ブレッド湖周辺旅行記(ブログ) 一覧に戻る
【行程】 <br />7/21(日) JL407 NRT13:00&#8212;18:00x.FRA<br />          JP125 FRA20:20&#8212;21:35 LJU<br />7/23(火) リュブリアナ 陸路 ザグレブOU ZAG SPU<br />7/25(木) スプリット 陸路 ドブロブニク	<br />7/27(土) ドブロブニク 航路 バーリ<br />7/28(日) バーリ アルベロベッロ レッチェ<br />7/29(月) レッチェ ブリンディシ<br />     VA834  BDS16:00&#8212;17:25 LIN<br />7/30(火)  AZ4018 MXP14:25&#8212;09:55+1 成田<br /><br />【費用】<br />?	(SYD&#8212;NRT)&#8211;FRA//MXP&#8212;NRT(--SYD) @4500AU$ JL/Cclass AU発EU周遊運賃<br />?	FRA&#8212;LJU(--FRA)  @JPN37400  LH/APEX<br />?	ZAG&#8212;SPU @US35 OUシニア事前割引<br />?	ドブロブニク--バーリ JADROLINIJA三等運賃@330kn<br />?	BDS&#8212;LIN @EUR90   VA事前割引<br />【宿泊費】 <br />Grand Hotel Toplice Bled  @EUR241.6<br />Hotel Park Split @EUR120<br />Villa DUBROVNIK @EUR250<br />Adria Hotel Bari @EUR75<br />Patria Palace Hotel Lecce @EUR260<br />Antica Locanda Leonardo @EUR180<br /> <br /><br /> 遠くから教会の鐘の音が聞こえる。<br />湖上を這うようにして伝わってくる、その優しい音色で私は目覚めた。 <br />「ここは何処だろう?」<br />遠くに雪を被ったユリアナ・アルプスの山並み、そこから続く広大な森、そして澄んだ湖水に浮かぶカテドラルの小島。地球を半周して来て、最初の宿で迎える、こんな驚きから旅の物語は始まっていく。<br />私は「何かを探しに」いつも一人で旅をするが、時には、家族を連れて、「何かを忘れる旅」へと出かけてみるのもいい。 そんな目的で毎年訪れる旅先のひとつがイタリアなのだが、そのイタリア人達をして、『神よ、海の向こう側ばかりに、なぜあのように美しい自然を与えたのですか?』と羨んだ国々がある。 アドリア海の東側にあるスロヴェニアとクロアチアの国々だ。<br /> これらの国々がユーゴスラビア連邦の頚木から解体をし始めた頃、私は田村町にあったユーゴスラビア航空に半年ばかりも通って、この美しい土地を隈なく巡る空と海の旅程を組んだ事があった。しかし出発間際になって。父が病に倒れ、その計画は白紙となった。 <br />それから程なくして、ユーゴ紛争が始まり、1年を経て父も他界した。 チトーのカリスマの下、「ユーゴスラビア」に続いた融和のモザイクは民族主義の高揚から、時を追うごとに剥れて行った。独立の正義で始まった戦いは虐殺の連鎖に変容し、「民族浄化」という戦争広告のメディア戦まで巻き込んで行った。1995年NATOの空爆という圏外圧力によって強制終了させられた後、焼け爛れた国土には死者20万人、難民200万人もの犠牲者の重たい現実が残されていた。<br />もう西欧では望めない程の無垢な自然環境、そして多くの世界文化遺産を継承したこの国が、魅力的なエコツーリズムの地として輝きを取り戻すのには、そう時間はかからなかった。<br />2002年夏 私はアドリア海の宝石といわれる地で「何かを忘れる」だけでなく、「何があったか」をも知りたくて、計画から10年目にして旧ユーゴの国々へと旅立った。<br /> <br /><br />First Classでフランクフルトまで<br />東京&#8212;フランクフルト-リュブリアナ 21 July<br />梅雨明けが宣言され夏本番の日曜日、成田を13:00に発ち、フランクフルトでJP/LHに乗り換えて、スロヴェニアの首都・リュブリアナ22:30 に到着した。16:30分の長旅だったが、JLがビジネスクラスからファーストクラスにアップグレードしてくれたので、フルフラットの座席と何時でも好きな時間に12種類ものメニューから食事が取れる快適なサービスで家族の疲れも軽減され大陸間移動が出来た。<br /> <br />ブレッド湖     <br />リュブリアナ空港に着くと冷たい雨が降っていた。<br />この空港は首都リュブリアナと、目指すブレッド湖の中間にある。私達はホテルの差向えの車に乗り、真っ暗な森の道を25分程走ってから、湖畔のホテルに着いた。蔦の絡まる古風な玄関を入ると、湖に面した奥のラウンジからジャズの演奏が流れてきた。雨で身体が少し冷えていたが緩やかなバンドの音色で温かくなってくる。なんかとっても、いいホテルだなあ、、と嬉しくなった。この土地では格上のVilla Bled(チトーの別荘だった)にしようか、どうか?と悩んだが、英雄専用の保養を旨とした迎賓館よりも、長期滞在客への寛いだサービスに溢れた、このホテルの方が心地よい、、と作家の島田雅彦が書いていたのを覚えていた。 奮発して英国・チャールズ皇太子の接待にも使われた110号室を予約していた。二間続きの部屋に入ると夏なのにヒーターが入っていた。鎧戸を開け、広いバルコニーに出ると、ライトアップされて幻想的なブレッド城が目の前に現れて、長旅の疲れも吹き飛ばしてくれた。<br /><br /><br /><br /> 爽やかな冷気が時差ボケさえも、吹き飛ばしてくれる。バルコニーに出ると、澄み切った湖面に鱒が跳ねるのが見えた。正面がブレッド城、左側遠く朝靄の絨毯からカテドラルの尖塔だけが浮かんでいる。 湖面の階に降りて、戸外のテラスで朝食を取った。 ブッフェには溢れんばかりの果物が揃っている。ここの朝食はとても美味しそうだ。朝の始まりがこんなにも優雅なので、周りの宿泊客もみんなリラックスした笑顔で挨拶を交わしている。スロヴェニア語でお早う!は「ドブロ・ユートロ」ロシア語に近い。<br /> <br />ユリアナ・アルプス<br />ロビーで見つけた日帰りツアーに早速申し込んで「Juriana Alps Tour 」に出かけた。この地名は昔<br />ジュリアス・シーザーがここまで遠征をして、軍を率いて、この険しい山稜を踏破した事から名付けられたという。 塩野七生ではないが、ローマ帝国時代を知ると、人間の意志という崇高さに現代人は己の脆弱さを覚えるばかりだ。<br /> <br /><br /> スロヴェニアは国土の70%が森林地帯である。<br />(それで、こんなに空気がうまいのかと納得!) <br />いい森はいい水を生む。 川の流れはエメラルド色をして、地平を潤していた。高山植物の咲き乱れる峠を越えて、イタリアに越境した。(パスポート必携のバスツアーだ)J・デビィビエの「我が青春のマリアンヌ」に出てくるような幻想的な湖に眼を奪われる。 帰路、第一次大戦で捕虜になり、虐殺された200人のロシア兵を弔うために建てられたロシア寺院に寄った。プーチンも先月訪れたばかりの、質素な寺院を見ながら、国を遠く離れて亡くなった若い兵士達の無念を想像した。夕刻、帰宿。まだ陽の高い中、欧米の旅人達が寛いで日光浴をしていた。<br /><br />ブレッド湖 リュブリアナ ザグレブ 23 July<br /> 一昨日の運転手が良心的な人だったので、この日も半日チャーターした。彼Pogacarさんは奥さんがペンションを経営し、本人はハイヤー業をしているマックス・フォン・シドーに似た紳士だ。車でブレッド城まで登り、抜けるような青空のもと、遠くアルプスから、アドリア海までの地平線を見渡した。それから1時間でリュブリアナに到着。小さい首都を一巡してから骨董街に案内してもらう。ロンリープラネットに載っていた店で18世紀のビザンチン・イコンを入手した。掘り出し物のマイセンのセットなどもあり、英語の通じない主人との間でPogacarさんは大活躍だった。<br /> <br />空港に着くと思わぬアクシデントが待っていた。<br />リュブリアナ〜スプリットの直行便が運行中止になっていた。アドリアナ航空の代替案は、なんとミニバスでクロアチアのザグレブまで無料送迎をするので、そこから国内線でスプリットまで行くとの申し出だった。1時間後に集合したのは60代の中欧風な女性と我々だけ。流石に3人では運行中止となるはずだ。ドライバーは20代の女性だった。 この女性の運転がルマンに出てもいいくらい素晴しく、スロヴェニアの肥沃な田園地帯を抜けてをわずか2時間半あまりで、ザグレブ空港に到着した。<br /> <br /><br />クロアチア航空でチェック・イン 料金はリュブリアナの職員がお詫びにシニアの事前割引の運賃(US$35位)を適用してくれた。リゾートに向う華やいだ気持ちの人達とともに満員の飛行機に乗った。機内から見えた大きな夕陽が落ちて、真暗なスプリット空港に着いた。迷っている私達を見て、リュブリアナからの女性が、スプリット行きのバスまで案内してくれた。ザグレブまでの車中、はにかみながらキャンディを受け取ってくれたシャイな女性だったが、目的地に着けた安堵感からか、彼女の方から話しかけてきた。「私は10年ぶりでスプリットを訪れるのです。」そこから語ってくれた半生は驚くべきものだった。 彼女はスロヴェニアで生まれ、クロアチアのスプリットに嫁いだ。 そしてあの動乱の時代を迎えて、彼女の家族は、戦乱を避けて、この地を離れる決心をした。現在、彼女はロサンジェルスに夫と住み、息子と娘はロンドンで職を得て、またそのほかの親戚はカナダに住んでいると語ってくれた。 スプリットに親戚は残っていないのかと聞くと、一人として、もういないと、事も無げに言った。 彼女はこれからスプリットの先にあるダルマチア諸島にわたり、透き通った海で泳ぐのが楽しみで、戻ってきたと嬉しそうに語った。ボストンバッグ一つの身軽ないでたちの女性がはるかロサンジェルスから旅してきた理由のシンプルさに、センチメンタル・ジャーニーになど堕さずに生を愉しんで行く気丈な精神を感じた。<br />空港を発ったバスはアドリア海沿いを南下し30分ばかりしてスプリットの町に着いた。真っ暗な道を駆け抜けてきて突然、華やかなリゾート地の盛り場の停車場に着いた。TaxiでPARK HOTELに行き、夜10時チェック・イン。遅くなり、疲れていたので、機内でくれたクッキーで空腹をしのぎ就寝した。 <br /><br />スプリット  24 July<br /> 翌朝 厚い鎧戸を開けると、眩しいばかりの陽光とビーチで賑わう声が飛び込んできた。どこかイタリアの昔の海水浴風景のようで、フェリーニの映画を見ているようだ。 さあ!朝ゴハンを食べよう!と一階におりた。このホテルはロケーションも旧市街まで近く、目の前にビーチがあり、Fodor’sで薦めていたわけだが、特筆すべきは、その朝飯の大判振舞いであった。シャンパン・ブランチ発祥として有名なLAのベル・エアーホテルを凌駕する程だ。生ハムは大きな肉塊がデンッと置かれていて、好きなだけ切って取れたが、お昼のSeaFoodが待っているので2皿でセーブした。<br /><br /> 南国の容赦ない太陽から逃げるようにスプリットの旧市街の迷路のような狭い路を歩いた。<br />そこかしこにカフェがあり、物憂げな太陽族たちが、昼下がりの会話を愉しんでいた。彼等は夜会に備え、今は休んでいるのか。この時期、スプリットでは夏の音楽祭が1ヶ月に渡って開かれ、世界遺産の鐘楼前でも、今夜の演しものであるVerdiのオペラ「アッチラ」の架設舞台が組まれていた。<br /> <br /><br />老舗のSea FoodレストランKonobaで昼食を取った。前菜に生カキ、グリーンサラダ、主菜に伊勢海老のリゾットとイカ墨のリゾットそれからドルチェにクリーム・カラメル。 ここはイタリアの地方の質実な老舗と変わらない味だ。それで値段が半分。<br />西欧から多くのの避暑客が来るのも頷けた。<br /> <br />路線バスの旅 アドリア海・篇<br />スプリット ドブロブニク 25 July<br />スプリットを出て、右手にアドリア海、ダルマチア群島をみながら南下するこのバス旅は、絶景路線バス世界コンテストなどがあれば、間違いなくBest10入りするであろう。ただし途中休憩もなくボスニアヘルゼゴビナ領も越境して5時間半も突っ走る長旅だ。大きな荷物は外部トランクに詰めるので、車内に飲物とお弁当をお忘れなく!<br /><br />B級トラベラーの私だが「地球の宝石」のような地に旅する時は、一期一会の出会いを大切にしたい。 アドリア海の真珠と称えられる、この風光明媚な土地で、何処に泊まるか? Webを検索したらエリザベス・テイラーがよくバカンスを過ごしたホテルというのを発見した。なんか大時代的でいいではないか。 私はリチャード・バートンになった気持ちで、問い合わせをしたら、残念ながら今シーズンは改築休業中なのでと、隣の敷地のホテルを推薦してくれた。Fodor’sで調べても、お値打ちだったので、<br />ここで一番の「眺めのいい部屋」を予約した。<br /> <br /> <br />バスを降り、タクシーで紛争前に展望台があった山頂に登った。内戦で破壊されたケーブルカーの施設は未だ修復されずに10年前の傷跡を残していた。瓦礫になった天文測候所を抜けて頂上に辿り着いた。大音量でロックをかけていた若い運転手もいつのまにか音楽を消していた。彼に案内されてフェンスもない崖から身を乗り出して、眼下を見た。アッと息を呑む景色だった。原田泰治が書いた絵「ドブロブニクの眺め」もここから描いたのだろう、、と思った。<br /> <br /><br /> それから山をジグザグにおりてから海岸縁のビラに着いた。門の呼鈴を鳴らすとポーターがやって来た。緑生い茂る庭を海側に下がってロビーに到着。<br />ロクルム島の見える棟ではなくて、旧市街の見える<br />ANEXの方に通される。 真っ白な部屋に入ると、窓を開けてヴェランダに出た。そこには真青な海の向うに「アドリア海の真珠」が輝いていた。<br /> <br />骨董探訪<br /> 翌日 旧市街に20分ばかりかけて歩いて行った。目抜き通りのプラツァ通りに出る。 ただの石の通りがなんで面白いのか?と来る前は勘繰っていたが、鏡のように磨きこまれた大理石のプロムナードを歩いてみると、なんか気分がふわふわしてくるから、不思議だ。同じ海洋都市国家のベネチアのサンマルコ広場と同様に、栄華な歴史の住人たちと同じ舞台を踏んでいる高揚感からだろうか?長い通りは脇にたくさんの小路が分かれ、その奥に隠れるように洒落たレストランや骨董店が潜んでいたりするのもベネチアと似ている。<br />それならば、、、と嗅覚がわき、骨董店を探すと、探していたモノに出会えた。 カソリック圏とビザンチン圏の美意識が交錯し合うクロアチアにはとびきり美しいイコンが生まれていた。 その店に入って、女主人が出してくれた一番の品に私は眼を奪われた。 全体が琥珀色に退色しているが、時の移ろいの中にも、描かれた聖母像の気品さは、はっきりと感じられ、西欧のマーケットではもう出会えない17世紀の一級品だった。これまで贋作に随分と授業料を払ってきていたので多少は目利きが出来るつもりだが、画板の反り具合、画材の変容から、少なくとも19世紀以前の物であることだけは推察される。様々な品々に混ぜて、何気なく本命の値段を訊くと、 予想していた値段だった。これが予想の倍だったら諦めたが、美術館入りに相応しい一級品との一期一会を感じて、言い値を、少し値切ってから手に入れた。(値段はさすがに家族にさえも明かせなかった。)その他にも18世紀の精緻な細工のカメオ、アインガルテンの稀少なグランドセット、ティントレット風のタピストリーなどの逸品が並んでいて、この街の住人達が東欧にあっても侯爵夫人のような気位で富を継承してきた歴史を裏付けるようだった。<br /><br /> 毎年7月中旬から1ヶ月に渡って、開催される欧州でも指折りの音楽祭で、教会や市庁舎のホールなどで、毎日のごとく室内楽からオペラまでの興味あふれるコンサートが催される。著名演奏家達も、この街の招待には、手弁当で押しかけるらしく、今回もブレンデルやNゾンネバーグなどの公演もあった。夜9時ごろまで陽があるので、10時からの、声楽コンサートに出かけてみた。プラツァ通りは昼間と変わらぬ賑わいで、大人だけでなく子供まで宵っぱりなのが判る。カテドラルでの音楽会は、音の共鳴が素晴らしく、熱をおびた演奏を睡魔と格闘しながら最後まで聴いた。外に出ると、もう1時を超えていたのに、夏の夜を愛しむ人でいっぱいであった。<br /> <br /><br />ドブロブニク バーリ.27 July<br />今回の旅程での離れ業がこの航海だ。アドリア東岸を南下して来て、海を渡って対岸のイタリア・バーリに入り、そこから陸の孤島と称される辺鄙なプーリア地方を周るというプランだ。 Jadrolinija海運のフェリーは4階建で、接岸する1階部分がバスまで入る駐車場階、2〜4階が個室、自由席の船室で、屋上のデッキ階では潮風に吹かれながら、空から海までの青のグラデュエーションに包まれたアドリア海のパノラマを楽しめるのでお薦めだ。<br /> 船内の展望ダイニングでは世界で2番目に美味しくないパスタが供されたが、窓から見えた夕陽の素晴らしさで帳消しだった。 夜10時半にバーリに到着。岸壁からタクシー乗り場まで荷物を持って1km以上歩くのには参った。タクシーがもういないので、営業終了のタクシーに拝み倒して、なんとか、この夜の内に予約した宿まで着く事が出来た。<br /> <br /><br />アルベロベッロ<br />バーリ アルベロベッロ レッチェ .28 July<br />前夜、泊まった宿は典型的な駅前ホテルでスーツケースをごろごろ引いてバーリ駅に行った。ここからSud-Estという私鉄でアルベロベッロに向う、、、積りだった。しかし、、、「エッ!日曜日は運休?」なんだそうである。それで国鉄でFasanoまで行き、そこからタクシーでアルベロベッロまで行った。<br /> 駅を出ると平原の中、ポツポツとあの不思議な屋根の家が視界をよぎっていく。オリーブ畑を疾走すること20分で世界遺産の街に到着した。そして、、不思議な景色に気持ちは不思議の国になるはずであった。しかし!なんだ、ここは、、まるで江ノ島じゃないか。街中のトゥルリの家々はお土産屋さんばかり、観光客への客曳きでガヤガヤしている。なんか一番イタリアらしくない所に来ちゃったと思った。 ここも泊まって観光客の来ない早朝や夕暮れの静寂の中で一人散歩するといいのかも知れない、、かも。<br /> <br />レッチェ -バロックのフィレンツェ-<br /> レッチェ イタリア半島・その長靴の踵にあるこの地は辺境ゆえにスペイン、ゲルマン等、幾多の国家の属領となって来た。歴代の支配者たちは「前よりも、凄い建築をこの街に造らねば!」と気張った。「半島の隅っこに、どうしてこんな凄いものが?」とビックリさせられるのも、そんな理由に因るらしい。今は北部イタリア・ヴィチェンツアにあるパラディオの建築と並ぶイタリア・後期バロックの傑作建築郡に選ばれて、ユネスコの世界遺産となった。アルベロベッロまでは行っても、そこから足を伸ばして、この街まで南下する人は少ないのか。それだけに、この街には観光客に荒らされていない地元の人の穏やかな楽しみが根付いている。<br /> <br />Lecce 28 July<br />そんな素敵な街だから、気張って一番豪華なホテル、それも一番眺めのいい部屋に泊まった。<br /> <br /> <br />19世紀の貴族の邸宅がリノベートされた、このホテルはイタリアの歴史的ホテルリストの栄誉に浴している。内装は典雅、そして浴室にはふんだんに大理石を使っている。中でも一番の贅沢は、世界遺産のサンタ・クローチェ寺院を部屋の窓から真正面に見る眼福であろう。王様のお風呂で長旅の疲れを落として、少しばかりの昼寝をとった。 リネンのシーツに包まれて気がついた時はもう陽が少し傾きかけていた。イタリアの夏は夕刻が長い。 黄昏になると人々は連れ立って街を散歩する。気にいった相手と恋や政治を語り合いながら、その緩やかな時間をゆっくりと愉しんでいる。 窓辺に立つと、その語らいがモーツアルトのアリアのように聞こえてくる。 なんていい街だろう、、と私はこの街にいっぺんで惚れ込んだ。<br />夕食はコンシェルジェのお薦め Villa Giovanni Camilloに行った。ここは16世紀の修道院を改装していて、クーポラのある天井には華やかなフレスコ画も残り、古典的な内装だが、カンツオーネ歌手がテーブルを廻って客に歌を捧げるような寛いだ店だ。この店はミシュランでは★無しだが、信頼に足るガンベロ・ロッソでは、その内装と共に伝統の味に評価の★が付いていた。私達がとった献立は先ず、タコのカルパッチョと、生ウニ(これはプーリア地方の名物)それから伊勢エビのリングイネに4つのチーズのリゾット、主菜には鳩のグリルと、生ハムの盛合わせ。ドルチェにマチェドニアとカシスのソルベ、エスプレッソで締めくくった。お客に地元の旬の美味しさを届けたいシェフの良心が感じられる皿ばかりだ。 勘定を見て驚いた。2人でお腹いっぱい食べて、ワイン抜きで3500円位だったのだから。<br /><br />私はイタリアを訪れて30年になるが、時々こういう物価のブラックホールに出くわすことがある。(君は知っているだろうかアルマーニでさえも二重相場性の価格があることを)ここなら住んでもいいなあ、、と感じさせる街は案外少ないものだが、この夜、私の手帳にレッチェの名が加わった。プーリア産のDOCGワインにも酔って、ホテルに戻った。<br />ベッドのリネンが新しく取り替えられていた。<br />カーテンを開けると、目の前にライトアップされた世界遺産のファサードが劇的な輝きを放っていた。<br /><br /> ボラーレ航空<br />ブリンディシ ミラノ・リナーテ .29 July<br />プーリアからミラノに向かうのに一番大きい空港はバーリだが、レッチェに近い方のブリンディシから飛ぶことにした。Webで検索して、この路線の最安運賃を調べるとこの見知らぬ航空会社がアリタリアの半額である。バーリの旅行代理店に問い合わせると、地中海沿岸のチャーター運行を主とする航空会社だが、時々ディレイするらしい。 でも1時間半飛んでEUR@90である。機体は新しいし、アテンダントは官能的な美人揃い、おまけにキャンディーを4つもくれた。 ただし、、、飛行機がブリンディシを飛び立ったのは定刻の4時間後だった。<br /> <br />レオナルドの館<br />ミラノ・リナーテ空港に5時半着、すぐにタクシーで、日本人が女将というプチ・ホテルに向かった。<br />Antica Locanda Leonard は「最後の晩餐」が描かれたサンタ・マリア・デル・グラッエ修道院から歩いて2分。古くからあるアパルトマンの中で営業している。中庭もあり、木々を窓から眺めながら寛げるのはミラノでは贅沢であろう。女将に頼んでおけば「最後の晩餐」の予約もしてくれる便利な宿だ。<br /> <br />アルバからの届け物<br />しかし、この宿に決めていたのは、別の理由だ。<br />私はピエモンテ州のワイン・BAROLOが好きで、中でも名醸の誉れ高く、生産量が少ないAldo Conternoのカンティーナから、息子が生まれた1998年(20世紀の最後のヴィンテージ)のワインを入手したかった。ミラノでも特別の顧客にしか卸してくれないので、原産地のアルバのエノテカに連絡を取って、この宿まで届けておいて貰ったのだ。部屋に入ると、頑丈な木箱に入って稀代のワインが12本、南イタリアから来た注文主を待っていた。<br />息子が20歳を迎える時に最初の1本を2人で飲み交わすつもりだ。アルバからの木箱代+宅急便代はわずか2000円しか掛からなかった。<br /> <br /><br />ミラノ・マルペンサ 成田 ..30--31July<br />夏のSALDI真盛りである。普段おつに澄まして庶民など寄せ付けない高級店が、夏と冬のこの3週間だけは、絹のガーターを脱ぎ捨て、木綿の靴下を履いた少女に変身する。 この時、この町で服を買わないのはダライラマだけだ、、と、私はうそぶき、馴染みのアウトレット店を巡回して、高嶺の花だったPAL ZILERIやロメオ・ジリを手に入れた。<br />  <br /><br />これがミラノを発つ朝でなければ、わたしは男イメルダと仮していただろう。 離陸3時間前になって、流石にSALDIへの後ろ髪も断ち切りホテルに戻った。イコンの詰ったトランクにワインの木箱、それにガーメントケースを積んで、マルペンサ・エクスプレス駅に向かおうとすると、運転手がこれで今日はもう上がりだから空港まで全部でEUR25(約3000円)でどうかと云う。渡りに舟! 老運転手は空港までを、シューマッハも驚く程のスピード・わずか30分で疾走した。今回の旅、始まりは湖畔を吹いてくる緩やか(アンダンテ)な前奏だったが、最後はハイウェイーを駆け抜ける、とびきりのアレグロで終わった。<br />

アドリア海・沿岸の美しき国々へ

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2002/07/21 - 2002/07/31

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bloom3476

bloom3476さん

【行程】 
7/21(日) JL407 NRT13:00—18:00x.FRA
JP125 FRA20:20—21:35 LJU
7/23(火) リュブリアナ 陸路 ザグレブOU ZAG SPU
7/25(木) スプリット 陸路 ドブロブニク
7/27(土) ドブロブニク 航路 バーリ
7/28(日) バーリ アルベロベッロ レッチェ
7/29(月) レッチェ ブリンディシ
     VA834 BDS16:00—17:25 LIN
7/30(火) AZ4018 MXP14:25—09:55+1 成田

【費用】
? (SYD—NRT)–FRA//MXP—NRT(--SYD) @4500AU$ JL/Cclass AU発EU周遊運賃
? FRA—LJU(--FRA) @JPN37400 LH/APEX
? ZAG—SPU @US35 OUシニア事前割引
? ドブロブニク--バーリ JADROLINIJA三等運賃@330kn
? BDS—LIN @EUR90 VA事前割引
【宿泊費】 
Grand Hotel Toplice Bled  @EUR241.6
Hotel Park Split @EUR120
Villa DUBROVNIK @EUR250
Adria Hotel Bari @EUR75
Patria Palace Hotel Lecce @EUR260
Antica Locanda Leonardo @EUR180


 遠くから教会の鐘の音が聞こえる。
湖上を這うようにして伝わってくる、その優しい音色で私は目覚めた。 
「ここは何処だろう?」
遠くに雪を被ったユリアナ・アルプスの山並み、そこから続く広大な森、そして澄んだ湖水に浮かぶカテドラルの小島。地球を半周して来て、最初の宿で迎える、こんな驚きから旅の物語は始まっていく。
私は「何かを探しに」いつも一人で旅をするが、時には、家族を連れて、「何かを忘れる旅」へと出かけてみるのもいい。 そんな目的で毎年訪れる旅先のひとつがイタリアなのだが、そのイタリア人達をして、『神よ、海の向こう側ばかりに、なぜあのように美しい自然を与えたのですか?』と羨んだ国々がある。 アドリア海の東側にあるスロヴェニアとクロアチアの国々だ。
 これらの国々がユーゴスラビア連邦の頚木から解体をし始めた頃、私は田村町にあったユーゴスラビア航空に半年ばかりも通って、この美しい土地を隈なく巡る空と海の旅程を組んだ事があった。しかし出発間際になって。父が病に倒れ、その計画は白紙となった。 
それから程なくして、ユーゴ紛争が始まり、1年を経て父も他界した。 チトーのカリスマの下、「ユーゴスラビア」に続いた融和のモザイクは民族主義の高揚から、時を追うごとに剥れて行った。独立の正義で始まった戦いは虐殺の連鎖に変容し、「民族浄化」という戦争広告のメディア戦まで巻き込んで行った。1995年NATOの空爆という圏外圧力によって強制終了させられた後、焼け爛れた国土には死者20万人、難民200万人もの犠牲者の重たい現実が残されていた。
もう西欧では望めない程の無垢な自然環境、そして多くの世界文化遺産を継承したこの国が、魅力的なエコツーリズムの地として輝きを取り戻すのには、そう時間はかからなかった。
2002年夏 私はアドリア海の宝石といわれる地で「何かを忘れる」だけでなく、「何があったか」をも知りたくて、計画から10年目にして旧ユーゴの国々へと旅立った。


First Classでフランクフルトまで
東京—フランクフルト-リュブリアナ 21 July
梅雨明けが宣言され夏本番の日曜日、成田を13:00に発ち、フランクフルトでJP/LHに乗り換えて、スロヴェニアの首都・リュブリアナ22:30 に到着した。16:30分の長旅だったが、JLがビジネスクラスからファーストクラスにアップグレードしてくれたので、フルフラットの座席と何時でも好きな時間に12種類ものメニューから食事が取れる快適なサービスで家族の疲れも軽減され大陸間移動が出来た。

ブレッド湖    
リュブリアナ空港に着くと冷たい雨が降っていた。
この空港は首都リュブリアナと、目指すブレッド湖の中間にある。私達はホテルの差向えの車に乗り、真っ暗な森の道を25分程走ってから、湖畔のホテルに着いた。蔦の絡まる古風な玄関を入ると、湖に面した奥のラウンジからジャズの演奏が流れてきた。雨で身体が少し冷えていたが緩やかなバンドの音色で温かくなってくる。なんかとっても、いいホテルだなあ、、と嬉しくなった。この土地では格上のVilla Bled(チトーの別荘だった)にしようか、どうか?と悩んだが、英雄専用の保養を旨とした迎賓館よりも、長期滞在客への寛いだサービスに溢れた、このホテルの方が心地よい、、と作家の島田雅彦が書いていたのを覚えていた。 奮発して英国・チャールズ皇太子の接待にも使われた110号室を予約していた。二間続きの部屋に入ると夏なのにヒーターが入っていた。鎧戸を開け、広いバルコニーに出ると、ライトアップされて幻想的なブレッド城が目の前に現れて、長旅の疲れも吹き飛ばしてくれた。



 爽やかな冷気が時差ボケさえも、吹き飛ばしてくれる。バルコニーに出ると、澄み切った湖面に鱒が跳ねるのが見えた。正面がブレッド城、左側遠く朝靄の絨毯からカテドラルの尖塔だけが浮かんでいる。 湖面の階に降りて、戸外のテラスで朝食を取った。 ブッフェには溢れんばかりの果物が揃っている。ここの朝食はとても美味しそうだ。朝の始まりがこんなにも優雅なので、周りの宿泊客もみんなリラックスした笑顔で挨拶を交わしている。スロヴェニア語でお早う!は「ドブロ・ユートロ」ロシア語に近い。

ユリアナ・アルプス
ロビーで見つけた日帰りツアーに早速申し込んで「Juriana Alps Tour 」に出かけた。この地名は昔
ジュリアス・シーザーがここまで遠征をして、軍を率いて、この険しい山稜を踏破した事から名付けられたという。 塩野七生ではないが、ローマ帝国時代を知ると、人間の意志という崇高さに現代人は己の脆弱さを覚えるばかりだ。


 スロヴェニアは国土の70%が森林地帯である。
(それで、こんなに空気がうまいのかと納得!) 
いい森はいい水を生む。 川の流れはエメラルド色をして、地平を潤していた。高山植物の咲き乱れる峠を越えて、イタリアに越境した。(パスポート必携のバスツアーだ)J・デビィビエの「我が青春のマリアンヌ」に出てくるような幻想的な湖に眼を奪われる。 帰路、第一次大戦で捕虜になり、虐殺された200人のロシア兵を弔うために建てられたロシア寺院に寄った。プーチンも先月訪れたばかりの、質素な寺院を見ながら、国を遠く離れて亡くなった若い兵士達の無念を想像した。夕刻、帰宿。まだ陽の高い中、欧米の旅人達が寛いで日光浴をしていた。

ブレッド湖 リュブリアナ ザグレブ 23 July
 一昨日の運転手が良心的な人だったので、この日も半日チャーターした。彼Pogacarさんは奥さんがペンションを経営し、本人はハイヤー業をしているマックス・フォン・シドーに似た紳士だ。車でブレッド城まで登り、抜けるような青空のもと、遠くアルプスから、アドリア海までの地平線を見渡した。それから1時間でリュブリアナに到着。小さい首都を一巡してから骨董街に案内してもらう。ロンリープラネットに載っていた店で18世紀のビザンチン・イコンを入手した。掘り出し物のマイセンのセットなどもあり、英語の通じない主人との間でPogacarさんは大活躍だった。
 
空港に着くと思わぬアクシデントが待っていた。
リュブリアナ〜スプリットの直行便が運行中止になっていた。アドリアナ航空の代替案は、なんとミニバスでクロアチアのザグレブまで無料送迎をするので、そこから国内線でスプリットまで行くとの申し出だった。1時間後に集合したのは60代の中欧風な女性と我々だけ。流石に3人では運行中止となるはずだ。ドライバーは20代の女性だった。 この女性の運転がルマンに出てもいいくらい素晴しく、スロヴェニアの肥沃な田園地帯を抜けてをわずか2時間半あまりで、ザグレブ空港に到着した。


クロアチア航空でチェック・イン 料金はリュブリアナの職員がお詫びにシニアの事前割引の運賃(US$35位)を適用してくれた。リゾートに向う華やいだ気持ちの人達とともに満員の飛行機に乗った。機内から見えた大きな夕陽が落ちて、真暗なスプリット空港に着いた。迷っている私達を見て、リュブリアナからの女性が、スプリット行きのバスまで案内してくれた。ザグレブまでの車中、はにかみながらキャンディを受け取ってくれたシャイな女性だったが、目的地に着けた安堵感からか、彼女の方から話しかけてきた。「私は10年ぶりでスプリットを訪れるのです。」そこから語ってくれた半生は驚くべきものだった。 彼女はスロヴェニアで生まれ、クロアチアのスプリットに嫁いだ。 そしてあの動乱の時代を迎えて、彼女の家族は、戦乱を避けて、この地を離れる決心をした。現在、彼女はロサンジェルスに夫と住み、息子と娘はロンドンで職を得て、またそのほかの親戚はカナダに住んでいると語ってくれた。 スプリットに親戚は残っていないのかと聞くと、一人として、もういないと、事も無げに言った。 彼女はこれからスプリットの先にあるダルマチア諸島にわたり、透き通った海で泳ぐのが楽しみで、戻ってきたと嬉しそうに語った。ボストンバッグ一つの身軽ないでたちの女性がはるかロサンジェルスから旅してきた理由のシンプルさに、センチメンタル・ジャーニーになど堕さずに生を愉しんで行く気丈な精神を感じた。
空港を発ったバスはアドリア海沿いを南下し30分ばかりしてスプリットの町に着いた。真っ暗な道を駆け抜けてきて突然、華やかなリゾート地の盛り場の停車場に着いた。TaxiでPARK HOTELに行き、夜10時チェック・イン。遅くなり、疲れていたので、機内でくれたクッキーで空腹をしのぎ就寝した。 

スプリット  24 July
翌朝 厚い鎧戸を開けると、眩しいばかりの陽光とビーチで賑わう声が飛び込んできた。どこかイタリアの昔の海水浴風景のようで、フェリーニの映画を見ているようだ。 さあ!朝ゴハンを食べよう!と一階におりた。このホテルはロケーションも旧市街まで近く、目の前にビーチがあり、Fodor’sで薦めていたわけだが、特筆すべきは、その朝飯の大判振舞いであった。シャンパン・ブランチ発祥として有名なLAのベル・エアーホテルを凌駕する程だ。生ハムは大きな肉塊がデンッと置かれていて、好きなだけ切って取れたが、お昼のSeaFoodが待っているので2皿でセーブした。

南国の容赦ない太陽から逃げるようにスプリットの旧市街の迷路のような狭い路を歩いた。
そこかしこにカフェがあり、物憂げな太陽族たちが、昼下がりの会話を愉しんでいた。彼等は夜会に備え、今は休んでいるのか。この時期、スプリットでは夏の音楽祭が1ヶ月に渡って開かれ、世界遺産の鐘楼前でも、今夜の演しものであるVerdiのオペラ「アッチラ」の架設舞台が組まれていた。


老舗のSea FoodレストランKonobaで昼食を取った。前菜に生カキ、グリーンサラダ、主菜に伊勢海老のリゾットとイカ墨のリゾットそれからドルチェにクリーム・カラメル。 ここはイタリアの地方の質実な老舗と変わらない味だ。それで値段が半分。
西欧から多くのの避暑客が来るのも頷けた。

路線バスの旅 アドリア海・篇
スプリット ドブロブニク 25 July
スプリットを出て、右手にアドリア海、ダルマチア群島をみながら南下するこのバス旅は、絶景路線バス世界コンテストなどがあれば、間違いなくBest10入りするであろう。ただし途中休憩もなくボスニアヘルゼゴビナ領も越境して5時間半も突っ走る長旅だ。大きな荷物は外部トランクに詰めるので、車内に飲物とお弁当をお忘れなく!

B級トラベラーの私だが「地球の宝石」のような地に旅する時は、一期一会の出会いを大切にしたい。 アドリア海の真珠と称えられる、この風光明媚な土地で、何処に泊まるか? Webを検索したらエリザベス・テイラーがよくバカンスを過ごしたホテルというのを発見した。なんか大時代的でいいではないか。 私はリチャード・バートンになった気持ちで、問い合わせをしたら、残念ながら今シーズンは改築休業中なのでと、隣の敷地のホテルを推薦してくれた。Fodor’sで調べても、お値打ちだったので、
ここで一番の「眺めのいい部屋」を予約した。

 
バスを降り、タクシーで紛争前に展望台があった山頂に登った。内戦で破壊されたケーブルカーの施設は未だ修復されずに10年前の傷跡を残していた。瓦礫になった天文測候所を抜けて頂上に辿り着いた。大音量でロックをかけていた若い運転手もいつのまにか音楽を消していた。彼に案内されてフェンスもない崖から身を乗り出して、眼下を見た。アッと息を呑む景色だった。原田泰治が書いた絵「ドブロブニクの眺め」もここから描いたのだろう、、と思った。


 それから山をジグザグにおりてから海岸縁のビラに着いた。門の呼鈴を鳴らすとポーターがやって来た。緑生い茂る庭を海側に下がってロビーに到着。
ロクルム島の見える棟ではなくて、旧市街の見える
ANEXの方に通される。 真っ白な部屋に入ると、窓を開けてヴェランダに出た。そこには真青な海の向うに「アドリア海の真珠」が輝いていた。

骨董探訪
 翌日 旧市街に20分ばかりかけて歩いて行った。目抜き通りのプラツァ通りに出る。 ただの石の通りがなんで面白いのか?と来る前は勘繰っていたが、鏡のように磨きこまれた大理石のプロムナードを歩いてみると、なんか気分がふわふわしてくるから、不思議だ。同じ海洋都市国家のベネチアのサンマルコ広場と同様に、栄華な歴史の住人たちと同じ舞台を踏んでいる高揚感からだろうか?長い通りは脇にたくさんの小路が分かれ、その奥に隠れるように洒落たレストランや骨董店が潜んでいたりするのもベネチアと似ている。
それならば、、、と嗅覚がわき、骨董店を探すと、探していたモノに出会えた。 カソリック圏とビザンチン圏の美意識が交錯し合うクロアチアにはとびきり美しいイコンが生まれていた。 その店に入って、女主人が出してくれた一番の品に私は眼を奪われた。 全体が琥珀色に退色しているが、時の移ろいの中にも、描かれた聖母像の気品さは、はっきりと感じられ、西欧のマーケットではもう出会えない17世紀の一級品だった。これまで贋作に随分と授業料を払ってきていたので多少は目利きが出来るつもりだが、画板の反り具合、画材の変容から、少なくとも19世紀以前の物であることだけは推察される。様々な品々に混ぜて、何気なく本命の値段を訊くと、 予想していた値段だった。これが予想の倍だったら諦めたが、美術館入りに相応しい一級品との一期一会を感じて、言い値を、少し値切ってから手に入れた。(値段はさすがに家族にさえも明かせなかった。)その他にも18世紀の精緻な細工のカメオ、アインガルテンの稀少なグランドセット、ティントレット風のタピストリーなどの逸品が並んでいて、この街の住人達が東欧にあっても侯爵夫人のような気位で富を継承してきた歴史を裏付けるようだった。

 毎年7月中旬から1ヶ月に渡って、開催される欧州でも指折りの音楽祭で、教会や市庁舎のホールなどで、毎日のごとく室内楽からオペラまでの興味あふれるコンサートが催される。著名演奏家達も、この街の招待には、手弁当で押しかけるらしく、今回もブレンデルやNゾンネバーグなどの公演もあった。夜9時ごろまで陽があるので、10時からの、声楽コンサートに出かけてみた。プラツァ通りは昼間と変わらぬ賑わいで、大人だけでなく子供まで宵っぱりなのが判る。カテドラルでの音楽会は、音の共鳴が素晴らしく、熱をおびた演奏を睡魔と格闘しながら最後まで聴いた。外に出ると、もう1時を超えていたのに、夏の夜を愛しむ人でいっぱいであった。


ドブロブニク バーリ.27 July
今回の旅程での離れ業がこの航海だ。アドリア東岸を南下して来て、海を渡って対岸のイタリア・バーリに入り、そこから陸の孤島と称される辺鄙なプーリア地方を周るというプランだ。 Jadrolinija海運のフェリーは4階建で、接岸する1階部分がバスまで入る駐車場階、2〜4階が個室、自由席の船室で、屋上のデッキ階では潮風に吹かれながら、空から海までの青のグラデュエーションに包まれたアドリア海のパノラマを楽しめるのでお薦めだ。
 船内の展望ダイニングでは世界で2番目に美味しくないパスタが供されたが、窓から見えた夕陽の素晴らしさで帳消しだった。 夜10時半にバーリに到着。岸壁からタクシー乗り場まで荷物を持って1km以上歩くのには参った。タクシーがもういないので、営業終了のタクシーに拝み倒して、なんとか、この夜の内に予約した宿まで着く事が出来た。


アルベロベッロ
バーリ アルベロベッロ レッチェ .28 July
前夜、泊まった宿は典型的な駅前ホテルでスーツケースをごろごろ引いてバーリ駅に行った。ここからSud-Estという私鉄でアルベロベッロに向う、、、積りだった。しかし、、、「エッ!日曜日は運休?」なんだそうである。それで国鉄でFasanoまで行き、そこからタクシーでアルベロベッロまで行った。
 駅を出ると平原の中、ポツポツとあの不思議な屋根の家が視界をよぎっていく。オリーブ畑を疾走すること20分で世界遺産の街に到着した。そして、、不思議な景色に気持ちは不思議の国になるはずであった。しかし!なんだ、ここは、、まるで江ノ島じゃないか。街中のトゥルリの家々はお土産屋さんばかり、観光客への客曳きでガヤガヤしている。なんか一番イタリアらしくない所に来ちゃったと思った。 ここも泊まって観光客の来ない早朝や夕暮れの静寂の中で一人散歩するといいのかも知れない、、かも。

レッチェ -バロックのフィレンツェ-
 レッチェ イタリア半島・その長靴の踵にあるこの地は辺境ゆえにスペイン、ゲルマン等、幾多の国家の属領となって来た。歴代の支配者たちは「前よりも、凄い建築をこの街に造らねば!」と気張った。「半島の隅っこに、どうしてこんな凄いものが?」とビックリさせられるのも、そんな理由に因るらしい。今は北部イタリア・ヴィチェンツアにあるパラディオの建築と並ぶイタリア・後期バロックの傑作建築郡に選ばれて、ユネスコの世界遺産となった。アルベロベッロまでは行っても、そこから足を伸ばして、この街まで南下する人は少ないのか。それだけに、この街には観光客に荒らされていない地元の人の穏やかな楽しみが根付いている。

Lecce 28 July
そんな素敵な街だから、気張って一番豪華なホテル、それも一番眺めのいい部屋に泊まった。


19世紀の貴族の邸宅がリノベートされた、このホテルはイタリアの歴史的ホテルリストの栄誉に浴している。内装は典雅、そして浴室にはふんだんに大理石を使っている。中でも一番の贅沢は、世界遺産のサンタ・クローチェ寺院を部屋の窓から真正面に見る眼福であろう。王様のお風呂で長旅の疲れを落として、少しばかりの昼寝をとった。 リネンのシーツに包まれて気がついた時はもう陽が少し傾きかけていた。イタリアの夏は夕刻が長い。 黄昏になると人々は連れ立って街を散歩する。気にいった相手と恋や政治を語り合いながら、その緩やかな時間をゆっくりと愉しんでいる。 窓辺に立つと、その語らいがモーツアルトのアリアのように聞こえてくる。 なんていい街だろう、、と私はこの街にいっぺんで惚れ込んだ。
夕食はコンシェルジェのお薦め Villa Giovanni Camilloに行った。ここは16世紀の修道院を改装していて、クーポラのある天井には華やかなフレスコ画も残り、古典的な内装だが、カンツオーネ歌手がテーブルを廻って客に歌を捧げるような寛いだ店だ。この店はミシュランでは★無しだが、信頼に足るガンベロ・ロッソでは、その内装と共に伝統の味に評価の★が付いていた。私達がとった献立は先ず、タコのカルパッチョと、生ウニ(これはプーリア地方の名物)それから伊勢エビのリングイネに4つのチーズのリゾット、主菜には鳩のグリルと、生ハムの盛合わせ。ドルチェにマチェドニアとカシスのソルベ、エスプレッソで締めくくった。お客に地元の旬の美味しさを届けたいシェフの良心が感じられる皿ばかりだ。 勘定を見て驚いた。2人でお腹いっぱい食べて、ワイン抜きで3500円位だったのだから。

私はイタリアを訪れて30年になるが、時々こういう物価のブラックホールに出くわすことがある。(君は知っているだろうかアルマーニでさえも二重相場性の価格があることを)ここなら住んでもいいなあ、、と感じさせる街は案外少ないものだが、この夜、私の手帳にレッチェの名が加わった。プーリア産のDOCGワインにも酔って、ホテルに戻った。
ベッドのリネンが新しく取り替えられていた。
カーテンを開けると、目の前にライトアップされた世界遺産のファサードが劇的な輝きを放っていた。

ボラーレ航空
ブリンディシ ミラノ・リナーテ .29 July
プーリアからミラノに向かうのに一番大きい空港はバーリだが、レッチェに近い方のブリンディシから飛ぶことにした。Webで検索して、この路線の最安運賃を調べるとこの見知らぬ航空会社がアリタリアの半額である。バーリの旅行代理店に問い合わせると、地中海沿岸のチャーター運行を主とする航空会社だが、時々ディレイするらしい。 でも1時間半飛んでEUR@90である。機体は新しいし、アテンダントは官能的な美人揃い、おまけにキャンディーを4つもくれた。 ただし、、、飛行機がブリンディシを飛び立ったのは定刻の4時間後だった。

レオナルドの館
ミラノ・リナーテ空港に5時半着、すぐにタクシーで、日本人が女将というプチ・ホテルに向かった。
Antica Locanda Leonard は「最後の晩餐」が描かれたサンタ・マリア・デル・グラッエ修道院から歩いて2分。古くからあるアパルトマンの中で営業している。中庭もあり、木々を窓から眺めながら寛げるのはミラノでは贅沢であろう。女将に頼んでおけば「最後の晩餐」の予約もしてくれる便利な宿だ。

アルバからの届け物
しかし、この宿に決めていたのは、別の理由だ。
私はピエモンテ州のワイン・BAROLOが好きで、中でも名醸の誉れ高く、生産量が少ないAldo Conternoのカンティーナから、息子が生まれた1998年(20世紀の最後のヴィンテージ)のワインを入手したかった。ミラノでも特別の顧客にしか卸してくれないので、原産地のアルバのエノテカに連絡を取って、この宿まで届けておいて貰ったのだ。部屋に入ると、頑丈な木箱に入って稀代のワインが12本、南イタリアから来た注文主を待っていた。
息子が20歳を迎える時に最初の1本を2人で飲み交わすつもりだ。アルバからの木箱代+宅急便代はわずか2000円しか掛からなかった。


ミラノ・マルペンサ 成田 ..30--31July
夏のSALDI真盛りである。普段おつに澄まして庶民など寄せ付けない高級店が、夏と冬のこの3週間だけは、絹のガーターを脱ぎ捨て、木綿の靴下を履いた少女に変身する。 この時、この町で服を買わないのはダライラマだけだ、、と、私はうそぶき、馴染みのアウトレット店を巡回して、高嶺の花だったPAL ZILERIやロメオ・ジリを手に入れた。


これがミラノを発つ朝でなければ、わたしは男イメルダと仮していただろう。 離陸3時間前になって、流石にSALDIへの後ろ髪も断ち切りホテルに戻った。イコンの詰ったトランクにワインの木箱、それにガーメントケースを積んで、マルペンサ・エクスプレス駅に向かおうとすると、運転手がこれで今日はもう上がりだから空港まで全部でEUR25(約3000円)でどうかと云う。渡りに舟! 老運転手は空港までを、シューマッハも驚く程のスピード・わずか30分で疾走した。今回の旅、始まりは湖畔を吹いてくる緩やか(アンダンテ)な前奏だったが、最後はハイウェイーを駆け抜ける、とびきりのアレグロで終わった。

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