2000/06/04 - 2000/06/05
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4nobuさん
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午後バンベルグを発ってワイマールへ
バンベルグの駅は改良工事中だった。ここに来る前のフランクフルト、コブレンツ、ミュンヘン、ニュールンベルクの駅がみな改良工事中だった。東独国鉄(RB)と西独国鉄(BB)が合併した直後の大規模な東独の線路改良工事が済んで今度は西独の駅舎まで及んできたようだ。
旧東独の旅では線路工事でしょっちゅう走行線路が変更され乗り換えとか延着で迷惑したものだった。日本なら線路工事は日曜にやるだろうに、ドイツでは日曜は休んで週日に列車を止めても工事するのだから。
リヒテンフェルスの手前で15分ほど停車。どうやら線路工事が残っているらしい。本日行くワイマールへの複雑なルートの連絡表をキップの購入時にくれ大変に役立ったのだが列車の遅れで乗り換えタイミングが狂ってしまい、乗り換えで困ることになる。
イェナとのアナウンスで慌てて乗り換えのために降車。すると仮の木製プラットホームが単線にある小さな駅で、乗換駅の雰囲気ではない。駅名もイェナパラディだ。(後日調べたらこの駅がIC列車も停車するいわば主要駅だった。すると当時は工事などのために仮駅を別の所に作っていたことになる)。列車は既に動きだした。
一人だけ居る駅員にHauptbahnhof(本駅)かと聞くとちょっと考えた後にそうだという。それではとキップを出したワイマールに行きたいことを示したら別の線なので一駅戻って乗換えるべきだが、それよりも一旦駅を出て5分歩いてイェナ西駅へ歩く方を勧められる。
歩くと坂道もあって10分以上かかかった。その後もこのドイツ流「5分の歩き」にはしばしば騙される。
ワイマールに到着したが駅傍にインフォがなく町中まで荷物持ちの移動ではしんどいなー。駅前にぽつんと立つ由緒ありげで少々高そうだが、思い切って飛び込む。それがその後のインターシティホテル・チェーンに多く泊るきっかけとなった。
やや高級なビジネスホテルの雰囲気、一人部屋が多い、駅前、時には駅中とか隣接なことが荷物持ちには特にうれしい。それ以来チェーンホテルがある町で後日泊る時には前のホテルから頼んでもらった。時には会員割引料金にサービスしてくれる。帰国後だがホテルチェーンの会員になる。
翌日鉄道でアイゼナハに向かう。
その主目的は数世紀にわたってドイツ文化のシンボルであったヴァルトブルク(城)を訪れること。
この城はその創設は11世紀だが、12世紀になって方伯の居城としてロマネスク、とゴシック、ルネッサンス、歴史形式主義のミックスした建築様式で完成する。
1206年に宮廷恋愛歌人(ミンネゼンガー)の歌合戦の舞台になりそれがワーグナーの歌劇タイホイザーのベースになり音楽史上にその名をとどめた。
また宗教改革のマルティン・ルターがここでワイマール公の庇護の下にこの城で新訳聖書をドイツ語に訳したところでもある。
さらにチューリンゲン方伯ルードビッヒ4世に嫁いだエリーザベトでも有名で、夫の死後も貧者の救済に努めたために、城を追われたがなお活動を続け、死後に聖人に序せられた。ドイツ人に大変に崇敬され、今年(2007年)が生誕800年に相当しいろいろな催しがあると聞く。
城の見学の後にアイゼナハの町に戻りバッハの家とルターの家を見学の後、ワイマールへの帰途にチューリンゲンの州都で同じく中世の町並のエアフルトで途中下車する。この町はナポレオンが敬愛するゲーテを招いて会見した町でもある。
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バスを降りて城門への坂の途中にあるヴァルトブルクホテル。初めはパン焼きとビールの醸造所があったが1860年にゲストハウスを建てた。更に半世紀後に再度建て替える。現存の派1914年に建造。外観以上にシックないいホテルだそうだ。背後に城の塔が見える。
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ホテルとその中庭
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フォアブルク(前城)の入口(どうしてか3つのドアのホールという)。その後に続く塀のように見えるところが回廊で奥の城の本体へと左右に1列づつあり、その間が城の中庭を形成する。ここで見える左の回廊をエリザーベトハレという。
奥の建物が天守のパラスと望楼 -
主城に入る第2の門トァーハレ。右の建物はディルニティ(執行官のロッジ)。おくの塔は天守の望楼
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パラス(天守)の前庭で城内の見学ツアーの開始を待つ皆さん。右がパラス(天守)。左がディルニティの建物。
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中庭を囲む(右から)パラス(天守)、ベルクフリード(塔)、トラハレ(第2の門)
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城内1F、エリザーベトのあずまや。聖女の生涯のモザイク画。
城内見学の日本語案内書を入口のキップ売り場でくれなかったが案内人が気を利かせて探してくれた。
今それを参考にと探したが見当たらず。 -
2F、歌合戦の間から一段高くなった吟遊詩人(有名な1206年の合戦の出場社は六名だけだったらしいが)の桟敷を見る。桟敷の壁には中世の自然と愛の詩の抜粋が書かれている。左の壁に歌合戦の様子を描いた壁画がある。
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3Fの祝宴の間。後にノイシュバンスタイン城でこれをまねたホールが作られる。
今でもドイツで最も優れた音響効果のホールといわれている。 -
2F。方伯の間のバルコニー
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パラスからルッターハウスへ行くのに通るマルガレッテの回廊
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第一の門の横にあるルッターハウスの中のマルティン・ルッターが執筆した部屋。なぜか鉄格子が。保護のためか。
ルッターが自分の宗教改革のテーゼの説明が成功せず、帝国議会から追放されたのをチューリンゲン方伯が偽名でこの城の庇護した。ルッターはこの部屋でギリシャ語の新訳聖書を僅か10週でドイツ語に翻訳した。それによって新訳聖書が民衆でも読めるようになった。彼が使ったドイツ語が今の標準である新高ドイツ語の基礎となったと言語学者で童話作家でもあったグリムが述べている。 -
同じくルッターの部屋
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ルッターの部屋。陶製のストーブがあり、かなりの優遇か
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バッハハウスの前の広場でガイドの説明を聞く人達。バッハハウスはバッハの一族の家ではあるがバッハが生まれたのはこの家ではない。
右に見えるバッハの像は当初は町のマルクト広場にあったのをここに移設。 -
ルッターハウス。ラテン語の学生時代に3年ほど住んだ家。小規模ながら博物館
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ルッターハウスの側面。木組み家屋で最古の500年。
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ルッターハウスの2Fの窓から。
向こうの塔はゲオルク教会。教会は1181年の創設で、ルッターはラテン語学校生として賛美歌を歌い、また後年にここで説教もする。
1685年にバッハはここで洗礼を受け、1221年ルートヴィッヒ4世とエリザーベトの結婚式もここで挙げられた。 -
アイゼナハの町を囲む城壁の一部でもあるニコライ門。カールス広場から見る
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