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新年早々嬉しいことがありました。<br /><br />吉永小百合さんから年賀状が届いたのです。<br /><br />「長く会っていなくても心が通う。そう信じる私の気持ちを贈ります」と記されていました。<br /><br />驚くべき美しい筆跡です。今年は新年早々縁起が良い。<br /><br />彼女はいつの間にか日本人の良心を代表する方になられました。<br /><br />正月の馬鹿番組にも一切出ていないし自分自身をしっかり保っておられる。<br /><br />いつも気品を持って。<br /><br /><br /><br />正月は義父の住む横須賀で過ごしました。毎日晴天続き。<br /><br />窓から見える東京湾が鮮やかな青色でした。<br /><br />遠くにアクアラインの白い橋が連なっているのも見えます。<br /><br />「冬晴れて舟賑賑し東京湾」三郎<br /><br />横須賀市は山に囲まれていますが、その一つに塚山というのがあります。<br /><br />頂上が三浦按人夫妻の墓になっていました。<br /><br />彼は1600年にリーフデ号で日本に漂着し<br /><br />徳川家康に外交顧問として重用され故国イギリスへ帰ることなく1620年55歳で没しました。<br /><br />この横須賀市の一部逸見の地をを所領として家康より分け与えられていたのです。<br /><br />1564年生まれでシェークスピアと同年生まれだそうです。<br /><br />時にイギリスはエリザベス朝の最盛期にてオランダと共にスペインポルトガルを追い落とした時代。<br /><br />三浦按人は洋船造船技術も幕府に導入し、<br /><br />それが仙台藩の大型造船と支倉常長の遣欧へ繋がってそうなんです。<br /><br />そんなことが強く興味を惹きます。<br /><br />今年の歴史探訪は三浦按人あたりから始めようかな。<br /><br /><br />三浦半島の最高峰大楠山にも登りました。標高241メートル。360度パノラマでした。<br /><br />どの名山にも劣らない眺望という人もいます。<br /><br />房総半島、伊豆半島、富士山、大島、江ノ島、全てが見えます。<br /><br />勿論三浦半島全体も俯瞰できますが、面白く感じたことがありました。<br /><br />三浦半島の北側は小山が重なりその間間の海に面しているところに町がある。<br /><br />鎌倉だとか厨子だとか。だから半島内を車で移動するときくねくねと大変時間が掛かる。<br /><br />鎌倉時代の惣領三浦大介の居城は衣笠山にあるが、その山は重なる山々のど真ん中の山なんです。<br /><br />敵を恐れてそうしたんだろう。<br /><br />ところが南側は平たい台地が城ヶ島まで広がる。<br /><br />ここは三浦大根なんかの野菜産地。<br /><br />なぜ山だらけの北側に人口が集中しているのか。<br /><br />地勢と人間の営みといったことに思いが至ります。<br /><br />写真は大楠山からの展望。御粗末な写真ですが富士山が写ってます。

お正月は横須賀でした。

6いいね!

2008/01 - 2008/01

26712位(同エリア45718件中)

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木場三郎

木場三郎さん

新年早々嬉しいことがありました。

吉永小百合さんから年賀状が届いたのです。

「長く会っていなくても心が通う。そう信じる私の気持ちを贈ります」と記されていました。

驚くべき美しい筆跡です。今年は新年早々縁起が良い。

彼女はいつの間にか日本人の良心を代表する方になられました。

正月の馬鹿番組にも一切出ていないし自分自身をしっかり保っておられる。

いつも気品を持って。



正月は義父の住む横須賀で過ごしました。毎日晴天続き。

窓から見える東京湾が鮮やかな青色でした。

遠くにアクアラインの白い橋が連なっているのも見えます。

「冬晴れて舟賑賑し東京湾」三郎

横須賀市は山に囲まれていますが、その一つに塚山というのがあります。

頂上が三浦按人夫妻の墓になっていました。

彼は1600年にリーフデ号で日本に漂着し

徳川家康に外交顧問として重用され故国イギリスへ帰ることなく1620年55歳で没しました。

この横須賀市の一部逸見の地をを所領として家康より分け与えられていたのです。

1564年生まれでシェークスピアと同年生まれだそうです。

時にイギリスはエリザベス朝の最盛期にてオランダと共にスペインポルトガルを追い落とした時代。

三浦按人は洋船造船技術も幕府に導入し、

それが仙台藩の大型造船と支倉常長の遣欧へ繋がってそうなんです。

そんなことが強く興味を惹きます。

今年の歴史探訪は三浦按人あたりから始めようかな。


三浦半島の最高峰大楠山にも登りました。標高241メートル。360度パノラマでした。

どの名山にも劣らない眺望という人もいます。

房総半島、伊豆半島、富士山、大島、江ノ島、全てが見えます。

勿論三浦半島全体も俯瞰できますが、面白く感じたことがありました。

三浦半島の北側は小山が重なりその間間の海に面しているところに町がある。

鎌倉だとか厨子だとか。だから半島内を車で移動するときくねくねと大変時間が掛かる。

鎌倉時代の惣領三浦大介の居城は衣笠山にあるが、その山は重なる山々のど真ん中の山なんです。

敵を恐れてそうしたんだろう。

ところが南側は平たい台地が城ヶ島まで広がる。

ここは三浦大根なんかの野菜産地。

なぜ山だらけの北側に人口が集中しているのか。

地勢と人間の営みといったことに思いが至ります。

写真は大楠山からの展望。御粗末な写真ですが富士山が写ってます。

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  • 横須賀のことについて書きます。<br /><br />この町は江戸時代には精々200戸位しか人のいない寒村だったのが、<br /><br />明治以降激しく人が流入しました。<br /><br />そんな町に誰がしたのかいうと<br /><br />江戸末期に遡って小栗上野介忠順(オグリコウズケノスケタダマサ)<br /><br />という偉い方なんです。<br /><br />彼は徳川幕府の要人で幕末当時勘定奉行。<br /><br />横須賀の地に造船所を作ることに着手しフランスから40名以上の技術者を導入。<br /><br />造船所建造は維新後も明治新政府に引き継がれ、<br /><br />横須賀は日本の近代工業発祥の地となりました。<br /><br />明治の産業発展を担った多くの技術者が育った場所だからです。<br /><br /><br />横須賀湾を臨む海岸べりにヴェルニー公園という洒落た洋風公園があります。<br /><br />ヴェルニーさんとは幕府の命を受けて横須賀造船所の建設に実際に携わったフランス技術者。<br /><br />彼の功績を讃えて公園に名前が付されています。<br /><br /><br />小栗上野介忠順は1827年に生まれ、そして<br /><br />1868年つまり明治維新の翌年に41歳で死んでいます。<br /><br />幕府側の要人だった彼は官軍により斬首された。<br /><br />一方ヴェルニーさんはそのまま新政府にも雇われて1876年に帰国するまでこの事業に邁進できた。<br /><br /><br />なにか矛盾を感じませんか? 公園の名前です。<br /><br />横須賀造船所建設の方針を作り、その方向付けをして予算もつけた主体者が斬殺され、<br /><br />彼の使用人が、(単に使用人の技術者であったからこそでしょうが)継続雇用活用され、<br /><br />高給を得て帰国。<br /><br /> <br />ヴェルニーさんの功績を否定するのではありません。<br /><br />でも公園に名前をつける場合<br /><br />せめて小栗ヴェルニー公園と両者の名前を付さないと公平性に欠けませんかね。<br /><br /><br />ヴェルニー公園からは横須賀港に停泊している沢山の船を見ることができます。<br /><br />殆ど全てが灰色の船と黒い潜水艦。つまり米軍、自衛隊の船たちです。<br /><br />なかなかの景観です。<br /><br /><br />「正月や 潜水艦の 甲羅干し」三郎<br /><br />写真は義父家の食卓。お正月の蜜柑でした。

    横須賀のことについて書きます。

    この町は江戸時代には精々200戸位しか人のいない寒村だったのが、

    明治以降激しく人が流入しました。

    そんな町に誰がしたのかいうと

    江戸末期に遡って小栗上野介忠順(オグリコウズケノスケタダマサ)

    という偉い方なんです。

    彼は徳川幕府の要人で幕末当時勘定奉行。

    横須賀の地に造船所を作ることに着手しフランスから40名以上の技術者を導入。

    造船所建造は維新後も明治新政府に引き継がれ、

    横須賀は日本の近代工業発祥の地となりました。

    明治の産業発展を担った多くの技術者が育った場所だからです。


    横須賀湾を臨む海岸べりにヴェルニー公園という洒落た洋風公園があります。

    ヴェルニーさんとは幕府の命を受けて横須賀造船所の建設に実際に携わったフランス技術者。

    彼の功績を讃えて公園に名前が付されています。


    小栗上野介忠順は1827年に生まれ、そして

    1868年つまり明治維新の翌年に41歳で死んでいます。

    幕府側の要人だった彼は官軍により斬首された。

    一方ヴェルニーさんはそのまま新政府にも雇われて1876年に帰国するまでこの事業に邁進できた。


    なにか矛盾を感じませんか? 公園の名前です。

    横須賀造船所建設の方針を作り、その方向付けをして予算もつけた主体者が斬殺され、

    彼の使用人が、(単に使用人の技術者であったからこそでしょうが)継続雇用活用され、

    高給を得て帰国。

     
    ヴェルニーさんの功績を否定するのではありません。

    でも公園に名前をつける場合

    せめて小栗ヴェルニー公園と両者の名前を付さないと公平性に欠けませんかね。


    ヴェルニー公園からは横須賀港に停泊している沢山の船を見ることができます。

    殆ど全てが灰色の船と黒い潜水艦。つまり米軍、自衛隊の船たちです。

    なかなかの景観です。


    「正月や 潜水艦の 甲羅干し」三郎

    写真は義父家の食卓。お正月の蜜柑でした。

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この旅行記へのコメント (2)

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  • ウサギさん 2008/01/23 22:26:18
    今年もよろしくお願いいたします。
    木場三郎さん

    ご無沙汰しております。

    吉永小百合さんから年賀状!!
    すごーーーーい!!!

    わたしも吉永小百合さん大好きです。

    若い頃もとってもキュートだったけれど、
    年を経るごとに美しくなる女性は、
    女優さんといえどほとんどいないと思います。

    きっと、それだけの年の重ね方をしていらしたんでしょうね。

    今年もステキな旅ができますように。

    ウサギ

    木場三郎

    木場三郎さん からの返信 2008/01/24 07:09:42
    RE: 今年もよろしくお願いいたします。
    うさぎさん。お久しぶりです。全くお留守にしていた旅行記ですが思い出して書いてみました。近場旅行記。今年は近場旅行記を書こうと思います。うさぎさんのページ早速訪問します。近況チェック。

木場三郎さんのトラベラーページ

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