2006/12/02 - 2006/12/02
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akkiy363672さん
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イスラエルの24才「ヨニィ」くんを案内して、京都の秋を訪ねた。
ヨニィはふらりと日本にやって来て、今はある団体で日本人相手に英語の指導をしている。ヘブライ語のイスラエル人なのに、何ンで英語が得意なのかというと、お母さんがアメリカ育ちなのである。ユダヤの人たちは、ホントにインターナショナルである。
- 同行者
- 友人
- 一人あたり費用
- 1万円 - 3万円
- 交通手段
- 自家用車
-
琵琶湖大橋を西岸へ渡って「途中トンネル」を抜け、北から京都大原へ入った。
大原は洛北の地だから、京都の市内よりも冷え込みは厳しく、三千院の紅葉もすでに終盤…。それでも、シーズン最後の土曜日のこの日は、たいへんな人出であった。
← 三千院中庭 -
天台宗五箇室門跡のひとつ三千院は、天台開祖の最澄が比叡山内に修行のための庵を結んだのが、その発祥である。以来、戦火や天災を避けて滋賀県の坂本など様々な場所を転々としたが、応仁の乱のころ現在の地に移された。梶井門跡などと呼ばれて大原の寺院を管理統括してきたが、明治4年、三千院の名称が定められた。
← 往生極楽院
杉木立の中に建つお堂の写真は旅行案内書等にしばしば使われていて、大原のシンボルともなっている。 -
← 往生極楽院の船底天井の絵の復元画
間口三間、奥行き四間の小さなお堂に祀られた阿弥陀三尊(国宝)のお姿は、極楽浄土の神々しさに包まれている。船底天井は、かつては極彩色の天上世界が描かれていたのだけれど、長年の間にチリやススがついて真っ黒け…。近年。紫外線スコープなどを駆使して原図を調べ、再現したものを別館に展示している。 -
← 三千院境内の歩経路。木々も半分は葉を落として、すっかり晩秋の風情であった。
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額縁庭園で有名な玉泉院へ向かう。
← 玉泉院の五葉松
植木屋さんが手入れしていた。葉の間から、ひょこ…ひょこ…と顔を出す。その数、6人。
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← 額縁庭園
竹林の間から八瀬大原の里を望む(西面) -
大原をあとにして、一乗下がり松の曼殊院へ向かった。
曼殊院は伝教大師(最澄)の創建で、もとは比叡山の西塔北谷にあって東尾坊と称した。平安時代に曼殊院と改め、江戸時代の明暦2(1656)年に現在地に再興された。
今の曼殊院は桂離宮を造営した智仁天皇の子、良尚親王が造営したもので、桂離宮の美意識が息づく江戸時代初期の代表的な書院建築といわれている。
← 白壁とモミジの紅の対比が美しい -
庭園は、大書院を舟、白砂を水の流れに見たて、静かに水面をさかのぼる大舟を表現している。鶴をかたどった五葉の松、霧島のツツジや、さらには常緑の杉と色を変える楓たちが建物と調和して、四季おりおりにさまざまな趣を見せる。
禅のこころと王朝風の趣向を融合させた枯山水の庭の見事さは、四季それぞれの味わいで定評のあるところだが、この時期の紅葉はまた格別の景観であった。 -
次の詩仙堂へは歩いていけばよかったのだが、車で向かったので、駐車場を探すのに戸惑った。
とにかく近くまで行ってみようと、住宅地の中の細い道を観光客をかき分けながら上っていくと、山門の真ん前の駐車場が空いていた。
← 詩仙堂の庭 -
詩仙堂(しせんどう)は、京都市左京区にある史跡。徳川家の家臣であった石川丈山が隠居のため造営した山荘である。
現在は曹洞宗永平寺派の寺であり、丈山寺が正式名称。詩仙堂という名前の由来は、房内にある中国の詩家36人の肖像を掲げた詩仙の間にちなんだもの。
造営は寛永18(1641)年、丈山59才の時に行われ、彼は90才で没するまで、ここで清貧を旨とし、聖賢の教えを実として、風雅の道を楽しんだとある。清貧…?これだけの大庭園を造って、なお清貧と言うか。 -
詩仙堂から徒歩3分…、圓光寺は江戸時代、圓光寺版という刷り物が見られるほど学問の盛んな寺であったことはよく知られているが、寺が一般公開されたのは最近のことである。
← 庫裏の前の大カエデはすっかり葉を落としていた -
寺内には、牛飼いが牛を見つけて飼い慣らすが、最後にはまた野に放つという一生を、10枚の絵に描いて禅の悟りを教える「十牛の図」が掲げられている。
それにちなんで、十頭の牛を表す十個の庭石が置かれている「十牛の庭」は有名で、この日も散り残ったモミジが秋の日差しを浴びて輝いていた。 -
平安神宮横の茶房でコーヒーにケーキを摘んだあと、高台寺のライトアップへ向かおうと東大路を南へ下ったのだが、渋滞で車はほとんど動かない。
宮川町あたりで駐車場を見つけようと町中へ…。前を通った南座の今年の顔見世興行は勘三郎の襲名公演で、まねきが掲げられていた。 -
今では東山の観光スポットとなった「高台寺」も、長い間一般公開はされていなかった寺である。章くんたちが子どものころは、京都の人さえもその名を知らなかったという寺であるが、近年では観光コースに欠かせない寺となった。
この夜も、夜間拝観に集まった人は、高台寺の山門から駐車場を蛇行し、階段を降りて、下の一般道まで続くという、たいへんな人出であった。
← 高台寺の階段上から、建仁寺の五重塔をパチリ。
(ケイタイで撮った写真です) -
その列の長さに恐れをなして、高台寺へ入ることを諦めた章くんたちだったけれど、それでもなおライトアップの妙をヨニィに見せてやりたいと、圓徳院に向かった。こちらは予想外に並ぶこともなく拝観でき、ライトに浮かぶ紅葉の美に、ヨニィも満足気であった
← 圓徳院 北庭のライトアップ -
← 圓徳院内に展示されていた ねねの内掛け。
誠にあでやかで、刺繍の豪華さには目を
見張らされた。
慶長8(1603)年、北政所ねねは後陽成天皇より「高台院」の号を勅賜され、寺院の建立を発願、その名も号にちなんで高台寺と決められた。
慶長10年、徳川家康の援助を得て着工、翌11年に落慶、ねねは76歳で没するまでの18年間をここで暮らした。 -
円徳院は、ねねの弟、木下家定の居館で、北政所の警護のための武家屋敷であった。今日でも長屋門が当時の趣を残している。後に家定の次男利房が自らの号をとって寺院としたものである。
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← 圓徳院境内にある、京洛市「ねねの店」
「京・洛市ねね」は、圓徳院境内、清水寺から祇園円山公園まで東山の歴史と文化の道を南北に石畳で結ぶ「ねねの道」から、土塀をくぐって、ねねの小径(こみち)の「あられこぼし」の路地を回遊していく商店街である。ショッピングと喫茶・食事、散策を楽しめるホットゾーンだ。
ヨニイくん、イスラエルのご両親のお土産に「うちわ」を買った。
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