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写真は首里(城)にひるがえる星条旗――狙撃される危険がありながら首里(城)の胸壁に米国旗を立てるR・P・ロス(海兵隊)中佐。この第1海兵師団の旗はグロスター岬(マサチュウセッツ州)とペリリュ―島に初めて掲げられた旗である。この金属の旗竿は日本軍が使用していたもので、米軍の弾痕がある<br />撮影:沖縄県那覇市首里 1945年 5月<br />ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー<br />2007年1月20日(土)、ANA125便 羽田空港10:40発の飛行機でわたしは沖縄へ向かうため、京急に乗っていた、ときに気がついた。<br /><br />飛行機は10:20発であることを。<br /><br />ANAカスタマーに電話して空港へ伝えられていたものの、羽田空港駅について息切れしながら走ったものの、カウンターで「125便にのる○○ですがー!!」「残念ながら、もうドアは閉められました」<br /><br />( °Д°)………<br /><br />8年前、羽田発大阪行きの格安便を予約して乗り遅れたとき、振替はおろか返金もなかった。いまは素晴らしい!次の便に振り替えてくれ、宮古島行きの便はキャンセルで半額もどってきた。次の便にスーパーシートは満席だったらしいので、次の次の便をきいたら空いていたけど、規則で乗り遅れた客は原則次の便に乗せることになっているらしい。仕方なく普通席でいくことに。<br /><br />11:55 羽田空港 ANA127便は、沖縄へ向かった。<br />2階席は席が広かった!しかも隣がいないので、カナーリ快適☆<br />14:40沖縄到着。<br />時間があったので、明日帰るときに買ってかえる土産を物色していた。<br />8年ぶりに来た、沖縄。<br />空港は関空のように綺麗になり、モノレールも開通している。<br />その発展ぶりと、観光客の多さに、沖縄は発展してしまい、昔の沖縄は<br />残っていないのではないか?と、少し不安になっていた。<br /><br />沖縄の土産は、空港で買える。<br />空港の2階出発フロアはほとんど土産物のフロアといっても過言ではないぐらい、<br />あんなに広い土産物フロアがあるのは沖縄だけではなかろうか?<br /><br />おなかがすいていたので、<br />あらかじめリサーチしておいた、空港内にある沖縄料理レストランへ<br />そばを食べにいく。ここは美味しいと評判の店。<br />4階にある「天龍」<br /><br />レストラン街にあるので、色々目移りしながらもここへ。<br />ソーキソバセットを注文。<br /><br />肉が凄いボリューム!紅しょうがや、島とおがらしを入れて<br />味わう味わう。麺は本土にはない、熱帯の島らしくさっぱりと<br />脂っこくない黄色のやや太めのちぢれ麺。スープは、かつおがきいており、<br />なによりこの麺の上に乗った柔らかく煮込まれた肉塊が3つぐらい、<br />のっかっているのである。<br /><br />そば以外に、沖縄の炊き込みご飯ジューシィともずく、つけもの<br />などがついており、満腹!かなり口コミとおりでラッキー!と思いながら、<br />次はデザート♪と1階の「ぜんざい屋」へ。<br />ここも口コミでかなり美味しいと評判のかき氷のお店。<br />ゲプッと満腹で無理だったので、土産物探索に2時間も空港をうろついた。<br /><br />お店によって値段が違っていたりする。とくに果物は、<br />わしたショップなどのほうが安い。現地スーパー価格並みだ。<br />私は帰りにパッションフルーツを300円ぐらいで買ったきが。<br /><br />色々試食しまくって、結局明日買うしーと何も買わず<br />宮古島へ向かう。夜便だから、空から綺麗な海も見えず20時過ぎ、沖縄帰還。<br /><br />本日泊まるホテルは、メルパルク沖縄。<br />郵政民営化で、赤字のため3月いっぱいで閉鎖される公営のホテル。<br />沖縄は沢山ホテルがあって、第一希望のリブレガーデンが満室で<br />ほかも調べまくったけど、どこも微妙で、当日やっと決心して<br />ここに決めた。じゃらんの口コミですごく評価がよかったから。<br />案の定、評価は本当に当たっていた!!!!<br /><br />空港からゆいレールに乗り、終点「首里駅」まで30分。<br />降りてから、沖縄バス100円でホテルに向かうが、<br />21時台が最終だったので焦るけど、全然間に合った。<br />「都ホテル前」で下車。降りてから、むかって右側へ数十メートル歩くと<br />すぐにホテルが見えてきた。チェックインをして、部屋へ向かう。<br />一番端っこのシングルルームで、隣は非常階段だったので、<br />もの凄く静かで、本当に心底疲れがとれた。<br />アメニティもゆかたまであって、十分すぎるほど十分。そして<br />清潔。ホテルオークラぐらい清潔。快適でした。あれで3900円。安すぎる!!<br /><br />爆睡して翌朝、朝食がついていたので、ご飯をたべに1階へ。<br />あとからしったが、ここのホテル部屋が2、30室しかないのねw<br />都ホテルの横にあるし、なにより首里城を観光するひとにとっては<br />この立地条件と、この部屋の内容、フロントの人も親切で<br />ここはまたリピートしたい!と思わせるホテル。<br /><br />朝食は、3種類から選べて、私は「ゆし豆腐定食」を選択。<br />これも評判がよかったので、どきどき。<br />ゆし豆腐は、豚のだしがきいたスープにおぼろ豆腐がはいったものだった。私は朝から肉の匂いがきつかったので、胡椒をいれたらすっごく美味になり、<br />ガツガツ食べた。もずくが、シークワーサァーの味がして<br />持って帰りたいぐらい美味しかった。忘れられん。<br />ご飯も炊きたてで本当に美味しい。口コミではここのウエイトレスのおばさんが<br />優しい人らしいが、混んでいて忙しそうだったので、その場をあとにして<br />チェックアウト。<br /><br />今日わたしは東京へ帰る。本当はもう帰りたくなっていた。<br />雨がふっていて、沖縄を観光するきがなくなったから。でもどうしても<br />行きたい場所があった。<br /><br />旧海軍司令壕跡<br /><br />フロントの人に聞くと、バスで1本でいけるという。<br />ホテルをでて、2、3分あるいたところにあるバス停で、<br />46番のバスを15分待った。<br />沖縄は寒かった。<br /><br />バスで豊見城公園までいく。そこから徒歩15分で着く。<br />雨はすごい降りだし、まさに豪雨。<br />着いたけど、この雨の中歩く気がせずタクシーをひろってむかった。<br />徒歩15分っていうか、徒歩30分ぐらいの長さに感じられた。<br />車内のラジオで、那覇に大雨洪水警報がでていることを知った。<br />うんわる!私!!!(T▽T)<br /><br />タクシーの運転手さんはすごく優しくて、<br />雨が降っているから、入り口のぎりぎりまでつけてくれ、<br />財布を探していると、「あせらんでいいよー」ゆっくり探しなさいと<br />声をかけてくれ、ありがとうといってタクシーを降りた。<br /><br />おもっていたより、建物がそこにはあった。<br />公園のなかに、建物がある。<br />これが旧海軍司令壕跡か?<br /><br />内部には、想像していたより人が沢山いた。<br />ツアーのひとや、個人できている観光客。<br />私のようなひとりものは、いなかった。<br /><br />だからか?<br />チケットを買うとき「お二人ですか?」と聞かれ<br />「ハ?」とおもった。よく幽霊がついていたら喫茶店で<br />水を二つだされたとか、そういうたぐいの怖さかとおもったが、<br />私には日本兵がついているきがするので、全然不思議はないにゃーとおもいながら<br /><br />博物館をさきにみるか?<br />壕にはいってから、博物館をみるか?<br /><br />迷った末、先に沖縄でなにがあったのか?知ることにした。<br />高校の修学旅行は、ここ沖縄だった。<br />ひめゆりの塔もいった、平和記念公園もいった、なのに沖縄戦の<br />詳細はおろか、なにが本当にあったのか?知らない。<br />沖縄といえば、青い海、晴れた空、ゆったりとした時間の流れ、人々の明るさ、<br />そんな旅行会社が宣伝文句につかう沖縄のイメージしかなかった。<br />だから、本当はなにがあったのか?<br />知りたかった。<br /><br />映画「硫黄島からの手紙」をみて、日本で地上戦があったのは沖縄だけではないことを知った。では、沖縄はどうだったのか?沖縄へいってみよう。そうおもい、計画した旅だった。あの硫黄島での戦いを終え、アメリカが次に向かったのは沖縄だった。硫黄島から一週間後、沖縄という島の周りには数えきれない米軍戦艦があり、上陸してきたとき、沖縄のひとたちは、本土の日本兵に協力し、みんな一丸となって戦った。兵士は沖縄のひとたちを盾にし、スパイ疑惑で虐殺した時期もあった。<br />沖縄という島は、悲惨な歴史の上に成り立っている。<br />そしていまも米軍がいる。<br /><br />博物館は、私にとって初めて沖縄で何があったのかを知るのに最適な方法で、<br />展示されていた。言葉につまった。<br />みんな本当に知っているのだろか?<br />沖縄であったことを。<br /><br />沖縄戦の写真が多数展示されており、どんな作戦をたて、実行したか<br />つまり沖縄戦について、時間を経過するごとにわかる展示方法になっている。<br />当時の手記も残されていて、読むことができる。<br />一文一文、同じ日本人として、日本語を通して<br />確実に伝わる。これは象形文字でもなく、現代文字だ。わずか数十年前に起きた出来事なのだ。<br />観光客の中にいたおばさんは「ひどい。。」と声をあげているひともいたが、<br />あの狭い空間にあれだけの人がいたのに、とても静かだった。<br />みな、見入っていた。<br />音はでないものの、沖縄戦の映像が流れていた。<br />米軍が撮影されたものだとおもわれる。<br />BGMは、沖縄の三線の演奏。<br />沖縄とは、明るさのイメージの根底に、この悲惨な歴史がある場所なのだ。<br /><br />館内は博物館といいながらも、一部屋。<br />一部屋にすべてが展示されている。<br />そこには遺品も沢山展示されていた。<br />硫黄島からの手紙のように、父親が家族にあてた手紙が<br />公開されている。達筆だが、日本語だから読むことができる。<br /><br />心に響いた。<br />その人の感情が私にも伝わってきて、震えた。家族を想う文ではなく、穴を掘っていたらある人がそこに落ちてしまい、みんなで大笑いしたんですよと、子供に宛てた手紙に書いてあった文章だ。<br />こんなささいな出来事を、いま、私たちはメールというツールで書くだろうか?<br />便利になったいま、相手に伝える情報も偏ってきているのかもしれないとおもった。<br />お父さんは最近こういった出来事で笑いました。<br />自分の過去におきた感情を子供に、家族に、元気ですというメッセージとともに伝える。手紙は人間らしい感情を伝えるツールだと再認識した。<br />その筆跡から、元気なのか、精神状態まで読み取れるのだから。<br /><br />博物館をあとにし、いよいよ壕へ。<br />発見された当初、こんな建物のなかに入り口はなかった。あたりまえだけど。<br />山中のどこかにひっそりとある、そんなかんじだったとおもう。<br /><br />入り口には、両端にビッシリと折り鶴が飾られていた。<br />ここで4000人もの兵士が命をたった。<br />いまも約2000人の兵士が眠っている。<br /><br />公開されているのは275メートル。<br />実際は400メートルぐらいあるが、危険を伴うため遺骨は回収されていない。<br />だから公開もされていない。そのままの状態だ。<br /><br />深い穴がある。階段で降りていく。深さは30メートル。<br />すべて、沖縄の人々がおのみたいなスコップみたいなもので掘った。<br />機械などない。手作り。入って、手作りということに、まず驚かされる。<br />そして、ここが硫黄島とほぼ同時期に掘られた壕であることを感じながら<br />降りていった。<br /><br />そこは湿っていた。ものすごく湿っていて、暗く、どんよりしている。<br />空気が。<br />幸い、私がいったときは観光客が多めだったので<br />怖さはあまり感じなかったが、一人でいたらとおもうと、震える。ありえない。<br />子供が「こわい」と泣いていた。当然だ。ここはフランスのカタコンブ。<br />墓場なのだから。<br />薄暗い壕の中は、暗号室、司令官室、作戦をたてる部屋などの部屋があり、それらが壕でつながっていて、まるで迷路のように複雑になっている。<br />その通路には当時の状況を伝える絵があり、<br />ここでわずか60年前、悲惨な地獄だったことを感じさせられる。<br />観光客用に、舗装されているとはいえ、ここは第二次世界大戦のままだ。<br />わたしはこんなに戦争を近くに感じたことはない。<br /><br />これが手作りでつくられたということと、<br />60年たったいま、私たちが平和な暮らしをし、毎日働きながらも<br />日々小さな幸せや趣味があり、不幸でも幸福でもない生活を送り、<br />今回沖縄へ飛行機で飛んできて、美味しいものを食べて、、これらが<br />すべて不自然に感じられるほど、悲惨な歴史が生き続けていた。<br />ここにきてよかった。よいという言葉はよろしくない。<br />なぜ修学旅行でここにこなかったのか、と思うと虚しい。<br /><br />館内から外を見ると、まだ雨が降り続いていた。<br />帰りは空港まで向かうだけだから、適当に歩いてバスかタクシーをひろおうとおもい、ブラブラ歩き出した。公園内に沢山、お墓があった。<br />琉球。同じ日本でありながらも台湾のような変わった歴史を持つ、沖縄。<br />そのお墓も実に変わっている。<br /><br />タクシーが来たので、空港へむかった。<br />14時ぐらいのことだった。<br />20時の便だったけど、15時半発の便があったので変更してもらい、<br />スーパーシートがあいていたので追加料金で座ることができた。<br />国際線のアジア線でビジネスクラスに乗るとおもえば、5000円は安い。<br /><br />沖縄のA&amp;Wバーガーでがっつき、リサーチ済みの土産物やを回った。<br />ちょうど真ん中らへんにある琉球民芸センターのすえひろさんという<br />おばさんが、もう今日帰るの?ちんすこうすきでしょ?といっぱい袋にちんすこうを<br />つめて持たせてくれた。信じられなかった。おばちゃんは「また沖縄きてね」といってくれた。いっぱいありがとう。<br />きっと沖縄へひとりなんて、めずらしくて寂しくみえたんだわー。<br /><br />沢山のお土産とともに、沖縄を知った旅だった。<br />沖縄のおばあたちが、米軍の捕虜になっている姿が忘れられない。<br />沖縄に深い愛着が増した旅だった。今度は誰かと行こう。

硫黄島から沖縄戦を知った旅。

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2007/01/20 - 2007/01/21

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lonparis

lonparisさん

写真は首里(城)にひるがえる星条旗――狙撃される危険がありながら首里(城)の胸壁に米国旗を立てるR・P・ロス(海兵隊)中佐。この第1海兵師団の旗はグロスター岬(マサチュウセッツ州)とペリリュ―島に初めて掲げられた旗である。この金属の旗竿は日本軍が使用していたもので、米軍の弾痕がある
撮影:沖縄県那覇市首里 1945年 5月
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2007年1月20日(土)、ANA125便 羽田空港10:40発の飛行機でわたしは沖縄へ向かうため、京急に乗っていた、ときに気がついた。

飛行機は10:20発であることを。

ANAカスタマーに電話して空港へ伝えられていたものの、羽田空港駅について息切れしながら走ったものの、カウンターで「125便にのる○○ですがー!!」「残念ながら、もうドアは閉められました」

( °Д°)………

8年前、羽田発大阪行きの格安便を予約して乗り遅れたとき、振替はおろか返金もなかった。いまは素晴らしい!次の便に振り替えてくれ、宮古島行きの便はキャンセルで半額もどってきた。次の便にスーパーシートは満席だったらしいので、次の次の便をきいたら空いていたけど、規則で乗り遅れた客は原則次の便に乗せることになっているらしい。仕方なく普通席でいくことに。

11:55 羽田空港 ANA127便は、沖縄へ向かった。
2階席は席が広かった!しかも隣がいないので、カナーリ快適☆
14:40沖縄到着。
時間があったので、明日帰るときに買ってかえる土産を物色していた。
8年ぶりに来た、沖縄。
空港は関空のように綺麗になり、モノレールも開通している。
その発展ぶりと、観光客の多さに、沖縄は発展してしまい、昔の沖縄は
残っていないのではないか?と、少し不安になっていた。

沖縄の土産は、空港で買える。
空港の2階出発フロアはほとんど土産物のフロアといっても過言ではないぐらい、
あんなに広い土産物フロアがあるのは沖縄だけではなかろうか?

おなかがすいていたので、
あらかじめリサーチしておいた、空港内にある沖縄料理レストランへ
そばを食べにいく。ここは美味しいと評判の店。
4階にある「天龍」

レストラン街にあるので、色々目移りしながらもここへ。
ソーキソバセットを注文。

肉が凄いボリューム!紅しょうがや、島とおがらしを入れて
味わう味わう。麺は本土にはない、熱帯の島らしくさっぱりと
脂っこくない黄色のやや太めのちぢれ麺。スープは、かつおがきいており、
なによりこの麺の上に乗った柔らかく煮込まれた肉塊が3つぐらい、
のっかっているのである。

そば以外に、沖縄の炊き込みご飯ジューシィともずく、つけもの
などがついており、満腹!かなり口コミとおりでラッキー!と思いながら、
次はデザート♪と1階の「ぜんざい屋」へ。
ここも口コミでかなり美味しいと評判のかき氷のお店。
ゲプッと満腹で無理だったので、土産物探索に2時間も空港をうろついた。

お店によって値段が違っていたりする。とくに果物は、
わしたショップなどのほうが安い。現地スーパー価格並みだ。
私は帰りにパッションフルーツを300円ぐらいで買ったきが。

色々試食しまくって、結局明日買うしーと何も買わず
宮古島へ向かう。夜便だから、空から綺麗な海も見えず20時過ぎ、沖縄帰還。

本日泊まるホテルは、メルパルク沖縄。
郵政民営化で、赤字のため3月いっぱいで閉鎖される公営のホテル。
沖縄は沢山ホテルがあって、第一希望のリブレガーデンが満室で
ほかも調べまくったけど、どこも微妙で、当日やっと決心して
ここに決めた。じゃらんの口コミですごく評価がよかったから。
案の定、評価は本当に当たっていた!!!!

空港からゆいレールに乗り、終点「首里駅」まで30分。
降りてから、沖縄バス100円でホテルに向かうが、
21時台が最終だったので焦るけど、全然間に合った。
「都ホテル前」で下車。降りてから、むかって右側へ数十メートル歩くと
すぐにホテルが見えてきた。チェックインをして、部屋へ向かう。
一番端っこのシングルルームで、隣は非常階段だったので、
もの凄く静かで、本当に心底疲れがとれた。
アメニティもゆかたまであって、十分すぎるほど十分。そして
清潔。ホテルオークラぐらい清潔。快適でした。あれで3900円。安すぎる!!

爆睡して翌朝、朝食がついていたので、ご飯をたべに1階へ。
あとからしったが、ここのホテル部屋が2、30室しかないのねw
都ホテルの横にあるし、なにより首里城を観光するひとにとっては
この立地条件と、この部屋の内容、フロントの人も親切で
ここはまたリピートしたい!と思わせるホテル。

朝食は、3種類から選べて、私は「ゆし豆腐定食」を選択。
これも評判がよかったので、どきどき。
ゆし豆腐は、豚のだしがきいたスープにおぼろ豆腐がはいったものだった。私は朝から肉の匂いがきつかったので、胡椒をいれたらすっごく美味になり、
ガツガツ食べた。もずくが、シークワーサァーの味がして
持って帰りたいぐらい美味しかった。忘れられん。
ご飯も炊きたてで本当に美味しい。口コミではここのウエイトレスのおばさんが
優しい人らしいが、混んでいて忙しそうだったので、その場をあとにして
チェックアウト。

今日わたしは東京へ帰る。本当はもう帰りたくなっていた。
雨がふっていて、沖縄を観光するきがなくなったから。でもどうしても
行きたい場所があった。

旧海軍司令壕跡

フロントの人に聞くと、バスで1本でいけるという。
ホテルをでて、2、3分あるいたところにあるバス停で、
46番のバスを15分待った。
沖縄は寒かった。

バスで豊見城公園までいく。そこから徒歩15分で着く。
雨はすごい降りだし、まさに豪雨。
着いたけど、この雨の中歩く気がせずタクシーをひろってむかった。
徒歩15分っていうか、徒歩30分ぐらいの長さに感じられた。
車内のラジオで、那覇に大雨洪水警報がでていることを知った。
うんわる!私!!!(T▽T)

タクシーの運転手さんはすごく優しくて、
雨が降っているから、入り口のぎりぎりまでつけてくれ、
財布を探していると、「あせらんでいいよー」ゆっくり探しなさいと
声をかけてくれ、ありがとうといってタクシーを降りた。

おもっていたより、建物がそこにはあった。
公園のなかに、建物がある。
これが旧海軍司令壕跡か?

内部には、想像していたより人が沢山いた。
ツアーのひとや、個人できている観光客。
私のようなひとりものは、いなかった。

だからか?
チケットを買うとき「お二人ですか?」と聞かれ
「ハ?」とおもった。よく幽霊がついていたら喫茶店で
水を二つだされたとか、そういうたぐいの怖さかとおもったが、
私には日本兵がついているきがするので、全然不思議はないにゃーとおもいながら

博物館をさきにみるか?
壕にはいってから、博物館をみるか?

迷った末、先に沖縄でなにがあったのか?知ることにした。
高校の修学旅行は、ここ沖縄だった。
ひめゆりの塔もいった、平和記念公園もいった、なのに沖縄戦の
詳細はおろか、なにが本当にあったのか?知らない。
沖縄といえば、青い海、晴れた空、ゆったりとした時間の流れ、人々の明るさ、
そんな旅行会社が宣伝文句につかう沖縄のイメージしかなかった。
だから、本当はなにがあったのか?
知りたかった。

映画「硫黄島からの手紙」をみて、日本で地上戦があったのは沖縄だけではないことを知った。では、沖縄はどうだったのか?沖縄へいってみよう。そうおもい、計画した旅だった。あの硫黄島での戦いを終え、アメリカが次に向かったのは沖縄だった。硫黄島から一週間後、沖縄という島の周りには数えきれない米軍戦艦があり、上陸してきたとき、沖縄のひとたちは、本土の日本兵に協力し、みんな一丸となって戦った。兵士は沖縄のひとたちを盾にし、スパイ疑惑で虐殺した時期もあった。
沖縄という島は、悲惨な歴史の上に成り立っている。
そしていまも米軍がいる。

博物館は、私にとって初めて沖縄で何があったのかを知るのに最適な方法で、
展示されていた。言葉につまった。
みんな本当に知っているのだろか?
沖縄であったことを。

沖縄戦の写真が多数展示されており、どんな作戦をたて、実行したか
つまり沖縄戦について、時間を経過するごとにわかる展示方法になっている。
当時の手記も残されていて、読むことができる。
一文一文、同じ日本人として、日本語を通して
確実に伝わる。これは象形文字でもなく、現代文字だ。わずか数十年前に起きた出来事なのだ。
観光客の中にいたおばさんは「ひどい。。」と声をあげているひともいたが、
あの狭い空間にあれだけの人がいたのに、とても静かだった。
みな、見入っていた。
音はでないものの、沖縄戦の映像が流れていた。
米軍が撮影されたものだとおもわれる。
BGMは、沖縄の三線の演奏。
沖縄とは、明るさのイメージの根底に、この悲惨な歴史がある場所なのだ。

館内は博物館といいながらも、一部屋。
一部屋にすべてが展示されている。
そこには遺品も沢山展示されていた。
硫黄島からの手紙のように、父親が家族にあてた手紙が
公開されている。達筆だが、日本語だから読むことができる。

心に響いた。
その人の感情が私にも伝わってきて、震えた。家族を想う文ではなく、穴を掘っていたらある人がそこに落ちてしまい、みんなで大笑いしたんですよと、子供に宛てた手紙に書いてあった文章だ。
こんなささいな出来事を、いま、私たちはメールというツールで書くだろうか?
便利になったいま、相手に伝える情報も偏ってきているのかもしれないとおもった。
お父さんは最近こういった出来事で笑いました。
自分の過去におきた感情を子供に、家族に、元気ですというメッセージとともに伝える。手紙は人間らしい感情を伝えるツールだと再認識した。
その筆跡から、元気なのか、精神状態まで読み取れるのだから。

博物館をあとにし、いよいよ壕へ。
発見された当初、こんな建物のなかに入り口はなかった。あたりまえだけど。
山中のどこかにひっそりとある、そんなかんじだったとおもう。

入り口には、両端にビッシリと折り鶴が飾られていた。
ここで4000人もの兵士が命をたった。
いまも約2000人の兵士が眠っている。

公開されているのは275メートル。
実際は400メートルぐらいあるが、危険を伴うため遺骨は回収されていない。
だから公開もされていない。そのままの状態だ。

深い穴がある。階段で降りていく。深さは30メートル。
すべて、沖縄の人々がおのみたいなスコップみたいなもので掘った。
機械などない。手作り。入って、手作りということに、まず驚かされる。
そして、ここが硫黄島とほぼ同時期に掘られた壕であることを感じながら
降りていった。

そこは湿っていた。ものすごく湿っていて、暗く、どんよりしている。
空気が。
幸い、私がいったときは観光客が多めだったので
怖さはあまり感じなかったが、一人でいたらとおもうと、震える。ありえない。
子供が「こわい」と泣いていた。当然だ。ここはフランスのカタコンブ。
墓場なのだから。
薄暗い壕の中は、暗号室、司令官室、作戦をたてる部屋などの部屋があり、それらが壕でつながっていて、まるで迷路のように複雑になっている。
その通路には当時の状況を伝える絵があり、
ここでわずか60年前、悲惨な地獄だったことを感じさせられる。
観光客用に、舗装されているとはいえ、ここは第二次世界大戦のままだ。
わたしはこんなに戦争を近くに感じたことはない。

これが手作りでつくられたということと、
60年たったいま、私たちが平和な暮らしをし、毎日働きながらも
日々小さな幸せや趣味があり、不幸でも幸福でもない生活を送り、
今回沖縄へ飛行機で飛んできて、美味しいものを食べて、、これらが
すべて不自然に感じられるほど、悲惨な歴史が生き続けていた。
ここにきてよかった。よいという言葉はよろしくない。
なぜ修学旅行でここにこなかったのか、と思うと虚しい。

館内から外を見ると、まだ雨が降り続いていた。
帰りは空港まで向かうだけだから、適当に歩いてバスかタクシーをひろおうとおもい、ブラブラ歩き出した。公園内に沢山、お墓があった。
琉球。同じ日本でありながらも台湾のような変わった歴史を持つ、沖縄。
そのお墓も実に変わっている。

タクシーが来たので、空港へむかった。
14時ぐらいのことだった。
20時の便だったけど、15時半発の便があったので変更してもらい、
スーパーシートがあいていたので追加料金で座ることができた。
国際線のアジア線でビジネスクラスに乗るとおもえば、5000円は安い。

沖縄のA&Wバーガーでがっつき、リサーチ済みの土産物やを回った。
ちょうど真ん中らへんにある琉球民芸センターのすえひろさんという
おばさんが、もう今日帰るの?ちんすこうすきでしょ?といっぱい袋にちんすこうを
つめて持たせてくれた。信じられなかった。おばちゃんは「また沖縄きてね」といってくれた。いっぱいありがとう。
きっと沖縄へひとりなんて、めずらしくて寂しくみえたんだわー。

沢山のお土産とともに、沖縄を知った旅だった。
沖縄のおばあたちが、米軍の捕虜になっている姿が忘れられない。
沖縄に深い愛着が増した旅だった。今度は誰かと行こう。

同行者
一人旅
一人あたり費用
3万円 - 5万円
交通手段
ANAグループ
  • 沖縄は大雨洪水警報がでていた。海軍壕公園からの眺望。

    沖縄は大雨洪水警報がでていた。海軍壕公園からの眺望。

  • 博物館の入場口。<br />自決前の大田実中将の電文が出迎える。<br /><br />電文では最後に「………沖縄県民はこのように戦った。県民に対し、後世、特別のご配慮をしていただくことを願う。」と太田実は電文で締めくくっている。<br /><br />これを受け、故小渕首相は主要国首脳会議で、開催地を沖縄を選んだ。沖縄サミットである。二千円札に首里門があるほど、小渕首相は沖縄を愛していた。

    博物館の入場口。
    自決前の大田実中将の電文が出迎える。

    電文では最後に「………沖縄県民はこのように戦った。県民に対し、後世、特別のご配慮をしていただくことを願う。」と太田実は電文で締めくくっている。

    これを受け、故小渕首相は主要国首脳会議で、開催地を沖縄を選んだ。沖縄サミットである。二千円札に首里門があるほど、小渕首相は沖縄を愛していた。

  • 遺品が数多く、展示されている。父親が家族にあてた手紙を公開している。

    遺品が数多く、展示されている。父親が家族にあてた手紙を公開している。

  • 少年兵の死体。爆弾を背負い、体中に弾痕が見える。爆弾を背負い敵陣に乗り込んでいく肉弾。澄んだ青い空の真下で、20万人が消えていった。

    少年兵の死体。爆弾を背負い、体中に弾痕が見える。爆弾を背負い敵陣に乗り込んでいく肉弾。澄んだ青い空の真下で、20万人が消えていった。

  • 硫黄島と同じように、米軍は火炎放射器で沖縄にあるいくつもの壕を焼き尽くし、&quot;鉄の暴風&quot;といわれるほどの爆撃で、歴史と自然豊かな沖縄を焼け野原にした。

    硫黄島と同じように、米軍は火炎放射器で沖縄にあるいくつもの壕を焼き尽くし、"鉄の暴風"といわれるほどの爆撃で、歴史と自然豊かな沖縄を焼け野原にした。

  • 壕に攻め込んでいく米軍。

    壕に攻め込んでいく米軍。

  • シーサーに隠れながら、日本軍の様子を伺う米軍兵士たち。

    シーサーに隠れながら、日本軍の様子を伺う米軍兵士たち。

  • 約4,000人の兵士が最期を遂げた壕へ入っていく。

    約4,000人の兵士が最期を遂げた壕へ入っていく。

  • 105段、30メートルほどの階段を降りると、通路が縦横に張り巡らされた壕内へでる。

    105段、30メートルほどの階段を降りると、通路が縦横に張り巡らされた壕内へでる。

  • 手製の道具を使い、手で掘った。<br />その時代に生きた人の辛苦が伝わってくる。<br />湿っていて、コケがはえている。

    手製の道具を使い、手で掘った。
    その時代に生きた人の辛苦が伝わってくる。
    湿っていて、コケがはえている。

  • 当時迫り来る米軍の前に、観念した将が、手榴弾で自決したときの痕が残っている。床には生々しく、血痕が染み付いていた。

    当時迫り来る米軍の前に、観念した将が、手榴弾で自決したときの痕が残っている。床には生々しく、血痕が染み付いていた。

  • この奥には、まだ2000人もの兵士が眠っている。

    この奥には、まだ2000人もの兵士が眠っている。

  • 沖縄にはこういった壕が数多くあり、公開されているものは少ない。

    沖縄にはこういった壕が数多くあり、公開されているものは少ない。

  • 米軍が攻め込んできたときの様子。

    米軍が攻め込んできたときの様子。

  • ここから戦いに出て行った。戻ってくるものはいなかったという。<br /><br />【沖縄戦による全戦没者数:2,000,656人】<br />○日本側 188,136名<br />他都道府県出身(軍人)65,908名<br />沖縄県出身(軍人)28,228名<br />沖縄県出身(戦闘参加者)56,861名<br />一般沖縄県民(推計)37,139名<br />○米軍側 12,520名<br /><br />【米軍が使用した砲弾:2,716,691発】<br />(1945年4月1日〜6月30日)<br />※当時の沖縄県民人口に対し、1人4.75発砲弾を使用していたことになる。<br /><br />【沖縄県内不発弾処理実績:1,178,869発】<br />【旧海軍壕遺骨収用作業状況:約2,400人】

    ここから戦いに出て行った。戻ってくるものはいなかったという。

    【沖縄戦による全戦没者数:2,000,656人】
    ○日本側 188,136名
    他都道府県出身(軍人)65,908名
    沖縄県出身(軍人)28,228名
    沖縄県出身(戦闘参加者)56,861名
    一般沖縄県民(推計)37,139名
    ○米軍側 12,520名

    【米軍が使用した砲弾:2,716,691発】
    (1945年4月1日〜6月30日)
    ※当時の沖縄県民人口に対し、1人4.75発砲弾を使用していたことになる。

    【沖縄県内不発弾処理実績:1,178,869発】
    【旧海軍壕遺骨収用作業状況:約2,400人】

  • 出発前の那覇空港。<br /><br />翌日、沖縄は観光客一億人を突破した。

    出発前の那覇空港。

    翌日、沖縄は観光客一億人を突破した。

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