2008/05/13 - 2008/05/24
122位(同エリア207件中)
明石DSさん
海拉爾の朝
カーテンを開けると朝陽が差し込み
伊敏河の風景が見れる
ホテルを変わってホント、ラッキーだった。
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7日目:海拉爾:5月19日(月)晴れ
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2008.平成20年5月19日(月)
■海拉爾の一日
6時ごろ起きてシャワーを浴び、気合を入れ直して今日の準備をする。窓を開けると伊敏河が見え、部屋が東向きなので朝陽が降り注ぐ、河川敷公園を散歩する人たちの格好はまだ明石であれば冬の装いなので、海拉爾の朝はまだまだ寒いのだろう。
今日も朝食には成吉思が来たが、運転手の漠河は来なかった。この海拉爾賓館も満洲里の国際飯店と同じく、値段の高い1楼と私が泊まった(一泊200元)2楼が同じ敷地に廊下で繋がって建っている。そして一階ロビーに行くには一度2階でエレベーターを降りて廊下を歩いて1楼の方へ行かないと外には出れない。
大きな張り紙を要所に張っているが、私だけではなくみんな勘違いしたり、つい忘れたりで2楼の一階に下りて行こうとする。そういった人には服務員や従業員がその都度声を掛けて教えてくれる。私も三泊の間に2〜3度、うっかりそのまま下に降りようとして呼び止められた。
2楼は外へ出るまでが迷路で火事になったら恐い。そんな欠点もあるが、朝食は1、2楼同じ食堂、メニューなので2楼に宿泊する者にとってはラッキーだ。この賓館の朝食バイキングもホント良かった。
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宿泊値段は違っても朝食は同じ
満洲里もそうだったけど、これはお得で〜す
成吉思も知ってるから朝飯食いに来た -
ここも最近大金を投じて愛国主義教育基地??として改修していた
遺跡として残すというより観光公園にしようという魂胆なのか
その発想には付いていけないが、どうしようもない
真実・事実・漢人には興味がないだろう
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■8時出発:関東軍の地下要塞を見に行く
まず関東軍が海拉爾に作った要塞(北山陣地:河南台)の見学に向かう。そしてその前に今日は成吉思が都合があって?見習いのガイドを私に付けるということで途中でその人を乗せた。
見習いガイド(女性)の名前は兆紅(仮名)40代。
海拉爾生まれで、上海の医科大学に6年間学び卒業したが医者の資格を取得しないまま、恋人(中国人:母が残留孤児の日本人)と共に日本に行き結婚、16年間日本の栃木県で生活する。主人は中国で工業大学を卒業しているが日本では工場で単純作業をしているそうだ。そして、すでに日本国籍を取得している。
残留孤児の姑(66歳)は、3、4歳の時から中国人の養父母に育てられ今は日本に中国人の夫ともに帰国し日本で暮らす。日本語は夫婦ともあまりしゃべれないが中国人の夫も日本が気に入っているようだ。生活保護で二人で暮らしているとのこと。
兆紅は父親がエヴェンキ族、母親は漢族、そして自身はエヴェンキ族として戸籍登録とのこと。中国は少数民族優遇政策があり親のどちらかが少数民族であれば、そんな選択する場合が多いようだ。2年前に父親が肝臓ガンで北京の病院に入院し亡くなるまで日本と北京の往復で大変だったそうだ。
そして今年になり母親のリューマチが悪化し一人娘である彼女が介護の為に帰国している。日本にいる主人とは別居中だが離婚はしていない。彼女の両親は共に国営の銀行マンで海拉爾では豊かな生活を享受し、退職後も恵まれた生活のようだ。
そして彼女も医学部に進んだのだが、日本に行ってコンビニ店などで働く日々を送ってきたそうだ。小学校1年生(日本では2年生)の娘も海拉爾に連れ戻っている。将来のことは今はまだ何も決めていないということだった。
海拉爾に帰国後は地元大学で臨時の日本語講師として週に四日ほど授業を受け持っているようだ。それに加えて今度は日本語ガイドとして成吉思に声を掛けられ準備中らしい。ガイド資格はまだない。今日が初めての見習いガイドデビューのようだった。
そんな彼女を乗せて計四人で北山陣地跡に向かった。近づけば小高い丘にコンクリート製の戦車があちこちに散りばめられて置かれている。所謂、この地も中国の愛国主義教育基地として、最近、大枚を投じ嘘も捏造もお構いなく、その体裁を整え公園化しているようだ。遺跡保存と言いながら哀れにも、テーマパークに成り果てようとしている。
戦史とも遺跡とも全く関係のない中国の戦車を置き、囚人だらけの鬼畜ソ連兵を奉るモニュメントを設置し、ソ連軍に解放されたと称する愚かな中国人が自らの愚かさを証明するようなものである。
門票は20元:ガイドは門票は不要。7号洞と書かれている地下要塞に早速降りて行く。コンクリートで作られた要塞の地下の温度は低く空気は冷たかった。大概地下や洞穴は外気と遮断され、四季を通じて冬暖かく夏涼しいという安定した温度であると思っていたので、この地下要塞の冷蔵庫の中のような寒さは意外だった。
一見して日本人が作った立派な要塞だという印象である。通路にも左右に側溝がありコンクリートの壁も亀裂があるところもあったが全体に美しい。海拉爾市街を囲むように、ここ北山、向かいの東山、南松山、東南山、その他の陣地とうとう沢山の要塞が作られている。
そして8月9日のソ連侵攻後にはここ海拉爾要塞は第80旅団長・野村登亀江少将以下、全軍頑強に抵抗し終戦まで大半の陣地を保ち耐えたそうだ。白布仁の説明では『8月8日〜18日まで10日間戦い降伏したとのこと』
関東軍は在留邦人を置き去りに逃げたというのは、詳しく知らないまでも私はまったく信じていない。この時も地下で写真を沢山撮ったがデジカメの調子が悪いままでピンボケが多い。又、海拉爾最後の二日後にここに来てじっくり見て、写した。その時はデジカメの調子も戻っていた。 -
コンクリートで作った戦車を並べて・・・。
一体こんなことを誰が考え、誰が許可するのか?
自分の趣味で、国の金で、好きに作るのはオモロイだろうが -
戦車は中国の戦車のようだ
一体この場所に何の関係があるというのか?
無駄なことには大金を投じ、無責任に儲ける
そんな仕組みがいつまで機能するだろう? -
海拉爾要塞:7号洞
-
地下要塞は、どの程度の状態で残存していたのか?
どれだけ改修しているのか不明だが
日本軍が書いた文字も壁に残っているので
中は、ほぼ今の状態のまま残っていたのかも知れない
この時デジカメ不調に付き、
内部の写真は二日後(21日)に来た時のものを掲載する -
海拉爾神社跡:(現:西山広場)
何故か?手水舎だけが残っている
満洲時代、近くに女学校があり、小学校があった
そして、第23師団長小松原道太郎中将の慰霊碑も
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■9時19分:海拉爾神社跡(現在:西山広場)へ行く。
神社跡と言っても、その痕跡は唯一コンクリート製の手水舎が残っている。何故?これだけを残しているのか不思議だが。ここには当時、ノモンハン事件の一年後に東京で亡くなった(自決?)第23師団長小松原道太郎中将の慰霊碑がここに立っていたそうだ。
そしてこの附近には海拉爾女学校・日本人の小学校があり、忠霊塔の原っぱは、日本人小学校に通う子供たちの陣取り合戦の遊び場所だったようである。
9時26分:日本人小学校へ行く。(現在:文化街小学校)
海拉爾神社跡から西北にある小学校で、今もそのまま校舎が文化街小学校として使われている。そして偶然にもこの小学校は、見習いガイドの喬宇の通った小学校だった。海拉爾でも有名校らしい。中国では小学校も校区がないようで、ランク付けがあるようだ。
昔の日本人の海拉爾の思い出手記にこの小学校から海拉爾女学校を挟んで海拉爾神社があったと書いているので、きっと現在の越桔西街にある海拉爾第二中学校が満洲時代の海拉爾女学校があった場所だったと思う。確証はないけど。
9時36分:日本軍 独立混成第八十旅団司令部跡
さっきの北山陣地の地下要塞に、ここの写真と「関東軍、独立混成第八十旅団司令部跡」との記述があった。海拉爾駅から近い、南西方向、陵園路にある。現在は内蒙古:海拉爾、農墾総病院の一部として使われている。病院本体の裏側にあった。
この建物に日本軍人が闊歩し、満洲を仕切っていた。強い日本時代を生きた日本人は例えそれが一時期であったとしても、そして敗戦と言う挫折を味わったとしても不幸な人生だったとは思えない。
私は生まれてこの方、豊かで平和な時代を生きているのだろうが、真の独立国とも言えない日本国民として人生を終えるのかと思うと無念である。確かに「選べ」と言うなら「楽」な今を選ぶかも・・・。でも「楽は苦の種」も、また真理である。 -
コンクリート製の手水舎
このまま何時までここにあるのだろう -
神社跡から前方を写す
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海拉爾、旧日本人小学校跡
今も文化街小学校として使われている
今日の見習いガイド:喬宇の出身校だった -
二階建て木造校舎
日本が作ったものだからこそ今も使用可能なのだろう -
この海拉爾、農墾総病院の裏側に
独立混成第八十旅団司令部跡がある
駅からすぐの場所 -
独立混成第八十旅団司令部跡
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海拉爾国家森林公園
門票は一人10元
私・ガイド・運転手・駐車場代
10元の門票を4枚買わされた
今日が初めての見習いガイドは何も分からない
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■10時00分:南松山陣地跡(海拉爾国家森林公園)へ行く。
ここに来る途中成吉思は車から降りて、日本語見習いガイドデビューの兆紅と漠河(Mo he)の三人となった。そして南松山陣地跡が残されている公園に行った。門票がいるのだが、普通はガイドは不要のはずが兆紅は窓口の女性に押し切られ結局一人10元の門票を車の駐車場代を含めて4枚計40元も買わされる羽目になった。
それでも兆紅は普通の顔で私にそれを要求する。この辺が信じられない・・・けど、これが中国人の本質なのかと諦める。日本にいくら長く住んでも日本人の常識は身に付かないようだ。日本人ガイドなら、幾ら見習いと言えども四枚も普通に買わすことは何が何でも気が引けるだろうし、「買わす」としてもお伺いを立てると思うけど。
若者グループや子供づれも多少来ていたが、全容は分からないし公園自体に興味なく、とにかく日本軍の要塞跡を確認したかった。兆紅は地元で育ちながらこんな公園には殆ど認識はなく小さい時に来たことがあるくらいのものだった。最近公園として整備され入場料も要るようになったのかも知れない。
そして私のガイドを勤めるように言われているのに、それが何処にあるのか?知らないまま私を案内?しようとしていた。私は最初すぐに分かるところにあるのか、彼女が知っているのか・・・そう思っていたが目ぼしい目印や案内表示もなく、ウロウロ探す状態だった。私は「知らなかったのなら窓口の人に聞いてくれれば良かったのに・・・」と、彼女に言ったが反省の様子もなにもなく二人で探す羽目に。
そして「侵華日軍工事」と書かれた小さな案内標識を見つけ無事に発見。そこはコンクリートの瓦礫があるだけに近かった。地下要塞になっているのか?否か?まだ整備もまったく行われていなく地表に要塞の一部がコンクリートの残骸として残り、一枚の説明が書いた標識板が立っていただけだ。確かに要塞を思い起こすに相応しい分厚いコンクリートの残骸ではあった。そして、ここでも戦い亡くなった日本軍兵士が眠っているのだろうと思う。 -
南松山陣地跡を探す
北山陣地跡の規模が凄かったので
こっちもそうなんだろう・・と思っていたが -
こんなコンクリートの瓦礫が転がっていた
この下に地下要塞が眠っているのだろうか?
こっちは全くまだ整備されていない様子 -
「侵日軍工事」との建て看板
1934年以来、日本軍がこの辺境の地に
15ヶ所の要塞を作った。その一つ
ソ連参戦により破壊された遺跡として残している -
この要塞跡が見つけた中で一番大きかった
他に有ったのかも知れないが・・・。
まだ発掘整備されていないのではないのかと思う -
地元の兆紅が教えてくれた
海拉爾で一番大きな百貨店
海拉爾の中心街にある
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11時31分:友誼大厦へ行く
兆紅に旧日本遺跡のガイドを期待しても無理なようだし、この海拉爾で一番賑やかな場所に案内を頼んだ。そして、その中心街にある一番大きな百貨店だと言う「友誼大厦」に入った。兆紅も「たまにここに来る」と言っていた。
私の少ない中国知識だが、どんな辺境都市でも街は新しい新都市のような風景になり、百貨店などはどこの街も変わらぬ華やかさがある。ちょっと離れた郊外の農村地帯の生活の雰囲気と、あまりにかけ離れた高価な商品が並んでいる。
そんな「天と地」の極端な差に、老百姓(庶民)はどんな思いがするのだろう。まあ私の推測では、これがこの大陸の遥か過去からの現実であり、極端な差があり、ごく一部の富裕層が貧者を横目に平然と暮らせるのが中国大陸の揺ぎ無い文化なのだと思う。
昼食まで近くのケンタッキー店でジュースを飲んで休憩した。
兆紅の人生は、この海拉爾で恵まれた家庭に生まれ、何不自由ない子供時代を過ごし、両親の期待を担って上海の医科大学へと進んだ。絵に描いたような幸せ家族が、兆紅が残留日本人孤児の息子として生まれた恋人と日本へ旅たったことは、喬宇の両親にとっては驚天動地のような出来事だったと思う。
中国での医師の資格取得も放棄し、日本で彼と結婚しアルバイトで生計を立てるようになった。そして2年前に父親の入院と死、今年に入って海拉爾の母親の介護の為に主人と別居して子連れでの帰国と、彼女の人生は大きく転機を迎えた。そんな彼女だが、凄く積極的であり前向きな女性であった。
「誰でもが出来ない多くの経験をし、精神的にも強くなった。今となっては医師資格を取らなかったことは悔いが残るが、人生を後悔していない。大学で日本語講師をし、週に何度かフィットネスクラブに通って身体を鍛え、今度は日本語観光ガイドに挑戦しようと思っています」と明るく語る彼女だった。
私も彼女のそんな話を聞きながら“人生とは”・・・を、考えた。地位を得、名誉を得、財を成すことも立派な人生であり無論否定はしない。でも人には、それぞれの人生があり、生まれた以上それぞれの役割があると思っている。全部が偉い人に成り得ない。ならば他人や国家に不要な迷惑を掛けなければ、どんな人生にもその時代を構成する社会人として立派にその役割を果たしていることと思う。
大事なのは自分で選んだ人生を卑下したり、他人と比べたりせず、堂々と自信を持って生き、そして堂々と死を迎えることだと信じる。「自の人生」と、言っても与えてもらった命であり、次代に責任を持って引き継ぐことは必定だ。そして、その責務を最低限果たしながら、その上で大いに楽しもう・・・と。ええ加減な我が人生を自分自身で肯定する為なのか?兆紅と話をしながらそんなことを思った。
11時45分:しゃぶしゃぶを食う
「国府肥牛」という店で三人で昼食を食べた。海拉爾の「しゃぶしゃぶ」と言っていたが・・・。似たような物だった。
一人一人個別の小型の鍋とガスコンロで食べるようになっている。兆紅が言うには中国も日本に習ってなのか?大鍋でみんなで囲むというのだけではなく最近はこんな食べ方も出てきたようだ。昼食代は113元、13元のオーバーだったが、初めてのガイドの兆紅はまだそんな要領も無く。やっぱり旨い食い物を食うには地元の人に連れて来て貰わないと、ホンマ無理だ。
食事をした後、まだガイドも貸し切り専用車の時間もたっぷりあるが、私の予定は終了に付きホテルまで送ってもらい二人に別れを告げた。17日から三日間世話になった漠河と今日が初めての見習いガイドの兆紅にチップを渡しサヨナラをした。もう再び会うことのないだろう一期一会の出会いと別れが旅そのものだ。 -
この店で“牛肉しゃぶしゃぶ”を食べました
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大鍋ではなく、個々に鍋とボンベがあります
中国も最近、「清潔」ということで
こんなものが出始めたようです
味は良かったです -
海拉爾市内の散歩
海拉爾賓館から出発です
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■1時50分:出歩く
部屋で休憩し、地図と磁石を手にしてホテルから出発である。やはり一人で自由気ままに歩くのが私は一番好きだ。ホテル前の伊敏河では伊敏橋の附近で、投網による漁をしていた。そういえば時折、釣竿を持った人たちに出会った。この河で釣りを楽しむを人も多いのだろう。
満人は魚を食べなかったようで、昔、海拉爾に住んだ日本人の手記には「この辺に点在する沼では、釣り糸を投げ込むと、すぐに大きな鮒が釣れた」と書いているが、今は漢族が多くなりこんな釣り風景も当たり前になっているのだろう。
2時25分:中国銀行で最後の両替をする
伊敏橋を東に渡り、阿栄路(A rung lu)沿いを南に歩き、その途中にあったと思うけど、その中国銀行で両替をした。2万円(653.28元×2=¥1,306元)これがこの旅の最後の両替になったが、やはり無駄な出費を控えようと思っても、ある程度の金は使ってしまう。ケチケチ旅行だけというのは面白くないし・・・。 -
ホテルの横に海拉爾市第七中学校があります
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伊敏河に架かる伊敏橋を東に渡ります
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伊敏河で投網漁をしていました
何が釣れるのか?
釣竿を持っている人を時々見かけます -
橋を渡って、最初の阿栄路(A rung lu)を南に歩きました。
途中にあった中国銀行で最後の両替をしました(二万円) -
自宅へ出張サービスの貼り紙
理容美容などなど
老人、病人、障害者、幼児
一回10元(150円)・・・安いです
何時でも電話OK、すぐに行きます -
阿里河路にて
5月19日午後2時30分頃
突然サイレンが鳴り出し、車は警笛を鳴らし
勤め人は道路に並んで黙祷です
何か?と思ったら「四川地震の哀悼を表す」ということのよう
昨日までそんな雰囲気は全然なかったのに・・・。
私は知らずに歩いてました
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2時30分頃:四川地震への哀悼を表す
どこかの路を左折(東へ)し、最初私が泊まる予定だった北苑賓館の前(阿里河路)を歩いた。「05〜06:地球の歩き方」の本の地図に書いている道の名前と、私が海拉爾で買った地図の道の名前が若干違う。名前が変わっているので分かりにくい時もあった。
ちょうどその頃、いきなりサイレンがどこかで鳴り出し、それに合わせて車が警笛を一斉に鳴らしだした。一体何が起きたのか?何か事故でも起こったのか?と、前方に人だかりがあるような気がして歩調を速めた。ほどなく歩道には会社の勤め人や、役所の人たちが並んで黙祷している姿が目に留まり、やっと意味が飲み込めた。そうか四川地震の為の黙祷だったのか?・・・と。
歩道を歩く人も大体立ち止まっていたようだったが、私は気が付くのが遅かった。国旗掲揚してるところは半旗になっていた。12日に地震が発生し、今日19日、哀悼の意を表したり、黙祷するのは早過ぎるんとちゃう?と、思った・・・けど。日本なら考えられないことだ。まだまだ生き埋め状態で助けを待っている人も沢山いるはずである。そんな時に、もはや幕引きをしようという魂胆なのかと。
そして、それは19日から三日間続いた。テレビ番組は見事に全部が地震番組オンリーである。最初は胡錦濤・温家宝の現地視察と、被害者の励ましと、関係各所に救助、復旧対策の指示を与える姿を延々と繰り返す内容。
そして英雄的な救出劇の様子。各地での地震災害への寄付集めの様子、等々であり、実際の被害の状況などの情報は限られており全容は不明だった。そして現場の深刻な被害者の声も、政府や行政への不満や訴えの中継は無論なく、詳しい実際の状況は分からなかった。
とにかく徹底して19,20,21日の三日間は地震番組オンリーで、他の番組やオリンピックの話題も、私が部屋にいるのは短い時間だけだけど一切なかった。なので最初はテレビのチャネルが壊れたのか?何か?電波に不具合でも起きているのか?と、思ったくらいである。ワンバもその三日間は全国すべての店が営業を止められた。 -
役所関係はどことも半旗を掲げていました
今日19日から20.21日と三日間続きました -
阿里河路から勝利大街を左に曲って(東へ)歩く
すぐに成吉思汗広場が見えて来ます
■3時10分:成吉思汗広場に行く
北苑賓館の前を南に歩き、勝利大街を左折(東へ)し、少し行った所に右手、諾敏路ぞいに成吉思汗広場がある。この広場は「05〜06:地球の歩き方」の地図には「人民公園」となっている。ならば、ごく最近、成吉思汗広場として整備されたのだろう。こういったものは全て共産党幹部への資金還流の構図なのだと感じる。
幸い高台になって市中が展望出来そうなので登っていった。この地が成吉思汗の謂れのある地なのか?知らないが、モンゴル語の碑文が銘記された石碑があり、この地に何らかの意味があるのかも知れない。成吉思汗出生の地にいわれのある???巨石が置いてあった。哈爾濱でもそうだったが、この辺は公園や広場で老若男女がローラースケートで遊んでいるのを良く見かけた。
そこから又歩いて伊敏河を越えようと思って海拉爾大橋へと向かって歩いたが、橋を架け替えるのか?補修するのか?工事中で渡ることが出来ず、足も棒になっていたのでひとまずタクシーで海拉爾駅まで行った。
でもこの時うっかりメーターの無い白タクに乗ってしまい、その上乗る時に15元という約束をしてしまって、乗ってから“ハタ”と気が付いた。女性の運転手だったが、「何でこんな高いの?」と嫌味を言ったら、女性運転手は顔を赤らめて言い訳をしていた。「まあ、しゃあない」5元(75円)も損をした。 -
成吉思汗広場
ここも新しい公園のようでした。
あの上に登れば少しは見渡せるかも・・・です
全体を見渡せる高いところがいいです -
さすがに成吉思汗広場
モンゴル文字だけの碑がありました
成吉思汗は内蒙古に出生地があるようです
今では漢族にすっかり押さえられていますが -
展望台はあまり高くないので公園が見渡せる程度です
月曜日の昼下がり、でも人はまあまあ多かったです -
成吉思汗出生地の石
・・・と、言っても誰も信用していないと思います
日本人なら分かりませんが -
成吉思汗広場から更に南方向に歩く
ここにも新しい広場が作られ
こんなデッカイ像を置いています
今回の旅行ではどこに行っても
やたら必要ない物をつっているのが印象に残っています -
海拉爾駅
駅に向かって右側に行くとすぐに陸橋がある
駅の乗降口は向こう側にない
一旦こっち側に出てから陸橋を渡って向こう側に行く
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■3時56分:海拉爾站から歩きで再スタート
駅前から又スタート。地図と磁石を手にして歩くのが一番旅の実感がある。自分がどっちを向いて居るのか良く分かる。
まず満洲里站もそうだが駅への表玄関(出入り口)が片側にしかなく、それも中心街とは反対側が表玄関のこともある。この海拉爾もそうだった。なので先ず線路を越えなければならない。陸橋は海拉爾駅を正面に見て、右側(南南西)に少し歩けばあった。その陸橋を渡り、まず明日のノモンハン行きを考えて、バスの駅を確認しておこうと向かった。
4時37分:海拉爾汽車站(バスの駅)
表玄関から線路を越えて車站路を伊敏河の方向(東)に歩けばすぐの所(来信子路との角)にバスターミナルはあった。白布仁に聞いたところ新巴爾虎左旗行きのバスは7時から一時間一本の間隔であると言っていたので、この站の場所が分かればそれでよしであった。この車站路をそのまま伊敏河方向に歩けば海拉爾賓館がある。
次に、ここも海拉爾站からほど近い、今朝行った独立混成第八十旅団司令部跡に行った。農墾総病院の病院の敷地内にある。それから地図を見ながら順番に・・・。バスターミナルから巴爾虎東路を南西方向に歩けば旧寺田公園、今は「ソ連紅軍烈士陵園」に行ける。そこから次に今朝行った日本人小学校を探して歩く。そして無事に辿り着いた。
こうやって歩いて回ると、それぞれの位置関係も把握でき、町全体の感じも徐々に掴めて来る。これが一人旅の醍醐味と思っている。ツアーでも、ガイドを頼んでもそうだが移動がバスや車だと、点と点を結ぶだけでそれが街のどの辺りにそれぞれ有るのか全く分からない。それでは私にとってどうにも面白くない。
この後、時間も5時半ごろになっていたし、とにかく足が棒になっているのでボチボチ足を引き摺りながらも歩いてホテルへと戻って行った。遠いと感じていたがデジカメの写真の時間を見れば30分足らずで日本人小学校から海拉爾賓館まで戻って来ていた。 -
線路を渡る陸橋
単車に自転車に歩行者に
異国の人間ウォッチングも面白い
庶民が行き来する道です -
陸橋より駅構内を写す
旧東清鉄道、満鉄ですね -
この陸橋には満洲里と違って頭の上に看板はないです
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南側、駅前広場はありませんがこっちの方が市街に広がっています
私の宿泊する海拉爾賓館も伊敏河もこっちの方向です -
海拉爾汽車站(バスターミナル)
車站路を伊敏河の方向(東)に歩けば
すぐの所(来信子路との角)にバスターミナルはあります
明日はバスとタクシーを使って再度ノモンハンに行くつもり -
独立混成第八十旅団司令部跡
駅から地図と磁石で午前中に行った場所に行きました。
歩いて巡るのが私の旅だと再認識しました
ガイドも必要ですが、それだけでは面白くないです -
旧寺田公園、今は「ソ連紅軍烈士陵園」
寺田公園の名前の由来は
当時の関東軍高級参謀:寺田雅雄大佐かも・・・。 -
日本人小学校にもやって来ました
この近くに海拉爾神社もありました
そして7時に成吉思とホテルのロビーで残金の清算をする予定なので、しばし部屋で休息した。7時前に部屋に成吉思から電話がありロビーに降りていったら居ないので、外に出たら成吉思がタクシーを降りてこっちに向かってくる姿が見えた。それが何時もの彼のやり方だったのに忘れていた。いつも到着前に電話をして来て、「もう自分は着いて下で待っている・・・」と言うようなことを言っていた。
この賓館はロビーが改装中で椅子がなく私の部屋に上がって清算した。残りの「1万円と750元」の入った封筒を渡して「確かめて」と言っているのに最初と同じく確かめずポケットにしまい、明後日の斉斉哈爾行きの切符を私に手渡した。
彼らの都合で阿木古朗に宿泊せず、海拉爾で三泊することになったので、彼もそのことを気にしてか「斉斉哈爾行きのバスも出ているし、汽車の時間に迎えに来ますよ・・・」とか言っていた。「いや一人で大丈夫だから・・・」と申し出を断った。
そして、見習いガイドの兆紅が「成吉思さんは頭も良いし、人柄も凄く良い人ですよ・・・と、誉め捲っていたよ」と伝えると、満更でもない顔をしていた。たった一人の日本のからの旅行者の為に、誠意を持ってやってくれた彼に少しだけのチップを渡し別れた。
モンゴル人としての誇りを持ち、内蒙古に暮らすモンゴル族が漢化される事を恐れている彼だった。別れ際に私が、彼と交わしていたいつもの冗談で「じゃあ元気で、一生選挙の出来ない人生だろうけど・・・」と言うと、彼も「また○○国を作って下さいよ」と互いに冗談ながら本心?を言って別れた。
成吉思と7時に約束していたので、一緒に飯を食うのかと思っていたが、「後から食べます」と帰ったので、一人で晩飯を食いに出かけた。昨日の店に行き姑娘に紙に書いてもらった物を頼もうとしたが、麺ではなく野菜だというので、やっぱり大碗(拉麺)と餅二枚を頼んで食った。その後、近くのワンバに行ったが閉まっていた。その時は19.20.21日とワンバが全国一斉に休業するとは露しらなかった。
近くの同じコンビ(超市)に行き、ジュースと水を買い部屋に戻る。さあ、明日は再度バスとタクシーで海拉爾〜ノモンハンに行くぞ。 -
足が棒になりホテルまで帰って来ました。
この交差点がホテル前の交差点です
正面の黒いビル、上に「夜色」というネオンが目印でした
夜色倶楽部って?想像出来そうですが
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