていたのはこの人だったのでしょう。
残念ながら、そのときは遠くて声しか聞こえませんでした。
1598年、上杉景勝が会津に入ったとき、この直江兼継が米沢に入りました。
そして、1601年に景勝が米沢に移ってくるまでの3年間、米沢の町を治めていました。
だから米沢に、この俳優さんが来ていたのでしょう。
いろいろ調べてみてようやく、ああ、なるほどと納得(なっとく)しました。 -
記念品売り場です。
このように、とても混雑していました。 -
外に出てきました。
北西向きです。
上杉景勝がここ会津に入ったのは1598年3月、43歳のときのことでした。
当時はこの城の天守閣は七層だったようです。
(1639年に五層に改装されました。) -
西向きです。
その年の8月、天下人(てんかびと)豊臣秀吉が死去しました。
それ以後は、徳川家康が台頭(たいとう)し、他の有力大名や奉行(ぶぎょう)たちと、次第に対立するようになってきました。 -
1600年2月、景勝は家康との合戦を予測して、この会津に、鶴ヶ城の2倍ほどの規模(きぼ)の第2の城の建設を始めました。
この城の名を神指城(こうざしじょう)いい、その場所は、ここからこの向き(北西)に、4kmほどのところになります。
今でもその城の堀やら石垣の跡(あと)が、発掘されて残っているようですが、残念ながら今回は時間がないので、そこを訪れることはできません。
当然のことながら、神指城の建設は権力者家康の反感を買い、同年6月、家康は上杉討伐(とうばつ)のため大坂城を出ました。
景勝は差し迫る戦いに備えなければならなくなり、神指城の建設は、開始後4ヶ月で中止せざるを得なくなりました。 -
家康は、石田三成を奉行職から解任した後、9ヶ月ほどの間ずっと、大坂城で、天下の政務をとっていました。
しかしこの時期に景勝の家老、直江兼継が、その意向に逆らったため、景勝を征伐(せいばつ)しなければならなくなりました。
家康は6月16日に大坂城を出ました。
そして東海道をゆっくりと進軍し、7月2日にようやく江戸に到着しました。
江戸から家康軍の本隊が会津に向かったのは、7月19日のことでした。
家康自身が会津に向かったのは、その2日後の21日です。
上杉軍は、白河で、この10万人もの家康の大軍を迎え撃とうとしていました。
白河とは、戊辰戦争で白河口の戦いがあったところです。
また、伊達政宗や、最上義光なども北方から上杉の会津領内へ攻め込もうとしていました。 -
そのとき、ここにいた景勝の家臣たちの気持ちは、どうだったのでしょうか。
攻め来る徳川軍に対して、ここで最後まで戦い抜いて、死ぬことを覚悟していたのでしょうか。
それともこの戦いに勝利して、その後の講和によって、家康の政権下で、よりよい待遇が得られることを願っていたのでしょうか。
あるいはここで勝ち抜いて、石田三成や毛利輝元らとともに、豊臣秀頼を中心とした安定した天下を実現させたいと考えていたのでしょうか。
7月24日、家康軍は下野国小山(しもつけのくにおやま)に入りました。
小山は、会津からはまだ、100km以上も離れています。
しかし、そこからここまでの道中の領地はすべて、家康の支配下にありました。
家康の本隊がこの会津に迫るのは時間の問題でした。 -
当時の鶴ヶ城の天守閣は七層でした。
現在のように五層になったのは、江戸時代初期の1639年のことでした。
今日の鶴ヶ城は、写真のようなきれいな八重桜が咲いていました。
時刻は、6時になろうとしていました。
今度は、会津戦争のときに白虎(びゃっこ)隊が自決したという飯盛山に行ってみることにしました。 -
飯盛山です。
時刻は6時15分を回っています。
この左後ろにある駐車場は無料でした。
さっそく山の方へ行ってみました。
-
ここから登っていくようです。
-
このようなエスカレーターもありました。
もう、遅いので扉(とびら)が閉まっていました。
左は白虎隊記念館です。 -
左は白虎隊記念館です。
残念ながら閉まっていました。 -
階段を登って来て、会津若松市街を振り返りました。
鶴ヶ城はこの写真の左外です。 -
ここに、会津戦争で亡くなった人たちの慰霊碑(いれいひ)がいくつかありました。
正面が、白虎隊の慰霊碑です。
白虎(びゃっこ)とは、中国から伝わった四神獣の一つで、西側を守る白い虎(とら)のことです。
その他の四神獣としては、北を守る、亀に似た玄武(玄武)、東を守る青い龍の青龍(せいりゅう)、南を守る赤い鳥、朱雀(すざく)があります。
会津戦争当時の会津兵は、年齢別にこの四つの名をつけた部隊に分けて、編成されました。 -
白虎隊はそのうちの、15〜17歳の兵で編成された部隊で、340名ほどだったようです。
そのうちの20名ほどが、この飯盛山で自決しました。
この写真は、先ほどの慰霊碑があった広場から、東向きに階段を降りて来たところです。
ここが、彼らの自刃(じじん)の地です。
テレビドラマなどで、自決する場面がよく出てきますが、それが実際に起こったのが、この場所です。 -
そこから見た若松市街です。
南東の向きなので、この写真の真ん中2〜3km先に、鶴ヶ城の天守閣が見えます。
ここで、自決した白虎隊士たちも、ここからこの風景を見ていました。
そして、そのとき街から立ち昇る煙が、鶴ヶ城からのものだと勘(かん)違いして、落胆(らくたん)し、自決を決行しました。
今から140年ほど前のことです。 -
暗くなってきたので、鶴ヶ城がどこにあるか、よくわかりません。
時刻は6時半を回りました。
これから、またこの山を下りて今夜の宿、新潟に向かうことにしましょう。 -
磐越自動車道を新潟に向かっています。
ここで初めて、渋滞(じゅうたい)に巻き込まれました。
すごい長さで続いています。
チェックイン予定の8時を過ぎてしまいました。
ホテルには、遅れるという旨(むね)の電話を入れました。 -
9時を過ぎて、ようやく宿に着きました。
荷物を置いて食事に出ました。
何か変わったものを食べてみたいと思いましたが、結局、チェーン店に入ってしまいました。
そして、ありふれた丼(どんぶり)を注文しました。
ん?
あ、ご飯が・・・
美味い・・・
おおおおお、美味い!
ああ、流石(さすが)に米どころ、新潟です。
とても感激しました。
(10 新潟観光 http://4travel.jp/traveler/wanyamapori/album/10346110/ に続く。)
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