2009/04/24 - 2009/04/24
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ムッシュさん
いよいよ望月を発ち蓼科、白樺湖方面に向って進んでます。
芦田宿 第二十六宿(日本橋より191km)
慶長初期に開設された宿場で規模はそれほど大きくなかった。現在は立科町の中心部になっていて、本陣跡など古い建物が所々に残り、脇道も情緒が感じられる。
長久保宿 第二十七宿(日本橋より197km)
中山道と大門街道の分岐点。宿場としての規模はそれほど大きくはなかったようだ。今も残る本陣跡は非公開。現存する中山道の本陣のうちで最古の建物。立派な庭園と、大名の泊まった御殿の間がそのまま残っている。
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【茂田井間の宿】です
「望月宿を抜けると中山道は茂田井宿に至っている。茂田井は、東の望月宿と西の芦田宿の間にある日村で、現在は間の宿とも呼ばれている。ここは茂田井への入口で、坂を下りはじめると、江戸時代の面影の残る民家や造り酒屋が軒を連ねている。
寛保二年の大洪水で望月新町が道ごと流されたり、本町も大きな被害を受けたため、茂田井村を望月宿の加宿にしようと江戸幕府に願い出たが却下された経緯がある。
元冶元年十一月十九日、天狗党水戸浪人の中山道通過に際しては、茂田井村が小諸藩兵四〇〇人程の宿にとなっている。
また、文久元年十一月七日には、徳川十四代将軍家茂に、公武合体の犠牲となって降嫁される孝徳天皇の妹和宮の大行列が茂田井を通過するなど大きなできごとがあった。
一里塚は、瓜生坂頂上付近に続き、立科町茂田井の石原坂を上りきった左右に位置しているが、現在は痕跡がみられるだけである。 -
明治元年創業の【武重本家酒造】
旧家で大きく立派な造りです。
この地は良質な米と清冽な水に恵まれ信州の酒処といわれました。
間の宿・茂田井は望月宿と次の芦田宿の中間にある
下り坂に沿って江戸時代の面影の残る民家や造り酒屋が軒を並べている
造り酒屋は2軒もある。一つは銘酒「御園竹」で知られる武重本家酒造
もう一つは善光寺秘蔵酒で知られた大沢酒造である。 -
明治元年(1868年)第12代当主武重徳右衛門が酒造業を創業。江戸時代後期の住宅、酒造施設等が国有形登録文化財に指定されています、銘酒御園武(みそのたけ)、銘酒牧水(ぼくすい)の蔵元です。
武重本家酒造の向いに、酒をこよなく愛した漂白の詩人若山牧水の歌碑があります、三首刻まれています。 -
【若山牧水歌碑】
旅と酒を愛した牧水が通った里という。
「人の世にたのしみ多し然れども
酒なしにしてなにのたのしみ」
「しらたまの歯にしみとほる秋の夜の
酒はしづかに飲むべかりけり」
「よき酒とひとのいふなり御園竹
われもけふ飲みつよしと思へり」 -
酒蔵を改装した酒造りや街道文化の資料を展示する民族資料館と、しなの山林美術館の入口。
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用水のせせらぎが耳に心地よい茂田井間の宿
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上り坂の途中から、先ほど過ぎた武重本家酒造の大屋敷を見下ろしています。
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美しい茂田井宿の町並み。ずっと上り坂道です。
右手に造り酒屋の蔦屋があります、元禄2年(1689年)創業の大澤酒造で、銘酒大吉野(おおよしの)の蔵元です、茂田井村下組村の名主庄屋を(1689)創業,300年を超す家敷3000坪の老舗蔵元である。酒蔵(酒蔵)は元禄年間(1688ー1689)創業,300年を超す家敷3000坪の老舗蔵元である。酒蔵(酒蔵)は元禄年間1688の建築とのことである -
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馬頭観世音文字塔
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【茂田井間の宿 一里塚跡】
一里塚は、信長の時代に設けられ、徳川家康・秀忠が引きついで慶長九年(1604)に完成した。(慶長見聞録)
中国で路の側に一里ごとに土を盛り、その崩れ去るのを防いでエンジュの木を植え旅人に木陰をあたえたという例にならって榎が植えられたと云われています。
また三大将軍家光が「一里塚には「余の木」を植えよ、」と言ったことから老臣が榎と聞きちがえて国中の塚に植えたという(現代教養文庫中山道より)が、ともあれこの頃一里を三十六町と決定され、五畿七道残るところなく一里塚が築かれたとされている。
天保年間の、茂田井村差出帳には、当時この両側に土塚があり、榎の根元が残っていたとある。 -
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笠取峠まで4.4km、塩名田まで10.9kmの標示。
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下り坂の途中で右手方向(北)の景色が良いです。
遠くに見えるは浅間山なり。 -
中居の交差点に立つ【常夜灯】
芦田宿は慶長2年(1597年)と早くに設置され、笠取峠を控え賑わったが、
「芦田の駅わびしき所也、宿あしし、ふ用心也」と評判は良くありませんでした。
天保14年(1843年)の頃、芦田宿の宿内家数は80軒、うち本陣1、脇本陣1、旅籠6軒、宿内人口は326人で宿並は六町二十二間(約694m)と小宿でした。 -
【芦田宿本陣】
この門をくぐると次の写真のような庭に入ります。
寛政12年(1800年)に再建された御殿は長野県宝です、宿札等の遺構を多数残しています、土屋家は武田信玄二十四将の上席土屋右衛門の末裔で芦田宿の開設に尽力し名主と問屋を兼ねました、門の左手には高札場がありました。
【旧芦田宿本陣土屋家住宅】
土屋家は、慶長初期に中山道芦田宿が設置されたとき、その開発に従事するとともに、本陣をおおせつかり明治に至るまで、代々勤めた。
江戸時代後期における土屋家は、客殿、主屋、問屋場、荷蔵、酒造蔵、長屋等多くの建物によって構成されていた。
現在も、当時の面影を良く残している客殿が本指定物件で、これは中山道芦田宿本陣の客室部として、寛政12年(1800)に改築され明治維新まで大名、公家などの宿泊や休息に使われた。
客殿は、間口5間(約9m)奥行11間(約20m)の切妻造り、妻入り、桟瓦葺で屋根の前後に鯱をかかげている。
玄関は、唐破風とともに懸魚(けぎょ)、蟇股(かえるまた)、頭貫(かしらぬき)、肘木(ひじき)などで構築され江戸後期の様式を良く表している。
内部上段の間は、床の間、違棚、欄間の透彫、組子細工等室内の意匠にも意を用いた書院造りであり京風の造作となっている。
建物全体の規模が大きく、上段の間、広間、小姓部屋、湯殿、雪隠などがあり、客室部としての原型がほぼ完全に残され、江戸時代後期の建築物としては数少ない一つであり大切に保存されている。
皇女和宮は土屋本陣にて昼食を摂りました。
本陣の向いに山浦脇本陣跡があります。 -
芦田宿本陣
庭に当時の本陣を残し、現在の住居もある立派なお屋敷です。 -
味噌、醤油を扱う【酢屋茂】
右手に酢屋茂(すやも)があります、明治26年(1893年)の創業です、元は酢の老舗でしたが、今は味噌醤油の醸造元です。 -
笠取峠並木道の入口と常夜灯
ここは、中北道標「←塩名田13.1km 松並木を経て笠取峠2.2km→」という地点です。 -
双体道祖神
かわいい、いい感じ! -
これより笠取峠の松並木に入ります。
約1km赤松が続きます。 -
【笠取峠松並木】
江戸時代初期、小諸藩により753本の赤松が植えられた。現在本数は減ったが約1キロの並木道が残り、かつての街道を偲ばせる。
「この峠道は、近世五街道の一つ中山道の笠取峠である。徳川政権は、関ヶ原の戦い後の慶長六年(1601)東海道に伝馬制を実施し、翌七年には中山道などにも着手した。
慶長九年幕府は諸街道の改修、一里塚の設置とともに街道筋に松や杉を植えて並木をつくらせた。
笠取峠は雁取峠とも呼ばれ、慶長二年(1597)に設けられた芦田宿と、およそ一里半(約6Km)の距離を隔てた長窪宿の間にある。
笠取峠の松並木は、小諸藩が幕府から下付された数百本の赤松を、近隣の村人とともに峠道約十五町(約1.6Km)にわたって植樹し、その後も補植を行い保護・管理を続けてきた。歌川広重の「木曽街道六十九次」芦田宿に描かれている中山道の名所である。
長い年月の間、風雪に痛み枯れ、大正十三年(1924)長野県の調査によると229本があった。昭和四十九年(1974)長野県天然記念物に指定された。
現在は、110本である。立科町が笠取峠の旧街道の整備と松並木の保護に努め、往時の姿をとどめている。」 -
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【金明水(飲める)】
笠取峠の茶屋小松屋にあった名水のひとつ金明水が復元されています。 -
金明水の説明
笠取峠の茶屋小松屋にあった名水のひとつ金明水が復元されています。 -
和宮東下の行列レリーフがあります、皇女和宮降嫁の行列風景が銅板に刻まれています。
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広重の木曽海道六拾九次之内、望月、芦田、長久保のタイルが埋め込まれたレリーフ碑があります。
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「笠取峠」は標高は876m。
芦田宿と長久保宿の間にあり,旅人が上り坂で暑さと疲れのあまり,皆いつの間にか笠を取っていることから笠取峠と呼ばれるようになったと言われる。> -
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著作権フリー作品集「木曽街道六十九次」からの画像を使用しています
【木曽海道六拾九次之内 あし田 広重画】
広重は芦田宿として笠取峠を描いています。
遠景に浅間山、峠頂上に立場茶屋小松屋、そして峠麓にもう一軒の立場茶屋を描いています。
この峠は小県(ちいさがた)郡と佐久郡の境でした。
峠の名は当初狩取峠、苅取峠と呼ばれましたが、嘉永5年(1852年)の長窪宿明細帳では笠取峠になっています。
笠取の名は「峠は風が強く、旅人の笠を吹き飛ばした」「ここから見える浅間山の見事な眺望に、旅人が皆笠を取って仰ぎ見た」「余りの急坂の暑さから笠を取った」等を由来しています。
峠を越えると長久保宿まで下り坂です -
【笠取峠一里塚】
峠に近い傾斜地に北塚が残る。塚の上に赤松、横に枝垂れ桜。
中山道は、中仙道とも書くが享保元年(1716)に東山道の中枢の道であることから、中山道と呼ぶとあり、また木曽を通るので木曽路ともいわれ、江戸京都を結ぶ主要街道であった。
一里塚は、この道一里間につくられた道標の遺跡である。当時の輸送が宿ごとに荷物をつけかえる習慣から、輸送距離を知るための路程道標でもあったとされ、その目じるしに松の木などが植えられた。この笠取峠の一里塚にも赤松が植えられ、その大木が今なお当時の街道の面影を残している。」 -
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【松尾神社正面入口の鳥居】
諏訪の宮大工である立川流三代富重が造った神社。
この本殿は諏訪の宮大工、三代立川和四郎富重の建築で、万延元年(1860)に再々建したもので総欅で三社の高床造りである。
「本殿の欄間には龍がまきおこす波に亀が泳ぎ、鶴が舞い遊んでいる姿や、貫の木鼻には象のはななど、実にみごとな彫刻がしてある。
神社は旧郷社で、祭神は大山昨命(くいのみこと)であり、本社は京都市右京区松尾町の官幣大社松尾神社で、酒造守護の神として往古より酒造家の尊信あつく遠くより参詣する人が多かった。
以前は長久保の町裏地籍にあり、その当時は大欅の森があったが小学校々庭拡張のため昭和33年5月現在地に移転した、その際略式の四神の祭祀のあることが発見された。」 -
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【長久保宿歴史資料館:一福処濱屋】
建築様式は、山間部の旅籠建築に多く見られる、一階部より二階部を突き出した「出梁造り」が特徴的な総二階建ての大きな建物。出桁造り総二階建、明治初期に旅籠として建てられたが、交通量が減少した為、開業に至りませんでした。
「一福処濱屋は、中山道長久保宿堅町の上位(江戸方)に位置しています。
現在の建物は、明治時代の初期に旅籠として建てられましたが、中山道の交通量が減ったために開業には至りませんでした。
間口は九間と広く、総二階建て・延床面積
400平方メートル程の宿内でも大きな建物です。また、一階より二階部分を突出させた「出梁造り」が特徴的で、山間部の旅籠建築に多く見られる手法です。
平成12年に建物の所有者である福永家・黒澤家からご寄付を受けて、地域住民の語らいの場や長久保宿を訪れる旅人の休み処として、また、宿場関連の歴史・民俗資料の展示公開の場として活用を図るよう改修を行いました。
一福処濱屋を貴重な旅籠建築の歴史的建造物として長久保宿の面影を後世に伝えるものです。」 -
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和田宿5.9km、和田峠16.7km、笠取峠3.9kmの標識。
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ミミズ双体道祖神
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拡大するとよく見えます。
一千の一の文字に二を追加彫りして三千にしてあります -
中山道三千僧接待碑
諸国遍歴の僧一千人を接待した記念碑
その後更に二千人を接待したという。 -
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江戸日本橋より49里(196km)まで来ました。
京都までの距離の約3分の一の歩程です。
中山道一里塚跡碑、上組の一里塚跡です、塚は昭和35年(1960年)の道路改修で取り壊されました。 -
次へ 中山道No-17 目指すは和田峠 長久保→和田宿・東餅屋
https://ssl.4travel.jp/tcs/t/editalbum/edit/10345050/
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