2007/09/01 - 2007/09/01
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フロッガーさん
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この日は埼玉県の行田市を巡っていました。
行程は忍城址→忍東照宮→成就院→さきたま古墳でした。
まずは忍城へ。前回は入れなかった城内博物館に行きます。はにわ展が9/2まで行われていまして、あまり見ない大きな埴輪が展示されていてちょっと面白い。。。
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しゃちほこ。
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諏訪神社。
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次に忍東照宮へ。忍城の博物館側大手門の近くに諏訪神社と一緒にあります。
ここは、徳川家康の娘亀姫が父の肖像を貰い、後に子の松平忠明公に伝えることとなり、忠明公が寛永二年(1625)大和国・郡山山城内に社殿を造営して肖像を安置したことに始まるそうです。それ以来、藩主・藩士の崇敬の社となりました。その後、移封のたびに遷座されて慶応4年(1868)、鳥羽・伏見の戦いの折に大坂蔵屋敷の東照宮を当社に合祀したものだそうです。社領は郡山当時より百石を受け継ぎ明治維新まで続くそうで、その地は埼玉古墳群の辺りであったと伝えられています。
明治4年(1871)、藩主の東京移住のために祭祀断絶の危機を迎えますが旧藩主らが同7年に下荒井の地から本丸の一部である諏訪郭内の諏訪神社境内一隅に本殿を移し、同33年に藩祖、松平忠明公を配祀しました。現在の拝殿は昭和5年の造営となっています。 -
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そして、成就院に向かいます。今回、1番見たかった三重塔があります。三重塔は周囲の木よりも小さく感じます。
この三重塔は享保14年(1729)に地方大工の手によって建立された特色のある塔で中心の柱を二層までで下層には下ろさずに、内陣に須弥壇(しゅみだん)を設ける形となっています。忍城主・阿部豊後守忠秋より拝領と伝わる葉衣(ようえ)観音菩薩像が安置されています。塔は補陀閣(観音様を祀る塔)として、江戸・享保時代の観音信仰を背景に建立されたそうです。総高 11.18m・間口奥行き2.24m・相輪高は2.92mになります。
山門前には六地蔵信仰のお地蔵様や庚申地蔵が両脇に並びます。本堂は11年ほど前に建て直したそう。周りが田んぼの中にある静かな場所でした。 -
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そして、さきたま風土記の丘へ。
道沿いのお土産やさん。ゼリーフライとはジャガイモとおからを混ぜて揚げたものです。ソースに漬かった感じ。ちなみに「ゼリー」は「銭」がなまったものだそう。 -
ここは多数の古墳があり、周りは公園のように作られていました。人が多いのにも驚き。散歩を楽しむ方が多いようです。春には古墳の上に桜が咲くことでも有名なこの場所ですが、芝生で遊ぶ人達がたくさんいました。
全部の古墳を回るのは時間が足りなくて、主要な所を見ながら最終的に丸墓山古墳に登ってやっと周りの古墳の形がわかりました。下で見ていると丘にしか見えません(笑)
そして、降りる時に階段を杖を使って降りている婆様とおしゃべり。。。5回ほど富士山に登った話をされました(^ー^* )
ここには5世紀の終わりから7世紀初頭までに作られた9基の大きな古墳が群集します。前方後円墳8基、円墳1基のみ残存です。昔は数十基あったとも。
それまで、この地には目立った古墳はありませんでした。この古墳群が現れる前に「日本書紀」には、「武蔵の国で勢力争いがあった」と書かれています。昭和 43年に発掘調査がありました。その時に稲荷山古墳などから出土した多くの遺物は敷地内の資料館に展示されています。7世紀に入ると、古墳が作られることがなくなりました。突然、主の前方後円墳が終了します。ここの古墳でも将軍山古墳を最後に作られることはなくなりました。近畿地方においては6世紀後半には前方後円墳は作られなくなっていました。当時は曽我氏の時代、国家形態の変わりと共に方墳構造が主体となり、7世紀には古墳時代の終わりを迎えることになったようです。 -
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丸墓山古墳から。
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ここは多数の古墳があり、周りは公園のように作られていました。人が多いのにも驚き。散歩を楽しむ方が多いようです。春には古墳の上に桜が咲くことでも有名なこの場所ですが、芝生で遊ぶ人達がたくさんいました。
全部の古墳を回るのは時間が足りなくて、主要な所を見ながら最終的に丸墓山古墳に登ってやっと周りの古墳の形がわかりました。下で見ていると丘にしか見えません(笑)
そして、降りる時に階段を杖を使って降りている婆様とおしゃべり。。。5回ほど富士山に登った話をされました(^ー^* )
ここには5世紀の終わりから7世紀初頭までに作られた9基の大きな古墳が群集します。前方後円墳8基、円墳1基のみ残存です。昔は数十基あったとも。
それまで、この地には目立った古墳はありませんでした。この古墳群が現れる前に「日本書紀」には、「武蔵の国で勢力争いがあった」と書かれています。昭和 43年に発掘調査がありました。その時に稲荷山古墳などから出土した多くの遺物は敷地内の資料館に展示されています。7世紀に入ると、古墳が作られることがなくなりました。突然、主の前方後円墳が終了します。ここの古墳でも将軍山古墳を最後に作られることはなくなりました。近畿地方においては6世紀後半には前方後円墳は作られなくなっていました。当時は曽我氏の時代、国家形態の変わりと共に方墳構造が主体となり、7世紀には古墳時代の終わりを迎えることになったようです。
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