2007/03/23 - 2007/03/23
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satoshi.sさん
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朝から暖かく、あまりにも天気が良かったので、高槻観光ネットを参考に「西国街道コース」を散策してきました。
JR高槻駅→上宮天満宮→広智寺→笠松地蔵→霊松寺→慈願寺→地蔵院→笠松神社→真如寺→芥川桜堤→JR高槻駅
上宮天満宮
社伝によれば、正暦4年(993年)5月、勅使・菅原幹正が太宰府に下向して道真の墓に参拝し、贈左大臣正一位の詔を伝え、菅公の御霊代と菅公自筆の自画像を奉じての帰途、この地に達した時に急に牛車が動かなくなった。幹正は、「この地の山上には菅公の祖先である野見宿禰の祖廟がある。牛車が動かないのも理由があることだ。山上に自画像を奉安して祀るのが良い」として道真を祀ったのが当社の始まりとする。
元々当地には延喜式神名帳に記載される「野見神社」(現 摂社「野身神社」)があり、後になって道真を祀る天満宮が創建されて、野見神社がそれに吸収されたものと見られる。摂社野身神社は、野見宿禰の墳墓とされる丘の上にある。
天正6年(1578年)、高槻城主となったキリシタン大名の高山右近が当社に火を放った。天正10年(1582年)の山崎の戦いの際、豊臣秀吉は当社の参道である「天神馬場」に本陣を置いた。秀吉は戦勝に感謝し、天正18年(1590年)、社地を寄進し、社殿を修造した。
明治12年5月、「野身神社」に改称し、郷社に列格した。第二次大戦後、元の上宮天満宮の名に復した。
平成8年11月、放火により本殿を焼失した。本殿は平成14年、日本初の竹製の本殿として再建された
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 1万円未満
- 交通手段
- 高速・路線バス
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JR高槻駅(出発点)
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上宮天満宮の鳥居(街中)
この場所には、石造りの鳥居が江戸時代初めから建っていました。それが参道拡幅工事により、高さも十数メートルの大鳥居に建て替えられたのです。(昭和五十二年十二月)昔の鳥居は参道石段上に移されています。 -
街中の狛犬と灯篭
大灯籠
この一対は、地元の宮田村と芥川村の各氏子中が、江戸時代中頃の寛延三年に奉献したものです。
狛犬(こまいぬ)
幕末期文久二年の建立です。東側のは、当地からは淀川の対岸に当たる河内方面、それに北摂津の能勢地方などの崇敬者。また西側のは地元上田辺村紺屋町氏子の、併せて数十名に及ぶ奉献者名が丁寧に刻まれています。 -
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参道の石段
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境内の鳥居
四代徳川家継将軍の明歴二年に高槻藩主永井直清が寄進したものです。(現一の鳥居の位置から昭和五十二年に移設)幕府儒学の大家、林羅山の神威を称える銘文が刻まれています。 -
参道
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野身神社
六世紀の円墳上に建てられた式内の古社−平安時代中頃にこの丘へ道真公をお祀りするまでは、ここに御先祖野見宿禰・・・多分それは当地野見郷の首長を神として斎く社があったものと思われます。 -
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?銅像
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紅梅文庫
先々代、千代宮司が広く集めた江戸期以降の各分野にわたる蔵書は<紅梅文庫>の名で知られていたが、平成16年4月〜6月にかけて建物内外前面リニューアルにより[香梅殿]と命名され、蔵書は2室に収納された。 -
手水所
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桜、つぼみ膨らむ
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社務所
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受付
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絵馬堂
「菅公一代板絵」の他に様々な絵や押絵、それに相撲・句会・謡曲・浄瑠璃から曲馬興業などの奉納額、「高槻城絵図」などが掲げられている。珍しく和算の「算額」もある。また村々氏子の古い写真が大変懐かしい。 -
絵馬堂内
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絵馬堂内
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絵馬堂内
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絵馬堂内
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絵馬堂内
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割拝殿
江戸時代初めに高槻城主の永井直清侯の寄進造営したもの。幕末の文政期に奉納された三十六歌仙絵額が、ここに掲げられている。 -
割拝殿内
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割拝殿内
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割拝殿内
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割拝殿内
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割拝殿内
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