1976/02/17 - 1976/02/20
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koiさん
「友好の翼・京都府民友好訪中団」? 西安 1976.2.17〜2.20
西安では、始皇帝の陵墓「秦陵」、玄宗と楊貴妃のロマンスで有名な「華清池」、3000点もの逸品が展示されている「陜西歴史博物館」、三蔵法師ゆかりの塔「大雁塔」、「西城門」、鐘楼(車窓)なども観光しました。しかし20世紀の大発見、秦の始皇帝陵を守るために地下に作られた世界文化遺産の「兵馬俑博物館」は、まだそれほど重要視されていませんでした。
2/17午前 各班自由行動
午後 中国民航機で西安へ、空港にて熱烈歓迎
西安市革命委員会表敬訪問(団役員・俯市会議員)
大雁塔
夜 陝西省革命委員会福主任く会見(団役員、班長)
歓迎レセプション 於 人民大廈 人民大廈泊
2/18午前
2班 興慶公園、記念植樹→陝西省博物館
午後 華清池→半坡博物館
夜 革命的現代バレー「白毛女」観劇、
陝西省歌舞団→百貨店買物
2/19午前
1・5班 西安高圧硝子工場
2班 西北第一捺染工場
3班 紅旗腕時計工場、北京放送取材
4班 第一綿紡工場
6班 烽火生産大隊、北京放送取材
7班 小新村生産大隊
午後
1・2班 魚化寨人民公社
3班 西安計器工場
4班 西安高圧硝子工場
5班 国営第四綿紡工場
6・7班 鐘楼、西安人民ホーロー工場
夜 答謝宴会、体操、武術参観
2/20午前
文科座談会=教育.文化.衛生.都市.建設.労働.婦人の5分科
午後
1・5・6班 半坡博物館
2・3・4班 八路軍弁事処→鐘楼
7班 先発 中国民航機で上海へ
1〜6班 後発 中国民航機で上海へ
夜 和平飯店泊
私達が友好訪問した1976年当時の中国は、毛沢東が生存し四人組の江青女子が活躍していた時代で、北京大学の壁新聞が唯一の情報源とされ大学の校門に張り出された壁新聞に注目された時代でした。訪問先では、小中学生をはじめ人民公社などの人達から熱烈な歓迎を受け人民公社の村や各地の寺院それに史跡文物などを各班毎に分かれるなどして見学しました。夜は京劇等の観劇に毎夜招待されました。
特に中華料理のおいしさは、絶品で北京飯店より人民公社で頂いた中華料理の方が美味しかったです。各地で子供達の熱烈歓迎を受けるなど有意義な日中友好訪問でした。
※その模様は、京都新聞の記事として、またKBS京都テレビでは帰国後数回に分けて訪問団の代表がスタジオ出演し取材してきた16ミリのフィルムの映像を見ながら説明し放映されました。
当時は、まだNHKでも取材が許されていなくて画期的な放送でした。取材陣も大変苦労されたようで零下20度という悪条件のためカメラを耐寒処理して取材されたようです。当時はまだフィルムの時代でしたので室内はASA400という好感度フィルムを使用しDRというカメラで撮影し、屋外はASA100というフィルムを使用してアリフレックスというズームレンズ付きの16ミリムービーカメラで取材されました。
スタッフによると当時は、現地の放送局カメラマンと通訳がぴったり着かれ「日中友好で来られたので・・・」と言うことで良いところしか撮らせてもらえなかったように聞いています。
※私は、この訪中をきっかけに2000年前後から現在にかけて数度にわたり中国の各地を継続訪問しています。
【追加】2001年に西安を訪問して「中国の変化について」
中国の変化は凄い。まさに加速度的な変化です。はじめて中国を訪問した三十数年前とは天地の変わりようです。三十年も経てば変化するのも当然ですが、ここ数年間の激変ぶりは、建物や高速道路それにコンビニなど当惑せざるをえない状態となりました。1976年の当時は、人民公社で働く人達や町にいた人達が人民服をみんなが来ていました。しかし、現在は、日本人と変わらない生活をしていて全く資本主義そのものになりました。
日中友好万歳!
日中両国人民の団結と友好万歳!
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- 同行者
- その他
- 一人あたり費用
- 25万円 - 30万円
- 旅行の手配内容
- ツアー(添乗員同行あり)
-
「友好の翼・京都府民友好訪中団」(団長に依田義賢・117名)は、1976年2月13日から2週間にわたり北京、西安、上海、杭州、蘇州の各地を友好訪問。
西安での植樹記念写真
西安は昔、長安と呼ばれ、中国関中平原の中部に位置し、北に渭水が東西方向に流れ、南は秦嶺山脈が東西に走っている。総面積は9983平方キロ、総人口は約700万人、そのうち市街地の人口は約300万人である。
中国と日本は隣国であり、唐時代には日中両国の往来は極めて頻繁に行われ、日本はたびたび留学生と留学僧を含む遣唐使を長安に派遣していた。
(※写真は京都新聞随行カメラマン撮影) -
「友好の翼・京都府民友好訪中団
西安 陝西省博物館(碑林博物館) 左下の写真
宋の時代に建てられた孔子廟を利用した博物館で、歴代書家の石碑を数多く収集、展示している。館内は「西安碑林」「歴史陳列」「石刻芸術」に分かれている。漢代から清代にかけての石碑のコレクションは「西安碑林」と呼ばれ、この博物館の展示物のなかで最も有名。王義之、欧陽詢、顔真卿、虞世南など、書道の大家の作品が立ち並んでいるほか、玄宗皇帝の書もあり、中国最大の書道芸術の宝庫といえる。また、キリスト教の伝来を伝える「大秦景教流行中国碑」も見逃せない。
(※写真は京都新聞随行カメラマン撮影)
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大雁塔(慈恩寺)だいがんとう(じおんじ)
阿倍仲麻呂は長安に54年も住み、宗教と文化の伝播と日中両国の友好のために貢献した。
日本の僧侶空海は青龍寺で密宗の法を受け、密宗文化を一心に学び、漢学の研究にも力を入れ、その造詣は非常に深い。
塔は煉瓦でできており、当初は五層の塔であったが、則天武后の時代に大改造を行い十層になった。しかし、戦乱などで上部が崩壊し、現在は七層で、高さは64メートルしかない。内部の木製のらせん階段を登ると、最上部まで行くことができる。
塔の入口の両側には、玄奘三蔵法師の功徳をたたえるために、太宗と高宗の筆による「大唐三蔵聖教序」と「大唐三蔵聖教序記」と書かれた石碑が納められている。 -
西安 華清池
華清池は温泉地で楊貴妃と玄宗皇帝のロマンスを偲ばせる美しい庭園です。
楊貴妃が入ったといわれる風呂に行きましたが当時と変わっていないのにほっとしました。
市内から東へ30キロ行った郊外の驪山のふもとにある有名な温泉池である。周代から三千年以上の歴史を持つ。歴代の皇帝も、ここを行楽地として大掛かりな造営をした。唐代の玄宗皇帝と楊貴妃のロマンスがこの地を最も有名にしている。「春寒くして浴を賜う華清の池、温泉の水滑らかに凝脂を洗う。」白楽天の「長恨歌」は二人の愛情を如実に歌うと同時に二人の贅沢を極めた生活振りをも反映している。楊貴妃が入浴したとされる「海棠湯」は、海棠の花の形をしている。玄宗が入ったといわれている「蓮花湯」と「海棠湯」、「星辰湯」は復元され華清宮御湯遺跡博物館として一般公開されている。湯泉は、現在でも入浴でき、リューマチや関節炎に効果があるという。華清池は、1936年に西安事件が起きた場所としても有名である。 -
鼓楼(ころう)
大太鼓が中にあり、時刻を知らせるためにそれを鳴らしていました。1380年に立てられたもので、現在も人や車が通過しています。
私達が訪れた時は、瓦葺きの民家がずらっと並んでいましたが、現在は高い建物などが見られ当時とは全然違う町に変わっていました。 -
小雁塔(薦福寺)しょうがんとう(せんぷくじ)
大雁塔が建てられて約50年後に立てられました。大雁塔より小さいため小雁塔と名づけられています。唐の時代に義浄によってサンスクリッドの経典が持ち帰られ、ここで翻訳作業が行われました。
大雁塔に比べて曲線を帯びた形が特徴です。 -
「友好の翼・京都府民友好訪中団」(団長に依田義賢・117名)は、1976年2月13日から2週間にわたり北京、西安、上海、杭州、蘇州の各地を友好訪問。
周秦時代から、西安はその独自の歴史的地位により、全国の政治、経済、文化の中心となった。紀元前三世紀より、西周、秦。西漢、新莽、西晋、前趙、大夏、後秦、西魏、北周、隋、唐など、十三の王朝が都を置き、西安は中国の古都として三千年以上の歴史をもつ。
西安の歴史と文化の遺産は非常に多く、物質的形態として残された文物は至る所にみられる。西安には重要文物遺跡が314ヶ所、国家級、省級の重要文物遺跡が84ヶ所、博物館と記念館が約20ヶ所、遺跡や陵墓が約4000ヶ所、出土した文物は約12万点ある。
(※写真は京都新聞随行カメラマン撮影) -
「友好の翼・京都府民友好訪中団」
大雁塔(慈恩寺)だいがんとう(じおんじ)前での記念写真。
唐の皇帝高宗が立てた仏教寺院である慈恩寺の院内にあります。大雁塔は高さが64メートルもあり、最上階から西安を展望できます。小説「西遊記」の三蔵法師のモデルと言われる玄奘がインドから持ち帰った経典が保存されています。
慈恩寺のあたりには、大雁塔曲江風景名勝区になっていて、植物園、博物館、曲江春暁園、玄奘文化苑があり見所が満載になっています。
(※写真は京都新聞随行カメラマン撮影) -
「友好の翼・京都府民友好訪中団」
訪問先では、小中学生をはじめ人民公社などの人達から熱烈な歓迎を受け人民公社の村や各地の寺院それに史跡文物などを各班毎に分かれるなどして見学しました。夜は京劇等の観劇に毎夜招待されました。
(※写真は京都新聞随行カメラマン撮影) -
「友好の翼・京都府民友好訪中団」模様を伝える新聞記事 京都新聞
訪問地では、熱烈な歓迎を受け、日中両国人民の友好と理解を深めました。主な訪問先は、工場や人民公社、病院や学校それに史跡文物などで通訳を通じて参観交流しました
(※写真は京都新聞随行カメラマン撮影) -
「友好の翼・京都府民友好訪中団」
団員は、京都府の北から南まで府民で労働者・農民・教師・宗教家・医療関係者・芸術家・中小企業・俯市町会議員・青年・婦人というあらゆる階層でした。このため現地では、7班に分かれてマイクロバスで移動し百カ所を越す参観や表敬訪問、観劇など精力的に中国人民と交流しました
私は、この訪中をきっかけに2000年前後から現在にかけて数度にわたり中国の各地を継続訪問しています。
(※写真は京都新聞随行カメラマン撮影) -
「友好の翼・京都府民友好訪中団」
特に中華料理のおいしさは、絶品で北京飯店より人民公社で頂いた中華料理の方が美味しかったです。各地で子供達の熱烈歓迎を受けるなど有意義な日中友好訪問でした。
※その模様は、京都新聞の記事として、またKBS京都テレビでは帰国後数回に分けて訪問団の代表がスタジオ出演し取材してきた16ミリのフィルムの映像を見ながら説明し放映されました。
当時は、まだNHKでも取材が許されていなくて画期的な放送でした。取材陣も大変苦労されたようで零下20度という悪条件のためカメラを耐寒処理して取材されたようです。当時はまだフィルムの時代でしたので室内はASA400という好感度フィルムを使用しDRというカメラで撮影し、屋外はASA100というフィルムを使用してアリフレックスというズームレンズ付きの16ミリムービーカメラで取材されました。
(※写真は京都新聞随行カメラマン撮影) -
秦の始皇帝陵陵の随葬抗から「武人俑と馬俑が出土」した記事 中国画報1975.11.5発行
私達が「友好の翼・京都府民友好訪中団」で 西安(1976.2.17〜2.20)に訪問した時は、「兵馬俑」についてあまり重要視されておらず博物館すら無かったので知りませんでした。しかし、今回当時の資料を出して調べている内にこの記事が見つかりました。
ところが1974年3月に、干魃のため地元農民が井戸を掘り始めたところ、二、三メートル掘ると変わった陶器の破片が見つかりました。その時の記事によると「中国を統一した秦の始皇帝の雄図を連想させる」と記されていました。
その後に考古学者の発掘により、始皇帝の地下近衛軍団が配置されていることが初めてわかったようです。 -
秦の始皇帝陵陵の随葬抗から「武人俑と馬俑が出土」した記事 中国画報1975.11.5発行
ゆえに私達が訪問した時は、1976年でしたのでまだ全容がわかっていない時だったと思われます。
兵馬俑博物館は、20世紀の大発見といえましょう。
秦の始皇帝陵から東へ1.5キロの地点に墓を守るために地下に埋められたのでしょうか。 -
秦の始皇帝陵陵の随葬抗から「武人俑と馬俑が出土」した記事 中国画報1975.11.5発行
秦始皇帝の陵は、中国で最初の皇帝であった。13歳で即位したあと成人後に周囲の国を制圧して中国を初めて統一しました。 秦を建国して中央集権制度をとりいれ、その後の中国王朝に大きな影響を及ぼしました。
秦は始皇帝のあと大きな氾濫があいつぎ、15年で滅びました。始皇陵には70万人を動因して作られたといわれ、宝石で満たされ、それを盗まれない ようなさまざまな仕掛けがしてあるといわれています。
殉死制度のあった時代において、生身の人間を埋めていたのに代わって陶製の人形を殉死品としていたことから、人類文明の進歩を窺うことができることからも貴重な文化財と言えるでしょう。 -
西安の「兵馬俑博物館」【世界文化遺産】
私達が「友好の翼・京都府民友好訪中団」で 西安(1976.2.17〜2.20)に訪問した時は、知らされていませんでした。その後に考古学者の発掘により、始皇帝の地下近衛軍団が配置されていることが初めて解りその後「兵馬俑博物館」として保存されることになり世界文化遺産に指定されました。
最大の一号坑は長さ230メートル、幅62メートル、深さ5メートル、総面積14260平方メートル、兵馬俑の数は約六千体、二号坑は6000平方メートル、俑の数は千体余り、三号坑は500平方メートル、俑の数は58体に過ぎず、規模が一番小さいが、地下軍の司令部に当たる。一号坑は今なお発掘を続けているが、中は土掘によって区切られ、上に丸木を掛け、その上にゴザを敷き、表は2メートルの土で覆われている。前衛部隊とその四方に立っている警備隊に守られ、主力軍は38列に分けられ、東に向かい整然と列を組んでいる。兵隊俑の平均身長は180センチ、上半身は空洞だが下半身は空洞ではない。顔の表情はそれぞれ異なり、身分により服装もまちまちでだが、共通しているのは、いずれも手に武器を握っていることだ。一部の俑にはまだ色彩が残っている。馬の高さは1.5メートルで西域の大宛の馬に似て、足が速いと言われている。兵馬俑はこの場所の付近の粘土を材料にして、彫刻などの手法を施し、最後に窯に入れて焼いて作られた。殉死制度のあった時代に人間に代わって陶製の人形を殉死品とすることから、人類文明の進歩を窺うことができる。
人類文明の進歩を窺うことができることからも貴重な文化財と言え、何時までも大事に保存して頂きたいものです。 -
西安の「兵馬俑博物館」【世界文化遺産】
秦始皇帝から1.5キロほど離れた距離にある博物館で、1号坑、2号抗、3号抗、秦始皇帝銅車馬陳列館から構成されていて、当時の秦の製造技術の高さをそのままの形で見ることができる。
これらの兵馬俑は、等身大の日本で言う埴輪でしょうか、よくぞこれだけの像を造ったものだと感心します。日本なら型を造って大量に製造したものですが、これは一体一体が全て表情など違っているのですから。
現在もまだすぐ近くで発掘が続いていますので、これからも新発見される物が出てくる可能性もあります。
■ここに掲載の写真および記事の無断転載を禁じます。
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