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最後の到達地、(飯沼山)弘経寺です。<br /><br />弘経(ぐぎょう)寺は、開山は応永二十一年(1414)、良肇(りょうちょう)が横曽根城主の帰依を得て飯沼村に建立したことに始まりとされ、応永21年 (1414)・嘆誉良肇の創建と伝えられる浄土宗のお寺です。9代・存把の時代にに天正の兵火にあい、建造物は焼失してしまいました。17世紀初頭に10 代・了学が再興するまでは一時荒廃し無住職でした。<br /><br />当寺10代目の了学上人は徳川家康・秀忠・家光の3代に仕え、圧遇されました。特に家康の孫娘である千姫は上人に深く帰依した故に弘経寺を菩提寺と定めたところから、徳川家から本堂や鐘楼などの再建に多大な寄進が行われました。(千姫には『天樹院』の号を与えました)

水海道巡り2007。「弘経寺」

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2007/10/23 - 2007/10/23

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フロッガー

フロッガーさん

最後の到達地、(飯沼山)弘経寺です。

弘経(ぐぎょう)寺は、開山は応永二十一年(1414)、良肇(りょうちょう)が横曽根城主の帰依を得て飯沼村に建立したことに始まりとされ、応永21年 (1414)・嘆誉良肇の創建と伝えられる浄土宗のお寺です。9代・存把の時代にに天正の兵火にあい、建造物は焼失してしまいました。17世紀初頭に10 代・了学が再興するまでは一時荒廃し無住職でした。

当寺10代目の了学上人は徳川家康・秀忠・家光の3代に仕え、圧遇されました。特に家康の孫娘である千姫は上人に深く帰依した故に弘経寺を菩提寺と定めたところから、徳川家から本堂や鐘楼などの再建に多大な寄進が行われました。(千姫には『天樹院』の号を与えました)

  • 山門です。。。。と、只今弘経寺は改修中。去年3月から始まった改修工事は、今年10月には終わるとの話でしたがまだ完成してなかったようです(;´Д`A ```

    山門です。。。。と、只今弘経寺は改修中。去年3月から始まった改修工事は、今年10月には終わるとの話でしたがまだ完成してなかったようです(;´Д`A ```

  • 本堂。大工さんが作業中でした。<br /><br />現在の本堂はこの千姫の寄進によるものです。桁行17.9m・梁間23.7mの入母(いりも)屋造で、正面3間向拝(こうはい)付きの建物です。向拝屋根は大棟に直交して入母屋風とし、中央に唐破風(からはふ)を付けています。内陣は江戸初期の寺院建築の粋を極めた造りで、出三斗(でみつと)の組物をおいて彩色を施し、正面に菱格子欄間を入れてあります。須弥壇を囲む柱は丸柱で金箔が施され、他は角柱を用いて造られています。豪華な仏具や釘隠など金具・調度品の数々に徳川幕府の威光が感じられるものとなっています。<br /><br />寛永6年(1629)から寛永10年(1633)まで、弘経寺の再建・修復工事は行われました。10代・了学から11代・雪念の時代までかかった大工事であったといわれています。当時、老中であった古河藩主・土井利勝が普請奉行を勤めています。完成により、関東十八壇林のひとつに数えられることとなりました。また、弘経寺は東京芝・大本山増上寺の別院となっています。

    本堂。大工さんが作業中でした。

    現在の本堂はこの千姫の寄進によるものです。桁行17.9m・梁間23.7mの入母(いりも)屋造で、正面3間向拝(こうはい)付きの建物です。向拝屋根は大棟に直交して入母屋風とし、中央に唐破風(からはふ)を付けています。内陣は江戸初期の寺院建築の粋を極めた造りで、出三斗(でみつと)の組物をおいて彩色を施し、正面に菱格子欄間を入れてあります。須弥壇を囲む柱は丸柱で金箔が施され、他は角柱を用いて造られています。豪華な仏具や釘隠など金具・調度品の数々に徳川幕府の威光が感じられるものとなっています。

    寛永6年(1629)から寛永10年(1633)まで、弘経寺の再建・修復工事は行われました。10代・了学から11代・雪念の時代までかかった大工事であったといわれています。当時、老中であった古河藩主・土井利勝が普請奉行を勤めています。完成により、関東十八壇林のひとつに数えられることとなりました。また、弘経寺は東京芝・大本山増上寺の別院となっています。

  • こちらは開山堂。<br /><br />境内には千姫のお墓もあります。この墓所には遺髪が納められていると言われていましたが、近年の改修調査によって火葬された遺骨の一部が納められている事がわかりました。この遺骨は東京・小石川の伝通院にある本墓より分骨されたものと思われます。<br /><br />TOP画像は境内の杉。来迎杉と呼ばれ300年を越える古木です。<br /><br /><br />【千姫】<br />千姫は、徳川幕府・2代将軍秀忠の長女(家光の姉)として生まれ、7才にして従兄の豊臣秀頼に嫁ぎました(秀頼の母・淀殿と千姫の母・お江与は姉妹)。千姫が19才の時に大坂夏の陣が起きて豊臣家は滅亡、夫秀頼は自害してしまいました。翌年には姫路城主本多忠政の長男・忠刻と再婚し、一男一女をもうけましたが、30才の時(寛永3年)に忠刻は病死。千姫は江戸に戻り、落飾して天樹院と号して江戸城の一角にある竹橋に住み余生を送ることになります。その後天樹院に移ってからは千姫は荒淫の限りを尽くしたと言われています(風説)が、70才で波乱な人生の幕を閉じました。<br /><br />毎年春には『千姫まつり』が催されています。<br /><br />

    こちらは開山堂。

    境内には千姫のお墓もあります。この墓所には遺髪が納められていると言われていましたが、近年の改修調査によって火葬された遺骨の一部が納められている事がわかりました。この遺骨は東京・小石川の伝通院にある本墓より分骨されたものと思われます。

    TOP画像は境内の杉。来迎杉と呼ばれ300年を越える古木です。


    【千姫】
    千姫は、徳川幕府・2代将軍秀忠の長女(家光の姉)として生まれ、7才にして従兄の豊臣秀頼に嫁ぎました(秀頼の母・淀殿と千姫の母・お江与は姉妹)。千姫が19才の時に大坂夏の陣が起きて豊臣家は滅亡、夫秀頼は自害してしまいました。翌年には姫路城主本多忠政の長男・忠刻と再婚し、一男一女をもうけましたが、30才の時(寛永3年)に忠刻は病死。千姫は江戸に戻り、落飾して天樹院と号して江戸城の一角にある竹橋に住み余生を送ることになります。その後天樹院に移ってからは千姫は荒淫の限りを尽くしたと言われています(風説)が、70才で波乱な人生の幕を閉じました。

    毎年春には『千姫まつり』が催されています。

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