2002/09/20 - 2002/10/05
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ハイペリオンさん
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2002年9月、僕は7回目のベトナム訪問に出た。今回の目的は、中南部の港町クイニョン近郊に点在する、チャンパ王国の遺跡を訪ねることだった。
チャンパ王国とは、2世紀から17世紀にかけて、ベトナム中南部に興亡した海洋交易国家のことである。履修問題で揺れる高校の世界史の教科書には、アジア史の最後にほんの数行、ついでのように触れられている程度である。まるで、幕の内弁当の漬物のような扱いだ。しかし、この王国は、アジア史の中でも軽い扱いを受けるような存在ではないことは確かだ。
チャンパ王国を作った民族はチャム族と言い、オーストロネシア系に属し、一般的なベトナム人とは全く異なった顔立ちをしている。サイゴンから約100キロ北上したところにあるファンティエット近郊には彼らの集落があるが、まるでアフリカ人と見紛うほど真っ黒で、頭にはターバンを巻いている。
2世紀末、ベトナム中部に日南郡を置き、ここを支配した中国の漢は、その南にある国を林邑と呼んだ。これが7世紀の碑文で自らをチャンパと名乗った王国が、東アジア史に名を刻んだ最初の記録である。しかし、この王国の形態は我々がイメージしがちな中央集権的な王国とは若干異なっており、各地方の小王国の連合体であると考えられている。
チャンパは海洋交易王国で、インドと中国を結ぶ交易ルートの中継地として栄えた。チャンパと同時期にインドネシアに興ったシュリーヴィジャヤもチャンパ同様、各港湾都市を統治していた小王国の連合体であると考えられている。
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-
チャンパの中心は、当初は北緯17度線より少し南下したところにあった。現在のフエとダナンの中間あたりである。首都はインドラプラと称し、そこから内陸に入った渓谷部に宗教的聖地ミーソンを置いていた。僕が訪れたクイニョン周辺の遺跡は、10世紀以降に建てられたもので、北部に興ったベト族(現在のベトナム人)の王朝の南進によって南への遷都余儀なくされた王国が建てたものである。
この時代のベト族の王朝は、王位継承の抗争を王の死後、儀式のように繰り返していたが、儒教的世襲交替制を摂り入れることで集権的国家組織を作り上げ、政治的安定が実現した。また、紅河デルタ(ハノイ周辺)の急激な人口増加による経済発展がベト族の南下にいっそう拍車をかけた。
北部ベト族の膨張によってチャンパ王国は次第に圧迫される形となっていったわけだが、彼らとてただ押されまくっていたわけではなかった。散発的ではあるものの、周辺諸国へ打って出る力を有していたのだ。
1177年には隣国カンボジアのクメール帝国の王都アンコールを攻撃し、破壊した。このときのチャンパ水軍とアンコール軍との戦闘の模様は、アンコールワットの回廊のレリーフにも描かれている。また、14世紀には2度北部ベトナムの王国、大越国の首都昇龍(ハノイ)を焼き討ちにしてもいる。このように、敵対国に手ひどい打撃を与える力を持っていたのだが、チャンパの侵略は、占領地に軍を駐屯させ、その土地の住民に対して同化政策を行なったり、同胞を入植させるといった方法は採らず、専ら破壊と略奪に終始していた。ここら辺が海洋交易王国の限界と言えそうだ。 -
北部ベト族の王朝との勢力バランスが完全に崩れたのは14世紀後半である。中央集権国家としての体制整備した黎(れ)朝は、南進を再開し、当時のチャンパの首都であるヴィジャヤ以北を領土とした。黎朝の聖宗(タイトン)によって行なわれたこの時の対チャンパ戦争は、殲滅戦とも言うべき残酷なもので、王都ヴィジャヤの住民数万人を虐殺し、王を含む3万人を捕らえた。この戦争後、チャム族は東南アジア各地に流民として散らばり、ベトナムにおいては地方の小勢力としてその命脈を保つのが精一杯となってしまった。
(写真はファンティエットとムイネーの間にあるチャンパ遺跡ポーサヌ。チャンパ遺跡の南限である。) -
チャンパ王国の首都は、最初はインドラプラ、そして、クイニョン周辺に遷都後はヴィジャヤと呼ばれていた。名前から想像できるように、インド的な香りを感じ取られることだろう。そう、かれらは「海のシルクロード」を通じてインド文化を採り入れ、ヒンドゥー教を信仰していたのである。この国のことがまだよくわかっていなかった頃、インド人移民が作った国と考えられていたほどなのだ。しかし、8世紀頃真言密教が入ってくると、これも受け入れ、ヒンドゥー教と仏教の2つの要素が融合した宗教を生み出した。ただし、チャンパの遺跡で最大のものは仏教遺跡で、ダナンから65キロほど南下したところにあったドンジュオン遺跡は、仏教遺跡としてはアンコールワットも凌ぐ、東南アジア最大級と言われている。しかし、この遺跡は抗仏戦争の時に完全に破壊され、遺溝しか残されていない。
チャンパ王国は、東南アジア世界だけで完結した国のように思えてしまうが、実は意外なところで日本との接点を持っている。林邑楽という古代の楽舞はチャンパの仏僧が伝えたことからこの名が冠されたものであり、また、琉球の王族の女性が、チャンパ王国へ嫁いだという記録も残っている。海を通じて当時のアジも文化の往来が広い範囲で行なわれていたのである。
(写真はポーサヌ主祠堂の内部。祀られているのはリンガ[男根]。)
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この旅行記へのコメント (2)
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- がまだす@熊本さん 2006/12/08 09:54:35
- ハイペリオンさん、ご無沙汰しております。
- チャンパの旅を読ませて頂きました。
す、凄いですね、旅行記というよりもベトナムの歴史記。
ことこまく平易な文体でお書きになっており、ベトナムの歴史について何も知らなかった私ですけど一気に読めて勉強になりました。
旅とは不思議なものですね。
昨年ホーチミンからフエまで陸路で縦断しましたが、ベトナムの歴史なんて気にも留めず観光気分でサラ〜ッとラオス方面へ立ち去ったのです。
けれど、帰国後気になって4トラ皆さんの旅行記をしばし目にするようになり、少しずつ歴史・文化に興味を抱くようになっております。
今先き読ませて頂いたハイペリオンさんのチャンパ国の歴史ですけど、後々起るベトナム戦争の根底にある国民感情が、なあるほど分かるような気がします。
では、これからまた再読させていただきます。
- ハイペリオンさん からの返信 2006/12/08 12:46:15
- 旅行記、まだまだ続きます
- 書き込みありがとうございます。チャンパに関しては、何度か訪越を繰り返しているうちに興味を持ち、いろいろ本を読みました。クイニョン周辺のチャンパ遺跡はベトナム人にも外国人にも観光コースとはなっていないので、簡単にいける場所ではなく、それだけに価値のある場所だと思っています。バックパッカーにしかいけないような場所です。
「チャンパとは何か」は、長文だし、興味のない人には読みづらい部分があるとは思うのですが、ほとんど知られていないのできちんと解説しておくべきと考え、載せることにしました。丹念に読んでいただきありがとうございます。最近時間がなく、更新が滞っていますが、旅行記はまだ続きます。週一回くらい覗いていただければ更新されているかもしれません。これからもよろしくお願いします。
東京はどんよりした曇り空の日が多く、かなり寒いです。九州はいかがですか。こんな日は、即アジアの懐かしい街に飛びたいですね。
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