2008/10/23 - 2008/10/23
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しんちゃんさん
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「お岩さま」と言えば……恐ろしい「東海道四谷怪談」です。夏は過ぎましたが、「こわ〜い」お話です。と思いきや、知ってびっくり、見てびっくり「お岩さま」「於岩様」の正体は如何に!謎解きをしてきましたが、ナゾが増えてしまった!「於岩稲荷田宮神社(通称・お岩さま)」は新宿区左門町17、「日蓮宗・於岩稲荷・陽運寺」は新宿区左門町18。なぜ二箇所かは、読めば理解するはずです…理解出来なかった方は、やはり現地に来て見学するしかない!
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JR四谷駅に降りて方角を確認、場所探しをしました。ネットで場所を確認、印刷してきましたが、どうも信濃町が近いようです。四谷駅は東京駅から中央線快速で3ツ目(神田・御茶ノ水・四谷)信濃町駅は四谷駅で各駅停車に乗り換えて、次の駅(プラットホームを乗り換える)です。
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地図を頼りに近道を探していたら「愛染院」発見、神社仏閣はアポなし無断入社・入仏はOKと思い、写真取りに敷地に入りました。周りはマンション・住宅地が立ち並ぶ場所ですが、ここだけ別天地でした。
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本堂
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かわいい鐘付堂
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路地を進み、出会った坂道
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階段の上にあった「須賀神社」
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探し歩く途中に、平等山「本性寺」と北向き開運毘沙門天としてお寺もありました。
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あった!「於岩稲荷陽運寺」案内
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路地先に見えるノボリ
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「田宮稲荷神社跡」
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新宿区観光協会では「田宮稲荷神社跡・四谷怪談の旧地」として紹介しています。また「明治5年頃、『田宮稲荷』と改められ、現在は飛地境内社としてお岩稲荷の旧地を守っています。」との事です。
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扁額
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日蓮宗・於岩稲荷・陽運寺
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見学者が続々お寺から出てきました。「どこからですか?」「千葉から来ました」総勢十何人、案内人が旗を持っていました。
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「お岩様由縁の井戸」
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【「於岩稲荷水かけ福寿菩薩」お題目(南無法蓮華経)を唱えながら、お水をおかけ下さい。あなたの厄が除かれ、あなたに福寿(幸福)が訪ずれます。当山】
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「百度石」
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本堂
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本堂の反対側にあるお堂
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【「叶玉」境内の「心願成就の石」に投入する玉なり。願をこめて石の中に投げ入れて下さい。*入れ物は元の所へお戻し下さい。叶玉は持ち帰らないようお願いします。 初穂料は賽銭箱へお入れ下さい。初穂料一筒(三ヶ)百円也】
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陽運寺には江戸後期に製作された「お岩さんの木像」があるそうです。日蓮宗HPによりますと「縁切り祈願国内随一」だそうです。創建は不明でした…ということは
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「寒緋桜(かんぴざくら)」らしい、名札がありました。
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お寺ですが、コンコン様「狐」もいます。お稲荷様ですから。
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【由来の事 江戸時代、文政八年七月歌舞伎戯作者四世鶴屋南北作「東海道四谷怪談」が世に宣伝され、於岩様庶民の畏敬を受け当山その由縁の所として現在に至ったが戦災に遇い協議の上本堂を栃木下野(しもつけ)から薬師堂を移築再建した棟札には宝暦七丁とある。於岩様の戒名は得證院妙念日正大姉 墓は元鮫ヶ橋にあったが現在は移転し巣鴨新庚申像奉祀され参拝者祈願の対象となり境内には由縁の井戸、再建記念碑等がある。平成五癸酉年十月吉辰 於岩稲荷 長照山 陽運寺 総代、世話人一同】
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道路を隔てた場所に「於岩稲荷陽運寺」とは違う「於岩稲荷田宮神社(お岩稲荷神社)」なんかおかしな雰囲気になってきたぞ!!お岩稲荷神社が二箇所です。
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説明版からです【「都旧跡 田宮稲荷神社跡」
所在 新宿区左門町十七番地
指定 昭和六年十二月二日
文化文政期に江戸時代は燗熟期に達し、いわゆる化政時代を出現させた。歌舞伎は民衆娯楽の中心になった。「東海道四谷怪談」の作者として有名な四代目鶴屋南北(金井三笑の門人で幼名源蔵、のち伊之助、文政十二年(1829年)十一月二十七日歿)も化政時代の著名人である。「東海道四谷怪談」の主人公田宮伊左衛門(南北の芝居では民谷伊右衛門)の妻お岩を祭ったお岩稲荷神社の旧地である。物語は文政十年(1827年)十月名主茂八郎が町の伝説を収録して、町奉行に提出した「文政町方書上」にある伝説を脚色したものである。明治五年ごろお岩神社を田宮稲荷と改称し、火災で一時移転したが、昭和二十七年再びここに移転したものである。
昭和四十三年三月一日 建設 東京都教育委員会】
しんちゃんさんからです、あとで分かるが「お岩様」歌舞伎が有名になり過ぎ、町の様子を幕府に報告させています。この文の内容は問題です。 -
さて、本物はどっちだ!
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「お岩稲荷田宮神社」
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「本殿」、神社裏の田宮家邸内に古井戸があるそうです。
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神社本堂の脇に色々、言われ、由縁、新聞記事、雑誌紹介がありました。
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神社で配布しているパンフレットからの写しです。【四谷 於岩稲荷田宮神社(お岩稲荷神社)この神社の「於岩」というのは「お岩」という江戸時代の初期、江戸の四谷左門町で健気(けなげ)な一生を送った女性のことである。その女性の美徳を祀(まつ)っているのが、この神社である。ところが、その「お岩」さんの死後二百年近く経ってから、図らずも芝居の主人公になった。「四谷怪談」である。しかも福を招き、商売繁盛のご利益があり、芸能の成功、興行の成功にはことさら霊験あらたか。さらに最近では交通安全、入学試験にも功徳がある、という。怨霊と「お岩」さんの関係は、いったいどうなっているのか。】続く
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【脚色された於岩 第一幕。時は江戸初期。所は四谷左門町の武家屋敷の一角。お岩は徳川家の御家人(ごけにん)の田宮又衛門の娘で、夫の田宮伊右衛門とは人も羨(うらや)む仲のいい夫婦だった。ところが三十俵三人扶持というから、年の俸給は十六石足らず。台所はいつも火の車だった。そこでお岩夫婦は家業を支えるため商家に俸公にでた。お岩が日頃から田宮家の庭にある屋敷社を信仰していたおかげで、夫婦の蓄えも増え、田宮家はかつての盛んな時代に戻ることができた。お岩稲荷 信仰のおかげで田宮家は復活した、という話はたちまち評判になった。そして、近隣の人々はお岩の幸運にあやかろうとして、屋敷社を「お岩稲荷」と呼んで信仰するようになった。評判が高くなるにつれ、田宮家でも屋敷社のかたわらに小さな祠を造り、「お岩稲荷」と名付けて家中の者も信仰するようになった。そればかりでなく、毎日のように参拝に来る人々の要望を断り切れず、とうとう参拝も許可するようになった。それからは「於岩稲荷」「大巌稲荷」「四谷稲荷」「左門町稲荷」などいろいろに呼ばれたが、家内安全、無病息災、商売繁盛、開運、さらに悪事や災難除けの神としてますます江戸の人気を集めるようになった。お岩という女性に怨霊のかけらもない。】続く
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【第二幕 時は、江戸後期。所は、歌舞伎の作者、鶴屋南北の部屋。鶴屋南北はかねてから、「於岩稲荷」のことを聞いていた。お岩という女性が死んでからもう二百年がたっている。それなのに今でも江戸で根強い人気があることに注目した。人気のある「お岩」という名前を使って歌舞伎にすれば、大当たり間違いない、と見当をつけた南北は台本書きに入った。お岩があんな善人では面白くない。刺激の強い江戸の人間を呼ぶにはどぎついまでの脚色が必要だ。南北は「お岩稲荷」からは「お岩」の名前だけを拝借して、江戸で評判になったいろいろな事件を組み込んだ。密通のため戸板に釘付けされた男女の死体が神田川に浮かんだことがある。よし、これを使おう。】続く
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【主人殺しの罪で処刑された事件もあった。あれも使える。姦通の相手に、はめられて殺された俳優がいた。それも入れよう。四谷左門町の田宮家には怨霊がいたことにしよう。江戸の人間なら、だれでも記憶にある事件を作家の空想力で操り、脚本はできた。しかし、四谷が舞台では露骨すぎる。「お岩」の名前だけ借りれば十分だ。南北が付けた題名は「東海道四谷怪談」。四谷の於岩稲荷の事実とは無関係な創作であることを示すことにした。天才的な劇作家が虚実取り混ぜて創作したのが、お岩の怨霊劇だった。】続く
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【第三幕 時は、文政八年(1825年)。江戸文化が最も華やかで、文化爛熟(らんじゅく)といわれた時代。寛政から始まった幽霊物の読み本が最盛期を迎えていた。果たせるかな、歌舞伎は大当たりした。お岩は三代目尾上菊五郎、伊右衛門は七代目市川団十郎の「東海道四谷怪談」は江戸中の話題をさらい、以来、お岩の役は尾上家の「お家芸」になったほどだった。歌舞伎がますます於岩稲荷の人気を煽った。あまりの人気ぶりに幕府も当惑し、四谷塩町の名主・茂八郎に命じて町内の様子や出来事をまとめさせ、奉行に提出させている。歌舞伎の初演から二年目のことだった。】先ほどの新宿区の説明が間違っていることが、お分かりいただけると思います。続く
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通りすがりの、おばさんがお祈りして行きました。
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かすれて見えない説明版。直して欲しい!
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続きです【第四幕 時は、その後。所は四谷左衛門町の於岩稲荷神社。この歌舞伎の影響力は大きかった。最初は出演した役者がもっぱら参拝していた。そのうち上演前に参拝しないと役者が病気になる。事故が起こるといった話にまで発展するようになった。祟(たた)りがある、という声もあったが、事故の原因はほかにあった。なにしろ怪談である。トリックを凝り、道具だても複雑になり、多くなる。おまけに怪談だから、どうしても照明は暗い。また天井からの吊るし物も多い。そんな中で芝居することになるので怪我が多かった、ということだろう。それにからめて「祟り」とむすびついたのである。】
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【第五幕 時は、明治以降。所は中央区新川。 「東海道四谷怪談」を手掛けては天下一品といわれた市川左団次から、「四谷まで毎度出かけていくのでは遠すぎる。是非とも新富座などの芝居小屋のそばに移転してほしい」という要望もあり、明治十二年(1879)の四谷左衛門町の火事で社殿が焼失したのを機会に、隅田川の畔(ほとり)にあった田宮家の敷地内に移転した。それが現在の中央区新川にある於岩稲荷神社で、四谷の稲荷神社とまったく同体の神社だ。その新川の社殿は昭和二十年(1945)の戦災で焼失したが、戦後、四谷の稲荷神社ともども復活して、現在は二つの稲荷神社がある。】以上パンフレットからの写しです。(大変だった!置賜桜回廊依頼の難儀であったhttp://4travel.jp/traveler/hatago/album/10143202/)
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現在は新宿区左門町、昔は左衛門町だったのでろうか?
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JR信濃町へ帰る途中の「暗坂(くらやみざか)」
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JR信濃町へ帰る途中の「若夏荘」沖縄県東京宿泊所
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参考にさせていただいたパンフレット、右側「於岩稲荷田宮神社」は「東京のお寺と神社謎とき散歩」岸及青柳著(広済堂出版発行)からの抜粋だそうです。左側は「ぶらりと粋なお江戸下町神社案内」中央区新川にある於岩稲荷神社の案内です。ありがとうございました。お岩様は大体理解できたでしょうか?しんちゃんの憶測を書くといけないので、読んだ方の理解度にお任せします。注目点は「日蓮宗・於岩稲荷・陽運寺」の立て札説明版の「戦災に遇い協議の上本堂を栃木下野(しもつけ)から薬師堂を移築再建した」という所ではないでしょうか……完
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