2007/12/01 - 2007/12/01
298位(同エリア395件中)
のださん
遅いランチを摂って、清澄白河駅の南側を中心に回ります。
近くに清澄庭園がありますが、今日はライトアップされるということで、日没後に訪れることにします。
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清澄庭園の西隣の清澄公園を歩いてみます。
ここも元は清澄庭園の敷地の一部だったそうです。
ジョサイア・コンドル設計の「西洋館」が建っていたが、関東大震災で焼失してしまった、とのことです。 -
この公園もなかなか紅葉がきれいです。
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清澄公園をちょっと時間かけて北から南へ抜けた感じですが、雰囲気も良くて気に入りました。
紅葉だけであれば、この公園で十分だと思います。 -
清澄橋という橋を渡ります。
下を流れるのは仙台堀川。
川沿いを歩いてみます。 -
仙台堀川の南側の川沿いを「芭蕉俳句の散歩道」と言うそうです。
所々に松尾芭蕉が詠んだ俳句の看板が立っています。 -
1ブロック抜けると、採荼庵跡。
杉山杉風の別邸です。
ここから奥の細道へ旅立ったとされています。
松尾芭蕉が隠密云々というのは架空の話だとすれば、杉山杉風のような金持ちを数人弟子に持ってパトロンになってもらっていた、という話も考えられますね。 -
北へ進んで、「滝沢馬琴誕生の地」。
下にあるモニュメントは、南総里見八犬伝の全106冊を積み上げたものを表しているものだということです。
南総里見八犬伝は、目が見えなくなった滝沢馬琴のために、息子の嫁であるお路に口述筆記させて完成させた、という話が残っています。
大変な作業だったことでしょうね。 -
この界隈も道がよくわからなくて、時々迷いながら進んで、本立院にやってきました。
実に寺院が多い地域です。
本立院は日蓮宗で、浄心寺塔頭です。 -
「間宮林蔵先生之塋域」。
本立院は間宮林蔵の菩提寺です。
外国の地図で日本人の名前が付いているのは間宮海峡だけだそうです。
鳩山一郎書というのが驚きです。
墓自体はちょっと離れた場所にあります。 -
東へ進んで浄心寺。
徳川4代将軍家綱の乳母・三沢局ゆかりの寺院です。
三沢局は小堀遠州の側室で、小堀遠州が徳川家光の茶道師範であった縁で、家綱の乳母となったそうです。
滝沢馬琴は、この浄心寺の門前の松平信成邸で生まれたそうです。 -
ここにも関東大震災殃死者慰霊塔があります。
黒猫さんがいますけど、私にとっては別に不吉云々は関係ない話です。 -
「洲崎」「遊郭」という文字を見つけました。
洲崎というのも、吉原と同じく遊郭で知られた土地です。
根津遊郭というのがありましたが、その近くに東大を持ってくるという計画が上がって、東大生の気が散るし、風紀上けしからんから移転させる、ということで、白羽の矢が立ったのが洲崎。
わざわざ湿地を埋め立てて造ったようです。
「深川洲崎十万坪」という名所江戸百景中の作品がありますが、あれもでかい鷲が描かれていてインパクトがありますね。 -
水屋。
関東大震災や東京大空襲でも焼失を免れた、という数少ない貴重な遺構です。 -
浄心寺からさらに東へ進み、間宮林蔵墓。
区画の角にポツンとある感じです。
深川蛤町で没したそうですが、晩年移り住んだようです。
深川蛤町は現在の門前仲町付近、かな? -
北へ進み、浄土宗・雲光院。
元は神田にあったが、八百屋お七の火事で焼失し、現在地に移ったということです。 -
徳川家康の側室・阿茶局の墓です。
大坂冬の陣では、本多正純とともに、常高院(淀殿の妹)との和議を成立させるという活躍を見せています。
後水尾天皇と和子の婚儀の際には生母役を務めたほどで、各将軍の信頼も厚かったようです。
皇女出産にも立ち会っています。
阿茶局が開基で、その号をとって雲光院ということでしょう。 -
最初素通りしてしまったが、よく見ると台座に「庄司墓」とあります。
これは元吉原の開設者・庄司甚右衛門の墓でしょう。
側面に「新吉原」云々と書かれてあるので、多分そうです。
へ〜っ、ここにあったのか。 -
さらに北へ進み、臨済宗の宜雲寺。
深川神明宮の境内にあった宜雲庵がその始まりと伝えられています。
三宅島に流されていた英一蝶が、江戸に戻った時に身寄りがなかったのでこの寺を仮寓にしたことから、別名を一蝶寺といいます。 -
境内の庭園はなかなか風情があって良いです。
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ここにもおなじみの乃木希典の忠魂碑。
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いろいろなところに大震災や戦災の供養・慰霊の塔があるということは、その被害がいかに甚大だったかを表しています。
そう言えば、江東区というのは、東京大空襲で最も被害が大きかった地域だというのは聞いたことがあります。
この寺にも一蝶による絵画が多数あったが、例の震災と戦災で焼失してしまった、とのことです。 -
白河小学校前にある、「干鰯場跡」の石碑。
干鰯は、江戸時代には肥料として用いられ、高価なものでした。
房総方面から舟で運ばれた干鰯を陸揚げして売り捌くという、集荷と取引の場が、ここだった、ということです。 -
ちょっと南に歩いて、ここは霊巌寺の塔頭である成等院の敷地。
紀伊国屋文左衛門之碑。
揮毫は野村吉三郎とありますね。
紀伊国屋文左衛門は、実在の人物らしいですけど半ば伝説化されたヒーローで、この界隈ではことあるごとに文左衛門と話を絡ませるそうです。
大名もかなわぬほど吉原で豪遊しましたが、財を成したのは材木によってであって、有名なみかん云々は関係ないとされています。
また、清澄庭園は紀伊国屋文左衛門の屋敷だった、という説がありますが、かなり眉唾物らしいです。 -
紀伊国屋文左衛門之碑からは北西にあたるのかな?
霊厳寺塔頭である雄松院にやってきました。
紀伊国屋文左衛門と豪商を争ったとされる奈良屋茂左衛門の代々の墓がありましたが、関東大震災で焼失したそうで、過去帳に記録のみ残っています。 -
「度会氏園女之墓」。
墓石は随分と新しく見えます。
度会園女は、松尾芭蕉の弟子である女流俳人です。
夫の斯波一有と死別後、深川に移り住んで眼科医をしていました。
その時、近くに住んでいた松尾芭蕉に師事した、ということです。
確か夫も眼科医で俳人じゃなかったかな? -
そして雄松院の東隣のブロックにある霊厳寺。
徳川家康・秀忠・家光の厚い帰依を受けていた雄誉霊厳が1624年に建立し、明暦の大火後現在地に移転してきました。 -
江戸六地蔵の5番目。
享保2年(1717年)ごろの造立だそうです。
江戸六地蔵は、深川の正元というお坊さんによって発願され、正徳2年(1712年)から約10年がかりで、江戸中からの浄財により、旅人と江戸市民の安全を祈願して、各街道口に造立されました。
六道(地獄道、飢餓道、畜生道、修羅道、人間道、天上道)を輪廻する衆生を救う地蔵菩薩です。 -
松平定信墓。
この界隈を白河と言い、最寄り駅も清澄白河と言いますが、もちろん白河藩主・松平定信に由来します。
「白河の 清きに魚の すみかねて もとの濁りの 田沼こひしき」
有名な狂歌です。
「棄捐令」ってのがありますが、札差から多額の借金をしていた旗本・御家人に実質上の借金踏み倒しを認めたものです。
例えるなら、こつこつと借金を返済した優良企業がバカを見て、バブル期に豪遊して巨額の不良債権を抱えた銀行を救済した、といったところで、札差からすれば「んなアホな」って感じでしょうか?
仲が悪いと言われた長谷川平蔵が建議した人足寄場を設置するなど、一応良い改革もありました。
七分積金などは、災害時に町人を救護するものとして優れた制度だったでしょうね。 -
霊厳寺の東側にある深川江戸資料館。
現在16:10過ぎで、閉館まで少ししか時間がないけど、急いで見学します。 -
実物大の長屋や火の見櫓などが再現されていて、タイムスリップした感を味わえます。
一郷土資料館で実現されているのはありがたいことです。
深川佐賀町の一郭なのだそうです。 -
ここにも芭蕉句碑がありましたね。
この界隈ではもう芭蕉の呪縛からは解き放たれません。
さすが忍者だ。 -
「本所深川絵図」という、文久2年(1862年)の図を見てみます。
今日も随分と歩きましたが、幕末では歩いた地域がこんな感じですか。
文字が書かれている方向がまちまちなのは、一般的に頭のほうが門や入り口を示しているかららしいですが、そうだとすると当時と現在とは大分位置が違います。
現在清澄庭園がある場所に「久世大和守」とありますが、これは享保年間に下総国関宿城主・久世大和守の下屋敷となったからだそうです。
その前が、例の紀伊国屋文左衛門の屋敷、と伝えられています。
少なくとも久世大和守に関しては史実なのでしょうね。 -
出口付近から掘割を見下ろしてみます。
特に説明はないみたいですが、あの舟は多分猪牙舟でしょう。
猪牙舟というのは一人乗りで、船足が速く、吉原や深川の遊郭通いによく使われました。
ここは史料を展示しているというより、再現建物が中心のようです。
特別展が先週終わってしまったのが残念ですが、またぐるっとパス使い倒し作戦の時期に来たいです。 -
17時に資料館を出ると、すっかり暗くなっています。
出てすぐ南側が長専院不動寺。
江戸幕府が開かれ、多くの人々が深川に移り住んできたとき、浄土宗の高僧・霊厳上人が広く説法した。
幕府より霊厳寺を建立することを許されたが、なかなか進まない。
近江三井寺不動堂住職の期妙の夢の中に、不動尊像が現れ、江戸に連れて行くように告げた。
お堂を建てて安置したところ、霊巌寺の工事も順調に進みました。
後に不動寺に安置され、上人から「出世不動」と名付けられました。
関東大震災後、長専院と合併し、以来「深川出世不動」として親しまれている、とのことです。 -
それでは清澄庭園に入ってみます。
ここには前島密も住んだことがあるそうですが、明治に入り、岩崎弥太郎が買い取って庭園とした、という話は有名のようです。
続々と人がやって来ます。
入園料は150円で結構安い。
パスモ対応しているのにはちょっとびっくり。
なかなか進んでいますね。 -
いやあ、あんまり光が多くないですね。
ちょっと期待外れかな。
まあ清澄庭園は正直おまけという感じでしたので、ダメージは少ない。
また、暗いので立ち入り禁止になっている箇所が多く、昼間に比べて回れる範囲は相当狭められています。 -
これは中の島を見ているのかな?
どこに何があるかもよくわかっていません。
相変わらず撮影は度下手だなあ。
昼間はまだごまかせるが、夜になると途端に腕の悪さが露呈してしまう。
もう一生技術は上がらないだろうな。 -
これはまだマシなほうか。
清澄庭園は、少なくとも私にとっては昼間に来たほうが良いのでしょう。
またいつかリベンジです。
もちろん、今日は今日で悪くはないですよ。
夜に入場できる機会もなかなかないでしょうしね。 -
大正記念館は、大正天皇の葬儀に用いられた葬場殿を移設したものです。
戦災で焼失したものを、昭和28年に貞明皇后の葬場殿の材料を使って再建し、平成元年4月には全面的に改築されたということです。
大正記念館では、いつもは予約しないと食事ができないそうですが、今日は特別に予約なしでOKのようです。
これも貴重な機会なので、18時にもなっておらず、ちょっと早いですが、ここで食べていくことにします。 -
ライトアップ期間限定メニューとなっているようです。
清澄膳、深川膳が、それぞれ10個限定だということですが、まだ売り切れてはいないので、清澄膳を試すことにします。
1,500円はちょっと高い。
味は、まあ普通です。 -
そして名物であるらしい「深川あさり餅」も試すことにします。
森下の「伊勢屋」さんというお店のものだそうです。
バラでは売っていないらしく、10個で630円ということで、私はそんなに要らないですが、ここで2個ほど食べて、残りは持ち帰ることにします。
原材料表示を見ると、京味噌が入っていて、あとは白餡。
あさりが入っていると勘違いしていましたが、どうやら紙の容器があさりの絵だというだけのようです。
まあまあおいしいです。
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