2006/05 - 2006/05
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seidouさん
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前編のバルト3国写真紀行第1集エストニアのタリン編 に続き第2集としてラトビアの首都リーガ編を掲載します。ラトビア国では首都の他にリゾートのスィグルダと国境の離宮ルンダーレ宮殿は別冊にします。
第2集の写真撮影やコメントの視点は第1集と同様ですので省略しますが、首都リーガの新市街に数多く建ち並ぶアールヌーボー(独;ユーゲントシュティール)様式の建築物は、建築学科の学生を連れて行けば、感激してしばしたたずむであろうと思われる素晴らしいものですから、これに少々枚数をかけてアップし、またコメントも出来るだけ観光用の表現にして、これを知っていて観察すれば、興味もわき面白くなるように書いてみようと考えています。
長文を記述しているとこのプログシステムでは全文が消えるときがあるので、その危険を避けて、まず写真だけ先にアップし、コメントはあとからゆっくり付け足して行きますので、暇をみて時々覗いてください。
リーガ以外に郊外の緑のリゾート、国境のルンダーレ宮殿は続編として、後日アップロードいたします。
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ブラックヘッドのギルトと聖ペテロ教会
華やかなファサードを持つブラックヘッドのギルド前の広場は、市庁舎広場と一体化してリーガ旧市街の中心的な位置にある。この広場はタリンのエラコヤ広場のようなアメニティー感覚の広場でなく、周りの建物も堂々としたものが並び、商工業組合と市政治とが絡み合った公権威的広場の匂いがするし、タリンとは段違いの大都市の風貌が見られる。 -
ブラックヘッドギルドのファサード
このギルドの前に立って驚いた。すごい色使いのファサードだ。赤レンガに補色のシアンブルー、白に金色の縁取り。そしてこの垂直性デザイン。
リーガ旧市街の建物で最も華やかで、市庁舎広場を飾るブラックヘッドの館は、そのファサードにいくつかの特徴を見出せるし、そこからリーガの歴史も覗くことが出来る。
タリンでも同様の館があったが、これほど派手な装いでないにしても、当時の最先端オランダッルネッサンス様式をファサードに表現していた。
ブラックヘッドギルドの役割は、両者とも同様で、もう1段上級のグレートギルドへ参加する前の若き未婚の貿易商人後継者たちの集会所であり、ファサード最上部に1334〜1999年と年次が記されているから1334年創設されたもの。
入口にマドンナと聖マリティウスの像(写真右側の黒い顔の像)が飾られているところもタリンと同様である。当初はニューハウスと称されていたらしいから、若者に似合った斬新なデザインであったと推察される。
以降数次にわたって改装(16世紀〜17世紀の北欧マニエリズム様式、19世紀末ハンザ同盟都市紋章、商売の保護者メルクリス像などの追加)され、現在見られる個性豊なものになったようで、まさにバルト3国の中でも最も繁栄した時代の産物であろう。しかしながら無念にも第2次大戦で完全破壊された。
1999年にリーガ800年を記念して完全復旧再建され、再び名所の仲間入りをしたものという。したがってまだまだ新品同様の美しさを誇っている。
華やかに見えるのは、赤レンガとブルーと白の縁どりに金色の彫金細工等配色の妙にある。その中心にブルーの大時計をおいているのは中世型の伝統様式であるが、マニエリズムを加味してハンザ同盟4都市紋章、ギリシャ神話の神像を配し独特のファサード表情を生み出している。
青空に良く映えてリーガのイメージポインターでもある。
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市庁舎と市庁舎前広場の守護神ローランドの像
市庁舎広場は、中世時代は祭りや市の条例の布告、刑罰の実行、定例市場などの諸行事が執り行われた場所であるから、ゴチャゴチャした広場に建つ初期の市庁舎の建物は、いかついものであったかもしれないが、いまは清楚な時計塔をもち、穏やかなホワイトとブラウンでカラーコントロールがなされた3階建ての瀟洒な庁舎である。市庁舎前に立つ再建された聖ローランドの像も含めて広場自体がすっきりした空間に再形成されたようだ。 市庁舎もブラックヘッドのギルド同様戦後再建されたもの。ネオクラシック様式でモダンな建物であるが、よく見ると屋根はカマボコ屋根で西端にはカリオンが塔内ではなく、屋根のアールに添って2列に幾つも吊り下げられている。一度その音を聞きたいと思っていたが、昼の12時に鳴ったかどうか聞き逃した。 -
ラトヴィア占領博物館とライフル部隊戦士の像
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「さむらい」という名の寿司バー
ロシアでもモスクワ、サンクトペテルブルグの都会では寿司屋が次々に出来ているが、この小国にもすし屋がいくつも出来ているとガイドがいう。覗いてみると結構人が入っている。どんな寿司を食わせるのか、ちょっと入る気にはならないが、興味はあるところ。 -
聖ペテロ教会尖塔
まず天を指すバロック様式尖塔が目に入る、聖ペテロ教会のこの塔は120mの高さがあり、市内のどこからでも見えるランドマークだ。最初は木造の65mで17世紀当時ではヨーロッパで最高の木造建築だったという。第二次大戦で焼け落ちたが、戦後鉄筋コンクリート造で復元された。 -
聖ペテロ教会バロック様式南入口
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聖ペテロ教会西側のバロック様式入り口
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聖ヨハネ教会とエッケ旧修道院との路地から
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スカールニュ通りのエッケ旧修道院前にて
身寄りのない寡婦のための修道院となったもと宿屋
15世紀の建物で補修されてはいるが、壁面に「キリストと罪人」を描いたレリーフが残っている。現在は博物館。その前では屋台販売が数台に観光客が寄っていた。 -
スカールニュ通り
聖ヨハネ教会と聖ペテロ教会の前を北に向かって進みカリチュ大通りにぶつかるまでの間の通りでラトビア語で「肉屋の通り」の名で呼ばれ、ハンザ同盟の頃からの古い町並みが残る美しい道筋である。ブレーメンが姉妹都市なので聖ペトロ教会前にブレーメンから贈られた「ブレーメンの動物の音楽隊」の像がある。
写真右側は聖ヨハネ教会とその先にエッケの修道院、聖ゲオルギ教会、へと続く。 -
ヤーニスの中庭への入口
聖ヨハネ教会とエッケの修道院の間の小路をすすむと先方に司祭館の赤レンガ壁が立ちはだかる。その下にぽっかり開いたアーチトンネルを潜るとヤーニスの中庭に出る。 -
聖ヨハネ教会横路地からヤーニス中庭へ
薄暗い小路をすすんで赤レンガのトンネルに入る。入り口には修復のあとが多く残っていて、中庭への出入が激しかったことを物語る。それはその先が街の防衛線だったからだろう。 -
ヤーニス(聖ヨハネ)の中庭
古い防御壁の一部が残っているので案内されるが、ガイドの説明が下手だとこの壁の価値がわからない。
ここは13世紀のドミニコ修道会の司教館の地内で初期のリーガの防衛城壁範囲を示す。壁はレンガできれいに積み貼り付けられているが、メクラアーチの基部にはいろいろな石が積まれているのが現れて見える。
中庭の敷石を見ると大小まばらな石が敷き詰められていて、これらは壁の基部の石と同じものである。当時石材が少なかったリーガでは、周辺の農村から町の教会にやってくる農夫たちに2つづづ手に持って町に入るよう徭役を科したものという。そのようにして最初の中庭も防御壁も造られた。石畳の石一つ一つに納付たちの歴史がこもっているとは知って知らずか、今はここにテラスカフェがあって観光客が休憩をとっている。 -
ワグナーホール
ヤーニスの中庭からもう1本裏通りに入るとワグナー通りとなる。作曲家ワグナーがこの通りの4番地に1837〜1839年の2年間住んでいたいうことでそのあとにコンサートホールの立派なビルが出来ている。彼はリーガに来てまたすぐ去ったのは借金逃れの方便だったようであるが、一種のブラックユーモアとでも受け取ったらどうであろうか。演目を見るとちゃんとワグナーの曲目が入っていた。 -
ワグネラー通りの賑わい
通りの名は前述のワグナー住居に由来するが、なかなか賑やかな商店街通りである。北へ直進すると旧市街を南北に分ける大通りのカリチュ通りに突き当たる。その通りを横断した先がりーヴ広場である。 -
リーブ広場と繁華街カリチュ通り
5〜6階のビルが立ち並ぶカリチュ通りから入ったこの広場は木の茂った公園でこのなかを八方に道が通って旧市内各町への通過振り分け広場の役割をしている。
カリチュ大通りを東(写真では左手側)へ進むと運河を含む大緑地帯を経て新市街へ至る。西へ(写真右手側)へ進むと市庁舎広場へ出てその先はダヴガヴァ川に至る。 -
猫の像がある家
この家の名物猫の由来については、どのガイドブックにもガイドブックにも書いてあり、フォートラベルの他の旅行記にも皆さん触れているので省略しますが、要はドイツ商人が支配していたギルドにラトヴィア商人が加入を拒否される時代に猫の尻をギルドに向けて載せたという抵抗シンボルとしての語り草的存在です。建築的にどうのこうのの話ではないが、ギルドの建物がコンサートホールになってから、猫の顔をそちら向きに変えたなど観光客を楽しませるユーモアがあってこそガイドの語り場が生きてくるし、今なお残していこうという配慮が市民にあることも大事なことで学ぶ価値があると思う。 -
大ギルドの現コンサートホール
猫の家の北斜め向かえに建つ旧大ギルドで、バロック様式建築のしっかりした建物。 -
メイスタル通りと大・小ギルド
13世紀の後半にはリーガ旧市街は城壁で囲まれており、リーブ広場の西側を通るメイスタル通りもその一つ。この通りは南はヤーニスの中庭で見た城壁があったカレーの通りに連なり、北東へは火薬塔、トゥアルニャ通り、スェーデン門を経てぐるりと回ってリーガ城へと伸びていた。メイスタル通りに面した大ギルド(写真右)やアマトゥ通りを隔てて向かいに建つ小ギルド会館など通りに面した建物などはもとは18世紀半ばに城壁を利用して造られた。小ギルド会館ももコンサートホールに使われている。
大ギルドと小ギルド間のアマトゥー通りは「職人通りといわれ、それら職業組合の集まりがギルドであった。 -
スクーニュ通りのアールヌーボー様式ビル
この通りを進むと、旧市街の中心の一つドム広場で出る賑やかな道筋であって、ファサードを見れば一目瞭然のアールヌーボー様式のビルだが、この通りにはバロック建築が多い中にまじってぽつぽつとアールヌーボー建築物が建っているのは、古くなったバロック建物の建て替えの際の建築主の要望だったのだろうか。時期的にはドム広場の北側にアールヌーボー建築物が出来始めた頃と推定される。 -
ドム広場東端の寿司屋プラネタ
前記のスクーニュ通りをドム広場へ進むと広場の端角に寿司屋があり、回転寿司をやっている。看板の字はPLANETA SUSHIとあり、NETA=ネタというのは日本語らしいが、PLAが何の意味かガイドに聞いてもわからないという。軒には鳥居の絵があり、鴨居の上は障子の桟のデザインで柱は春日神社風のベンガラ色に近い色で塗られているがなんとも奇妙な店構えである。 -
リーガ・ドム大聖堂
リーガ市内で一番大きな教会で、その前に広がるドム広場から眺めると赤レンガ積みの堂々たる建築物であるが、ロマネスク〜バロック様式までの建築史的要素が混在していて一見変わった風貌である。13世紀初頭、騎士団の占領地であったこの地方の宗教的中心の教会として修道院ともに創建され、聖母に捧げられたルーテル派教会の大聖堂になったが、その後の増改築が繰り返され、修道院と司祭館を回廊で繋ぐ大構成の教会に発展、その変遷のあとが今の教会の姿に残されたものと言われる。(教会側面のゴシック様式、切り妻に見られるルネッサンス様式、ロマネスク塔の上にバロック様式のの屋根などなど)
ここには、当初から修道院の保護を受けた学校があり、これがリーガの高等学校の発端となり教育の中心にもなった。それはリトアニアの首都ヴィリニュスのヨハネ教会付属の学校がのちの大学になったのと似ている。
なお、この教会のパイプオルガンは音質もよく有名で、多くの演奏家のCDが出されている。 -
ドム広場に埋め込まれた世界遺産の銘版
ドム教会前のドム広場は、カリチュ通りの南側の旧市街の中心が市庁舎広場であるのに対する北側の旧市街の中心であり、周辺の道路はこの広場を始点にして司法へ延びている。
この広場は19世紀後半からドム教会の新しい西玄関を開くために中世の古い建物を壊し始めて、さらに20世紀初頭には北側も広げて現在の広場とそれを取り巻く建物群となった。今この広場の真ん中に世界遺産に登録された旧市街の登録名板が埋め込まれている。 -
ドム広場と周囲のアールヌーボー様式建築物
ドム広場の北、北東側には19世紀後半から20世紀初期に建てられたアールヌーボー初期の建物が建っている。写真右側は証券取引所。 -
ドム広場に面したアールヌーボー様式建築物2
証券取引所はアールヌーボー初期の建築で、この玄関はバロック様式との折衷を示している。 -
スミルシュ通りのアールヌーボー建築物
スミルシュとは砂の意、「砂」の通りにはいるとここにはバロック様式のビルが建ち並ぶ中アールヌーボー様式も多くなり、銀行になっているのが多い。
玄関の柱やバルコニーを支える柱に人の形が組まれたり、窓の上部飾りなどに花や植物、あるいは人面模様が採用されている。 -
スミルシュとアルダル通り交差点角のアールヌーボービル
交差点側の角切りをしたファサードに思い切ったアールヌーボー装飾が施されている。小尾要に概して旧市街北東側には20世紀初頭の新建築が徐々に流行しはじめたようである。 -
アルダル通りの大胆なアールヌーボー装飾
スミュルシュ通りからアルダル通りへと左折すると並びのビルにはさらに大胆なアールヌーボ装飾が施されている。黒い壁面に薄茶色の人面の対比が見事でいまでもなかなかナウイ感覚である。 -
アルダル通りのアールヌーボー装飾2
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スェーデン門
リーガ旧市街を囲んでいた城壁の城門のうちで唯一残ったもの。17世紀後半に城壁を利用して住宅が建てられた際に付け加えられたもの。スェーデンの名は当時、向かい側の兵舎にスェーデン人兵士が住んでいたことに因る。この門から南東に伸びたトゥルアクシュニュー通りは城壁に沿っているがこの城壁は修復されたもので、13世紀にはタリン同様首都の街は城壁で囲んでいたが、大半の城壁は後年に市街の防壁の重要性が失われると城壁の石材などは新築の建物に利用されていった。門も25もあり、日没と同時に閉められ、夜間の城郭内への通行を制限した。 -
国会議事堂
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聖ヤコブ教会
13世紀からの記録を持つ古い教会。尖塔の高さは80mあり、聖ペトロ教会の尖塔に次ぐ高さ。ローマカトリック教会系の大聖堂。 -
マザースピルス通り三人兄弟
タリンにも同じような名の住宅があったが、外観は建てられた当時の中世住宅の外観を保っている。現在は建築博物館となっている。 -
リーガ城(大統領府)
リーガ城はダヴガヴァ川沿いの旧市街に建最初の騎士団の基礎が築かれて以来破壊、再建、改築が繰り返されて来た。ラトヴィアの最初の独立の時に大統領官邸となり、大戦後独立して再びここに大統領府が置かれて現在に至っているが、城のイメージからは遠い。
写真の白い塔は南東端にあり、昔の四囲隅を固めた塔の一つで、歴史博物館となっている一部。 -
古い石畳の道
タリンとの街づくりでの違いは、石材にある。タリンは石灰岩の町であったから家も城壁も道も石灰岩で建設された。17世紀時代からリーガ市街が膨張するにつれ、建設資材の需要が高まった。良い石材は建築に向けられ道路の舗装はなかなか進まず、地方から都に入る農民たちは、道路用の石を両手に一つづつもって入門したという。ここに敷き詰められた石材は、川原からとってきた硬い石(硬砂岩、チャート類)で長年月の通行で踏み固められ、表面が滑面となり砕けた石の間には隙間が出来て歩きにくくなっているのが、歴史を物語るものといえる。 -
新市街アルベルタ通りA2番のアールヌーボー集合住宅
リーガの新市街中心部の建築物の3割がアールヌーボー様式で建てられていると言われるように、この写真のようなすばらしい建物が、幾つかの通りにズラリ建ち並ぶ姿は圧巻である。以下の説明はバルト三国いやヨーロッパでもアールヌーボーのメトロポールと呼ばれるようになったリーガの建築群の一端を紹介するものです。
アールヌーボーとは19世紀のフランスから発した「新芸術」という意味の建築様式で、18世紀の主流であったバロック、ロココ様式や、ネオクラシックといった既成のデザインから離れて、植物などの自然を連想させる抽象化した曲線美を多用した構成がその特色であり、これがベルギー、ドイツへと伝播しドイツではユーゲントシュティールという名で広まった。リーガでもその名で呼ばれたが、ここでは一般的なアールヌーボーで話を進める。この様式は曲線を多用するため、当時新建材といわれた鉄、ガラス、等を有効に使用した。ベランダ、門、玄関入口などのデザインにその特徴がよく見られる。
この写真はアールヌーボー建築の旗手といわれた建築家ミハイル・エイゼンシュタインの設計になるものである。柱を飾る人物や植物のデフォルメ像、ベランダの銑鉄手すりの曲線模様、ガラスのブルーと柱のアクセントカラーの赤色の配色美など今までにない建築の構成美を演出している。 -
アルベルタ通り6番マンション
このビルもエイゼンシュタインの設計になるもの。
出窓、柱の装飾、窓の装飾、アファサード頂上部の人面、獅子像など随所に新風を吹き込んだ。
アールヌーボー様式は、ドイツから伝播したが、発生もとのフランスではギメールがパリ地下鉄駅入口をデザインしたものが残っているものの、アールヌーボー建築物はナンシーなどに少しあるだけで、1910年ごろには早くも衰退し始める。またドイツでも、ナチズムによる廃頽芸術と目され急激にこの様式が終止符を打っている。しかしリーガではこれだけ多くのアールヌーボーが存続しえたのはなぜだろうか。さらにオーストリア、フィンランドの建築物に同様なものが見られ、それらには単なる自然物の抽象表現のアールヌーボーだけでなく、民族性表現の手法が取り入れられている物が多い。その影響がリーガの建築にも及んでいると思われる。そのような視点で 以下いくつかの写真を見ながら、私見を述べてみたい。 -
アルベルタ通りエイゼンシュタイン作賃貸マンション
見るからに楽しそうなマンションである。日本の箱型で、収容効率優先マンションとは一味もふた味も違う。まず、玄関の二つの彫像に迎えられた中央ファサードの装飾を見てみよう。各階ごとに異なるバルコニーデザインが自己主張するようにしつらえ、窓の形も庇も優雅な曲線を含み、最上部には人面を並べ両端に獅子を配すると言った凝りようである。リーガの町は大火にあって焼け野原になったところに住宅建設計画がもちあがり、折角建設するならヨーロッパ流行の先端を行ってやれとばかりに、このような町並みが出来上がってきたという。だから今見ても一つ一つの建物に個性があって面白いのである。(以下写真を拡大して見てください)
同様の建築計画例として、プラハでも19世紀半ばから20世紀にかけて大きな都市改造が進められ、そのひとつのユダヤ人地区を一新するヨゼホフ住宅再開発があり、現在のパジースカ通りのアールヌーボー建築群が有名である。
この二つの町に共通にいえると思われることは、当時漸く政治的にも、経済的にも力をつけはじめたヨーロッパ辺境の国々が、独自の文化を確立しようと新しい様式を模索し始めたその一連の流れがここにも起こったことである。対岸の北欧フィンランドではロシアから独立を目指していて、民族の文化を築くことが切実な課題であり、ナショナル・ロマンティシズムの運動が盛り上がった。エリエール・サリーネンのヘルシンキ駅がその代表作品である。プラハでは容易に過去を断ち切れぬスラブ民族の伝統に新しい様式を求めて出あったアールヌーボーが混り合い、それを表現した建築様式がパジースカ通りの建築群であった。
同様にリーガ新市街のアールヌーボー建築といわれる建物を見ると、アールヌーボー様式に沿いながらも
前代の歴史的建築の要素も、民族的衣装要素もうまく取り入れた折衷様式のアールヌーボー建築だといえるのである。
エイゼンシュタインの設計になるこのビルもその流れを代表するもので、こうした様式が市民に受け入れられ、長続きしたのではなかろうか。 -
ミハイルエイゼンシュタインのレリーフ
前掲のマンションの壁に打ち込まれた、設計者ミハイル・エイゼンシュタインのレリーフ銘版である。 -
新市街エリザベーテス通りアールヌーボー様式住宅
この建物も折衷主義を一部取り入れたアールヌーボー様式建築で過剰になりがちな装飾を抑えている。が今となっては、歴史的景観を演ずる様式でもある。次の写真にその細部装飾を拡大している。 -
エリザベーテス通り10b屋敷アールヌーボー建築ファサード(拡大)
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アルベルタ通りのアパルトマン
建ち並ぶアールヌーボー建築物群のなかでも一風変っ建物である。民族ロマン主義の潮流に極めて近いアールヌーボー様式だといわれている。19世紀の新古典主義様式でいう、「伝統性」「規則性」「形式主義」的なものに反抗して個人の感性と想像力を優越させるという新興のロマン主義が民族意識と結合してラトヴィアの歴史的ロマン主義が勃興したが、その意図を表現しているとすれば、従来の市民住宅建物の風貌を捨て、支配層が持っていた尖塔を住宅にも取り付け、壁面装飾には民族的モティーフを用いたことであろうか。とにかく記憶に残る建物である。 -
エリザベーテス通り33番地のベランダ装飾
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プリーヴィーバス通り55番最初のアールヌーボー建築
写真右側の建物が、かって今の新市街がリーガ郊外であった頃に最初に建てられたアールヌーボー建築物といわれる。交差屋根の切り妻や、出窓、壁面の意匠に現れている。奥のゴシック教会と較べれば良くわかる。 -
国立劇場(アールヌーボー、ネオバロック、クラシックの混交様式)
建設当初はロシア劇場だった。建築様式はネオバロック〜ネオクラシック〜アールヌーボーと時代の建築様式変遷に応じて自在いいところを取り入れたユニークな建築物である。1918年にラトヴィア国独立宣言がアンされた場所である。 -
アールヌーボー建築リーガ経済大学ファサード
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射撃手通りリーガ経済大学隣のビル壁面装飾
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中央市場
リーガ市民の台所を支える巨大な市場。20世紀初頭に建てられたカマボコ型屋根の大きな棟が5棟建っているが、ドイツのツエッペリン飛行船の格納庫を解体利用したものと言う。ありとあらゆる食料品が豊富に並び、場外市場も広がっていて活気がある。物価はかなり安いと思われた。 -
救世主生誕大聖堂
ロシア正教会大聖堂でビザンチン様式の影響を受けたちょっとユニークな建物である。 -
自由の記念碑
旧市街の東側は新市街と境を画するピルセータス運河(もとのリーガ旧市街の堀川)が帯のように流れそれを含む緑地帯の公園となっている。この公園に空高く3つの星(ラトヴィアのクルゼメ、ヴィゼメ、ラトガレの3地域を表す)を掲げる女神像の塔が立っている。1935年のラトヴィア独立を記念して名づけた自由記念塔で、高さは50m。衛兵交代が行われている。 -
ダウガヴァー川と新市街の近代ビル
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