2006/05/02 - 2006/05/02
62位(同エリア83件中)
早島 潮さん
朝ブハラのホテルを出発してサマルカンドを目指す540?の大移動である。キジルクム(赤い砂)を通過し、チャイハナでお茶の休憩をした。車窓には緑化しかけた砂漠に牛、羊が放牧されている。駱駝の群れがのんびりと道路を横断したりする。飽きることもなく草原を眺めながら過ごしているうちに正午にパペーダ・チムール広場に到着した。
ここは自由化まではレーニン・広場と呼ばれた所である。まず我々観光客の目を引きつけるのは巨大な門アク・サライ(白い宮殿)を背負うようにして佇立するチムールの立像である。
この地はチムールの故郷であり、1,380〜1,405年まで宮殿が営まれた所である。このアク・サライの塔の現在の高さは37mであるが盛時には57mの高さを誇っていた。塔には登ることが出来るが残念ながら脚を痛めていたので大事をとって登らなかった。
次いでハズレティー・イマーム・モスク(19世紀創建)の堂内を見学した。この廟は戦闘で亡くなったチムールの息子ジャハンギールのために建てられたものであり、地下にはその墓が設置されている。この廟の入り口近くに生い茂っている楡の大木は壮観である。また室内の装飾も青色を基調としたアラビア模様で彩られている。
コク・グンバズ・モスクは1,437年に創建されたものであり、木と花の装飾がふんだんに取り入れられている。チムールの父・タルガイとチムールの孫ウルベクの墓がある。
昼食に立ち寄った民家の近くにはソ連製の三輪車がまだ現役で活躍していた。
再び車上の人となりなだらかな丘陵と草原を眺めながらサマルカンドに到着した。それにしても9時間にも及ぶバスドライブは老体には厳しい道行きである。
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パペーダ・チムール広場のチムール像。
チムールは1,336〜1,405まで生存した。1,370〜1,405年まで在位したチムール帝国の創始者である。トルコ化したモンゴル族の一つ、バルラス部族の出身で都をサマルカンドに定めチャガタイ汗、キプチ汗、キプチャク汗等の地方を治め、インドに入り、オスマントルコを破り、明を討伐しようと東征の途上、シルダリア河畔で病没した。
長期にわたる戦乱の間、文学、細密画等の宮廷文化や学芸を奨励した。イスラム教の普及に努め、商業貿易の発達に留意した中央アジアの英雄。
チムールの孫が天文学者のウルベクである。
チムールの没後帝国は分裂しウズベク族に滅ぼされた。現在ではレーニンに替わってウズベキスタンの英雄として祭り上げられている。 -
アク・サライ。白い宮殿と称される巨大な門。
タイルは過半のものがはげ落ちているが往時は美しい青色であった。 -
今は広場の一部にアク・サライに貼られていたタイルを展示する一角が雨晒しの広場に設けられている。
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アク・サライ。タイルの残っているのが判る。
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アク・サライ。タイルのはげ落ちた側と塔への入場口
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ハズレティ・イマーム・モスク前の巨大な楡の木
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ハズレティ・イマーム・モスク
チムールの息子ジャハンギールの墓がこのモスクの地下にある。 -
ハズレティ・イマーム・モスク
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左側二つがチムールの父タルガイとチムールの息子の廟。右側の大きいのがチムールの孫で天文学者ウルグベクの廟のあるモスク
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チムールの孫ウルベグの廟
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ジャハンギール廟のチムールの息子の墓
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1437年創建のコク・グンバズ・モスクの天井模様
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コク・グンバズ・モスクの中
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昼食を摂った民家近くで目撃した旧ソ連時代の三輪車
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サマルカンドの入り口近くで休憩した時集まってきた村の子供達
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サマルカンドの入り口近くで休憩した時集まってきた驢馬に乗った村の子供
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砂漠に咲く赤い花
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赤い花と黄色い花
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赤い花と黄色い花の咲き乱れる緑化した砂漠
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