1983/03 - 1983/03
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アリヤンさん
1983年3月、イラン・イラク戦争(別名イライラ戦争)の最中だった。
3年半のクウェート駐在を終えて、1982年末に日本に家族とともに帰国。本社勤めとなった。
当時ドル箱だったイラク・マーケットを一度視察するために、1週間の予定でクウェート経由、バクダッドに赴いた。
当時、クウェートには約2000人もの邦人が居住しており、バクダッドに商用で行くビジネス・マンやプラント建設技術者が多く集まって居た。
JALのクウェート事務所は、バクダッドまで都合650km、計12時間の日本人ビジネスマン専用のバスを仕立てていた。
このバスでワタクシはバクダッドに向った。
(クウェート⇒バクダッド間のフライトはイライラ戦時下で無かった)
クウェート、サウジ・アラビア、ドバイ、イランなどの産油国中心に数え切れないほどの出張をこなしていた頃だった。
戒律厳しいイスラム教国の中では、イラクはビールも飲めるし、一般の人々は民族服ではなく洋服を着ており、戒律がゆるいお国柄であった。
バクダッドと聞けば、「千一夜物語」や「シンドバッドの冒険」などを連想する好感度なお国だった。
当時隣国のクウェート首長国はイラクを支援しており、武器・弾薬をイラクに向けてせっせと援助していた。
当方はそのクウェートになじみの深い人物なので、ドバイに行くような感覚で気軽に出かけた。
なお、当時写真嫌いだったので、自分で撮った写真が殆ど無い。
今思えば全く残念なことだ。
ここでは、当時の現地調達した地図と、これも現地調達のガイド・ブックに登場させてもらっています。
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 高速・路線バス
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バスは日本人ばかり約30人。
男ばかり。
プラント建設関係者か石油関連関係者が多いようだった。
商社関係は当方のみのようだった。
イラク国境へはすぐに着いた。
クウェート側イミグレはすぐに終わったが、イラク側イミグレ通過に3時間くらい掛かった。
荷物検査に時間が掛かったのだ。
JALのクウェート事務所から、添乗員としてエジプト人が一人乗っていたが、あまり役に立っているとは言い難かった。
イラク側国境はなにも無い殺風景な所で、荷物検査にダラダラと時間をかけた。
周りは日本人ばかりなので、あまり緊張もなく、皆、我慢強く時間をやり過ごした。
その後、バスは順調に飛ばし、ナシリヤ、サマワを通ってバクダッドを目指して、荒涼たる土漠をバクダッド目指して、北にひた走った。
拡大版⇒http://www.geocities.jp/ariyan9911/IraqMap.jpg -
イラク南部の湿原地帯、「マーシュ・ランド」を通るのでは、と期待したが、期待に反して、クウェートやサウジアラビアのように、見渡す限りの土漠ばかりだった。
写真のような風景は残念ながら見えなかった。 -
マーシュランド。
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マーシュランド。
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夕方にバクダッド着。
代理店のハビブに予約してもらっていた、小さなホテル「アダム・ホテル」にチェック・イン。
当時はビジネス・マンやエンジニアの急増で、慢性的なホテル不足の状態であった。
よって国際的に有名な名前の各ホテルは常に満室で、ホテルの確保自体が困難だった。
大型で近代的なパレスティン・ホテルが建設中で、アダム・ホテルがその建設現場近くだった。
雨が降ったあとは、その建設現場近くはドロだらけのぬかるみと化し、足元がドロドロになったのを、良く記憶している。
これから約5日間、代理店のハビブと一緒に、バイヤーたちと会って契約をする事になっている。
朝9時にハビブが車で迎えに来て、バクダッドのメインストリートであるサドゥーン通りに並行していたラシード通りにある彼の事務所へ行く。
商売は完全に売り手市場となっており、客は列をなして事務所にやってきていた。
一人5万ドルまでならば(当時のレートで約7百万円)輸入ライセンスが簡単に取れるので、ハビブが各バイヤーの顔をみて、それぞれにみ合った5万ドルくらいの内容の引き合い書を作り、ワタクシが価格を見積もる。
計算機ではなく、計算尺を使ってドル建て価格を算出していた。
値段交渉することは殆ど無く、こちらの言い値でドンドン契約成立した。
他の産油国では、アラビア商人と価格では丁々ハッシの交渉をしてきていただけに、こんな楽な展開は初めてで、笑いが止まらないほどだった。 -
夕暮れ時の街角。
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仕事の5日間はすぐに終わり、数百万ドル(数億円)の契約を取った。
気分良く、ビジネスは終わった、
最後の日、ハビブが、「どこかイラクの誇る遺跡をみせよう」と言った。
バクダッドの南約30kmにある紀元前の遺跡、「クテシフォン(Ctesiphon)」に連れて行ってもらった。
途中原子力発電所があり、上空に大きなアドバルーンを揚げていた。
ここはつい最近、イスラエル空軍機に奇襲攻撃されて、破壊された発電所だった。
アドバルーンは、次の奇襲攻撃を察知するためのレーダーの役割をしている、とのことだった。
今でも覚えているが、あの時のイスラエル空軍の手際のよさは無かった。 -
その時のイスラエルの戦闘機はサウジアラビアやヨルダン領空を低空飛行してレーダーをかわしてイラク領内深く入ったのだった。
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イチオシ
クテシフォンは紀元前1世紀頃、パルティア王国によって建造され、その首都として栄えた。
古代よりメソポタミアの中心として、東西交易の中継地となっていた。
特に一枚岩をくりぬいて作られたアーチが、その精巧な技術で有名だ。
*最近分かった事だが、このアーチはパルティア王国を滅ぼしたササーン朝ペルシャのホスロー1世が建設した(紀元後550年ころ)らしい。
「ホスローのアーチ」といって、古代都市クテシフォンにある宮殿跡の一部。
古代ローマの水道橋の技術が応用され、古代ローマのコロッセオと同様な技術が応用されているらしい。
とにかく「現代でも建設困難な薄いアーチを、遠い古代時代に造ったなんて!」とホトホト感心したのを良く覚えている。 -
商売繁盛1週間の後、空路アンマン経由でクウェートに帰ることになった。
サッダーム・フセイン国際空港までハビブに送ってもらい、出発時刻を待っていた。
夜の8時だった。
チェック・インはスムーズに終わり、荷物は人夫に運ばれ飛行機の方に行った。
荷物のタグはKWTとなっていたのを確認した。
(中東では、こうした確認を怠ると、自分の荷物がとんでもない所に行ってしまうことがよくあった)。
いよいよ金属探知ゲートを通り、待合室に行くだけとなった。
小脇にセカンドバッグを抱えて、ゲートをくぐろうとした、その時、ゲートワキに座っていたヒゲもじゃのオッサンが、
「そのバッグを見せろ」と。
何らおかしなものは無いので気軽に見せた。
この瞬間が運命の分かれ目となる、とは知る由もなかった。
バッグには一万ドル(約百万円)近くのドルキャッシュが入っていたのだ。
勿論、日本から3ヶ月の出張経費として、会社からもらってきたものだ。
当時産油国では、オイル・ダラーが唸っており、ドルの持ち込み、持ち出しはどこでも自由だったし、交換レートはT/Cよりキャッシュの方が良かった。
そんな理由で、キャッシュばかりの方が便利で有利だったのだ。
(紛失や盗まれる危険性はあったが)
ゲートわきのオッサンと当方の会話。
(以下ヒゲがオッサン、アリヤンがワタクシ)
ヒゲ:「このドルはどこから?」
アリヤン:「ジャパンから持ってきた」
ヒゲ:「パスポートに外貨持ち出し証明証のスタンプがあるだろう、見せろ!」
アリヤン:「日本は最近では外貨持ち出しは自由になって、そんなものはパスポートに記入されていない。」
ヒゲ:「そりゃ、おかしい。このドルを置いていけ!」
アリヤン:「冗談じゃナイ!」
ヒゲ:「置いていかないのなら、イラク・ディナールに全部換えろ!」
アリヤン:「冗談じゃナイ!」
(心の中でツブヤイタ:そんな紙切れ同然の通貨に換えたら捨てたも同然だ)
ヒゲ:「貴方はこのゲートは通れません。こちらに来て下さい。」
ってな具合で、物事は急な坂を転がり落ちるように逆転しはじめた。 -
もう離陸の10時pmは近かった。
暗い通路を連れられ、途中、銀行の前で、再度ディナールへの両替を促された。
断った。
どうしたことか、アライバル・ホールにある一室に連れてこられた。
部屋に入ると、軍服姿の将校らしき男が一人座っていた。
彼はワタクシを連れてきた男から私のバッグを受け取り、中からパスポート、ドルキャッシュを机の上にキレイに並べた。
将校は尋問調の口調で、取り調べが始まった。
以下将校=軍 当方=アリヤン
軍:「このドルはどこから来たのだ?」
始めから尋問口調だ。
日本から持ってきたこと、今の日本は外貨持ち出し自由で制限の無いことを説明した。
軍:「イラク入国の時に外貨申告をなぜやらなかったノダ!?」
これで、自分の容疑が「外貨不申告」であることがやっと分かった。
アリヤン:「国境では、どこにも申告するところが無かった。一緒にバスに乗ってきたどの日本人も、だれも申告などはしなかった。国境のイミグレでも外貨のことはなにも聞かれなかった。」
と必死に弁明した。
こりゃあ、かなり分が悪い、と初めて気がついた。
アリヤン:「貴方のお国では外貨申告をせねばならないことは分かりました。申し訳ありません。全く知らなかった。本当に悪意は無かった。今回はカンベンしてください。次回からはキチンと外貨申告をします。罰金なら払いますので、そのパスポートとお金を返して下さい。お願いします!」
今度は泣き落とし作戦で行った。
でも尋問将校は表情を変えず冷たく言った。
軍:「これを持って今から街に帰れ!」
と、ノートの切れ端になにやらアラビア語で走り書きしたものを渡された。
意味は全く分からない。
ワタクシのアラビア語は読み書きが出来ない。
聞きとシャベリが少し、出きる程度だった。 -
もう真夜中だった。
金とパスポートは没収された。
紙の切れ端に書いてある場所に行けば、金とパスポートは返されるだろう、と言う。
金もパスポートも無く、どうやって街に帰れるのだ?
慢性的なホテル不足なのに、どのホテルに泊まるのだ?
それに、ハラが減ってもなにも食えんじゃないか?
色んな不安が頭の中をぐるぐる駆け巡る。
仕方ナイ。
軍人相手にケンカしたら危険だ。
机の上に並べてあったドルの端数を指差し、
アリヤン:「ココの部分の半端なドルは要らないでしょう。端数を取れば9000ドルとキリがいいでしょう。
だからその端数を少しワタシに返して下さい。
お腹も空いているしノドも乾いた。
街に帰るタクシー代も要るので、その端数をちょっと下さい。
端数の無いほうがキリが良いでしょう」
と頼んでみた。
するとアラ、不思議、端数を返してくれた。
その晩は仕方なくタクシーで街に帰り、アチコチのホテルを当たって、やっとチグリス河のホトリの小さなホテルに落ち着いた。
どっと疲れて寝てしまった。
でも寒くて、一度起きて電熱器を付けて眠った。
あした、あそこに行けばパスポートと金は返してくれる、、、と甘く考えていた。 -
翌日午前中に、夕べのノートの切れ端を頼りにひとり、タクシーで、言われていた所に出頭しようと、出かけた。
タクシーの運チャン、近くまで来たが遠くに車を止めて「アソコだ!」と指差す。
「もう少しじゃないか。アソコまで行ってくれ」と云うと、
運チャン、トンデモナイ!とばかりに顔と手を振る。
おかしいナア、っと思いながら歩いて近づいて行って、納得した。
そこは鉄条網つきの高い塀に囲まれ、塀の上、所々に機関銃が据え付けられ何時でも機銃掃射オーケの状態だ。
エライとこに来てしまったものだ。
それでも、ここに出頭すればパスポートとお金が戻ってくる、と信じて疑わないワタクシは、無謀にもノートの切れ端を見せて中に入った。
2重3重のボディチェックを受けて、中庭を通って奥の部屋に入った。
中には男2人が、ヒマそうに小さなグラスでチャイを飲んでいた。
彼らは見張りか?
なんでここにやってきたのか?
お前は何者か?
などお茶のみおシャベリをやった。
待つこと2時間。
係官がやって来てトンと座って、
「お前のケースはまだここに来ていない。明日来い!」
で終わり。
たったそれだけ。
質問するヒマも無くサット出て行った。
お茶のみ友達も「マッサラーマ(サヨナラ)」と手をふるのみ。
仕方なくホテルに帰り、代理店のハビブに電話して来てもらった。
ノートの切れ端のアラビア文字を見せて、
ワタクシ「何て書いてある?」
ハビブ「ケン、こりゃあ大変な所に呼ばれている。そこはRevolutional CounsilのHead quarterだ。革命評議会=秘密警察の本部でボスはサッダーム・フセインだ。
ケン、知ってるか?ワタシのイタリア友人がここに連れ込まれ1ヶ月も帰ってこなかった。
帰ってきた時はげっそりしていて、どうしたんだ?と聞くと、ヒドイ拷問にかけられたと言う。
その彼はすぐにイタリアに帰って1ヶ月もしないうちに死んだ。」
ワタクシ「エエーッ!?そんな怖い所なのか。道理で中庭では後ろ手錠でうなだれた人が引き立てられていた。ハビブさん、助けてくれ!」
ハビブ「ケン、申し訳ない、ワタシは助けられない。助けられるのは日本大使館だけだ。すぐに大使館に行くべきだ」
勿論、すぐに大使館に駆け込んだ。
大使館では、すぐに一等書記官のN氏が話を聞いてくれた。
「1万ドルはちょっと多すぎますね。千ドルくらいの人は多く居まして、みんなその場で諦めて、相手にやってしまって終わり、にしているようです。でも良く無事にあそこから出て来れましたネエ」と感心された。
大使館には警察庁から来ている武官が居るのだが、この武官曰く
「私は革命評議会本部はまだ行って見た事が無い。私も一緒に明日行きましょう」
という。
そういうわけで、翌日、一等書記官、通訳のイラク人、武官、ワタクシの計4人、日の丸の旗を立てた大使館の車で革命評議会本部に行った。
これで日本大使館の知るところとなったので、少なくとも安全な身分になったわけだ。
革命評議会本部で、外交官のパスポートを見せて入ろうとした一等書記官と武官は、入り口でアウト。
ワタクシと通訳だけが中に入れた。
例の中庭を通って奥の部屋へ。
甘い紅茶を飲みながら担当官が来るまで2人のオッサンとおしゃべり。
担当官が出てきた。
「貴方のケースはまだ来てナイ。ブックラ!(あした!)」
カンカンと照りつける外にでると、木陰の下で、一等書記官と武官が待っていてくれた。
こうやって毎日通うこと1週間。
午前中は大使館。
革命評議会本部に大使館の車で行って、午後からはフリータイム。
荷物は先にクウェートに行ってしまい、着の身着のままだ。
街にでては、食料と下着と着替えを購入。
でもパスポートが無いので、ポリスをみたら身を隠す毎日だ。
3日目くらいに一等書記官のN氏が大使館で、
「アリヤンさん、よく頭がおかしくなりませんね。普通のヒトならもうおかしくなっていますよ」
アリヤン:「イエ、クウェートに駐在3年半、サウジアラビアには毎月出張、イエメン、ドバイにはふた月に一度の出張、とアラビア人と付き合うのには慣れています。一度物事が逆廻りしだしたら、アラブではトコトン最後まで行かないと好転はしない、と考えています。
だから今回もトコトンやります。そのうちうまく事が運ぶでしょう。インシャーラ(神のみぞ知る)です。」
N氏:「私はイラクに赴任した頃は、この国に期待していました。しかし今は裏切られた気持ちです。こんなにヒドイところとは想像していませんでした。
アリヤンさん、今現在も、ここの牢獄に身を縛られている日本人が居るのですよ。
そのヒトは理不尽にも路上で拉致されて、貴方が現在呼ばれている、アノ忌まわしい革命評議会本部に連れ込まれ、拷問を受けて、身に覚えの無い罪を認めて、とうとう牢獄入りとなっています。
アリヤンさんの場合は、一人でアソコに行って無事に出てきたんですから、ラッキーでした。」
さて、ワタクシは毎日ヒマである。
代理店のハビブの事務所に行っても、仕事はさせてもらえず、テレックスで本社に「アリヤンさんは元気です」とだけ連絡するだけ。
事務所電話も使わしてくれない。
全て盗聴されているカモ知れないので勘弁してくれ、とハビブは言う。
午前中の革命評議会本部通いが終わると、メイン・ストリートのサッドゥーン通りを徘徊して、日本人の道案内などを買って出ていた。
なんせ何度もこのメイン・ストリートを往復しているので、どこに何があるか覚えてしまっていた。
道案内ついでに外貨の所有と申告の有無を聞き出し、無申告の人には自分のケースを説明した。
誰もが無申告で何百~千ドル近くは持っていた。
「出国までに使ってしまおう、アリヤンさん、ウマイもんでも食べて使ってしまおう」、っとなってワタクシはバクダッドの空の下で、食いっぱぐれることは無かった。
バグダッド市内地図拡大版⇒http://www.geocities.jp/ariyan9911/BaghdadCentre.jpg -
革命評議会本部に1週間通い詰め、とうとうワタクシのケースが担当官に来た。
担当官は宣言した、
「ユア ケースはイラク中央銀行に行った。明日から中央銀行に行け!」
代理店のハビブは「これで民間ベースになるので、今度は助けられる。
イラク銀行のマネージャーは友達だ。すぐにでも解決ダ!」っといき込んで行ったが、簡単では無かった。
ケースがまだ銀行に届いてなかったのだ。
それからというものは、毎朝ラシッド通りにあるイラク銀行本店に足を運んだ。
ワタクシのケース担当のモハメッドは
「アンタの金とパスポートは、オレの後ろの金庫に納まっている。そのうちに返せるハズだ」
最初にパスポートが帰ってきた。
これで大手を振って街を歩ける。
持っていたT/Cが両替できる。
ハビブにお金が返せる。
通りで道案内をしなくてよくなった。
自分の金でメシが食えるからだ。
秘密警察国家であるので、ハビブのオフィスのテレックスは盗聴されている。
「アリヤンさんは元気です」としか本社には連絡できない。
街を徘徊しながら考えた。
「ソウダ!郵便局にテレックスがあった。」
ローマ字で書いた文を打ってもらえるように、原稿にローマ字で状況を書いた。
それを日本の本社宛てにテレックスを打つように頼んだが、担当者は英語で書けと云う。
失敗だ。
しばらく郵便局内を観察。
国際電話コーナーがあるようだ。
上京してきた軍人が、一杯いて大混雑していた。
しかも本当にこれから戦争に行くか、戦争から帰ってきたばかりの軍人なので、気がすさんでいる。
電話の権利を獲得するにはかなりの忍耐と押し出しが必要だ。
3時間待って5分間だけしゃべれる。
どうせヒマだから申し込んで待った。
マイクで「番号5番のヒト、ブース3番につながっています」とアナウンスがある。
アラビア語なのでそれを聞き逃したら、お金だけ取られて、また3時間は待たねばならない。
3番ブースにダッシュ。
ラインはもう繋がっている。
「お父さん、いまバーレン?」
「違うチガウ!まだバクダッドや!」と叫ぶ。
なんとか状況を説明しようとしたが、情け容赦なく5分がきて、バシャっと音をたてて切れた。
会社は家族には何も言っていなかったようだ。
パートナーが会社に電話して当方の状況が少し分かって、本社も慌てたようだ。
ある夜、真っ暗なチグリス河の対岸に向って機関銃が打たれ高射砲が唸った。
スワッ、イラン軍の空爆か?
でもイランって飛行機あったかな?
赤い曳光をひいて実弾の火の玉がポンポンと飛ぶ様は、逆に美しくもあった。
翌日の新聞で分かったが、対イラン戦勝利祝いで実弾を撃ったらしい。
生まれて初めて、高射砲が打たれるのを見た。
その時ホテルのスタッフが「電話が掛かっているよ!」と来た。
エッ?誰から?当方がここに居ることがどうして分かったの?
本社の部長の声だった。第一声は「身柄は拘束されていないか?外務省通じて抗議をしようと思うがどうか?」だった。
「お金は取られていますが身柄は安全です。抗議は止めてください。今取り返せるように交渉中ですからややこしいことは何もしないで下さい。もうすぐ終わりますから。じっとしていてください」
中央銀行通いは10日くらいやった。
最後の朝、いつものようにイラク銀行本店のスタッフに挨拶を交わしながら入って行くと、担当のモハメッドがニコニコしながら、
曰く「いよいよ返せる時が来た。明日空港で夜の8時に待っていてくれ。オレが金を持っていく」
ホンマかいな?と思いながらこの10日間、モハメッドとは馴染みになり、他のスタッフとも仲良くなった。
まあ信用しよう!っと航空会社へ飛んで行った。
毎日のようにクウェート行きの席を予約しに行っていたのだ。
翌朝、心配で、イラク銀行本店に行ってみた。
アリャリャ、モハメッドが見当たらない!
回りのスタッフ曰く、「可哀想に、お母さんが事故で夕べ亡くなられたので故郷に慌てて帰った」
「エーッツ! 今晩、モハメッドがワタシのお金を空港に持ってくると言っていたのに。金はこの金庫にある、と言っていたので空けてクレ?!」
「残念ながら鍵はモハメッドと共に去りぬ、です」「モハメッドの故郷はどこや」
「バクダッドの北、数百キロのモスルで今日は帰って来れないだろう」
「事実は小説より奇なり」と、この時ほど思ったことは無い。
もうかれこれ3週間以上待ったのだから、あと2~3日くらいショーガナイか。
で諦めてインシャーラ(神のみぞ知る)という境地に入った。
翌日、モハメッド発見。
話してみると、本当にお母さんが死んだらしい。
お悔やみを述べて、おもむろに「いつお金は返してもらえるのか?」聞いた。
「明日、夜8時、空港で返す。今度は大丈夫だ」
翌朝、再確認にイラク銀行へ行った。
モハメッドが居た。
写真はチグリス河畔で焼かれる大きな魚。香ばしくて結構うまいものだった。 -
カクシテ、空港で待つことしばらく、モハメッドがやって来た!
封筒を持って!
お金を返してくれるのだ!
興奮気味に思わずモハメッドの手を強く握った。
封筒から出てきたのは半分の金額だった。
「半分はどうしたのだ?」
「半分は当局に没収となりました」
「そうか、仕方ない。半分でもよう返ってきた。モハメッド君、半分は取られたのだから領収書を呉れ」
モハメッド曰く「反対だ、逆だ!ワタシはお金を貴方に渡したのだから、貴方から領収書をもらわねばなりません」
もう何が正しいのか、なにが間違っているのか?分からない。
ここで揉めるのはもうイヤダ。
名刺に領収したことを書いてサインをした。
当方には失った半分の金額の証拠が無いので、モハメッドがお金を入れてきた、イラク銀行の封筒を証拠にともらった。
その場で一等書記官のN氏に電話を入れて、お礼を述べてからチェックインした。
金属探知機ゲートでまたあのオッサンが居た。
「ユー ハブ ダラー?」
「イエース。アイ ハブ」
「この金ドコカラ来た?」
物語は繰り返す。
エライコッチャ。
「オッサン、ちょっと待っててね。バッグを預けておくからちょっと待っててね」と。
すぐにモハメッドがまだ空港内に居ることに賭けた。
必死で探したところ、幸運にもモハメッドが居たのだ。
彼をゲートのオッサンのところに連れて行き説明をしてもらった。
神はワレを見捨てずであった。
シュクラン、シュクラン。(アリガト、アリガト)
バグダッド侵攻図拡大版⇒http://www.geocities.jp/ariyan9911/BaghdadCentre.jpg -
空路、無事クウェートに着いた。
クウェートでも外貨申告するところは無いか?探した。
しばらく外貨申告病に付かれたように、どこでも「外貨申告、外貨申告」とつぶやいていた。
クウェートでは、JALの所長にアポを取って会いに出かけた。
ワタクシの事件はすでに知れ渡っており、陳謝された。
所長自らバクダッドへの国際バスに乗って調査したらしい。
国境では外貨申告する用紙も、場所さえ無かった。
しかし申告しなければいけないので、JALで独自に申告書を作って、国境で無理やり申告して、スタンプを押してもらうようになった、とのことだった。
慣れたクウェートで1週間ほど仕事をして、また英気を養って、それからサウジ、イエメン、ドバイの出張の続きを2ヶ月やって日本に帰った。
この事件以来、出張には現金持ち出し500ドル以内、という社内ルールが出来た。
こうしたトラブルは、これがワタクシにとって最大であったが、昔のアラビアはトラブルの宝庫だった。
以来、トラブルに会うと俄然ファイトが沸くようになってしまった。
この時は本当に危ない所だった。
同時期に牢獄につながれていた商社マンが居た。
バクダッドの日本大使が言っていた。
「アリヤンさん、私でさえ自由に面会できないんですよ。日本の外務省経由でイラクの外務省に申し込んで、許可が下りれば、やっと会いにいけるのですよ」
米軍侵攻図拡大版⇒http://www.geocities.jp/ariyan9911/2003AmericanMarch2.jpg -
このヒトの場合は後日
「バグダッド憂囚 商社マン・獄中の608日」
新潮社 吉松安弘
というジャーナリストが本人からの聴取を元に書いた本で、明らかにされた。
当方のケースとは違うが、ワタクシを救ったのは、ワタクシのしゃべるベドウィンの拙いアラビア語だったと思っている。
革命評議会本部の奥の部屋でも、部屋に居たイラク人とお茶を飲みながらだべっていたのが良かった。
カモ? -
この経験から、第一次湾岸戦争のとき、バクダッド市内の様子がわかるだけに、連合軍の侵攻の仕方が分かりすぎるほどわかり、逆に歯がゆいほどだった。
逃げるフセイン大統領宮殿軍を米軍は見逃していたのだった。
「そんなことしてたら、フセイン軍は温存されてのちのち手を焼くことになる! もっと徹底的に掃討作戦を遂行しないと、たいへんな事になるがな~」とテレビに向かって叫んでいた。
事実、その後そうなって、第二次イラク戦争につながった。
ワタクシの経験は当時の中東情勢のゆくえを言い当てるのには役立った。
当時のワタクシの予言は専門家より良く当たっていたのだった。
まあ、それくらいしか役にたっていませんが、、、 -
イチオシ
数年してから、代理店のハビブが家族で日本にやって来た。
大事におもてなしをした。
ハビブはアンチ・サッダーム・フセインで、娘が嫁いだアメリカは、サンフランシスコに移住してしまった。
バクダッドの家でテレビを見ながら、彼がサッダームの悪口をブツブツ言っていたのを、知っている。
彼は数少ないクリスチャンだった。
今ではもうかなりなお年で生きているのかどうかは判然とはしない。
最近、フセイン大統領が死刑になった。
それでワタクシのイラクは終わったのでした。
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この旅行記へのコメント (3)
-
- マリオットさん 2020/01/13 10:32:18
- すごい時期に、すごい体験。
- 初めまして、マリオットです。本日のお題がイラクだったので、今頃になって旅行記を読みました。
海外をウロウロしていたころ、アジアからはインドまで。その先はヨーロッパで、中東地域は怖くていけませんでした。そんな時期に、ビジネスで滞在していた人たちがいるとは驚きました。
賄賂を要求するイミグレはアジアにもいましたが、全額没収は強権ですし、その日の生活にも困りますよね。何度か危ない施設に行き、無事に帰ってきているのもすごい体験に思えます。紹介されている本を、読んでみたいと思います。
-
- ElliEさん 2013/03/03 16:14:49
- なんと恐ろしい経験なんでしょう・・・
- アリヤンさん〜。
読んでてほんとにドキドキしましたよ。
まかり間違っていれば、塀の向こう側に拘禁、拷問・・・ここに書くのも恐ろしい。
ほんとによくご無事で。
こんな経験をくぐりぬけてきているのですから、アリヤンさんの肝っ玉がすわっている理由がよくわかりました。
- アリヤンさん からの返信 2013/03/03 19:20:54
- RE: なんと恐ろしい経験なんでしょう・・・
- はは〜ん、「アリヤン、バグダッド事件」を見てくれたのですネ。
イエイエ、生来は気の小さな怖がりな性格だったんです。
それはロンドン、パリの約4年の滞在時代も変わりなかったです。
でも、パリからインドまでユーラシア大陸横断旅行をした時に、性格が変わってしまったようです。
小さなことにこだわらず、いつも大極的にものごとを見るというクセが付いてしまったのです。
究極に近い旅で、物事にあまりこだわらない術が身についたようです。
でも、生来の性格はまだ生きており、なんでも細かく分析・観察して、近い将来の危険回避に繋がるよう努力はしています。
ElliEさんのようにバンクーバーという良いところに住んで見たいものです。
でも寒そうなので、冬は過ごせそうにないですネ。
やっぱりバンクーバーには香港からの移民が多いですか?
バンクーバーをホンクーバーというくらいですから。
ワタクシの友達(香港人)も香港の中国返還の年にカナダ人になってバンクーバーに行ってしまいました。
何年もかけてカナダ国籍を取っていたそうです。
まあ、そうせざるを得ない人々からすれば、ワレワレ日本人はまだまだ怖い思いはしていませんネエ。
それでは、
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