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この日は北茨城〜棚倉の方を巡ることにしての旅。<br /><br />まずは常磐道を北茨城ICで降りて6号を使い五浦方面へ。<br />最初の目的は岡倉天心ゆかりの地です。岡倉天心のお墓のすぐ向かいに美術研究所があります。<br /><br /><br /><br />岡倉天心は日本美術の保護に邁進した人物として有名です。<br /><br />そして現在の日本美術、特に仏像に関しては岡倉天心がいなければ現存する仏像たちはすべてなくなってしまったのかもしれません。<br />今、たくさんの仏様を拝観することができるのは天心のおかげともいえます。<br /><br />明治政府は神道を重視する政策のために、仏教を遠ざけようとしていました。<br />近代化・欧米化が一気に進む時代、西洋の文化にかぶれて自国の文化が見えなくなっている人間ばかりでした。<br />明治元年、神仏分離令の公布から廃仏毀釈の流れが起こります。<br />このため多くの寺や仏像は破壊されます。<br /><br />数年で収束したといわれる廃仏毀釈運動も、勤王派の地域では徹底的に仏教排斥が行われ、今でも鹿児島県では仏像の国重文は存在していません。<br />そのほかにも九州地方など日本で南のほうに古くからの仏像などが少ないのは、明治政府が九州のほうの人間が中心となっていたからだといわれます。<br /><br /><br />岡倉天心は大学卒業後、文部省に入省します。<br />美術行政を担当する役人でした。<br /><br />寺は破壊され、仏像は売りに出される時代。<br />中には薪として燃やされる物もありました。<br /><br />例えば、奈良の興福寺。<br />興福寺の五重塔は当時のお金で5両で売りに出されます。<br />今でいうと2万円ほど。<br />それしか価値がないとされた時代だったのです。<br />今では国宝として、ミュージアムに安置される仏像たちも扱いはひどく、寺の倉庫の片隅でガラクタ扱い。<br />阿修羅像も腕がもげた状態だったそうです。<br /><br />明治政府はこの極端な事態に慌てて明治四年(1871)に「古器旧仏保存方」を発令。<br /><br />明治二十一年(1888)に宮内省に「臨時全国国宝取調局」が設置、フェノロサと天心が調査任務に就きます。<br /><br />フェノロサ(アーネスト・フェノロサ)は明治政府が欧米文化を招致するために呼び寄せた人物ですが、フェノロサは日本の美術に触れ関心を持ちます。<br /><br />フェノロサが日本美術の調査として参加するとともに、その通訳兼助手としてともに行動したのが天心でした。<br /><br />だれも仏像のことなど気にしなくなってしまった時代、調査をしていた天心のメモには「破滅、見るに堪えない」「およそ7寸焼けている」等と怒りに近い文調で書きなぐられています。<br /><br />天心は、文化財の保護を当時の文部大臣に直訴。<br />明治三十年(1897)、古社寺保存法が公布される事になります。<br /><br /><br />明治二十年(1887)には東京美術学校創立に天心も参加。<br />これが現在の東京藝術大学になります。<br />一期生には横山大観等もいました。<br /><br />天心は二代目の校長となり、時代に逆行するかのように西洋美術よりも日本美術・日本工芸を推進しました。<br />天心は、学校へ通勤するのに奈良時代の官僚の格好をして馬に乗りやってきたといいます。<br /><br />西洋美術を徹底して排除した天心は、周りの反感を買いこれが美術学校騒動となって職務追放となります。<br />3ヵ月後の明治三十一年(1898)、日本美術院創立。<br />しかし天心が理想とする文化環境は世間と軋轢を生み、日本美術院の運営は行き詰ることとなります。<br /><br />明治三十八年(1905)、茨城の五浦(いづら)に六角堂建設。<br />翌年、衰退した日本美術院を五浦へ移転。<br />天心は横山大観らを呼び寄せて、日本画の製作を始めます。<br /><br />天心は、続いて奈良の東大寺勧学院に日本美術院第二部を作ります。<br />仏像など文化財を修復する専門の場所です。<br /><br />それまでの修復といえば、壊れた部分は元から切り捨てて、新しものを接合する方法がほとんどでした。<br /><br />それに対して天心は現状維持を重視し、足りない部分を補っていく修復方法をとりました。<br />そして近畿地方の仏像たちは多くがここで修復されることになります。<br /><br />新薬師寺・十二神将立像<br />興福寺・千手観音菩薩立像や阿修羅像。<br />などなど、およそ2700体。<br /><br />大正二年(1913)、岡倉天心は亡くなります。<br />天心は自国の文化・歴史を学ばない者・知らない者は必ず滅びるといったそうです。<br />そして次の時代へ、前に進めといったのだそうです。

五浦の六角堂から棚倉城址へ。

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2007/04/14 - 2007/04/14

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フロッガー

フロッガーさん

この日は北茨城〜棚倉の方を巡ることにしての旅。

まずは常磐道を北茨城ICで降りて6号を使い五浦方面へ。
最初の目的は岡倉天心ゆかりの地です。岡倉天心のお墓のすぐ向かいに美術研究所があります。



岡倉天心は日本美術の保護に邁進した人物として有名です。

そして現在の日本美術、特に仏像に関しては岡倉天心がいなければ現存する仏像たちはすべてなくなってしまったのかもしれません。
今、たくさんの仏様を拝観することができるのは天心のおかげともいえます。

明治政府は神道を重視する政策のために、仏教を遠ざけようとしていました。
近代化・欧米化が一気に進む時代、西洋の文化にかぶれて自国の文化が見えなくなっている人間ばかりでした。
明治元年、神仏分離令の公布から廃仏毀釈の流れが起こります。
このため多くの寺や仏像は破壊されます。

数年で収束したといわれる廃仏毀釈運動も、勤王派の地域では徹底的に仏教排斥が行われ、今でも鹿児島県では仏像の国重文は存在していません。
そのほかにも九州地方など日本で南のほうに古くからの仏像などが少ないのは、明治政府が九州のほうの人間が中心となっていたからだといわれます。


岡倉天心は大学卒業後、文部省に入省します。
美術行政を担当する役人でした。

寺は破壊され、仏像は売りに出される時代。
中には薪として燃やされる物もありました。

例えば、奈良の興福寺。
興福寺の五重塔は当時のお金で5両で売りに出されます。
今でいうと2万円ほど。
それしか価値がないとされた時代だったのです。
今では国宝として、ミュージアムに安置される仏像たちも扱いはひどく、寺の倉庫の片隅でガラクタ扱い。
阿修羅像も腕がもげた状態だったそうです。

明治政府はこの極端な事態に慌てて明治四年(1871)に「古器旧仏保存方」を発令。

明治二十一年(1888)に宮内省に「臨時全国国宝取調局」が設置、フェノロサと天心が調査任務に就きます。

フェノロサ(アーネスト・フェノロサ)は明治政府が欧米文化を招致するために呼び寄せた人物ですが、フェノロサは日本の美術に触れ関心を持ちます。

フェノロサが日本美術の調査として参加するとともに、その通訳兼助手としてともに行動したのが天心でした。

だれも仏像のことなど気にしなくなってしまった時代、調査をしていた天心のメモには「破滅、見るに堪えない」「およそ7寸焼けている」等と怒りに近い文調で書きなぐられています。

天心は、文化財の保護を当時の文部大臣に直訴。
明治三十年(1897)、古社寺保存法が公布される事になります。


明治二十年(1887)には東京美術学校創立に天心も参加。
これが現在の東京藝術大学になります。
一期生には横山大観等もいました。

天心は二代目の校長となり、時代に逆行するかのように西洋美術よりも日本美術・日本工芸を推進しました。
天心は、学校へ通勤するのに奈良時代の官僚の格好をして馬に乗りやってきたといいます。

西洋美術を徹底して排除した天心は、周りの反感を買いこれが美術学校騒動となって職務追放となります。
3ヵ月後の明治三十一年(1898)、日本美術院創立。
しかし天心が理想とする文化環境は世間と軋轢を生み、日本美術院の運営は行き詰ることとなります。

明治三十八年(1905)、茨城の五浦(いづら)に六角堂建設。
翌年、衰退した日本美術院を五浦へ移転。
天心は横山大観らを呼び寄せて、日本画の製作を始めます。

天心は、続いて奈良の東大寺勧学院に日本美術院第二部を作ります。
仏像など文化財を修復する専門の場所です。

それまでの修復といえば、壊れた部分は元から切り捨てて、新しものを接合する方法がほとんどでした。

それに対して天心は現状維持を重視し、足りない部分を補っていく修復方法をとりました。
そして近畿地方の仏像たちは多くがここで修復されることになります。

新薬師寺・十二神将立像
興福寺・千手観音菩薩立像や阿修羅像。
などなど、およそ2700体。

大正二年(1913)、岡倉天心は亡くなります。
天心は自国の文化・歴史を学ばない者・知らない者は必ず滅びるといったそうです。
そして次の時代へ、前に進めといったのだそうです。

交通手段
自家用車

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  • 岡倉天心記念公園入り口。<br /><br />岡倉天心旧居跡と日本美術院跡になります。<br /><br /><br />

    岡倉天心記念公園入り口。

    岡倉天心旧居跡と日本美術院跡になります。


  • 中は庭園のようになっています。そして、天心の邸宅と六角堂があり<br />ます。

    中は庭園のようになっています。そして、天心の邸宅と六角堂があり
    ます。

  • 天心の愛した五浦の六角堂は、平成23年(2011)3月11日の大震災・津波によって流されてしまいました。

    天心の愛した五浦の六角堂は、平成23年(2011)3月11日の大震災・津波によって流されてしまいました。

  • 見学終了。。。来る途中にあったレストラン「マルサーラ」へ。

    見学終了。。。来る途中にあったレストラン「マルサーラ」へ。

  • 店内はこんな感じ。

    店内はこんな感じ。

  • 単品でカニクリームコロッケを注文し、メインはフライの盛り合わせセット。盛り合わせは海老フライ2本に白身2種類。とにかく美味しい。ストレートど真ん中(爆)。

    単品でカニクリームコロッケを注文し、メインはフライの盛り合わせセット。盛り合わせは海老フライ2本に白身2種類。とにかく美味しい。ストレートど真ん中(爆)。

  • 待ちきれずにカニクリームコロッケ食べあらし中( ̄ー ̄; <br /><br />満足満足。

    待ちきれずにカニクリームコロッケ食べあらし中( ̄ー ̄;

    満足満足。

  • そして、白河方面に向かいます。途中の山の中は土砂降りの雨でした。山を越して棚倉方面に着いた頃には晴れていました。で、桜の木が多いとの棚倉城址へ。知らなかったのですが、今週土日は商工会議所のお祭りのようで。。。たくさんの町内の方がいました。

    そして、白河方面に向かいます。途中の山の中は土砂降りの雨でした。山を越して棚倉方面に着いた頃には晴れていました。で、桜の木が多いとの棚倉城址へ。知らなかったのですが、今週土日は商工会議所のお祭りのようで。。。たくさんの町内の方がいました。

  • 人が集まっていてにぎやか。

    人が集まっていてにぎやか。

  • 堀跡には池のようになっていてかなり大きな城の様子。外堀には桜が植えられています。また、内側土塁の上にも桜が植えられています。<br /><br />そんなこんなで、次の場所へ向かいます。

    堀跡には池のようになっていてかなり大きな城の様子。外堀には桜が植えられています。また、内側土塁の上にも桜が植えられています。

    そんなこんなで、次の場所へ向かいます。

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