2007/11/08 - 2007/11/08
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のださん
ラッキーにも今日休みを取れることになりまして、と言ってもいつもと違ったことができるわけでもない。
東京国立博物館の「大徳川展」、これはめちゃくちゃ混むと聞いていまして、であれば土日よりも平日に行っておこう、ということで、本日行くことにします。
鑑賞前に、少しでもイメージを高めておくために、寛永寺へ参拝することにします。
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まずは鶯谷駅を出て線路沿いに進み、陸橋へ上がります。
線路の上に架かっている橋を寛永寺橋と言います。
この道は言問通です。
そして寛永寺橋を渡り切ると、寛永寺坂。
説明柱が立っていまして、読んでもはっきりしたことはわかりませんが、橋ができたのは大正年間で、橋名は坂の名前に由来するそうです。 -
上っていく途中左側に、天台宗の養寿院。
寛永寺の子院、なのかな?
本堂には笠森稲荷尊という札が掲げてあります。
水茶屋「鍵屋」で働いていた看板娘のお仙は、鈴木春信の錦絵の題材として描かれ、たちまち人気者となります。
鍵屋は笠森稲荷前にあったので「笠森お仙」と呼ばれ、柳屋お藤・蔦屋およしを合わせた江戸の三美人の一人として挙げられます。
三美人の中でも、多分一番有名かな。
このすぐそばに「おせん」という店がありますが、笠森お仙からきているとしか思えません。
明治以降、笠森稲荷本尊がこちらの養寿院に移された、ということです。 -
寛永寺とは言問通を挟んで反対側は谷中霊園です。
今日は徳川慶喜の墓参りだけ。
この時間帯だからなのかいつもなのか知らないが、門が閉まっていて、墓石に近づくことはできません。
将軍だった人にしては随分ひっそりとしており、美賀子夫人と並んで眠っています。
2人の側室も一緒にいるのかな?
歴代将軍霊廟とは別に葬られている理由は諸説あるみたいで、宗教としては神道を通したから、ってのもあるようですが、詳しくは知りません。
ここは谷中霊園内ですが、一応寛永寺の飛び地墓地となっているみたいです。
霊園内には他にも徳川家の墓地があります。 -
再び言問通を渡ります。
寛永寺へ参拝です。
言問通にある上野桜木町の説明板によると、徳川3代将軍家光が、江戸城の鬼門を守護するため、川越喜多院の天海に命じて建立させた、ということですが、寛永寺を建てたのは天海の意志ではなかったのでしたっけ?
元々は喜多院が関東における天台宗の総本山だったが、比叡山とは比べ物にならないほど小規模だったので、対抗できるような大寺院を造営し、「東叡山」と冠したのが始まり、と聞いています。
寛永寺もまた、全盛期とは比べ物にならないほど敷地は小さくなっています。 -
本堂である根本中堂。
現在の堂は、川越喜多院の本地堂を移築したものです。
元は博物館前の噴水池付近にあったが、上野戦争で消失した後、子院である大慈院の敷地に移されたそうです。
大慈院は、徳川慶喜が謹慎したところで、ここで恭順の意を表しました。
今でもその書院(葵の間)が残っているという話は聞きましたが、非公開のようです。 -
境内に入って思いましたが、公園内の噴水付近と比べて、悲しいほど静かです。
寺院だから静かなほうが良いとは言え。
まあでも、そばにある寛永寺幼稚園は元気いっぱいでよろしいのではないでしょうか。
根本中堂前の上野戦争碑。
明治40年の建立です。
黒門が円通寺に移されたのも明治40年です。
彰義隊を顕彰するための碑だと思いますが、碑文に関しては、明治政府により大幅な修正をされた、とも聞きました。
何と書かれているか、残念ながら読めません。
今は無邪気に遊んでいる幼稚園児たちも、上野戦争の悲劇を将来知るのでしょうか?
すでに教わっているの? -
虫塚。
説明板にはこう書かれています:
「虫塚は、伊勢(現、三重県)長島藩主である増山雪斎の遺志により、写生に使った虫類の霊をなぐさめるため、文政四年(一八二一)に建てられたものである。」
雪斎の本名は正賢、書画を好む大名でした。
墓は寛永寺にあるそうです。
勧善院という寛永寺の子院が増山家の菩提寺だったが、昭和初期に寛永寺に合併された、そのときに虫塚も現在のところに移転されたようです。 -
尾形乾山墓碑・乾山深省蹟。
光琳の画風を慕う酒井抱一によって顕彰碑が建てられました。
実はこちらは復元したもので、本物は巣鴨の善養寺にあるそうです。 -
銅鐘。
確か除夜の鐘のときに寛永寺の名前をよく聞くような気がする。
厳有院(徳川家綱)の1周忌に、その霊廟前の鐘楼に奉献されたとのことです。 -
さらに歩いていって、寛永寺第三霊園。
徳川綱吉(常憲院)霊廟勅額門。
こちらの霊廟には、吉宗(有徳院)や家定(温恭院)、篤子(天璋院)らも眠っており、普段は非公開のようです。
寛永寺は元々幕府の菩提寺ではなく祈願寺でしたが、家光が自分を家康と同じ日光に葬るように遺言、法要も寛永寺で行われ、それがきっかけで、家綱、綱吉の2人が寛永寺に葬られ、徳川家の菩提寺となりました。
これに反発したのが本来の菩提寺・増上寺で、幕府に抗議した結果、家宣以降はどちらかに葬るようにし、寛永寺・増上寺双方の体面を保つようにした、という話です。
この勅額門は、先の大戦の戦火を免れた数少ない遺構だそうです。
上野戦争においても、戦火ではなく、官軍の放火によって寛永寺の堂宇はほとんど焼失したが、徳川家霊廟や東照宮辺りは人情として放火しにくいから助かった、という話もあるようです。
今日は葵の紋に注目して回っていますが、将軍によって模様が異なるという話は本当だったようです。 -
歩を進めます。
徳川家綱(厳有院)霊廟勅額門。
道路のそばにあります。
こちらも戦火を免れた重要文化財です。
ちなみに、勅額というのは天皇直筆の文字を賜った額ということですが、1698年、寛永寺に掲げる東山天皇の勅額が江戸に到着した日に大火が起こり、寛永寺も被災したことから、そのときの大火を「勅額火事」と言います。
厳有院霊廟(第一霊園内?)には、家治(浚明院)や家斉(文恭院)らも眠っています。 -
さて、すでに9:35です。
寛永寺霊園からぐるっと南に回って東京国立博物館に入ると、すでにぞろぞろとめちゃくちゃな人の数。
今日は平日ですよ!
11月8日って、何かあるのでしょうか?
まさか土日よりも平日の方が混むというオチじゃないだろうな? -
冗談ではなく、今までで最悪の混雑具合。
2時間以上かけて、観ていない作品も結構あるが、疲れ切っているからもういいや。
12時ごろ出てくると、入場制限がかかっている。
もしかしたら、たとえば15時以降は若干空いている、ということがあるかもしれません。
こればかりは運かな。 -
法隆寺宝物館に行く途中。
「黒田家の江戸屋敷鬼瓦」。
黒田家というのは筑前福岡藩です。
参勤交代により江戸に常駐する必要がありましたが、黒田家は現在の外務省がある辺りに屋敷を構えており、そこの遺構だそうです。 -
旧因州池田屋敷表門。
現在の丸の内3丁目にあった鳥取藩池田家江戸上屋敷の正門です。
屋根は入母屋造。
東大の赤門と並び称されるものだそうです。
土日祝は開放されているようですので、機会があれば通ってみようと思います。 -
ちょうど昼飯時なので、法隆寺宝物館の「ガーデンテラス」で食べることにしましょう。
もう一つのレストラン「ラコール」では大徳川展特別メニューがあるようですが、まあいいや。
ここはホテルオークラのレストランだそうで、テラス席があります。
今日は天気も良いし快適な気温だから、外で食べるのも良いかな。 -
たまには奮発して、一番高いプレートを。
3,150円です。
高いんだからうまいのは当たり前。 -
昼食後の眠い一時。
庭園を回ってみることにします。
ここの庭園は、開放時期が決まっていて、今はたまたま開放されています。
だから、この機会に。 -
五重塔。
今は近づいてみることはできません。
高さ5.7mの銅製の塔。
「大和国法隆寺元禄元年十二月日常憲院徳川綱吉」という、徳川綱吉が法隆寺に奉納した旨を銘記した文があるそうです。 -
「第二回内国勧業博覧会の碑」。
明治政府は、勧業政策の一環として博覧会を開催しましたが、その第1回〜第3回の会場が上野公園でした。
明治10年(1877年)の第一回博覧会で、日本で初めての美術館が建てられました。
この美術館の前面に、ジョサイア・コンドル設計の博物館旧本館が建てられ、明治14年(1881年)の第二回内国勧業博覧会で美術館として使用されました。
この第二回の碑のみ残っています。 -
春草廬。
河村瑞賢が摂津淀川改修工事の際に建てた休憩所だそうです。
その後転々として、現在の位置に移されたのは昭和34年だということです。 -
春草廬の近くに、町田久成の碑。
初代博物局長(館長)である町田久成の顕彰碑です。
大英博物館などを訪れて、日本での博物館創設を志したそうです。
私財を投げうって芸術品を買い求め、文化財の散逸を防いだというから、称えられるべきです。 -
転合庵。
小堀遠州が桂宮から茶入「於大名」を拝領した際、その披露のために京都伏見の六地蔵に建てた茶室だそうです。
現在の位置に移されたのは、昭和38年(1963年)、ということです。 -
池のほうに出てみます。
まだ紅葉には早い時期でしょうが、庭園全体の見た目は悪くない。 -
有馬家の墓石。
ここは元々寛永寺の境内。
当時の面影を伝える数少ない遺構が、越前丸岡藩主有馬家の墓石です。
なぜこれらの墓石だけが残っているのかはわかっていないそうです。 -
ベンチに座って眺めてみます。
このまま眠るとさぞかし気持ちが良いでしょう。 -
池のカモたちも気持ち良さそうです。
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後は本館を見学。
今は「江戸をみる−徳川将軍家と江戸城」という特集陳列を行っています。
特別展と併せて見学するのが良さそうです。
銅製鯱。
明暦の大火の復興用として造られたそうですが、設置もしないのに造ったということでしょうか? -
武家諸法度(の写し)。
1615年の最初の発布以来、歴代将軍によって何度か改定されてきましたが、こちらは天保9年(1838年)のものだそうです。
家慶の時代、というか家斉の大御所時代ですが、改定したということでしょうか? -
日が暮れる前に、上野公園でまだ回っていないところ、比較的南のほうを回ってみることにします。
こちらは花園稲荷神社と五條天神社の共通の参道のようです。 -
まずは花園稲荷神社。
「穴稲荷」「忍岡稲荷」とも呼ばれています。
古くからあったけども、天海の高弟晃海が、再建して上野の山の守り神とした、とのことです。
上野戦争最後の激戦地(穴稲荷門の戦)だそうです。 -
花園稲荷神社のもう少し下が、五條天神社。
祭神は大己貴命(大国主命)・少彦名命、相殿神菅原道真。
第12代景行天皇の御代、日本武尊の東征の際、上野の忍岡を通ったとき、薬祖神の大神により救われたことを感謝して、この地に両神を祀った、とのことです。
めちゃくちゃ古い神社ですね。
と言っても、社殿自体はそんなに古いわけではありません。 -
「花の雲 鐘は上野か 浅草か」
松尾芭蕉の句です。
その「時の鐘」が、花園稲荷神社・五條天神社の上、北のほうに位置しています。
現在寛永寺境内にある銅鐘とは別物ですが、上野公園は旧寛永寺境内ですので、時の鐘も寛永寺のものでした。
最初に鋳造されたのは1666年だそうです。
ここの鐘の響きは、江戸の時の鐘の中でも最上のものだったそうです。 -
摺鉢山古墳。
形状が摺鉢を伏せた姿に似ているところから名付けられたそうです。
ここから弥生式土器などが出土しました。
約1,500年前の前方後円墳と考えられています。
丘の上には特に何もなく、休憩所となっているようです。
かつて丘の上には五條天神社、清水観音堂もあったそうです。 -
「菅公詠梅」という看板を見つけました。
その脇にある碑は、博士王仁碑。
主碑と副碑のようです。
王仁という人物は、漢字と儒教を日本に伝えた、とされていますが、非実在説が有力のようです。 -
天海僧正毛髪塔。
天海は1643年(寛永20年)、寛永寺本坊である本覚院にて、108歳で示寂しました。
本覚院は、今は国立博物館の東側にある子院ですが、当時はこちらにあったそうです。
遺命により日光山に葬られ、この地に供養塔が建てられました。
毛髪を納めた塔も建てられたので、以来毛髪塔と呼ばれるようになった、ということです。 -
清水観音堂に近づくと、松本翠影の碑があります:
「鶴の檻 さくら吹雪の 中にあり」
この人は、俳人の消息通だったという話があります。
こちらの碑は、1967年(昭和42年)、喜寿を祝して知友から贈られたものだそうです。 -
天海は、比叡山に倣って東叡山寛永寺を開きましたが、清水寺を模して1631年(寛永8年)に建立されたのがこちらの清水観音堂。
上野戦争で焼け残った数少ない遺構です。
元は摺鉢山にあったが、1694年(元禄7年)に現在地に移されたそうです。
清水寺より奉安された千手観音坐像が本尊で、脇本尊は子育観音ですので、安産・子授けなどに霊験あらたかのようです。
子が授かるように、丈夫に育つようにと人形を奉納しますが、その奉納された人形や、汚れたり壊れたりして遊べなくなった人形を供養するための人形供養碑もあります。 -
清水観音堂の下のほうには、黒門の由来碑。
こちらに黒門が復元されているのではなかったのでしたっけ?
見た限りでは、門らしきものはなさそうです。
まあいいか、本物は円通寺で見たしね。 -
清水観音堂の境内に秋色桜が植えられていますが、その傍らの句碑。
「井戸ばたの 桜あぶなし 酒の酔」
元禄の頃、日本橋小網町の菓子屋の娘お秋(当時13歳)が、花見客で賑わう井戸端の様子を詠んだものだそうです。
輪王寺宮に賞賛され、一躍江戸中の評判となった、とあります。 -
さらに南、「彰義隊の墓」。
明治14年になってようやく元彰義隊隊士らによって建てられました。
山岡鉄舟の揮毫で「戦士之墓」と墓には刻まれていますが、明治政府をはばかって彰義隊とは書かれていない。
官軍は、賊軍に対し冷淡に徹し、自分らの力を知らしめるため、しばらくは彰義隊の遺体の片付けさえ許しませんでした。
見せしめにするためにね。
見るに見かねた円通寺の仏麿和尚らが、この地(「戦士之墓」が建っているところ)で266名を荼毘に付し、円通寺に合祀しました。
さすがにこれには官軍も口を出さない。
円通寺は賊軍側戦死者を供養できる唯一の寺院となり、この縁あって、寛永寺黒門は現在は円通寺に置かれています。 -
さらに南に行くと、言わずと知れた高村光雲作の西郷隆盛銅像。
電車に乗っているときにチラッと見えたことはあったが、まともに見るのは実はこれが初めて。
奥さんが「全然似てない」と言ったという話は有名ですが、似てないというのは顔などよりもむしろ浴衣姿のほうではないでしょうか?
そんな格好で散歩はしない、とかね。
浴衣姿は普段着で親しみを表しているのかもしれない。
顔に関しては、西郷従道(弟)と大山巌(いとこ)を合成して、キヨッソーネが想像で描いたから、何となくイタリアっぽいと言えなくもない。
では、なぜ上野公園に西郷隆盛像があるのか?
上野戦争の英雄ということであれば、むしろ大村益次郎などのほうが適している。
元々西郷隆盛像は皇居に建てようという計画があったそうですが、一時的にでも逆賊の徒となった西郷の像を皇居に建てるわけにはいかない。
白羽の矢が立ったのが、上野公園です。
元は寛永寺の敷地だったこの地に建てたのも、新政府の徳川幕府に対する勝利を天下に知らしめんとするため、かも知れません。
南から公園に上がってくると心なしか彰義隊の墓が西郷隆盛像の奥に隠れているように思えるのも、何か意図があってのことでしょう(彰義隊の墓より西郷隆盛銅像のほうが後に建った)。
ちなみに、西郷どんの目線ですけども、中央区から東京湾、そしてはるか彼方アメリカを見据えている・・・そうです。 -
ちょっと下りて、蜀山人の碑。
「一めんの 花は碁盤の 上野山 黒門前に かかるしら雲」
歌の文字は、蜀山人の自筆だそうです。
今もそうですが、上野は桜の名所で、桜の美しさを詠んでいます。
この碑が建ったのは昭和13年、ここが黒門があったところ、ということです。
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