1999/01/06 - 1999/01/09
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Fluegelさん
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1999年公現日(Epiphany, クリスマスから12日目, 1月6日)は、ミュンヘンに居た。デパートでは、入口のクリスマス飾りを外し、植え込みに捨てていた。ドイツでは、モミの木飾りは全て生木、土に捨てれば、そのまま堆肥になる。
それを見届けると、ミュンヘン発プラハ行き急行列車、フランツ・カフカ号に乗った。片道7時間はかかったと思う。若さ・・・今なら出来ない。クトナー・ホラへは、プラハから日帰り観光バスを利用。
チェコ共和国(Czech Republic)が1993年にできてから、わずか6年。プラハの駅前では、物乞いに出会った。地下鉄駅構内を歩くと、制服姿の男が私の前に立ち塞がったので、切符を見せた。似非警官だったかもしれない。スメタナ博物館の隣は、ストリップ小屋のようだった(当時、外貨稼ぎのためだろう)。街の中は、外貨両替所の数だけが目立った。それでも音楽の都、劇場だけは美しく修復されていた。
表紙写真:カレル橋の欄干に立つ30体の彫刻の中のひとつ、ネポムクの聖ヤン(聖ヨハネ)(1683年作)。カトリックの聖人。14世紀の司祭で、ボヘミア王とカトリックの対立に巻き込まれ、拷問を受け落命。遺体はカレル橋の上から川に投げ込まれた。
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- 鉄道 観光バス
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聖ヴィート大聖堂(プラハ城内)。
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ミュシャのステンドグラス(聖ヴィート大聖堂内)。
Alfons Maria Mucha(1860-1939):モラヴィアで生まれ、ミュンヘンで美術を学んだ、アール・ヌーヴォーを代表するデザイナー、イラストレーター、画家。 -
「黄金の小道」にあるNo.22という青い家は、一時カフカが仕事場にしていた(プラハ城内)。
Franz Kafka(1883-1924):プラハのユダヤ人家庭に生まれた。 -
中世(15世紀)の天文時計(旧市庁舎)。
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スメタナホール(市民会館 1912年築)。ここは昼に訪ね、カフェでミュシャのステンドグラスを見た。当時は、ガイドツアーなどなく、自由に出入りできた。
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聖イジー聖堂(プラハ城内)。
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スタヴォフスケー劇場 Stavovske Divadlo (Estates Theratre)。現存する世界最古のオペラハウス。1783年開場。840席。モーツァルトが自身の作品を指揮した劇場の中で、現存する唯一の劇場。1787年、モーツァルトが『ドン・ ジョヴァンニ』をここで初演した。この劇場では、オペラ「コシ・ファン・トゥッテ」を観劇。狭い舞台で簡素な舞台設備ながら、歌手のレベルが高かった。
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泊まったのは、ホテル ドン・ジョバンニ。名前に反して、モダンな宿。「ドン・ジョバンニ」が初演されたのが、上のスタヴォフスケー劇場。
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スメタナの墓(ヴィシェフラット民族墓地)。
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ドヴォルザークの墓(ヴィシェフラット民族墓地)。スメタナの墓の方が立派なのは、国内での評価の表れ?
墓地はウィーンの中央墓地ほど広大でなく、こぢんまりしているので、目当ての墓がすぐ分かる。 -
ドヴォルザークホール(芸術家の家)。
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ベルトラムカ(Bertramka)。貴族の別荘として建てられた邸宅。モーツァルトが滞在した。プラハ郊外の別荘といっても、当時の城壁の外側にあっただけで、すぐ行ける立地。
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聖バルボラ教会(クトナー・ホラ)。
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聖バルボラ教会から望むクトナー・ホラの街並。
チェコ語は難しかった。スペリングを見ても発音できない。発音しても舌を噛みそうで、すぐ忘れる。しかし、ハプスブルク家の支配下にあったためか、プラハでは古くからオペラのプログラムも独語で書かれていた。モーツァルトがプラハを気に入っていたのも、彼の母国語を使ってくれ、言葉に不自由しなかったからかもしれない。ドイツ、オーストリアといった強国に囲まれたチェコ人の、受難の歴史を振り返る旅だった。
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