2008/12/03 - 2008/12/03
421位(同エリア1065件中)
ムッシュさん
中軽井沢駅前より、浅間山を見ながら追分宿に向います。
追分宿 第二十宿(日本橋より154.5km)
中山道と北国街道の分岐点にある。官道時代から交通の要衝で、江戸時代に入ると宿場は著しく発展した。
日本橋から38里18町(151.2Km)、京へ97里16町 (382.7Km)
天保14年(1843)で人口502名、総家数166軒、本陣1軒、脇本陣3軒、旅籠屋17軒。
北国街道:北陸道と中山道を結ぶ街道。小諸、長野を過ぎて直江津で合する。
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【長倉神社】
長倉神社は天長年間(824~34)の創建、延喜式神明帳に記載されている古社で、長倉の鎮守です。
長倉神社の社叢は七十余種が繁る貴重なものです。
境内には長谷川伸の戯曲「沓掛時次郎」の歌碑
「千両万両枉(ま)げない意地も 人情搦(から)めば弱くなる 浅間三筋の煙の下で 男沓掛時次郎」があります。
神社の西一帯は「長倉の牧」のあったところでから開けたところであった -
長倉神社境内にある土俵
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殆ど読めなくなっていますが、
【沓掛時次郎の碑】
『千両万両枉げない意地も 人情絡めば弱くなる 浅間三筋の煙の下で
男 沓掛時次郎』
渡世人の時次郎は一宿一飯の恩義から三蔵を斬る、死の真際、女房のきぬと子の太郎吉を沓掛の親戚の家に送り届けてくれと懇願し息絶えた。三人の旅がはじまるが、途中で親子は忽然と姿を消してしまう。再び出会ったが、おきぬは胸を患い息絶えてしまう、時次郎は堅気になり、太朗吉を連れて沓掛へと旅立った。 -
【寛政10年(1798年)建立の草津道道標】
道標正面には不動明王像が陽刻され、側面には右くさつへと刻まれています、ここから草津温泉へ十里の道のりです。 -
著作権フリー作品集「木曽街道六十九次」からの画像を使用しています
【木曾街道 沓掛宿 】
平塚原は沓掛宿東の前沢村を出た辺りです、画の左手の流れは沓掛宿手前の湯川です、従って右手上部の家並みは前沢村になります。
この辺りは浅間山の南麓にあたり、浅間下し(あさまおろし)の寒風による叩きつけるような雨を描いている。
そして街道上にはこの悪天候に耐えながら進む旅人と中牛(ちゅうぎゅう)の姿を描いています、中牛は信州の農民が駄賃稼ぎに荷の輸送をしたもので、目的地まで直送したので、荷の痛みが少なく、格安な為、岡船と呼ばれ重宝されました。
信州から上州松井田宿ないし倉賀野河岸まで廻米を運び、帰路は干鰯(ほしか)や日用雑貨を持ち帰りました。 -
【沓掛宿本陣跡】
庭の土蔵の白壁に「本」の字だけが残る。沓掛宿の旅籠「鍵本屋」(写真アップで読める)
土屋本陣跡です、建坪259坪、門構え玄関付で問屋を兼ねました、皇女和宮は前宿の追分の名を嫌い、十七日目 沓掛宿土屋本陣に宿泊しました。
沓掛宿は安永2年(1773年)の大火で壊滅的な被害を受け、現在地に移転しました、小宿でしたが草津温泉を控え、湯治客で賑わいました、昭和26年(1951年)の大火で宿並は灰燼に帰してしまった。
天保14年(1843年)の頃、沓掛宿の宿内家数は166軒、うち本陣1、脇本陣3、旅籠17軒、宿内人口は502人で、宿長は五町六十八間(約668m)でした。 -
新雪に噴煙の昇る美しい浅間山
2009/2/1には爆発したとのニュースあり。 -
浅間山噴火の焼け石で作った 【双体道祖神と、前は廿三夜供養塔】
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馬頭観音 後方は、浅間山
斜面上に石塔が並んでいます、馬頭観音像と馬頭観世音文字塔そして供養塔です。
道脇には馬頭観音や地蔵菩薩、庚申塔が其処彼処に残されている -
享和2年(1802年)建立の馬頭観世音文字塔があります。
ここが女街道(上州姫街道)の分去れ(追分)です。 -
立派な【馬頭観音】
信州と上州を結ぶ物資輸送の中継点で、馬とともに生きてきたので馬頭観音碑が多く残っている。特にここは立派である。 -
【遠近宮(おちこち)】
社殿は享保年間(1716~36)の建立で、浅間山を御神体としています、神社名の遠近(おちこち)は在原業平の「信濃なる浅間の嶽に立つ煙 遠近人の見やはとがめぬ」に因んでいます。
『信濃なる浅間の獄にたつ煙
遠近人の見やはとがめぬ』
遠近宮は『伊勢物語』の主人公として登場する在原業平が、「むかしをとこ有りけり。京にや住み憂かりけん、あづまの方に行きて住み所もとめむとて、ともとする人ひとりふたりして行きけり。信濃の国、浅間の嶽にけぶりの立つを見て、信濃なる浅間の嶽に 立つけふり をちこち人の 見やはとがめぬ」と詠んだ和歌から、明和8年(1771)に建立した借宿村の神社に「遠近宮」と名付けたという言い伝えが残っている。この神社は国道18号線の借宿近くに鎮座している。借宿は古くは「遠近の里」と呼ばれた。境内には山岳信仰の盛んだった証のように、御嶽山神社、三笠山大神、八海山大神の石碑がある。 -
【女街道入口】
江戸時代に「入り鉄砲」「出女」といって当時恐れられていた武器鉄砲の動きや江戸屋敷に住まわせていた諸大名の奥方は人質的意義を持っていたので女人の出入りは厳重に取り締まった。したがって女人は関所を避けて裏街道を通るようになった。これを女街道、または姫街道ともいう。
この街道はこれより本街道と別れ油井釜ヶ淵橋を渡り風越山、広漠たる地蔵ヶ原をよこぎり和美峠または入山峠を往来したものである。
「関所さけて女人が多く往来せし 女街道と いふは寂しも」
詮議の厳しかった碓氷の関所を避けてこちらの街道を通ったという -
国道18号線の両側に【追分の一里塚(軽井沢町文化財史跡)】の原型を残しています、但し、南塚は復元したものです、江戸日本橋より数えて三十九里目です。
「江戸へ39里、京へ91里14町」と書かれていた。 -
追分宿資料館を右手に歩いています。
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【浅間(あさま)神社】
本殿は室町時代のもので、町内の木造建築としては最古のものである。浅間大神遥拝の里宮で大山祇(おおやまつみ)神と磐長姫(いわながひめ)神の二神が祀られている。明治二年五月より浅間山の鳴動が特に激しく鎮静祈願のため同年九月明治天皇の勅祭が行われた社として有名である。
境内にある「ふきとばす石も浅間の野分けかな」の芭蕉句碑は寛政五年(1793)春秋庵二世長翠の書で浅間焼石におおわれた追分原に野分吹くころの風情がしのばれる。 -
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寛政5年(1793年)建立の【浅間神社芭蕉句碑】
『吹き飛ばす石も浅間の野分哉』(更級紀行所収)
実際にこの追分で詠んだ句。芭蕉百年忌に、佐久の俳人たちが立てた。
追分宿である
その入り口の所にあるのが、この浅間神社だ江戸時代には「すは大明神」と呼ばれ、巨木の繁茂する大きな社である
奥には追分郷土資料館そして、境内には芭蕉句碑がある
また「追分節」の発祥地の石碑もあった
「浅間山さん なぜ焼けしゃんす 裾に三宿 もちながら」
「追分ます形の茶屋で ほろと泣いたが忘らりょか」とすっかり酒席での歌になっているがもともとは碓氷峠の馬子唄であった -
門は本陣の門を移築したもの
堀辰雄文学記念碑
「風たちぬ」「美しい村」など軽井沢を舞台にした作品を多く残し晩年をこの地で過ごした作家。
*この地をこよなく愛した作家の堀辰雄は、結核を患い、養生を過ごし、追分宿を舞台にした作品『菜穂子』を書き上げました。他界した後には、この地に「堀辰雄文学記念館」が建てられ、晩年を過ごした住居や書斎、自筆原稿が展示された。
ちなみに、ジブリ映画『風立ちぬ』は堀辰雄の同名小説をベースに、その世界観を映し出したものです。映画のなかでも軽井沢宿や追分宿周辺の風景、「万平ホテル」などが描写されています。
〔本陣門の移築〕
明治11年9月、明治天皇の北陸御巡幸により追分宿本陣が行在所として明治天皇に使用されるが、明治26年に信越線が全面開通すると追分宿を利用した宿継ぎの荷駄・旅人は他の交通手段に代わり、宿場としての機能を失う。本陣は明治の末期頃、追分宿に近い御代田町塩野地区の内堀家表門として移築される。内堀家では追分宿本陣の門として大切に扱い、門に覆屋をかけて約100年間の間、内堀家の門として役割を果たしてきた。
内堀家においては、本陣門が軽井沢の歴史遺産であることをご理解され、平成17年に内堀家より軽井沢町へ寄贈された。
【軽井沢の歴史的建造物『本陣「門」』】
軽井沢3宿のうち、本陣の遺構を残し面影をたどれるのは追分宿に限られる。追分宿本陣の門(裏門)は宿場に残る歴史遺産として、軽井沢の宿場(江戸)文化を学び伝えてゆく貴重な建築文化財であることを考え、追分宿の往時をしのび、過去・現在・未来を通して宿場を語るシンボルとなる様、軽井沢町・軽井沢教育委員会は、旧中仙道に面したこの地に本陣「門」を移築する。 -
【脇本陣「油屋」】
元禄元年に脇本陣として創業。今も旅館として営業継続。
堀辰雄を慕って立原道造、佐多稲子などが集ったという。
元禄元年(1688年)の創業です、元は向いにありましたが昭和十二年(1937)の火災で焼失し、現在地に移転しました、堀辰雄はつげの間で風立ちぬを執筆しました。
脇本陣であった油屋である今も高級旅館として営業している
追分宿は、中山道と越後へ通じる北国街道との分岐点であったその為もあり、軽井沢三宿の中では最も賑やかな宿場で本陣1、脇本陣2、旅籠35軒であった
江戸時代の道中記に
「駅舎のさま 賑はゝし。名物そば、うんどん、銘酒。宿よし、出女あり」
と紹介されていうる -
著作権フリー作品集「木曽街道六十九次」からの画像を使用しています
【木曽街道 追分宿 浅間山眺望 英泉画】
追分宿
日本橋から39里21町(155.5Km)、京へ96里13町 (378.4Km)
天保14年(1843)で人口712名、総家数103軒、本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠屋35軒。 -
【追分宿の高札場跡】
土屋本陣の並びに寛永10年(1633年)の古文書に基づいて復元された高札場があります、追分宿の高札場は問屋前の宿並中央にありました。
追分宿の高札場は、問屋前の路中央にあった。法度、掟書きなどを記した。また、さらし首、重罪人の罪状を記し、高くかかげた板札を高札という。
寛永十年(1633)の古文書によると、広さ九尺、横一間、高さ三尺の芝土手を築き、高札場の柱は五寸角のものを使用し、駒よせ柱は四寸角で、高さ六尺の規模であった。 -
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桝形茶屋「つるがや」
昔の面影をとどめて残っている。
表の2階壁面に桝の形の「つるがや」の屋号を漆喰塗りで浮き出させてる。桝形とつるがやの文字。
右手は出桁で2階を前に突き出しているなど追分節の「追分の櫛形の茶屋ほろりと泣いたが忘らりょか」を思い出させるの十分である。
追分宿の外れに枡形茶屋つがるやがあります、二階の白壁に枡形とつがるやの文字が浮き出ています、往時はここに枡形があり、茶屋はその内にありました。
ここが追分宿の京(西)口です。
寛永十二年徳川家光の代、諸大名の参勤交代の制度が実施され、ここを往来する諸侯のため、宿内には問屋、本陣、脇本陣を設置し、宿の西入口、この辺に枡形の道と土手(高さ約2.5m)を築いて宿内の警備取締りをした。
今、その面影を見ることはできないが当時の枡形の敷地内にあって茶屋つがるや(枡形の茶屋)の建築にその昔をしのぶことができる。
次へ 中山道NO.14 追分宿→御代田宿、小田井宿へ
https://ssl.4travel.jp/tcs/t/editalbum/edit/10326690/
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