2008/04/16 - 2008/04/17
5360位(同エリア6126件中)
ちゃおさん
西洋では丁度イエスキリストが亡くなった頃、この東洋の地では、倭国の那の王様が後漢の国王より冊封を受け、金印を賜った。
「漢委奴国王印」がそれである。
数年前、上野国立博物館で金印展が行われ、ほんの2−3cm四方の金印がガラスケースの中に入れられ、下から反射鏡で文字が見えるようになっていて、2000年経った今でも輝きを失っていない山吹色に深いロマンを覚えたものだったが、今日はその「金印の島」、「志賀島」を訪れることができた。
博多港を出航した双胴の高速船は、博多の町をみるみる後方に遠ざけ、前方遥かに小さく見えていたこの島をぐんぐん近づける。
乗船して僅かに30分、「海の中道」にある波止場2箇所に寄港した後、「志賀島」に到着する。
日昼の乗船客は僅か数人の地元客。春の陽光、汗ばむくらいの暖かさで、一人金印公園に向かう。
志賀島小学校を過ぎると人家も絶え、後は海岸に打ち寄せる波の音と、強い磯の香りのみ。
海岸沿いの道路を歩くこと約30分、島が博多湾に向って一番突き出た辺りにその公園はあった。
この島の反対側に位置する能古島(のこのしま)と対になる形で、博多湾を閉ざしている。
最も重要な海門(うみど)となっているこの場所から金印は発見されたのだった。
法隆寺百済観音に次ぐ国宝第2号の金印。(と記憶しているが間違いかも知れない。)
春の一日、この丘陵の畑を耕していた農民の鍬の先に「カチッ」と当り、千数百年ぶりに土中から引出されたものだった。
今日は波静かな外海の玄界灘と内海の博多湾。有史以前より数え切れないほどの朝鮮半島との往来。
一衣帯水の海。
金印を授かった600年後にはこの島から斉明軍が半島に船出し、戦に負けて逃げ帰り、更にその600年後には蒙古軍が大挙して押し寄せ、鎌倉軍に負けて押し返され、それから更に600年、この島の沖合いで日清、日露の両軍が戦い、二つの戦に辛うじて勝った帝国軍はいよいよ戦争の深みに入り込み、それから僅かに50年、戦争に負けた日本は全てを失い、多くの日本人は命からがら大陸、半島から逃げ帰ってきた。
戦争に彩られているかのように見えるこの海も、平和な海でもあった。後漢王から賜ったこの金印もそうであるし、300年後、卑弥呼が魏王から賜った金印、それから更に300年後から始まる遣隋使、遣唐使の時代、多くの文物はこの海を渡って招来され、今は東大寺宝物殿に大切に収められている。
そして今、博多ープサン(釜山)を僅か3時間で結ぶ高速フェリーが往来している。
今は又平和な時代の一衣帯水が蘇っている。
わたつみ・綿津見・渡津海・海神の神を祭る志賀海神社にお参りし、この金印の島を後にした。
折りしも夕日にくすむ博多湾口を後にし、西日を受けた福岡ドームの丸屋根、そのずっと後ろの背振山のなだらかな頂は2000年経った今日も変わらない。
< 春の海 那の津の浜も 輝けり >
-
双胴船の快速艇は博多港から島まで、30分足らずで運んでくれる。
-
遠ざかる、博多港。右の丸い屋根が福岡ドーム。
後方には、背振の山が薄っすらと見える。 -
前方の島が志賀島(金印の島)。
-
海に面して、金印公園がある。訪れる人も少ない。場所を聞いても知らない人が多かった。
-
前方に見えるのが「能古島」。島との間は僅か3キロ程度。海門(うみど)になっている。
-
江戸時代、ミカン畑を耕していた農夫が、この場所で金印を見つけたが、今は過疎化がすすみ、畑も耕す人もいなくなっている。
-
歴史的にも由緒ある、島の鎮守、「志賀海神社」。
-
かつて斉明天皇もこの場所に於いて戦勝祈願した亀石。方向は、宗像、沖ノ島に向っている。
-
この神社内にある重文の石塔。県内で一番古い石造物。
-
もう来ることもないであろう金印の島を後に、一路博多港へ。
この旅行記のタグ
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。
旅の計画・記録
マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?
0
10