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<br />東海道新幹線の仕事をやるべく、東北の山奥から東京に赴任したのは、1960年(昭和35年)の春のことだった。<br /><br />私が着任したときの東海道新幹線は、予算がないだけでなく、まだ技術的に検討しきれていない分野も、たくさん残っていた。<br /><br />目だった問題としては、まず「パンタグラフの離線」である。<br />電車が高速で走るためには、たくさんのエネルギーを取り込まなければならない。<br /><br />このエネルギーは、線路の上に張った電線(架線)を通じて、電車の上に取り付けられたパンタグラフから、モーターに取り込まれる。<br /><br />だが、電線にいかに多くの電流を流しても、それが電車のモーターに達しない限り、エネルギーを与えたことにはならないのだ。<br /><br />電車のスピードが速くなると、架線とパンタグラフの動きがばらばらになり、うまく集電が出来なくなる。<br /><br />もうひとつ問題だったのが、電車の蛇行動だった。<br />電車のスピードが160キロを越えると、電車を支える台車が急に激しく蛇行を始める。<br />それをいかにすれば、止めることが出来るかの問題なのだ。<br /><br />翌1961年初夏に、私はフランス政府給費留学で、パリに出発するが、そのころには国会も通って予算もつくようになり、技術的な基本問題も解決されて、前進が始まっていた。<br /><br />しかしそれから解決さるべき用地買収の困難さを考えるとき、1964年のオリンピックまでの開業は至難と考えられていた。<br /><br />当事者の私でさえ、そう思っていたのである。<br />

片瀬貴文の日記【07.01.14】東海道新幹線は東京オリンピックには間に合わないと考えられていた

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2007/01/14 - 2007/01/14

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ソフィ

ソフィさん


東海道新幹線の仕事をやるべく、東北の山奥から東京に赴任したのは、1960年(昭和35年)の春のことだった。

私が着任したときの東海道新幹線は、予算がないだけでなく、まだ技術的に検討しきれていない分野も、たくさん残っていた。

目だった問題としては、まず「パンタグラフの離線」である。
電車が高速で走るためには、たくさんのエネルギーを取り込まなければならない。

このエネルギーは、線路の上に張った電線(架線)を通じて、電車の上に取り付けられたパンタグラフから、モーターに取り込まれる。

だが、電線にいかに多くの電流を流しても、それが電車のモーターに達しない限り、エネルギーを与えたことにはならないのだ。

電車のスピードが速くなると、架線とパンタグラフの動きがばらばらになり、うまく集電が出来なくなる。

もうひとつ問題だったのが、電車の蛇行動だった。
電車のスピードが160キロを越えると、電車を支える台車が急に激しく蛇行を始める。
それをいかにすれば、止めることが出来るかの問題なのだ。

翌1961年初夏に、私はフランス政府給費留学で、パリに出発するが、そのころには国会も通って予算もつくようになり、技術的な基本問題も解決されて、前進が始まっていた。

しかしそれから解決さるべき用地買収の困難さを考えるとき、1964年のオリンピックまでの開業は至難と考えられていた。

当事者の私でさえ、そう思っていたのである。

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