2007/02/24 - 2007/03/01
145位(同エリア170件中)
たぬぽんさん
戦国時代真っ只中、1575年に起こった長篠の戦。
織田信長と武田勝頼の間の戦いというよりも、もとは徳川家康と勝頼の戦いであったらしいです。同盟を結んでいたため家康が信長に援軍を頼ったとな。
家康の恐ろしさというか、策略家というか・・・。
この戦いの渦中の長篠城を少し見てみたいと思い、長篠城駅で下車。
すると、近くにはこの戦いの戦士たちのお墓やらが多くあるようなので歩く歩く・・・気付けば隣の鳥居駅でした^^;
長篠城駅:湯谷温泉駅から3駅、もうこのあたりからは1時間に2本程度列車があります。
鳥居駅:長篠城の隣の駅。
町ごと歴史博物館となっています。さてさて、歴史を学びながら散策するとしますか。
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 3万円 - 5万円
- 交通手段
- JRローカル 徒歩
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-
10時、長篠城駅到着です。
少しずつ住宅が多く見られるようになってきました。 -
長篠城駅駅舎。
駅舎・・・です。あってもなくても同じじゃないのかと思ってしまう駅舎ですが、そこはさすが長篠城駅、長篠城っぽく(?)してあります^^;
駅を出て左へ折れ、しばらく歩くと、もう長篠城跡に着きます。 -
この桑の木には、そんな謂れがあるそうです。
顔も分からなくなるほど傷ついていたのでしょうか、武田勝頼。それとも、敗戦の恥を隠すように、顔も隠していたのでしょうか。
長篠城、というのは復元もされておらず、残っていませんが、長篠城資料館があります。その資料館の前にこの桑の木はあります。
駅から徒歩7分ほどで到着します。 -
長篠城の資料館です。保存館というのが正式な名称。。。
中にはいろいろなものが展示されています。火縄銃はもちろん、武器・防具、長篠の戦を描いた画などなど。
入館料210円。設楽原歴史資料館との共通券の場合400円です。
1573年、長篠城は武田信玄の手に渡り、さらにここから西の野田城も攻め落とした。しかし信玄は病に罹り、長篠城で休養、甲州へ戻る際、三河から伊那路へかかるあたりで死去した。
信玄死去の報を確かめるため、自ら様子を見に行く。それが事実であったため、武田氏に仕えていた奥平貞能・貞昌(後の信昌)を誘い、寝返らせた(このあたりは、もしかして信玄の偉大さに対する勝頼の頼りなさが、影響したのかもしれないですね、と勝手に思っています)。
そして長篠城を奪回、家康のものとなる。
ここでなんと、長篠城を貞昌に守らせる・・!武田勝頼はもちろん激怒、再び長篠城を手に入れんと進撃。 -
長篠城址。保存館の目の前です。
今では広場となっているだけです。
そもそも、なぜ長篠城がここまで的になってきたのか。
この付近は、今の愛知・長野・静岡の県境にあたり、つまり、織田・武田・徳川の領地の境目にあたった。そして地形も良く、北からの豊川(寒狭川)と東からの宇連川が合流する点で、簡単には攻め込まれないような立地になっていた。
ここを誰が手にするかで天下は変わっていたかも・・・
つづき。
1575年、武田勝頼が1万を超える兵で攻め入ってきた、そのときの城主奥平貞昌の兵はわずか500。
地形も助かってか、貞昌の兵はよく戦ったが、やはり数で敵わなかった。このとき、家康はここから50キロほど離れた岡崎城にいた。
地形が良くても、囲まれてしまっては兵糧攻めに遭い、落ちてしまうのは時間の問題・・・。援軍を求めようにも、どうにもできない・・・ -
長篠城址に植えられた、松の木。
つづき。
兵糧攻めに遭い、もう数日で食料も尽きてしまう、というときに、ある男が立ち上がった。
名を鳥居強右衛門(とりいすねえもん)といった。彼は、援軍を求めるために、なんと武田軍の川の布陣を突破(泳いだのかな)!!一刻も早く岡崎にいる家康に援軍を頼もうと、必死に片道約50キロの道程を走る走る・・・
この間、武田軍から総攻撃を受けた貞昌。それでもなんとか耐える。 -
どの山か、はっきりとはよく分かりませんでしたが、城の南側を武田軍に囲まれていた。
勝頼の本陣は城から北にあった。
つづき。
約1日半かけて岡崎城に強右衛門は到着!!すぐさま急を知らせ、援軍を頼む。
信長も岡崎に到着、家康は信長に援軍を要請したが、そのときの信長がそれに渋った答えをする。これに対し、家康は「なんと気の小さい返事!あなたとの同盟は破棄させていただく!」と言い、信長をノせた^^;信長は「なにー?!そんなことを言われてはならん!大軍の援軍を差し向ける!!」と。
強右衛門は援軍が来ることを聞き、一安心。信長は、強右衛門に休むように言うが、彼は「この吉報をすぐ城で戦っている者たちに知らせたい!」と、再び片道50キロの道程をひた走る・・・! -
ここは本丸跡ですが、ほんと、もう何もありません。
つづき。
強右衛門は長篠城に戻るために必死に走ったが、なんと城の周辺で武田軍に捕らえられてしまう。勝頼と会った彼は、「『援軍は来ない、大人しく城を明け渡すのだ』と城のものに向かって叫べ。そうすればそなたを厚く迎えてやる」と言われる。
強右衛門は、自軍に向かってこう叫んだ。
「援軍は必ず来る!!!あと2、3日の辛抱だ!!!」
勝頼は激怒、強右衛門を磔にした。 -
寒狭川と宇連川の合流点を渡合と言うそうです。
川の流れ自体はそれほど急ではありませんでしたが、それだけで堀の役割をするほど、かなり深いところに流れています。
つづき。
強右衛門は磔にされ亡くなった、齢36(?)。
この後、援軍が到着、設楽原に布陣。信長と家康の軍を合わせて4万近く、武田軍はどうしようかと軍議。その軍議で、諸将は戦いを避けようと諌言したが、勝頼は受け入れず、戦いを続けることに決定。
翌日、城の包囲を解き、設楽原へ。設楽原の決戦に移る。
結果、武田軍は敗走を強いられる。
勝頼はなんとか甲州へ逃げ延びるものの、この敗戦により武田氏は没落の途を辿り、今度の織田・徳川の勢力を増大させることとなった。
というのが長篠の戦の流れです。 -
長篠城の、寒狭川を挟んで西側、強右衛門の磔にされた場所と、その磔死の碑があります。
この下は寒狭川ですが、本当に深いところに流れているように見えます。どうりで、城なのに堀のようなものが見当たらないわけです。 -
城の北西方向、ここで強右衛門が自軍に向かって「援軍が来る!」と叫んだところ、です。
ほんまやと思いますが、ほんまかいな、とも思ってしまいます^^; -
先ほどの道を進んでいくと、木の陰にひっそりと建てられたお墓が見られます。
武田軍の名将、馬場信房の墓です。
設楽原決戦前日、「決戦は避けるべき」との諌言をした、信玄のときから重臣の武田4名臣のうちの一人です。
これが受け入れられず、結局、この日が決戦前夜となった。明日が、人生の最後と覚悟と決めた4名臣は、その夜、互いに杯を酌み交わしたそうな。
軍は敗れ、僅かな兵で勝頼の敗走を守った。その最後尾にいた馬場信房。勝頼の敗走の無事を確認した後、自らの首を差し出して、勝頼を守ったという。齢62。 -
一本大きな木が、信房を守るように。
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国道151号線を歩いています。これは寒狭川を跨ぐ長篠大橋から下流のほうを見ています。
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橋を渡り、左へ折れてしばらく歩くと、強右衛門の墓があります。
先ほどの信房の墓と比べて、かなり大きな墓となっています。 -
さらに歩いていくと、また長篠城に近づきますが川を挟んで反対側に位置するため、近い感じは全くしません。
広々とした田んぼを抜け、城に近づいていくと・・・ -
鳥居強右衛門の磔死の碑があります。
この地で磔にされたんですね。
彼の行動には敵軍の武田氏のうちからも賞賛の声があり、その栄誉を称え、武田軍は旗印としたらしいです。 -
この地で、磔にされました、と。
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この看板の左に描いてあるのが、磔にされた英雄、鳥居強右衛門です。
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鳥居駅周辺です。
この付近の地名の鳥居、もちろん鳥居強右衛門からとられたものです。
長篠城駅から鳥居駅まで、周辺には多くの武将の墓、城の門跡があり、町ごと「屋根のない歴史博物館」となっています。
私もそれほど歴史に詳しくないので、地図に明記されているお墓の人物を見てもぴんとこないのが少し悔しかったです。。。 -
12時、鳥居駅到着です。
歴史を学んだてくてく旅。
このあと、豊橋方面へ数駅いったところの野田城駅も降りて、何かあるかなと探してみたのですが、残念ながらさっぱりわからず諦めて次の列車に乗り、さらに豊橋方面へ。
野田城駅は、もちろん前述の野田城の最寄。強右衛門が自軍に向かって「信長殿の軍はもう野田城まで来ている!」というのも叫んだそうなので、なんとなく見てみたいなと思ったのですが。
次は豊川、そして最後のこの旅の旅行記です。
つづく。
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