2007/11/06 - 2007/11/06
54位(同エリア60件中)
フロッガーさん
- フロッガーさんTOP
- 旅行記264冊
- クチコミ43件
- Q&A回答2件
- 354,513アクセス
- フォロワー6人
次は花園神社へ向かいます。花園神社は花園渓谷沿いにある神社です。創建は1200年ほど前、延暦14乙亥年年(795)に征夷大将軍であった坂上田村磨呂が草創したといわれています。(行基菩薩の開基との話もあります)
。。。と向かう途中でナビがおバカさんになってしまって変な脇道に誘導されてしまいました。なにやら電波塔が立っているのが頂上に見えるのぼり口で道路のアスファルトが陥落している。。。『ここじゃね〜べよ!!』と戻る事にしましたがイチョウがキレイだったのでちょっと休憩。ついでにやっと真っ赤なモミジに出会いました('-'*)
PR
-
-
-
そして、元の道に戻って看板を頼りに神社へ向かいました。神社手前には市営の駐車場があります。が、神社を通り越して登った所にもう1つ駐車場があり、そちらのほうが神社には近いです。また、奥の院に行くのであればなおさら上の駐車場が良いようです(^▽^;)。
-
-
大同2年(807)4月に花園山と号が付けられて勅額が掲げられました。天長年間(824〜834)、釈円仁(慈覚大師)が当山にて修行、定観2年(860)に天台宗・満願寺を再興しました。
この周辺には花園城が存在していました。旧花園神社のあった所を本丸として、現花園神社奥の天然の要害となる地形を利用した山城であったと言われています。治承4年(1180)に挙兵した源頼朝は、非協力的であった佐竹秀義を金砂山城に攻めこみ、やがて金砂山城を支えきれなくなった佐竹秀義は、常陸奥部のここ花園城に篭城します。花園城は天然の地形を利用した要害であったため臣下の畠山重忠は「こんな小城にいつまでもかかわりあうよりも、早く奥州を攻めたほうが良い」との進言を行いました。頼朝は兵を引きあげることを決め、秀義は余命を保つことができたと言われています。鎌倉時代の城郭のためか人工的な造りのものは存在していませんが、貝吹場・西曲輪・東曲輪といった地名が存在していたそうです。 -
中には鬼のお面と大黒天?
-
楼門の先に拝殿。
-
楼門の天井には龍が描かれています。
-
-
-
拝殿。
-
みざる・いわざる・きかざるの彫り物。
-
-
-
本殿へ。
-
本殿。
-
-
社務所。
-
本殿にも猿の顔が。。。
花園神社に伝わる話によると、秀義はわずかな家臣のみでこの地の洞窟に潜んでいたそうです。その時に秀義達は、猿が運んできた食料によって余命をつないだと言われています。猿は山王権現の使いとされていますが、佐竹氏も花園神社の援助を受けたことを踏まえての話だと言われています。俗名・猿ヶ城は、この花園城の一角のことを指しているものだそうです。この神社の後ろはもう一山高く山がそびえ立つ立地です。山城の本拠地とするならばそちら側だったのではという説が有力です。
開基当初は神仏混淆の霊場とされていましたが、明治元年の神仏分離令によって神社となりました。 -
見ざる・言わざる・聞かざるが拝殿に掘られています。
-
立派な杉の木がたくさんありました。
-
三本杉。周囲7.5m・樹高45m、樹齢500年を超えます。地上10mのところより3本に分かれていることから通称「三本杉」と呼ばれています。
-
上の駐車場に繋がる方の橋の手前には滝が。
-
ここは、下は渓谷・花園川となっており紅葉の名所としても有名です。山門のある3段式を取った珍しい神社ではありますが、非常に艶やかで素晴らしい所でした。そして、七ツ滝(七瀧)と奥の院へ向かいますが・・・この日最大のアトラクションを経験することになります(爆)
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。
旅の計画・記録
マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?
0
24