2007/06/23 - 2007/06/23
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のださん
愛宕山に来たからには、NHK放送博物館を見学しないわけにはいきません。
NHKは今は渋谷に移っていますが、元々は愛宕山からスタートしたわけですね。
「放送のふるさと」などと呼ばれているらしいです。
入場無料ですので、愛宕神社を参拝する際には気軽に寄りたいところです。
ところで、「ぐるっとパス」というパスがありまして、東京で博物館・美術館を巡るときには是非検討したいチケットです。
これは、参加施設に対しそれぞれ1回ずつ使用でき、最初に使用した日から2ヶ月間有効で、無料または割引で入場できるというものです。
関西にもあり、システムは若干違うようです。
定価は2,000円で、使い方によっては非常にお得です。
私は引換券を1枚買っていたのを忘れてもう1枚買ってしまったので、計4ヶ月分ということです。
今日はそのぐるっとパスを初めて使用します。
ターゲットは、虎ノ門にある大倉集古館。
ホテルオークラに隣接し、大倉喜八郎が創設した日本初の私立美術館と言われています。
現在は江戸時代の作品群を展示した「江戸の粋」という企画展が開催されています。
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愛宕神社の境内を抜けていけば、NHK放送博物館。
もう11時半を過ぎています。 -
トイレでTシャツを替えようとすると、トイレは2F以上にしかないということで、着替えた後そのまま2Fからスタートします。
放送開始のころ受信者に渡された書類だそうです。
当時は放送を聴くのに国の許可が必要だったということです。 -
二・二六事件のときの「兵に告ぐ」原稿。
中村茂アナウンサーの声で、ここの放送局から流されました。
事件の3日後の29日のことです。
「さっさと投降しないと、お前らヤッちゃうよ?」
みたいな内容ですが、陸軍の大久保弘一少佐が原稿を作成したそうです。 -
こちらは玉音放送のアナウンス原稿。
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左は、昭和天皇の「終戦の詔書」を録音した円盤。
右は、昭和天皇が玉音放送をお聴きになったラジオ。 -
「アイコノスコープカメラ」だそうです。
戦前NHKが開発し、戦後も改良を続けたとのことです。 -
テレビの放送開始の広告でしょうか?
昭和28年ですか。
意外と遅いですね。
JOAKというのはよく聞く言葉ですが、東京放送局のコールサインのことですね。
大正14年のラジオ放送開始の際も、「JOAK」という第一声が流れています。 -
テレビ放送初期のころのテレビだそうです。
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3Fに上がります。
フェリクス・ベアトというイギリス人の旅行写真家による「愛宕山から見た江戸のパノラマ」という作品だそうです。 -
高野長英の親族にあたる後藤新平。
そもそも医者です。
1908年、第2次桂内閣の下で逓信大臣に就任したのがおそらくは放送に関わるきっかけでしょう。
1924年、東京放送局の初代総裁に就任します。
放送初日も、総裁として挨拶を行っています。
この彫刻は、朝倉文夫の作品だそうです。 -
ラジオ・アーカイブズ。
過去の(有名な)放送を聴くことができます。
これは大手町のていぱーくでも確か同じようなものがあったと記憶しています。
私が今聴いているのは「兵に告ぐ」。 -
ガンサイトカメラという名称だそうですが、スキーヤーやジャンパーのヘルメットに装着して、選手の目線で見ることができるカメラです。
これは1970年のものだそうで、今だともう少し小さいでしょう。 -
アテネは記憶に新しいですね。
これは多分メダリストたちのサインを集めたものでしょう。 -
いわゆる効果音を出してみることができます。
波の音や馬の蹄の音は定番ですが、雨音やカエルの鳴き声なども。
なるほどなと思ったのは、雪を踏みしめる音です。
枕のように見えるものを押さえつけて音を出します。 -
テレビの型の歴史を追っています。
私はかろうじて手回しダイヤル式のテレビも経験した記憶があります。
今はリモコンが必須ですね。 -
4Fに上がって、紅白の特集コーナー。
紅白なんて観ないからよくわからない。
飾ってある衣装は、平原綾香のものだそうです。
私は名前だけ知っていますが、それよりも小林幸子の衣装を見たいな。
飾るスペースなんてないかな? -
大河ドラマのコーナーで、宮本武蔵のものとされる日本刀と木刀が並べてあります。
奥の刀は小次郎のものです。
これは2003年のドラマということで良いのでしょうか? -
歴代ドラマで役者が実際に着たらしい衣装。
大河ドラマは観ないから、思い入れもないなあ。
ちょっともったいない。
来年からは観るようにしようか。 -
1Fに下りて、こちらは愛宕ホールというのでしょうか?
実際にカメラをいじくって体験することができます。 -
NHK放送博物館を後にし、昼食タイム。
桜田通を渡ったところにある虎ノ門パストラルホテルのレストランにします。 -
2Fにある「あたご」でヘルシーランチなるものを注文。
カロリー控えめだから仕方ないが、ボリュームがない。
ステーキあたりにすれば良かったか?
白身魚は脂がのっていてうまい。 -
昼食後、桜田通を北上し、虎ノ門1丁目のセブンイレブン前。
乃木邸跡碑。
妻とともに明治天皇に殉じた英雄・乃木希典将軍が、明治11年からわずか1年だけですが、こちらで過ごしたそうです。
この方の戦績に関しては議論が分かれるところですが、それはまあ良いとして。
現在は乃木神社に祀られていますので、また後日参拝したいと思います。
旧乃木邸も確か乃木神社近くにありますよね? -
再び桜田通を渡り、ホテルオークラ方面に向かいます。
この辺は「○○森ビル」と頭に数字のついたビル名が多いです。
それは良いとして、「東京経済大学発祥の地」碑を見つけました。
大倉喜八郎がこの地に設立した大倉商業学校がその前身ということですが、現在の東京経済大学はここからは随分離れているようですね。 -
東京経済大学発祥の地碑から上にのびている坂を江戸見坂といって、この界隈でも多分かなりの急勾配と言える坂ですが、ホテルオークラに向かうために仕方なく上ります。
江戸の下町を一望できたからその名がついたのでしょうが、振り返って見ても今ではビルばかりで情緒も何もありません。
まだ14時前という一番の暑さの中を上っていきます。 -
やっと着きましたホテルオークラ。
日本を代表する名門ホテルです。
喜八郎の息子の喜七郎が設立しました。
今日はホテル自体には用はありません。
私は一度ここに入った記憶があります。
宿泊できるほど余裕があるわけでもなく。 -
そしてその敷地内に大倉集古館。
そんなに大きなところではなさそうです。
当然汗ぐっしょりなので、着替えてから入場します。
もうこの時期はTシャツの替えは2枚用意して出てきています。
閉館は16時半です。 -
しばらくイスに座って休憩したこともあって、展示数に比して時間がかかってしまった。
16時半前に外に出ると、日差しは強くなくて、意外にもそんなに暑くない。
建物の周りをちょっと回ってみます。
順路通り逆時計回りです。
まずは左に清代の釈迦如来坐像、右に地蔵菩薩坐像。
菩薩のほうが大きいというのも何だかなあ。 -
言わずと知れた大蔵喜八郎の銅像ですが、「大倉鶴彦翁像」と呼ぶそうです。
知らなかったが、鶴彦というのは号で、多くの狂歌を詠んだそうです。
日本人で「死の商人」と呼ばれたのは喜八郎くらいのものでしょうか?
最後に子どもができたのは80歳を越えていたそうですが、本当だとしたらすげえな。
いろいろと。 -
裏庭に入ったところの右側です。
あざやかなのは清代の三彩宝塔。
歌人だけあって歌碑が見えます。
左に見えるのは旧赤坂の邸宅近くに建っていた道標だそうです。 -
左に大倉喜八郎墓銘碑、右に高麗からの八角五重塔。
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左に大倉聴松翁頌徳碑。
大倉喜七郎の功績を顕彰するものだそうです。
聴松というのは号だということです。
右に高麗からの五重塔。 -
普賢菩薩と薬師如来。
どちらも明代のものだそうです。 -
達磨大師坐像と梵鐘。
私が子どものころ、少林拳の開祖は達磨大師だと聞きましたが、信憑性が薄いらしいです。
禅宗の祖であるというのは本当でしょうか?
達磨大師非実在説もあったような気がするな。 -
南北朝時代の仁王立像。
阿吽で一対です。 -
大倉集古館を離れ、霊南坂を下りていくことにします。
徳川家の軍学師範であった嶺南和尚という人にちなんで名付けられたそうです。
左側はアメリカ大使館の敷地です。 -
信号から右に下りていくのが汐見坂です。
当然、今は海など全く見えません。
左側の敷地にあるのが国立印刷局です。 -
国立印刷局の脇に「みつまた」の木。
これがみつまたかあ。
たとえばお札と切手の博物館でも知ることができますが、みつまたというのは紙幣の原料ですね。
枝が三本に分かれることから「みつまた」と呼ぶそうです。 -
そのみつまたの木の向かい側。
「発明会館」というビルだそうです。
発明家が集まってくるのでしょうか?
だとしたら興味がある。 -
発明会館の隣のブロックにあるのが、「日本消防会館」。
「ニッショーホール」とあります。
具体的にここで何が行われているかはわかりませんが、まあ消防に関することでしょう。 -
知りませんでしたが笹川良一は日本防火協会の会長を務めたそうで、「孝子の像」が建っています。
笹川会長は母親思いで、母を背負い785段の石段を上ってお宮参りする様子を描いているそうです。
氏の激動の人生の中でほろりとさせられるエピソードです。
この孝子の像は、他にもいろいろなところにあるそうです。 -
これは何のモニュメントでしょうか?
世界義勇消防連盟と書かれているようですが、よくわかりません。 -
「義士洗足の井戸」、とあります。
もちろん実物ではなく、単なるモニュメントです。
上に見える人形の群れが四十七士を表しているのでしょう。
この地に大目付・仙石伯耆守の屋敷があり、本懐を遂げて泉岳寺の主君の墓前に向かう途中、大石良雄が部下2名にここで自首させた。
両名は邸内にある井戸で足を洗って屋敷に上がった、とのことです。
実際に赤穂浪士の集団が通ったルートからは外れていますので、その2人だけがわざわざここまで来たということなのでしょう。 -
1860年イギリス製造の、ペルー蒸気消防馬車。
ペルー義勇消防協会と日本との親善のしるしとして1993年に寄贈されたそうです。 -
消防会館と虎ノ門病院の間の道を進み、外堀通まで出ます。
「新聞創刊の地」とあります。
場所は目立つが碑は地味だから見つけにくい。
詳しくは碑文を読めばわかりますけど、ここが読売新聞発祥の地なわけですね。
瓦版そのものを読売と呼ぶこともあります。 -
新聞創刊の地碑からちょっとだけ西に進むと、これまた事前に知っておかないと何のことかわからず素通りしてしまう碑が建っています。
「江藤新平君遭難遺址碑」
江藤新平が佐賀で断行した藩政改革に反対した暴漢にここで襲われたそうです。
どうやって助かったのでしょうか?
外堀に逃げ込んだのでしょうか?
佐賀の乱で賊名を着せられた江藤が名誉を回復した年に建てられたとのことです。
ちなみに、この碑が建っている土地は、地図で見るとわかりますが行政上は千代田区に入ります。
多分先ほどの新聞創刊の地碑もそうでしょう。
単純に外堀通が千代田区と港区を分けているというわけではないので複雑です。 -
これは偶然見つけた。
「江戸城外堀跡」
江戸城の別名を千代田城と言いますが、千代田区域は旧江戸城の外郭にほぼ一致します。
千代田城の名は、太田道灌が築城の候補地の村から付けたという説が有力で、家康の幼名が竹千代だからなどというのはこじつけでしょう。
先の大戦で、麹町区と神田区は焼け野原になってしまい、1947(昭和22)年の整理統合で千代田区に統合されました。
ちなみに、区の整理統合の際、港区の新区名候補は、「東港区」の他に、江戸城の南を意味する「城南区」がありました。 -
それでは、金刀比羅宮へと参拝します。
讃岐丸亀藩主・京極高和が讃岐金刀比羅大神を藩邸に勧請したのが始まりだそうです。
脇に建つビルはその名も虎ノ門琴平タワーだそうです。
ビルばっか建っているところに神社というのも何だかな。
日当たり悪そうですね。 -
こちらの銅鳥居は、青龍、玄武、朱雀、白虎、の四神が鎮座しています。
左の円柱に青龍と玄武、右の円柱に朱雀と白虎です。
この界隈は江戸城の西側、西側の守護神は白虎、そこから虎ノ門の地名が来ているという説があります。
拝殿は江戸城方向を向いていますね。
四神が立っているのは四門、四門は死門。
四門を開いたのは、陸奥九十九ただ一人です。 -
百度石。
いわゆるお百度参りの際に用いられ、神殿とこの石の間を往復して願掛けをしていたとのことです。
そう言えば、どうでもいい話ですが、井伊直弼邸は現在の憲政記念館辺りにありましたが、水戸藩士たちが集結した愛宕神社よりもこちらの方が近いでしょうに。
こちらで願掛けすれば良かったのでは?
大きなお世話か? -
入ったときとは反対側の門から出てみます。
虎ノ門琴平タワーは実は境内ですか?
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