2007/09/21 - 2007/09/21
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しんちゃんさん
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「忠臣蔵」の「討ち入り」の地を見学しました。年末の映画、劇で有名な「赤穂浪士」読書ではなんとなく理解したつもりですが、やっぱり現地を見て見なければ分かりません。相撲で有名な東京都墨田区両国三丁目にありました。総武線「両国駅」から徒歩約10分の場所でした。途中「芥川龍之介生育の地」記念碑を見学。近道を探していたら、偶然「相撲写真資料館」発見。道が一本、二本違ったかな?と思ったら「赤穂義士遺跡吉良邸跡」前に到着していました。秋の夕日輝く中、地図を片手に散策しました。近くには「芥川龍之介文学碑」「勝海舟生誕之地」「鼠(ねずみ)小僧次郎吉の墓」「力士の像」等、盛りだくさん、遠くの方にお勧め“行った気になるしんちゃんの旅行記”で〜す。
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総武線「両国駅」東口から出発しました。
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総武線、高架南側。ここから南側、国道14号「京葉道路」側に目的地があります。
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忠臣蔵、赤穂義士討ち入りの地「吉良上野介(きらこうづのすけ)邸宅跡」は正式名称「本所松坂町公園」といいます。
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「本所松坂町公園」【この公園は「忠臣蔵」で広く知られる、赤穂義士の討ち入りがあった、吉良上野介義央(よしなか)の上屋敷跡です。その昔、松坂町一、二丁目(現、両国ニ、三丁目)のうち約8,400平方メートルを占める広大な屋敷でしたが、年を経て一般民家が立ちならび、いまではそのおもかげもありません。昭和九年三月地元町会の有志が、遺跡を後世に伝えようと、旧邸跡の一画を購入し史蹟公園として、東京市に寄付したもので、昭和二十五年九月墨田区に移管されました。周囲の石垣は、江戸時代における高家の格式をあらわす海鼠壁(なまこかべ)長屋門を模した造りで、園内には、吉良邸にあった著名な井戸や稲荷社などの遺蹟があり当時をしのばせております。また内部の壁面には義士関係の記録や・・・されております】(柳の木が邪魔で最後判らず!)説明板からです。
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入園料金、無料です。「赤穂義士遺跡・吉良邸跡」
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吉良上野介(きらこうづのすけ)邸宅は鍛冶橋(今の八重洲2丁目付近)にありましたが、刃傷事件のあと、赤穂浪士があだ討ちに入るとの噂があり、近隣の大領屋敷から苦情があり、討ち入りの一年前にここ墨田区本所松坂町に移ってきました。幕府が決めた場所ですが、前の場所より“討ち入り”がし易くなったと世間で言われたそうです。
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「本所松坂町公園」現在の「本所松坂町公園」は約30坪ですが、その当時は2550坪(8400?)現在の86倍あったそうです。事件後3ヵ月後、敷地は幕府に没収されました。吉良邸の敷地は段々とマイナーイメージが強く、無くなってしまいそうでしたが、地元の有志が発起人となって土地を購入して東京都へ寄付をしたそうです。現在は墨田区へ移管されています。時代の“悪役”は地元に愛されています。
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「本所松坂町公園」内部を探索!そんな難しくありません。広くはありません。覗き込み程度です。
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「松坂稲荷」徳川氏が入国当時あった「兼春稲荷」と古くからこの地にあった「上野稲荷」を合祀しました。
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「松坂稲荷」
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「松坂稲荷」
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吉良上野介の首を洗った「首洗い井戸」
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「吉良家家臣二十士」の供養塔
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門の裏から撮影、この戸は閉まっており、小さな裏木戸から入園します。
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なまこ壁の内側には、討ち入りの絵図や吉良上野介邸宅の図面、赤穂義士(浪士)の署名がパネルに入って展示されていました。
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吉良邸の敷地が現在の地図と比較されていました。「本所松坂町公園」は29.5坪(ですが、その当時は2550坪(8400?)現在の86倍あったそうです。
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各種資料の前には茂った植木、木々があり読むには邪魔でした。ガラスケースも光を反射して読みにくいでした。
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松の廊下「刃傷沙汰」絵図。江戸城内二番目に長い廊下で襖に松と千鳥が描かれていたそうです。江戸城の天守閣って300年の歴史の中で約60年しか存在していないのをご存知ですか?1657年火災に合い、それ以降建築されていません。
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説明板からです【この錦絵は、討ち入りをとげた義士団の引き上げを描いたもので、表門組が左手の一団大星由良之助(大石内蔵助)裏門組が右手の一団大星力弥(大石主税)の一隊である。これから、義士団は両国橋のたもとで奉行・服部彦七の役目上の渡橋拒否にあい、両国橋は渡らず永代橋を渡っていったといいます】
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愛知県幡豆郡吉良町の吉良家墓所「華蔵寺」の写真も展示されていました。
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「華蔵寺」の吉良家墓所の写真
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追慕の碑と「松坂稲荷大明神由来」
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「松坂稲荷大明神由来」要約は「松坂稲荷」徳川氏が入国当時あった「兼春稲荷」と古くからこの地にあった「上野稲荷」を合祀しました。
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吉良上野介義央(よしなか)の地元の「赤馬玩具」説明では【約100年前から吉良町で、つくられている置物。義央公は赤馬にまたがり領地内を巡回し、領民と親しく接していた赤馬・・・】だそうです。
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義央公愛用の茶道具
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「松坂稲荷」前に「吉良邸跡」の無料のパンフレットがありました。
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都指定旧跡「吉良邸跡」本所松坂町公園のパンフレットはカラー刷り、立派な説明付き、今回の説明に利用させていただきました。
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「本所松坂町公園」のとなりは民家・ビルが立ち並んでいます。
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なまこ壁の内側に展示された「各種資料」
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名も無い桜も「昭和元禄八重桜」お花見、四月中旬・・・説明版付き
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両国駅から吉良邸跡へ行く途中に立ち寄った「芥川龍之介生育の地」記念碑、国道14号、京葉道路北側にありました。
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説明板からです【龍之介は、当時、回向院に隣接していた江東(えひがし)小学校(現両国小学校)を卒業し、府中第三中学校(現両国高校)にしんがくしました。幼い頃から文章を書くことが得意であり、また、本を読むことも好きで、図書館によく通いました。処女作の「大川の水」は、江戸情緒の残るこの地で育ったことと深い係わりを示すものであり、その後の作品にも影響しています。明治四十三年に第一高等学校入学、家族とともに現在の新宿区に転居しました】
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墨田区に「墨田警察署」はありません!北部を管轄する「向島警察署」墨田区南部は本所警察署。しんちゃん、ん十年前に駐車違反をして車をレッカーで運ばれました。“本所警察署”は大枚の違反金を取られた“思い出”の場所でもあります。芥川龍之介生育の地の南側に「本所松坂町」記念碑がありました。写真から転記を開始しましたが、難儀したため一部後記からコピーしました。【碑ヲ中心トスル一帶ハ松坂町トテ近世史上著名ノ地ナリ然ルニ大正大震災後ノ區劃整理ノタメ昭和四年十一月一日町名ヲ變更ス仍ッテ文献上江東ニ於ケル不可失ノ地名ノ永ク後世ニ傳ハラムコトヲ希ミ之レヲ勒ス】要約は、関東大震災後、区画整理にて町名が無くなるのを惜しんで“本所松坂町”の名前を後世に残すそうです。http://www.kasen.net/index.htmの中のhttp://www.kasen.net/disaster/19230901/sumida4/index.htmから一部コピーしました。管理者にも承諾をいただきました。ありがとうございました。
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吉良邸跡の西側、路地裏に「相撲写真資料館」発見!「本所松坂町」記念碑から南側へ入って行ったら東側にありました。
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往年の力士が“セピア色”に染まっていました。
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吉良邸跡の南側に「飯澄稲荷」
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両国小学校西側に近隣の地図がありました。有名な人々の記念碑もありますが、相撲部屋も立浪部屋・時津風部屋・大島部屋・出羽海部屋・春日野部屋・井筒部屋、結構ありました。
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「錨(いかり)の由来」両国小学校、北西角に展示されていました。説明板からです【この錨は日露戦争(1904年〜1905年)で活躍した日本海軍の駆逐艦「不知火(しらぬい)」のものである。この艦は英国ソーニー・クロフト社製造・起工明治31年・進水32年・326トン・(艦長63.5m・5470馬力・30ノット・火砲6門・発射管2基・煙突2基)の構造である。錨の裏側にあるアルファベット1898の刻印は錨の製造年と推定される。猶この錨は両国一丁目の鉄鋼業岡田商事(旧岡田菊治朗商会)が軍艦の解体作業で得たのを昭和の初年に江東(現両国)小学校に寄贈したものである。平成三年 両国(相生・江東)小学校同窓会】
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同じく、両国小学校北西の角に「芥川龍之介文学碑」があり、杜子春(とししゅん)の一説が刻印されていました。【・・・お前は仙人になりたいといふ望も持ってゐまい。大金持になることは、元より愛想がつきた筈だ。ではお前はこれから後、何になったら好いと思なふ。何になっても、人間らしい、正直な暮らしをするつもりです。杜子春の聲(声)には今までにない晴れ晴れした調子が篭って罩つてゐました。】
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「勝海舟生誕之地」記念碑。両国公園内
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「回向院」の眠り猫
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「ねずみ小僧次郎吉」のお墓
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偶然、お嬢さんと一緒に見学する事になりました。以前この近くに住んでいて、本日近くまで来て懐かしくて見学に来たそうです。携帯にて写真をとり「ご利益があるように、お墓の破片を懐紙に包んで持って帰りました。
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墓石を削り記念にもって帰ります。お嬢さんの手を撮らせていただきました。
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お墓の破片を懐紙に包んで持って帰りました。この後、「お茶はいかがですか?」なんて話になれば良いんですが・・・・色気のないしんちゃんに口説く力と容姿はありません
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猫塚はなぜかガラスケースの中
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「海難供養群」説明板からです。【境内六基の海難供養碑は江戸海難史の貴重な資料です。● 南無阿弥陀仏 勢州白子・参州平坂溺死供養塔・・文化十一年(1814年)江戸伝馬町太物問屋仲間が白子・平坂ニ港に属する溺死者供養のために建立。碑には南無仏庵の撰書により天明二年(1784年)の大黒屋光太夫の海難から、文化十一年に及ぶ海難小歴史が記されています。以下略】
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海難供養碑
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裏口から入ったため、正面へ出てきました「回向院(えこういん)」は京葉道路沿いにあります。江戸城が焼失した、明暦三年(1657年)振袖火災の死者10万8000人を弔うため建立されました。
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回向院となり「墨田花火資料館」時間切れ、アウト!閉館でした。
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「墨田花火資料館」入り口。入館無料!12:00〜16:00
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国技館通りのかわいい「力士の像」道路両側に6基ほど見えました。
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国技館通りのかわいい「力士の像」台座には、「大きな手形」手形と力士の像が同じくらいでした。以上両国駅南側「吉良邸宅跡」見学記終了です。
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