2007/11/04 - 2007/11/04
752位(同エリア877件中)
のださん
今日は実に天気が良い。
文京区には、徳川家、特に大奥ゆかりの場所が多いですが、一度それらを集中的に回ってみようと思っていましたので、それを決行します。
半日ではすべて訪問できるわけもなく、一部です。
しかし、レンタサイクルを利用するので、少しは効率良く回れるはずです。
もう一つ、この地域のキーワードは「水」です。
1590年、徳川家康が江戸に入府した日を「八朔」(はっさく)と言って、「朔」は「一日」、だから8月1日のことですけども、それに先立つ7月、大久保藤五郎忠行という人に上水道の開発を命じました。
こうしてできたのが「小石川上水」と言って最初に造られた上水で、後に拡張されて「神田上水」と呼ばれます。
家康は当時から水道整備を重視していたということですが、江戸時代を代表する上水には、玉川上水、そして神田上水があります。
「水道の水を産湯に使う」というのが江戸っ子の自慢でした。
大久保藤五郎忠行は後に「主水」という名前を授かりますが、上水道だけに「にごってはいけない」ということで、「もんど」ではなく「もんと」と読みます。
江戸の水道というのは、当時でも世界に類を見ないほど優れたもので、我々はその恩恵を受けているわけです。
まあ何を言いたいのかというと、東京都水道歴史館という、東京都水道局の資料館があり、そこで水道について学びたいと思います。
ここは歩いてだとどの駅からも同じくらいの場所にあり、要するにちょっと中途半端な場所にあるわけです。
自転車だと、比較的楽に行けるでしょう。
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11時半を過ぎましたので、シビックセンターのスカイレストランで昼食を。
すでに窓際の席は埋まっています。
やはり大人気ですね。
牛しぐれ弁当というものを注文。
まあ普通。 -
展望ラウンジで、今日のターゲットを上から眺めてみることにします。
まずは東側から攻めます。
麟祥院、水道歴史館、昌清寺という感じで。
う〜ん、どこに何があるかわからない。
いや、大体の位置は見当つきますが、上からは全然見えない。
まあ当然か。 -
続いて西側。
眺めとしてはこちらの方が私の好みです。
春日通が中心に控えてます。
こちらもどこに何があるかあまり良くわからないが、ラウンジにパノラマ写真が置いてあるので、照らし合わせて見ることができます。 -
あそこにあるちょっとした緑が、伝通院でしょう。
左下に見える校舎は、礫川小学校。
伝通院の手前に何やらビルが建つみたいで、景観台無しですが、今の時代しゃーないのでしょうか? -
さらに遠くにちょこっと見える緑は、護国寺です。
右に見えるのは、サンシャインかな?
今日は時間があれば護国寺まで行ってみたい。
なければ無理せず後日に。 -
下まで降りて、講道館がある交差点。
地下の駐輪場で、自転車が貸し出されています。
身分証明書が必要で、20時までで500円。
普通のものと電動のものから選べますが、電動には乗ったことがないので、この機会に試しておきます。
ギアつきというだけでも十分ですが、坂が多いので電動が楽でしょう。 -
交差点のところに石が置かれていますが、神田上水で使われていた石樋だそうです。
説明板によると、井の頭からの水が、後楽園を過ぎてから暗渠で通されますが、そこに使われていたのがこちらの石だということです。 -
春日通を東に進みます。
確かに電動は楽だな。
本郷通りに当たって、そこを北に。
この通りは中山道ですけども、「別れの橋跡」説明板のところまで来ました。
昔はここに橋が架かっており、江戸を追放された者がこの橋から放たれ、振り返りながら去っていったから、ここから北を見返り坂、親類が泣きながら見送ったから、ここから南を見送り坂、と呼ぶそうです。
板橋辺りで追放されたという話は何だったのか?
よくわからないや。
今私は南を向いていますので、見送り坂を見ているということですけども、ここは全然坂という感じではない。 -
再び春日通を東へ。
やはりこの界隈では春日局は外すことはできず、その春日局が眠っている麟祥院。
随分ひっそりとしています。
春日局自身が開基で、1624(寛永元)年に創建され、ここに隠居します。
法号は麟祥院ですので、それがそのまま寺名となった、ということです。 -
山門くぐって左側。
「東洋大学発祥之地」。
東洋大学の前身を哲学館と言って、明治20(1887)年、井上円了が創立したということですが、それがこの麟祥院の境内の一部だったそうです。
その名の通り哲学に強いのでしょうか?
東洋大学は今どこにあるかというと、文京区内のようです。 -
墓地の奥に春日局の墓。
無縫塔で四方に穴が貫通している、ということです。
一乳母に過ぎない春日局が強大な権力を握ったのは、やはり見えない力が働いたと考えるしかありません。 -
ここにもありました。
大正大震火災横死者之碑。
この界隈は被害が少なく、避難場所だったという話もあるようです。 -
春日通を西に戻り、先ほど別れの橋跡説明板に至る前に通り過ぎてしまった坂を北へ入っていきます。
本妙寺坂と言います。
その名の通り、かつて振袖火事の失火元とされた本妙寺へと続いた坂です。
この住宅街がその境内だったのでしょうが、本妙寺跡の説明板だけ立っています。
本妙寺は、今は巣鴨にあります。
もう一つ説明板が。
明治5(1872年)の学制公布に先立つこと明治3(1870)年、最初の公立小学校が6校開設され、そのうちの1校である「第四校」が、こちらに置かれたそうです。
翌年麟祥院の境内に移り、現在の湯島小学校の前身となった、とあります。 -
また東に進んで本郷通りまで。
そこの交差点南側に、かねやす。
「本郷も かねやすまでは 江戸の内」という川柳は、たまたま知っていました。
享保15(1730)年の大火、って内容は知りませんが、当時の町奉行は大岡越前守忠相。
防災上、瓦葺きの屋根にするように命じられましたが、ここから北側は相変わらず板や茅葺きの屋根が続いた。
当時かねやすの大きな土蔵は目立っていたので、先の川柳が詠まれた、ということです。
かねやすというのは、兼康祐悦という口中医師(歯科医)が、乳香散という歯磨粉を売り出したことで大繁盛した店だそうですが、今は何を売っているのでしょうか? -
かねやすからさらに南に進み、東京都水道歴史館。
入館は無料。
東京都文化財ウィークということで、3Fで「上水記」の展示が行われているようです。
上水記というのは、幕府の普請奉行上水方道方という役職に就いていた石野遠江守広道という人物が編纂した、江戸の上水の記録です。
完全な形で残っているのは、東京都水道歴史館のもののみだそうです。 -
町人であった庄右衛門・清右衛門の兄弟は、江戸の水道工事を買って出て、羽村から四谷大木戸までの10里に及ぶ距離に水路を引くことに成功し、その功績を称えられて「玉川」の姓を賜ります。
異説もありますが、これがほぼ定説です。
工事にかかった期間というのが、これまた文献によって言っていることがコロコロ変わるが、最短で半年、最長で1年半くらいのようです。
その玉川兄弟の像。
本物は羽村にあるみたいですね。 -
旧都庁舎跡地(現東京国際フォーラム)から出土した木樋の一部を再現したものだそうです。
組み合わせる樋がわかるように、絵印を刻んでいます。
蓋の部分の木目は、水が流れる方向に垂直になるように造られています。
理由は知りません。 -
槇肌。
水が漏れるのを防ぐのに、このような繊維で継ぎ目をふさいでいたそうです。
これは舟などにも用いられたようですね。 -
御茶の水の懸樋、だそうです。
水道橋とは別物? -
これは、当時の人々の生活の様子を表したコーナー。
井戸が生活の中心だったことを示しているのでしょうか? -
2Fが江戸時代だったのに対し、1Fは明治以降の近代。
こちらは馬水槽。
ロンドン市牛馬給水層協会から東京市に寄贈されたものだそうです。
明治39(1906)年から昭和32(1957)年まで長きに渡って使用され、現在は新宿駅東口に設置されています。
これが新宿駅東口にあるという話は実は知っていましたが、意識して通らないためか、まだ見たことありません。
新宿駅にも最近行っていないが、次に行ったときにでも見ておくことにしましょう。 -
外に出て、公園が隣接しているので、見ておきます。
本郷給水所公苑と言うそうです。 -
神田上水遺構復元施設ということで、石樋があります。
樋の断面図を勝手に想像すると、1.5m四方という感じです。
昔も今も、生活に水は当然欠くことのできないものであり、江戸時代の人々の生活に思いを馳せるには、水道歴史館は絶好の場所だと言えます。 -
歴史館を離れ、御茶ノ水橋を渡ります。
東の聖橋を眺めてみます。
右側にはJR御茶ノ水駅のホームが見えます。
頻発していた洪水を防ぐ目的で神田川を掘り割った当時は、人工とは思えない雄大な峡谷をおりなしており、関東ローム層の赤土が剥き出たことにより壁面が赤く見えたことから、「小赤壁」などと呼ばれ、人々に親しまれたそうです。
三国志をご存知であればすぐにピンと来るでしょうが、あの赤壁に由来します。 -
御茶ノ水橋を南に渡り、交番が見えますが、そこに隠れた形で、「お茶の水」碑。
昔この付近に高林寺という寺があって、鷹狩りの途中に立ち寄った徳川秀忠のために、その境内から涌き出た水を使ってお茶を入れた、という逸話から御茶ノ水という地名がついた、と言われています。
高林寺は、明暦の大火により焼失し移転され、現在は駒込にあります。
傍らに駿河台の説明板もあります。
家康が駿府で没した後、駿河から帰ってきた旗本(駿河衆)たちの多くが、江戸城に近く富士山を望めたこの付近に屋敷を構えたことから、この界隈が駿河台と呼ばれるようになった、とあります。
もっと古い名前は神田山(神田台)。 -
お茶の水碑からそのまま線路沿いに水道橋駅方向に進み、水道橋を北へ渡りました。
今も存在する水道橋。
江戸時代の水道橋というのは神田川の上を通る懸樋のことで、人々に水を供給していたので、人が渡ることはありませんでした。 -
そこをまた神田川沿いに御茶ノ水駅方向に進むと、「神田上水懸樋(掛樋)跡」碑。
ここで言う懸樋とは、水道橋とはまた別物ということでしょうか?
それとも、当時の水道橋はここにあり、今の水道橋は別の場所に架かっているということでしょうか?
よくわからなくなってきた。 -
元町公園付近にやってきました。
水道橋を振り返ってみます。
歌川広重の名所江戸百景の中でも、特に強烈なインパクトを持つと思われる「水道橋駿河台」という作品があります。
でっかい鯉のぼりが描かれているやつです。
あれって、確かこんな感じの角度から眺めて描いたものだったと思いますが、違いましたっけ?
もっと高い場所から望めばわかりやすいかな?
今はごちゃごちゃしていてよくわかりませんね。 -
元町公園。
関東大震災後に造られた復興公園の一つです。
今夏に江戸東京博物館で後藤新平の特集があったわけですが、そこで知りました。
隣接する元町小学校は、今は校舎は使われているかは知りませんが、小学校としては使われていないはずです。
この公園、実は現在は取り壊しの危機にあるそうです。
何でも、体育館を建設する計画があるとか。
地形を生かした素晴らしい公園ですので、何とか残していってほしいです。 -
元町公園から北へ向かい、浄土宗の昌清寺。
徳川家光の弟である忠長の正室・お昌と乳母・お清から一字ずつとって昌清寺。
秀忠やお江与は、家光よりも忠長を世継ぎにと考えていたそうですが、秀忠から一字もらっているのは忠長のほうだというのはその表れでしょうか?
家光は家康から一字ですし(光は光秀とも)、だから実は家光は家康の隠し子だという噂も流れるわけですね。
忠長は、家光が秀忠の後を継いでからも対立し、改易させられた上に自害します。
お昌は剃髪して松孝院と号し、お清はお昌から一字もらって昌清尼と名乗ります。
松孝院は菩提を弔うためにこの寺を建立し、表舞台に出ることなく昌清尼に供養させたようです。
お昌・お清は、春日局との権力争いに敗れた、とも言えるかもしれません。 -
その昌清寺の境内に、花見塚という松尾芭蕉の碑が建っています:
「桜狩り きくとや日々に 五里六里」
松尾芭蕉は、俳諧だけでは生活できないということで、神田上水(小石川上水)で水道工事のアルバイトみたいなことをしていました。
松尾芭蕉ゆかりと言えば深川が有名ですが、実は4、5年この界隈に住んでいた、もしくは仕事していた、ということで、この地も芭蕉ゆかりと言えるでしょう。
「関口芭蕉庵」というところも文京区に残っています。 -
シビックセンター付近まで戻って、ちょっとわかりにくいところにありますが、ローソンの近く。
「出世稲荷神社」。
この界隈は、以前は春日町と呼んでいたらしいです。
野原だった土地を春日局が幕府から拝領し、局のお付きの御下男30人の屋敷とした。
拝領したときに稲荷社も建てられ、当時威勢並ぶ者がなかった春日局の出世にあやかり、「出世稲荷」と名付けられた、ということです。 -
続きまして西側を攻めます。
富坂の途中の春日局像。
大河ドラマ放映を記念して建てられたようです。
実際の「お福さん」が大原麗子のような美貌の持ち主だとすると、私の勝手なイメージを崩してしまいますので、それはそれで嫌だなあ。
似ても似つかないくらいでいて欲しい。
でもドラマを観る分には、大原麗子さんは最適だと思います。 -
さらに上って、東京都戦没者霊苑。
休憩所には戦没日本兵の遺品展示室があります。
ここは是非見学しておくと良いと思います。 -
やっと伝通院。
-
山門前の「処静院跡の石柱」。
処静院というのは、伝通院の子院の一つと言っても良いでしょうか?
実はこちらは、浪士隊(後の新撰組)の結成地として有名です。
清河八郎、山岡鉄舟を中心に、近藤勇や土方歳三らも集まったと言います。
清河八郎は、暗殺された後に、当時の住職・琳瑞によって埋葬され、こちらの墓地に眠っています。
琳瑞も後に暗殺され、処静院は廃されます。
今はこの碑が残るのみです。 -
境内に入って左側。
指塚。
これはインパクトがあって面白い。
浪越徳治郎の名前がありますが、お墓もこちらにあるのかな? -
墓地には徳川家関係者の墓が並んでいます。
特に有名な人物の墓には、説明板が立っています。
徳川家康の母・於大の方の墓。
於大の方がこちらに葬られて、菩提寺となって以来、於大の方の号である伝通院が、そのまま寺名となっているようです。
家康が竹千代の時代、人質とされて生き別れになってからも、常に気遣い、音信を保っていたそうです。
家康はそんな生母への敬意を表したということでしょう。 -
徳川秀忠・お江与の娘である千姫、号は天樹院。
豊臣秀頼の正室でしたが、大坂夏の陣のとき救出されます。
2人の母親たちは姉妹なので、従兄妹同士が結婚したということですね。
ちなみに秀頼が夏の陣で出陣しなかったのは、太りすぎで馬に乗れなかったためという説がありますが、ここではそんなのはどうでもよくて。
千姫は江戸に戻った後に本多忠刻と結婚。
その後は、肉親が次々と亡くなるという不幸に見舞われます。
大奥では、家光の妹として権勢をふるったそうです。
70年の波乱万丈の人生を終えます。 -
徳川家光の正室・鷹司孝子、号は本理院。
家光の2歳年上です。
将軍の正室は公家出身にする、というのは、確か家光の時代からですよね?
2人は不仲だったというのはよく言われる話です。
新撰組と聞いても家光と聞いても「男色」という言葉しか思い浮かばない私は完全に病んでいると思いますが、それは措いて、家光は若い頃男色を好みました。
その上女装趣味。
大奥では、たとえ正室でも30歳を過ぎると将軍と夜を共にすることはできません。
それが原因なのか何なのか知らないが、2人の間に子はいません。
心配した春日局が次々と女性をあてがい、その甲斐あってか家光は女性にも興味を示すようになります。
家綱や綱吉が生まれたのもそのおかげ、かも知れません。 -
沢宣嘉の墓。
七卿落ち事件と言って、三条実美らとともに一時朝廷を追われます。
生野の変で挙兵するも、あえなく逃亡。
その後、九州鎮撫総督、長崎府知事、外務卿を歴任しますが、ロシア公使赴任前に38歳で死去。
・・・この人はどちらかと言うと徳川家とは反する側のように思いますが、徳川家墓所のそばに墓があります。
なぜこの寺に眠っているのかは、残念ながら知りません。 -
伝通院から善光寺坂を下っていきます。
信濃善光寺の分院があるから善光寺坂だそうです。
慈眼院に着きます。
わずか3年で浄土宗の奥義を窮めた沢蔵司という修行僧がいました。
伝通院の住職・廓山上人が、沢蔵司稲荷を境内に祀り、慈眼院を別当寺としたそうです。
沢蔵司というのは実はキツネ。
奥に稲荷社があります。
慈眼、と聞いてピンと来るのは天海ですが、どうやら関係はなさそうです。 -
境内には松尾芭蕉の句碑があります。
「一しぐれ 礫や降って 小石川」
昌清寺にあるものより、こちらの方が多分有名でしょう。
そもそもなぜ小石川(礫川)と呼ぶのかというと、この界隈を流れる川に小石が多かったから、だそうです。
それにしても、説明板は全く読めなくなっている。
作り直したほうが良いと思いますよ、住職さん。 -
春日通をさらに西へ進み、途中左に折れて今井坂を下っていきます。
徳川慶喜終焉の地。
最後の将軍にしては随分寂しく、説明板がポツンと立っているだけです。
篤姫にはめちゃくちゃ嫌われていたようです。
明治34(1901)年、巣鴨から、自分が生まれた小石川に引っ越してきて、余生を過ごしました。
この説明板がある場所は、現在は春日2丁目です。
2人の側室との間に計21人も子をもうけ、もっぱら趣味に生きました。 -
春日通をさらに西へ進み、今度は右の吹上坂を下っていって、宗慶寺。
隆慶一郎の小説「捨て童子・松平忠輝」で有名な松平忠輝は、徳川家康の六男で、67年もの長きに渡り配流に耐えます。
その母親は、家康の側室・茶阿局で、家康の死水を取りました。
飛騨高山に流されている忠輝の身を案じながら没しました。
茶阿局がこちらに眠っています。
その法名から、宗慶寺という名前にしたそうです。
伝通院とゆかりが深いそうですが、どんなゆかりなのかはよくわかりません。
ただ今16:45くらい。
そろそろ日が落ちるので、今日はこれでおしまいで、護国寺は断念。
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この旅行記へのコメント (2)
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- 一歩人さん 2008/10/16 15:20:55
- とっても、丹念な歩き方で、驚きました
- のださんへ
とっても、丹念な歩き方で、感動しました。
しかも、「水を求めて」も、分かりやすかったです。
このルートは、コンパクで、とても参考になりました。
ありがとうございました。
一歩人
- のださん からの返信 2008/10/17 01:36:12
- RE: とっても、丹念な歩き方で、驚きました
- 一歩人さん
書き込みありがとうございます。
ブログを更新しなくなって半年以上も経ちますが、
こうしてお役に立てたようでうれしい限りです。
あの界隈は見どころが実に多いですね。
実はちょうど今週末に、また御茶ノ水駅辺りまで行ってみようと思っています。
今度は、駅から南の方を回ってみるつもりです。
今後ともよろしくお願いいたします。
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