2007/09/27 - 2007/09/27
76608位(同エリア85653件中)
しんちゃんさん
- しんちゃんさんTOP
- 旅行記927冊
- クチコミ19件
- Q&A回答35件
- 3,685,713アクセス
- フォロワー27人
先日「吉良上野介(きらこうづのすけ)邸宅跡」を見学したので、今回は赤穂浪士が眠る「泉岳寺」を見学しました。毎年12月14日15日「義士祭」が行われます。JR品川駅から歩いて約20分。地下鉄なら「都営浅草線・京浜急行本線」の泉岳寺駅から2分です。夕方のため、山門を出るときは暗くなってしまいました。しかし、今回は大発見をしました。地元の附近案内地図を見たら『大石良雄他16人忠列の跡』を発見。二度と来れないかも知れません。坂道を歩く事、約7分【大石内蔵助他16名が一時預けられた細川家跡でした】
- 交通手段
- 新幹線
-
JR品川駅、高輪口(西口)を出るとHOTEL「PACIFIC」が見えました。プリンスホテルは、これより左側でした。
-
第一京浜(国道15号線)を北上します。歩道橋は疲れますので、横断歩道まで歩きました。
-
やっとあった、横断歩道を渡りました。中々横断歩道はありませんでした。渡った所に「高輪海岸の石垣石」名所旧跡説明板がありました。
-
東海道高輪風景 橋本貞秀画 文久2年(1862年)明治元年が1868年ですから、それより6年前です。
-
説明文からです【ここに展示されている石は、江戸時代に、高輪海岸に沿って造られた石垣に用いられたものです。平成7年(1995)、高輪二丁目20番の区有施設建設用地内の遺跡の発掘調査で出土しました。石垣には、主に相模湾から伊豆半島周辺で採石された安山岩が用いられました。発掘調査では3段の石積みを確認しましたが、最上段は江戸時代は江戸時代の終わり頃に積みなおされてものと考えられます。正面の小ぶりの石が積みなおされたものです。3段目から下の石垣は現地でそのまま保存されています。−詳しいことは、港区立港郷土資料館でお尋ねください− 平成13年(2001)5月 港区教育委員会】
-
第一京浜(国道15号線)を北上して約15分やっと見つけた案内板!
-
坂道歩道のかたわらに記念石碑「四十七・・・」
-
高輪之明月 安藤広重画 東都名所
-
「泉岳寺中門」説明板からです【切妻造、本瓦葺、一間一戸四脚門で、天保七年(1836)に再建されたものです。左右に袖塀を持ち、正面右手には通用門を持っています。また、番小屋を配し、禅宗寺院の中門の様式の中でも格式の高い様式を残した門です】・・・転記は疲れる!
-
正面に泉岳寺山門
-
お土産屋さん
-
ぼけ封じ・・・・今から準備しようかな?
-
「泉岳寺山門」説明板からです【入母屋造、本瓦葺、三間一戸八脚門で、天保年間に再建されたものです。楼上に極彩色の十六羅漢像が安置され、階下の天井には銅彫大蟠龍がはめ込まれています。区内に残された楼門建築は、他に増上寺三解脱門があるだけで、貴重な遺構です。 平成十一年二月十一日 港区文化財総合目録登録】
-
-
大石内蔵助良雄銅像
-
大石内蔵助良雄銅像
-
本堂、扁額は「獅子吼」(ししく)釈迦様の説法の事だそうです。
-
最近建造されたようです。「座禅像造立趣旨」として“なんたらかんたら・・・”省略しました・・・
-
いよいよ、赤穂浪士のお墓参り。南側の「四十七士墓所」
-
「水琴窟(すいきんくつ)」日本庭園で手水鉢(ちょうずばち)や蹲踞(つくばい)の流水を利用して、地中に伏瓶(ふせがめ)をした空洞に、したたり落ちる水が反響して、琴の音色に聞こえるようにした装置で、江戸時代の庭師が考案したものと言われている。箱入り閉店中でした。
-
「水琴窟(すいきんくつ)」
-
「瑶池梅(ようちばい)」説明板からです【浅野長矩公の後室、瑶泉院殿 堀部妙海尼に賜わりし鉢植の梅 瑶池梅と稱し妙海尼手づから此の地に植しものなり】
-
「瑶池梅(ようちばい)」は右か左か?良く分かりません!!すいません
-
「血染の石」「血染の梅」【田村邸内浅野公自刃の場に有りしものなり】
-
「血染の石」「血染の梅」
-
「首洗井戸」
-
「首洗井戸」吉良上野介義央の首をこの井戸にて洗い以って主君の墓前に供う
-
「浅野長矩墓及び赤穂義士墓所門」説明文はピンボケのためNG!次回に持ち越しです。浅野家の屋敷の裏門を移築したようです。
-
史蹟「浅野長矩墓及赤穂義士墓」
-
お線香を販売しています。
-
「浅野長矩夫人之墓」
-
「浅野長矩(あさのながのり)公之墓」長矩は、寛文7年(1667年)、時の赤穂藩主・浅野長直の子、浅野長友の長男として生まれた。母は譜代大名の内藤忠政(志摩鳥羽藩主)の娘・波知(正室)。まさに赤穂浅野家の嫡男たる出生である。幼名の又一郎がそれを物語る(これは祖父・長直、父・長友と同じ幼名である)。『ウィキペディア(Wikipedia)』より
-
お線香立ては、でか過ぎ!土管?
-
四十七士の墓は何故か四十八あります。詳しくは泉岳寺のHP「http://www.sengakuji.or.jp/about/index.html」に載っています。
-
整然と並んだお墓
-
大石内蔵助良雄のお墓
-
-
毛利家預けの十人の内の五人
-
ビルの谷間の赤穂浪士のお墓
-
一番奥から四十七士墓所を望む
-
-
-
-
-
赤穂義士記念館
-
-
-
「赤穂義士記念館」前にある「義士引揚げ行列」
-
水盆の中に「義士引揚げ行列」を見立てて飾ってありました。吉良上野介(きらこうづのすけ)の首を持つ間重次郎は前から二列目です。
-
トイレです。真ん中には義士祭の写真が飾ってあります。椅子もあります。
-
夕方5時30分暗くなりかけているのに、サラリーマンが見学に訪れていました。しんちゃんもサラリーマンだった!
-
地元の附近案内地図を見たら『大石良雄他16人忠列の跡』を発見、見るしかない!
-
学校敷地脇、住宅街を抜け、道路から都営アパート北側の林の中にありました。
-
討ち入り後、四十七士は細川家、水野家、毛利家、松平家の四藩にあずけられました。討ち入りが12月14日、切腹の命は2月4日各藩にて切腹しました。若い方は16歳、年長は77歳だそうです。鬱蒼(うっそう)と樫(かし)の木が多い尽くす森に囲まれ都内とは思えず“蚊”にも刺されながら真っ暗な中をうろうろと見学しました。
-
細川家にあずけられました十七名。堀部彌兵衛(堀部安兵衛)の名前も見えます。
-
必見ですぞ!転写しました。【東京都指定旧跡「大石良雄他十六人忠烈の跡」所在地:港区高輪一丁目四、六〜十六 指定:大正七年 この地は、赤穂事件で大石内蔵助良雄ら十七人が預けられた肥後熊本藩(五十四万石)細川越中守下屋敷の一部である。赤穂事件とは、元禄十四年(1701)三月十四日におこった殿中刃傷事件とその翌年十二月十四日の夜から十五日にかけての吉良邸討ち入り及びその処分など一連の事件をいう。当時の藩主五代綱利は、十二月十五日老中稲葉丹後守正往(ろうじゅういなばたんごのかみまさゆき)(下総佐倉藩主)から大石内蔵助良雄外十六人御預けの命を受けると、総勢八七五人に十七挺の駕籠と予備として五挺の駕籠を用意させ、大目付仙石伯耆守久尚の屋敷に送った。引渡を受けたのは午後十時頃で、この地に到着したのは午前二時過ぎであった。この様な大部隊を繰出したのは、藩の威武を示すとともに上杉家が親の仇たる四十六士を襲撃するかもしれないとの噂があったためである。細川綱利は、大藩の威力と識見を以って優遇し、御預四家のうちで即日引見したのは細川家だけであった。元禄十六年(1703)二月四日午後二時、上使の御目付荒木十座左衛門政羽(まさは)と御使番久永内記信豊(ひさながないきのぶとよ)から切腹を申渡し、大石内蔵助が一同を代表して「切腹仰せ付けられ候段有り難き仕合に存じ奉り候」と礼を述べて御請した。家臣の中から介錯人を出すよう命ぜられた細川家は十七人の切腹に十七人の介錯人を選定した。切腹の場所は大書院舞台側、大書院上の間の前庭で、背後に池を負った位置である。切腹の座には畳三枚を敷き並べ(細川家以外は二枚)その上に木綿大風呂敷を覆べ、背後も左右も白の幔幕を張り廻らした。大石内蔵介(助)は安場一平(子孫は明治維新に功有り男爵を授けられた)の介錯で切腹した。大石良雄外十六人は、浅野家の菩提寺泉岳寺に葬られている。 平成十年三月 東京都教育委員会】
-
心霊写真、見えるかな〜?
-
門の隙間から内部を撮影しましたが、真っ黒くろすけ。庭園の庭石らしき岩がありました。
-
木戸の裏から・・・・
-
高輪一丁目アパートの北側、うっそうとした森の中に「細川邸跡」があります。
-
地元の方に「JR田町と品川駅どちらが近いですか?」「どう行けばいいんですか?」「この坂道を下り右へ行ってください」「ありがとうございました」少々たってから「右へではなく左へ行ってください」追っかけて来て訂正してくれました。美人OLだったかな?ここからJR田町駅まで20分かかりました。
-
田町駅手前「辻の札」交差点から東京タワーが見えました。疲れた〜〜!
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。
旅の計画・記録
マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?
0
62