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<br /><br /><br />二代目日本人ヘルパーとして<br /><br />あれは多分、ぼくの人生の中で一番幸せな時間だった…<br /><br />あそこでは、ぼくはなぜかいつも頼られていた。<br />そしてあの、毎日のめまぐるしい忙しさの中で、<br />ぼくはようやく本来の自分自身に気付いていた…<br /><br /><br />グリンデルワルトのYHでは、あれ以来毎年日本人ヘルパーが住み込んでいるらしい、と聞いたのは、ぼくが帰国して10年以上たった頃だった。<br />「あれ以来」というのは、ぼくが働いていたとき以来…、と言いたいところだけれども、実はその前年、1964年の夏にハセガワ・テルコという日本人がいたと、ぼくは当時の経営者だったバッハラーさん夫妻から聞いている。<br />テルコはよく働いた、勤勉な日本人だった、とバッハラーさんは言った。だからあんたも雇ったのだよということだな、とぼくは理解した。<br />その初代日本人ヘルパー、ハセガワ・テルコさんには会ったことがない。 <br /><br /><br />●二代目日本人ヘルパーは男二人 <br />で、二代目ヘルパーのぼくがグリンデルワルトに着いたのは1965年の5月下旬。ほとんど怖いようなスイスアルプスの眺めが快晴の空の下に広がっていた。<br /><br />ヘルパーはぼく一人だったが、まだ宿泊者が少なくて、一日目は、午前中玄関やホールを掃除したらもうすることがなかった。<br />午後は、アルプスの凄い眺めに飲み込まれそうになりながら夢心地で散策を楽しんだ。<br />4時にはテラスにテーブルを出して、アイガーの岩壁にガスが沸き上がっては消えたり、真向かいの雪の壁が雪崩になって落ちて行く情景なんかを呆然と眺めながら、奥さん手作りの野いちごやリンゴのタルトとコーヒーを楽しんだ。<br />夏を前にして、雪崩の音が毎日地鳴りのように響き渡るアルプスの村だった。<br />テラスのコーヒータイムが終わると、まだ数人しかいない宿泊者の夕食の用意を手伝った。ぼくはジャガイモの皮をむいたり、玉ねぎを刻んだり、という単純な調理作業をのんびりとこなした。<br />そして夕食の片付けが終わると、アイガーが真っ赤に染まって今日という日が静かに終わろうとするひとときを、またテラスに出て楽しんだ。<br /><br />三日後、一人の日本人が現れた。<br />と思ったら、彼は、「給料はいらないっすから」とか何とか言って、強引に住み着いてしまった。<br />その押しかけヘルパー、セイコーのことはまたいつか詳しく書こう。<br />そんなわけで、二代目日本人ヘルパーは、なぜか男二人ということになった。<br /> <br />セイコーとぼくはわりと波長が合ったが、性格はまるでかけ離れていた。そのことは、ここでの二人の仕事の分担がごく自然ななりゆきではっきりと分かれていったことからもわかる。 <br /> ぼくは奥さんの指示で台所の助手や家の中の掃除、彼はご主人の指示で薪割りや外回りの仕事。二人の性格の違いは、なんとわかりやすいではないか。<br /><br /> <br />●女の子が来た!<br />6月の中旬を過ぎる頃から宿泊者が増え始め、ぼくたちのほかにイギリス人の女の子が二人、スイス人の女の子が一人やって来て、ヘルパーは5人に増えた。<br />「ちょっと美人じゃねえか」<br />イギリス人のシーラは確かにちょっと美人。<br />「もう一人は…」<br />「スーザンか、あれはまあ…」<br />「でも感じは悪くない」<br />フランス系スイス人のデニスのことは、あいつはガキだ、とセイコーは言ったが、実は、ぼくもそう思った。彼女は確かに子供っぽい。<br />「まあ、まだ16だからな」<br />「いや、16にもなればフツーもうちょっとな…」。<br />それもそうだ。<br />女の子が三人、いきなり束になって現れれば、男同士が交わす会話はまあそんなものだ。その上、ここでは当人の目の前でしゃべっても日本語なら平気だしね。<br /><br />6月下旬、台所の仕事が少し忙しくなった。<br />奥さんが、受け付けなどに手を取られることが多くなるにつれ、ジャガイモをゆでたり、玉ねぎを炒めたりというような簡単な調理を、ぼくたちヘルパーにもやらせることになった。<br />そこでガゼン差がついた。<br />美人のシーラは、30人分のジャガイモをゆでる大鍋に塩を入れろと言われて、指先に一つまみの塩を持って来て「これでいい?」とぼくに聞いた。「その20倍はほしいな」、と言ってやると、自分でもおかしくなったらしく、スーザンの背中に顔を押し付けて笑った。<br />そのスーザンは賢い、感じのいい子だったが調理はまったく駄目で、何十個ものトマトの輪切りをみんなぐちゃぐちゃのピュレー状にしてしまった。<br />デニスはびしょぬれのフライパンに油を注いで火にかけ、台所をパニックに陥れた。<br />「あんたら、台所の仕事したことないのか?」<br />ぼくはあきれて、何とか通じる程度の英語とドイツ語で聞いた。<br />「ない」<br />「ない」<br />「ない」<br />英語と、フランス語の答えが帰ってきた。デニスはフランス語圏のスイス人だがドイツ語もある程度わかる。スイス人はたいていそうだ。<br />ついでに言うと、ぼくはあやしい英語とあやしいドイツ語、セイコーはあやしいイタリア語と、やっぱりあやしい英語。スーザンは英語のほかフランス語、シーラは英語だけ。管理人はドイツ語とイタリア語、夫人はドイツ語とほんの片言程度の英語。…そういう言語環境にあった。<br />セイコーはそんな台所の惨状を横目で見ながら、「調理なんてじれったい仕事、オレはまっぴらだね」などとうそぶいて、バッハラーさんと外回りの仕事にいそしんでいた。<br /> <br /><br />●奥さんのドレッシング<br />そんなわけで、子供のときから台所仕事が好きで、普通の主婦ぐらいには何でも出来るぼくの地位が上がった。<br />奥さんは台所の仕事を言いつけるとき、すべてぼくに言うようになり、他の三人はぼくの指示で働くようになった。<br /><br />といっても、ぼくはスイスの料理は知らない。そこで奥さんは昼食や夕食の調理をしながら、素朴で経済的なスイスの家庭料理の作り方を、毎日少しずつ説明してくれた。それは楽しい時間だった。ぼくはとても興味深くその説明を聞き、そして一つ一つ確実に自分のものにしていった。<br />そしてある日、<br />「今日は一度ドレッシングを作ってみる? 出来るわね?」<br />奥さんにそう言われて、ぼくはもうすっかり頭に入っている奥さんのやり方で、調理用のポリバケツにドレッシングを作った。<br />こっちの人はたいていワインビネガーを使うが、ここの奥さんは、あれは酸味がきつすぎるから(ぼく同感)と、レモン汁を使う。<br />レモンはそのつど二つに切って絞り、それをベースに塩・コショウや油を加えていく。<br /><br />彼女の作るドレッシングには、ぼくはここに来た最初の日から精神を集中させて接した。そしてそれから毎日、彼女がそれを作っているときには食い入るようにその手元を見ていた。<br />そして彼女もまた、そんなぼくに気付いていたに違いない。<br />その日から、<br />「今日は宿泊者が多いのよ。受付が忙しいから夕食は任せるわ」<br />となるまでに、もうそんなに時間はかからなかった。<br /><br /><br />●シェフ気取りで<br />ここに来てからちょうどひと月になる頃、ぼくはこのYHの台所を預かる立場になっていた。<br />そしてきっちり7月1日からYHは連日満員になった。ベッドは百余りあるが、自炊室もあるし外食も出来るから、食事を出すのは、満員だと毎日70人から80人分。<br />毎日何十人分もの食事をまかなう…<br />それがどんなに楽しいことか、わかりますか?<br /> <br />メニューは奥さんが決め、材料の注文も電話で済ませておいてくれる。<br />「今日は60人。シュニッツェルにします。サラダはトマト」<br />奥さんはサラダを飾り立てることはしない。いつもシンプルにトマトならトマトだけ、レタスならレタスだけ。<br />「スープは?」<br />「スープは…、それは任せるわ。肉は4時に持ってくるように頼んどいたからね」<br />4時に肉が届く。テラスでのコーヒータイムが終わると仕事に取り掛かる。奥さんは受付に入ってしまい、セイコーは外へ逃げる。<br />受付にはすでに何十人もの列が出来ている。<br />今日も満員だ。<br /> <br />よぉし、それじゃいきましょう…。<br />ぼくは役立たずの女たちを指揮してシェフになる。<br />「シーラ、その肉、一枚ずつこれで叩いて伸ばしてほしい。出来る?」<br />「さあね、まあやってみる」<br />頼りない。<br />「スーザン、トマト頼む。ナイフを押し付けないで前後にすばやく滑らせるとこの前みたいにつぶれない。体重かけるんじゃないよ」<br />「あはは」<br />あははじゃない。<br />デニスはいたずらに注意。手伝いどころではない。この前の自分の失敗にヒントを得て、今度は油を熱したフライパンに水を落として喜ぶ、という最悪のいたずらを思いついた。<br />それとやたらつまみ食いをする。ま、それはぼくも同じだから大目に見るけど。<br />そういえばこいつの取り得は食いしん坊なことだ。<br />「これ、うまいよ、ちょっと食ってみ」<br />などと少し気前よくしてやると喜んでよく働く。犬とあんまり変わらない。<br />「な、うまいだろ。さ、外へ行ってシュニットラオホ採って来て」<br />シュニットラオホは、奥さんが好んで使うごく小さな青ねぎのような植物。建物の前の斜面にたくさん生えている。細かく刻んでサラダにかけると色も香りもよい。<br />シーラが叩きのめしてくれた60枚の肉片に修正を少しかけながら、塩コショウをしていく。<br />味付けはぼくがやるほかない。あと強いて言えばデニスだが、あいつは気まぐれだし、怠け癖がひどいから途中で投げ出してどこかに消えたりする。<br />肉に粉をつけ、卵をくぐらせ、パン粉をつけていく。これはみんなにも手伝わせないと6時の夕食に間に合わない。でも常に監視してないとやつらの作業はむちゃくちゃ心もとない。<br />粉担当、卵担当、パン粉担当、としっかり分担を決めておかないと、<br />「あの、どれが先だったっけ。卵つけてから小麦粉だよね?」<br />「違う違うっ!」<br />などとパニックになる。<br />肉の下準備が出来たらぼくはドレッシングを作り、スープを用意する。スープだけは簡略に業務用インスタント。湯を沸かして溶けば出来上がり。でも奥さんのやり方で、ベーコンやポロねぎなどをいためて加えたり、その日によっていろいろ追加する。<br />デザートにはよく自家製のコンポートや、季節の果物を出す。ときには奥さんが焼いた大きなリンゴのトルテなんかを切り分けることもある。そんな日に泊まった宿泊者はラッキーである。<br />そんな準備がすべて整ったら肉を焼く。長方形の大きなフライパンに油を流し、シュニッツェルを20枚ぐらいずつ焼いていく。<br />フォークの親方みたいなので、くるくると奥さんは肉を返していたが、ぼくはたまたま持っていた箸を使ってみたら結構うまくいったので、以後、箸を調理に使った。<br />その間に助手のみなさんは、汚れた調理器具を洗い、食堂に出す大皿などを揃えてくれる。一人は食堂に行ってテーブルクロスをかけ、ナイフ・フォークを揃える。<br />このあたりでいつもデニスが台所の隅のテーブルを整え始める。これだけは命じなくてもちゃんとやる。そのテーブルは、管理人夫妻とぼくたちヘルパーの賄いのテーブル。つまりあいつは自分が食うことには熱心なわけだ。<br />そして自分たちの食卓に肉がいくつあるか、なんていう計算を始める。<br />その日の人数はかなり多めに見てある。たとえば予約の二割増、という程度に。ぎりぎりになることもあれば余ることもある。そんなことでデニスは気をもんでいるわけだ。<br />奥さんは倹約家で質素だけれども、けちではない。だからぎりぎりになることはたまにあっても、足りなかったことなんて一度もない。<br />ほんとにあいつは子供なんだから。<br />そしてデニスの仕事はもう一つ、食事の合図のベルを鳴らすこと。大きな鈴を振りまわして「食事ですよ」と告げて回る。デニスはこれが好きらしい。わかるけど。<br />そしてぼくたちは出来上がった料理をみんなで食堂に運ぶ。<br />「グーテン・アペティート!」<br /><br />宿泊者たちの夕食が始まり、戦争の終わった台所にバッハラーさんとセイコーも外から戻ってぼくたちの食事が始まる。<br />空気が冷え冷えとしてきて、日差しがいくらか黄色みを帯びている。外には、静かなアルプスの夕景が広がり始める時間だ。<br /><br /><br />●あのひと夏のこと<br />ぼくは押しが弱くて人に指図するのは苦手だし、要領が悪くて、いくつものことを同時にこなそうとするとパニックになる。もちろん人の上に立ったことなんてない。<br />そんな、それまでずっと自分の中にあったぼくという人間は、人を指揮して何十人分もの夕食を作るなんてことがうまくやれるわけがない自信喪失人間だった。<br />だから、外国のYHの台所を仕切るなんていう大役を大過なくこなしたことに、しかもそんな超多忙の毎日があんなにも楽しく充実していた、ということに、ぼくはとても驚いている。<br /><br />あれはバッハラーさん夫妻がぼくを信頼してくれたから、ぼくを必要としてくれたから。<br />そしてそれが、自分の好きなことだったりしたから。<br /><br />帰国して間もなく、あの怖いようなアルペン風景の中で過ごしたひと夏のことを中心に三百枚の原稿にまとめたものを、一冊の本にすることが出来た。その本は結構大手の出版社から出たこともあって七千部ほど売れ、それがぽくのトラベルライターとしての出発点になったのだった。<br /><br /> <br /> <br />

グリンデルワルトYHのキッチン

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1970/05 - 1971/04

670位(同エリア1053件中)

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KAUBE

KAUBEさん




二代目日本人ヘルパーとして

あれは多分、ぼくの人生の中で一番幸せな時間だった…

あそこでは、ぼくはなぜかいつも頼られていた。
そしてあの、毎日のめまぐるしい忙しさの中で、
ぼくはようやく本来の自分自身に気付いていた…


グリンデルワルトのYHでは、あれ以来毎年日本人ヘルパーが住み込んでいるらしい、と聞いたのは、ぼくが帰国して10年以上たった頃だった。
「あれ以来」というのは、ぼくが働いていたとき以来…、と言いたいところだけれども、実はその前年、1964年の夏にハセガワ・テルコという日本人がいたと、ぼくは当時の経営者だったバッハラーさん夫妻から聞いている。
テルコはよく働いた、勤勉な日本人だった、とバッハラーさんは言った。だからあんたも雇ったのだよということだな、とぼくは理解した。
その初代日本人ヘルパー、ハセガワ・テルコさんには会ったことがない。 


●二代目日本人ヘルパーは男二人 
で、二代目ヘルパーのぼくがグリンデルワルトに着いたのは1965年の5月下旬。ほとんど怖いようなスイスアルプスの眺めが快晴の空の下に広がっていた。

ヘルパーはぼく一人だったが、まだ宿泊者が少なくて、一日目は、午前中玄関やホールを掃除したらもうすることがなかった。
午後は、アルプスの凄い眺めに飲み込まれそうになりながら夢心地で散策を楽しんだ。
4時にはテラスにテーブルを出して、アイガーの岩壁にガスが沸き上がっては消えたり、真向かいの雪の壁が雪崩になって落ちて行く情景なんかを呆然と眺めながら、奥さん手作りの野いちごやリンゴのタルトとコーヒーを楽しんだ。
夏を前にして、雪崩の音が毎日地鳴りのように響き渡るアルプスの村だった。
テラスのコーヒータイムが終わると、まだ数人しかいない宿泊者の夕食の用意を手伝った。ぼくはジャガイモの皮をむいたり、玉ねぎを刻んだり、という単純な調理作業をのんびりとこなした。
そして夕食の片付けが終わると、アイガーが真っ赤に染まって今日という日が静かに終わろうとするひとときを、またテラスに出て楽しんだ。

三日後、一人の日本人が現れた。
と思ったら、彼は、「給料はいらないっすから」とか何とか言って、強引に住み着いてしまった。
その押しかけヘルパー、セイコーのことはまたいつか詳しく書こう。
そんなわけで、二代目日本人ヘルパーは、なぜか男二人ということになった。
 
セイコーとぼくはわりと波長が合ったが、性格はまるでかけ離れていた。そのことは、ここでの二人の仕事の分担がごく自然ななりゆきではっきりと分かれていったことからもわかる。 
ぼくは奥さんの指示で台所の助手や家の中の掃除、彼はご主人の指示で薪割りや外回りの仕事。二人の性格の違いは、なんとわかりやすいではないか。

 
●女の子が来た!
6月の中旬を過ぎる頃から宿泊者が増え始め、ぼくたちのほかにイギリス人の女の子が二人、スイス人の女の子が一人やって来て、ヘルパーは5人に増えた。
「ちょっと美人じゃねえか」
イギリス人のシーラは確かにちょっと美人。
「もう一人は…」
「スーザンか、あれはまあ…」
「でも感じは悪くない」
フランス系スイス人のデニスのことは、あいつはガキだ、とセイコーは言ったが、実は、ぼくもそう思った。彼女は確かに子供っぽい。
「まあ、まだ16だからな」
「いや、16にもなればフツーもうちょっとな…」。
それもそうだ。
女の子が三人、いきなり束になって現れれば、男同士が交わす会話はまあそんなものだ。その上、ここでは当人の目の前でしゃべっても日本語なら平気だしね。

6月下旬、台所の仕事が少し忙しくなった。
奥さんが、受け付けなどに手を取られることが多くなるにつれ、ジャガイモをゆでたり、玉ねぎを炒めたりというような簡単な調理を、ぼくたちヘルパーにもやらせることになった。
そこでガゼン差がついた。
美人のシーラは、30人分のジャガイモをゆでる大鍋に塩を入れろと言われて、指先に一つまみの塩を持って来て「これでいい?」とぼくに聞いた。「その20倍はほしいな」、と言ってやると、自分でもおかしくなったらしく、スーザンの背中に顔を押し付けて笑った。
そのスーザンは賢い、感じのいい子だったが調理はまったく駄目で、何十個ものトマトの輪切りをみんなぐちゃぐちゃのピュレー状にしてしまった。
デニスはびしょぬれのフライパンに油を注いで火にかけ、台所をパニックに陥れた。
「あんたら、台所の仕事したことないのか?」
ぼくはあきれて、何とか通じる程度の英語とドイツ語で聞いた。
「ない」
「ない」
「ない」
英語と、フランス語の答えが帰ってきた。デニスはフランス語圏のスイス人だがドイツ語もある程度わかる。スイス人はたいていそうだ。
ついでに言うと、ぼくはあやしい英語とあやしいドイツ語、セイコーはあやしいイタリア語と、やっぱりあやしい英語。スーザンは英語のほかフランス語、シーラは英語だけ。管理人はドイツ語とイタリア語、夫人はドイツ語とほんの片言程度の英語。…そういう言語環境にあった。
セイコーはそんな台所の惨状を横目で見ながら、「調理なんてじれったい仕事、オレはまっぴらだね」などとうそぶいて、バッハラーさんと外回りの仕事にいそしんでいた。
 

●奥さんのドレッシング
そんなわけで、子供のときから台所仕事が好きで、普通の主婦ぐらいには何でも出来るぼくの地位が上がった。
奥さんは台所の仕事を言いつけるとき、すべてぼくに言うようになり、他の三人はぼくの指示で働くようになった。

といっても、ぼくはスイスの料理は知らない。そこで奥さんは昼食や夕食の調理をしながら、素朴で経済的なスイスの家庭料理の作り方を、毎日少しずつ説明してくれた。それは楽しい時間だった。ぼくはとても興味深くその説明を聞き、そして一つ一つ確実に自分のものにしていった。
そしてある日、
「今日は一度ドレッシングを作ってみる? 出来るわね?」
奥さんにそう言われて、ぼくはもうすっかり頭に入っている奥さんのやり方で、調理用のポリバケツにドレッシングを作った。
こっちの人はたいていワインビネガーを使うが、ここの奥さんは、あれは酸味がきつすぎるから(ぼく同感)と、レモン汁を使う。
レモンはそのつど二つに切って絞り、それをベースに塩・コショウや油を加えていく。

彼女の作るドレッシングには、ぼくはここに来た最初の日から精神を集中させて接した。そしてそれから毎日、彼女がそれを作っているときには食い入るようにその手元を見ていた。
そして彼女もまた、そんなぼくに気付いていたに違いない。
その日から、
「今日は宿泊者が多いのよ。受付が忙しいから夕食は任せるわ」
となるまでに、もうそんなに時間はかからなかった。


●シェフ気取りで
ここに来てからちょうどひと月になる頃、ぼくはこのYHの台所を預かる立場になっていた。
そしてきっちり7月1日からYHは連日満員になった。ベッドは百余りあるが、自炊室もあるし外食も出来るから、食事を出すのは、満員だと毎日70人から80人分。
毎日何十人分もの食事をまかなう…
それがどんなに楽しいことか、わかりますか?
 
メニューは奥さんが決め、材料の注文も電話で済ませておいてくれる。
「今日は60人。シュニッツェルにします。サラダはトマト」
奥さんはサラダを飾り立てることはしない。いつもシンプルにトマトならトマトだけ、レタスならレタスだけ。
「スープは?」
「スープは…、それは任せるわ。肉は4時に持ってくるように頼んどいたからね」
4時に肉が届く。テラスでのコーヒータイムが終わると仕事に取り掛かる。奥さんは受付に入ってしまい、セイコーは外へ逃げる。
受付にはすでに何十人もの列が出来ている。
今日も満員だ。
 
よぉし、それじゃいきましょう…。
ぼくは役立たずの女たちを指揮してシェフになる。
「シーラ、その肉、一枚ずつこれで叩いて伸ばしてほしい。出来る?」
「さあね、まあやってみる」
頼りない。
「スーザン、トマト頼む。ナイフを押し付けないで前後にすばやく滑らせるとこの前みたいにつぶれない。体重かけるんじゃないよ」
「あはは」
あははじゃない。
デニスはいたずらに注意。手伝いどころではない。この前の自分の失敗にヒントを得て、今度は油を熱したフライパンに水を落として喜ぶ、という最悪のいたずらを思いついた。
それとやたらつまみ食いをする。ま、それはぼくも同じだから大目に見るけど。
そういえばこいつの取り得は食いしん坊なことだ。
「これ、うまいよ、ちょっと食ってみ」
などと少し気前よくしてやると喜んでよく働く。犬とあんまり変わらない。
「な、うまいだろ。さ、外へ行ってシュニットラオホ採って来て」
シュニットラオホは、奥さんが好んで使うごく小さな青ねぎのような植物。建物の前の斜面にたくさん生えている。細かく刻んでサラダにかけると色も香りもよい。
シーラが叩きのめしてくれた60枚の肉片に修正を少しかけながら、塩コショウをしていく。
味付けはぼくがやるほかない。あと強いて言えばデニスだが、あいつは気まぐれだし、怠け癖がひどいから途中で投げ出してどこかに消えたりする。
肉に粉をつけ、卵をくぐらせ、パン粉をつけていく。これはみんなにも手伝わせないと6時の夕食に間に合わない。でも常に監視してないとやつらの作業はむちゃくちゃ心もとない。
粉担当、卵担当、パン粉担当、としっかり分担を決めておかないと、
「あの、どれが先だったっけ。卵つけてから小麦粉だよね?」
「違う違うっ!」
などとパニックになる。
肉の下準備が出来たらぼくはドレッシングを作り、スープを用意する。スープだけは簡略に業務用インスタント。湯を沸かして溶けば出来上がり。でも奥さんのやり方で、ベーコンやポロねぎなどをいためて加えたり、その日によっていろいろ追加する。
デザートにはよく自家製のコンポートや、季節の果物を出す。ときには奥さんが焼いた大きなリンゴのトルテなんかを切り分けることもある。そんな日に泊まった宿泊者はラッキーである。
そんな準備がすべて整ったら肉を焼く。長方形の大きなフライパンに油を流し、シュニッツェルを20枚ぐらいずつ焼いていく。
フォークの親方みたいなので、くるくると奥さんは肉を返していたが、ぼくはたまたま持っていた箸を使ってみたら結構うまくいったので、以後、箸を調理に使った。
その間に助手のみなさんは、汚れた調理器具を洗い、食堂に出す大皿などを揃えてくれる。一人は食堂に行ってテーブルクロスをかけ、ナイフ・フォークを揃える。
このあたりでいつもデニスが台所の隅のテーブルを整え始める。これだけは命じなくてもちゃんとやる。そのテーブルは、管理人夫妻とぼくたちヘルパーの賄いのテーブル。つまりあいつは自分が食うことには熱心なわけだ。
そして自分たちの食卓に肉がいくつあるか、なんていう計算を始める。
その日の人数はかなり多めに見てある。たとえば予約の二割増、という程度に。ぎりぎりになることもあれば余ることもある。そんなことでデニスは気をもんでいるわけだ。
奥さんは倹約家で質素だけれども、けちではない。だからぎりぎりになることはたまにあっても、足りなかったことなんて一度もない。
ほんとにあいつは子供なんだから。
そしてデニスの仕事はもう一つ、食事の合図のベルを鳴らすこと。大きな鈴を振りまわして「食事ですよ」と告げて回る。デニスはこれが好きらしい。わかるけど。
そしてぼくたちは出来上がった料理をみんなで食堂に運ぶ。
「グーテン・アペティート!」

宿泊者たちの夕食が始まり、戦争の終わった台所にバッハラーさんとセイコーも外から戻ってぼくたちの食事が始まる。
空気が冷え冷えとしてきて、日差しがいくらか黄色みを帯びている。外には、静かなアルプスの夕景が広がり始める時間だ。


●あのひと夏のこと
ぼくは押しが弱くて人に指図するのは苦手だし、要領が悪くて、いくつものことを同時にこなそうとするとパニックになる。もちろん人の上に立ったことなんてない。
そんな、それまでずっと自分の中にあったぼくという人間は、人を指揮して何十人分もの夕食を作るなんてことがうまくやれるわけがない自信喪失人間だった。
だから、外国のYHの台所を仕切るなんていう大役を大過なくこなしたことに、しかもそんな超多忙の毎日があんなにも楽しく充実していた、ということに、ぼくはとても驚いている。

あれはバッハラーさん夫妻がぼくを信頼してくれたから、ぼくを必要としてくれたから。
そしてそれが、自分の好きなことだったりしたから。

帰国して間もなく、あの怖いようなアルペン風景の中で過ごしたひと夏のことを中心に三百枚の原稿にまとめたものを、一冊の本にすることが出来た。その本は結構大手の出版社から出たこともあって七千部ほど売れ、それがぽくのトラベルライターとしての出発点になったのだった。



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  • さすらいおじさんさん 2006/06/23 08:10:26
    グリンデルワルドのYHは最高でした
    KAUBEさん

    はじめまして。2月26日から6月15日まで中南米旅行をしておりまして帰国後4TRAの皆さんのページ訪問を再開していますが、kioさんのページでKAUBEさんの紹介を拝見して伺いました。
    私は1971年8月14日にグリンデルワルドのYHにお世話になりました。
    1971年のスイスの旅行記をご覧になったkioさんからKAUBEさんのことは伺っておりましたが、入会されておられたとは嬉しいです。kioさんの人脈作りにはいつも感心しています。
    グリンデルワルドの1971年日記を見直してみますと、「日本人が20人、ベランダで出していただいた日本茶を啜りながら、アイガーと星を眺めながら談笑していた。」と書いています。私もその時KAUBEさんにお世話になったのだろうと思います。翌日は登山電車でユングフラウに登り、素晴しい景観を見て氷河で氷すべりをし、私にとっても人生最高の瞬間でした。
    私は1971年のバックパッカー旅行が忘れられず、仕事をリタイアした今、またバックパッカーになって旅をしています。今も各国でYHにお世話になっていますが、グリンデルワルドのYHは一番印象に残っている、人生最高の喜びを教えてくれた最高のYHでした。ありがとうございました。

    KAUBE

    KAUBEさん からの返信 2006/06/23 09:06:51
    RE: さすらいおじさんさん
    書き込みありがとうございました。
    本当にあのYHは、あのシチュエーションだけでももうびっくりしてしまいますね。こんなところにひと夏を過ごすのかと、初めてあそこに着いたときにはもう夢を見ているような気分でした。
    ところで、私がグリンデルワルトのYHにいたのは1966年の5月から10月で、さすらいおじさんが行かれた71年にはもう帰国しています。帰国して、ヨーロッパ放浪記を出版したのがそのころかな…
    このサイトの旅行記登録フォームには70年までしか選択肢がなく、それ以前のはどうするのかわからなくて、適当にそのへんにしちゃっています。
    今とはぜんぜん事情の違う古い時代の放浪でした。
    私がいたころは、私がいた五ヶ月の間に、日本人なんてほんの数人が泊まっていっただけでした。目に見えることといえば、それが今とは最大の違いでしょうか。
    また古い記憶をたどって書き続けるつもりです。
    これからもよろしくお願いします。

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