2004/07/02 - 2004/07/11
34073位(同エリア45597件中)
早島 潮さん
平成16年7月2日(金)
シルクロードは西安を起点としてローマへ至る古代の東西交易路である。今回は第一回目として中国甘粛省内の旅を選んだ。河西回廊と言われている。敦煌を起点としてバスで東へ遡行し蘭州へ至る旅程である。蘭州から西安までは航空機利用である。
9時20分に添乗員の大町章子嬢を中心に同行者の顔合わせをした。男12人、女5人で計17人の手頃なパーティーである。夫婦は一組だけで皆百戦錬磨の旅の強者ばかりという印象である。
今回は酒類の機内持ち込みは禁止されているというので予め求めておいたウイスキーはスーツケースの中に忍ばせておいたから免税店では何も買うものがない。
成田を11時18分発の中国東方航空MU508便で出発。時差は1時間遅れで14時40分に北京首都国際空港へ到着。所要時間約3時間半。北京で入国手続きを済ますため一旦機外へでるが係員がなかなか来ないで暫くまたされた。
北京から西安までは国内線になるためアルコール類の機内持ち込みが禁止されるという理屈である。これは中国の酒は度数が強く、火がつくので危険物とみるらしい。それも中国人がかつて酒に火をつけて機内で騒ぐという事件があったため規制が厳しくなり、酒類の機内持ち込みができなくなったというのが真相らしい。この種の規則とか規制はなにか事件が発生すると必ず再発防止ということで厳しくなるものである。不心得なものがいると自由が制限されるという好例である。
機内で中華の昼食を摂ったがウイスキーやブランデーのサービスはなかった。ビールで我慢する。青島ビールであった。
14時50分北京を出発し16時22分に西安咸陽国際空港へ到着。前回訪問した時よりも建物が変わっていた。新しい建物が旧施設に並んで増設されたらしい。
現地ガイドは王正安氏で日本語はそこそこの実力で人柄は悪くない。
西安市内まで約1時間ほどのドライブで窓外に見えている田園風景の中に点在する小高い山は古代の王侯や貴族の墳墓であろう。
西安市内近くの道路では片側の通路を囲って道路工事が行われていた。そして工事現場へ出入りする下請け業者や納品業者の原動機つきリヤカーも散見した。
西安市内には新しいビルが沢山建っていた。中国の経済発展も沿海部から漸く内陸部へ及び西安市内も目下大規模に普請中との第一印象である。
最初に鼓楼へ見学に行った。鼓楼は城郭の中心にあって昔は、時を告げた重要な建物であるが、生憎修理中で中へは入れなかった。日本から派遣された遣唐使達も当時長安と言われた都のこの鼓楼の前に立ち、物思いに耽ったことであろう。
ホテルは西安賓館で旧市内の南門の近くである。
平成16年7月3日(土)
西安から飛行機で敦煌へ飛んだ。機中から地上を俯瞰すると砂漠の中に帯状に緑が広がっている箇所が幾つか見える。これがオアシスでそこには河西回廊の都市が営まれているのである。敦煌近くになると緑の巾と長さがとても大きなものに変わり、敦煌が西域の重要な拠点都市であることがよく判る。
敦煌とは盛大に繁栄する街という意味だという。この辺境の地の地名「敦煌」が史書に表れるのは漢の武帝(BC141〜87)の時代である。この頃この地域の支配者であった月氏が追い払われて、匈奴がこの地帯を支配していた。これに対抗して西域の不安を取り除くために武帝は匈奴討伐に乗り出したのである。武帝の命を受けた衛青(えいせい、?〜BC106)、霍去病(かくきょへい、?〜BC117)等といった将軍の活躍により武帝軍は匈奴を追い払ってしまった。爾来敦煌は河西回廊西端の重要な拠点として歴史に登場することになる。武帝は万里の長城を敦煌まで伸ばし匈奴に対する備えを万全のものにしたのである。かくして、敦煌はシルクロード(絹の道)の西の出口、東の入り口として盛大に繁栄する街の異名をとることになったのである。
以下の記述は村上みどり氏のサイト【シルクロード・河西回廊、敦煌を行く】から引用させて頂いた。
引用開始
シルクロードの冒険商人達は早くも1世紀頃に敦煌に姿を現している。中央アジアのサマルカンド、ブハラなどの商人が、東西を結ぶ役目を担っていた。敦煌の名前がプトレマイオスの「地理書」に登場するのもこの商人達のお陰である。
もうひとつ、敦煌が歴史において重要な役割を果たすのは仏教の伝来路としてである。紀元前2世紀頃、匈奴に追われた月氏は、その後、アフガニスタンで大月氏帝国を築きあげた。この月氏の手を経て中国に最初に仏教がもたらされたという。
時代はちょうど、紀元の変わり目の頃である。更に2世紀になって、仏教の伝来は本格化する。インドの経典が続々ともたらされ始める。僧達は敦煌で漢語を学び、布教のために長安に赴いた。「敦煌菩薩」として知られる竺法護(じくほうご)、鳩魔羅什(くまらじゅう)といった名前が、インド経典の中国語訳の功労者として、敦煌の名と結びついている。
敦煌が最盛期を迎えたのが隋、唐時代である。シルクロードの交易と、仏教への帰依が敦煌の重要性を高めた。敦煌は砂漠の街であるから砂嵐は通常のことで朝夕の寒暖の差が激しく、「朝は綿入れ、昼はシルク、夜はこたつに入ってスイカを食べる」といわれている。セキセキ草、ラクダ草、タマリスクがゴビの三宝になっている。
莫高窟が盛んになるのもこの時期である。755年に起こった安・史の乱の影響で中央政府の影響が弱くなった。それに呼応して西域では吐蕃国の力が強まり、781年に敦煌はその支配下に置かれる。その後、唐の武宗が845年に廃仏を行い、中央の仏教寺院はことごとく破壊されたが敦煌は吐蕃の支配下にあったので難を逃れた。
唐から宋に王朝が変わるに及んで、敦煌は中央から切り離され、西夏王国の支配下に入る。この時、西夏襲来に備えて仏典多数が洞窟に塗り込められた。これが有名な敦煌文書で20世紀の初頭に発見された。マルコポーロが敦煌を通過するときには敦煌をサチューとして「東方見聞録」に紹介している。「多くの寺院・僧院があって、そこにはありとあらゆる偶像が所狭しと安置されている」との記述がある。引用終わり
空港から敦煌市内を経由して西千仏洞へ直行した。西千仏洞は党河の断崖の上にある石窟で莫高窟の西側にある。窟は19箇所現存するがそのうち六ヶ所の窟を見学した。3窟と4窟には何れも唐時代に彫られた3人の菩薩があった。5窟には北魏時代の千仏観音像が彫られており、窟の中心には柱が設けられているが像は水で壊れていた。
6窟は北周時代のもの。7窟は西魏時代に設けられ過去仏、現在仏、未来仏、西夏の涅槃仏が安置されている。9窟は北周時代の千仏観音像。
どの窟も内部の撮影が禁止されているので像を示すことができない。
大地を切り裂いたような裂け目の断崖に窟は穿たれていてよくも根気よく仏像を彫り続けたものだという印象が強い。断崖の前の広場には樹齢の大きなポプラの木が生い茂っていた。
陽関に赴く前に南湖郷の「陽関農家園」という農家で昼食を摂った。野菜が豊富に使われた田舎料理だが美味かった。
陽関には関は残っておらず、大きな粘土の固まりのような狼煙台の跡が残っていた。漢民族の勢力の及ぶ最西端の関所である。また西域南路への起点ともなる場所でここから先は西域となるのである。詩人王維の「謂城の朝雨軽塵を?るおす」で始まる送別の歌で有名な所である。なお、狼煙台に「狼」という字が使われるのは狼煙の燃料として使われる植物の茎に狼の糞を乾燥して混ぜたからであるという。ここでは観光客誘致のため最近完成した陽関博物館を見学した。展示物には特筆に値する見るべきものはなかった。
更に沙漠の中をかなりの距離疾駆して玉門関も見学した。玉門関へ急ぐバスの中で蜃気楼を見ることができた。或いは逃げ水であったかも知れない。
玉門関には東西24m、南北26.7m、高さ9.7mの巨大粘土の固まりのような長方形の関の跡が残っていた。陽関と並んで漢民族の国家権力の及ぶ最西端の遺跡でありここから先は天山北路へ通じる西域となるのである。
敦煌市博物館を見学した後、敦煌市内のレストランで敦煌名物の「雪山駝掌」という特別料理を賞味した。駱駝の足の掌を調理したものだがゼラチン質の肉片でそれほど美味いとも思わなかった。一切れ食べただけで止めにした。
ホテルへ帰ってからは莫高窟の研究所に30年務めているという楊麗英女史から莫高窟についての講義を約一時間聞いた。文化大革命の時には各地の文化遺産が破壊されたがここ敦煌では紅衛兵が押し寄せはしたが管理人の説得に応じて破壊活動はしなかつたので被害にはあわなかったという。
平成16年7月4日(日)
今回の旅行のハイライトとも言うべき莫高窟の見学である。説明には昨夜講義を受けた楊麗英女史があたって下さったのでその流暢な日本語とともに説明も判りやすかったと感謝している。
日曜日のせいか観光客が多い。人混みのなかを入り口の方へ歩いて行くと先ず飛天の像が目につく。これは敦煌市のシンボルともなっている像である。
更に歩を進めると莫高窟の門がある。莫高窟の門を潜ると土色の回廊が見えてくる。回廊は概ね二層になっていて壁には洞が穿たれているのが目に入る。やがて8層からなる莫高窟では最大の建造物である96窟が見えてくる。これは莫高窟を紹介する書籍やパンフレツトには必ずでてくる有名な朱塗りの建物である。中には高さ35.5mの大弥勒大仏が自然の山を利用して造仏され鎮座している。窟内は撮影禁止である。
▼莫高窟について
莫高窟は敦煌の街から東南約25kmにあり、東は三危山から西は鳴砂山の間の崖に営まれている。BC366年に楽?という僧がこの崖下に立つと向かいの三危山が金色に輝き、何千もの仏の姿が光の中に見えたという。そこで楽?はここを聖地とし、崖に石窟を彫り始めたのである。これが莫高窟の起源である。
莫高窟の多数の芸術品に酔った後、敦煌市内の沙州市場を見学した。
リコウ杏という果物は梅と桃を一緒にしたような感じの果物であるが、食べるととても美味しいので、市場で三元分買った。洗いもしないでそのままかじった。これが影響したのか翌日便が緩んで悩まされた。海外では生野菜とか果物には要注意であることを思いしらされた。
夕食後、午後7時から鳴砂山と月牙泉の見学に出かけた。7時だというのに太陽はまだ傾きかけたばかりで日本のこの時節の感覚では午後3時か4時頃のような気がする。
駱駝の背中で揺られながら鳴砂山の麓まで行った。砂丘は砂滑りをしている若い人達で賑わっていた。
風が吹くと砂が雷のようにゴロゴロという音を出すので鳴砂山と名付けられたという。長い年月をかけて周辺から吹き寄せて留まった砂が東西40km、南北20kmの巨大な砂山を作っている。太陽の当たる面と陰になる面とが幾何学的な明暗をくっきりと対比して見せている。駱駝を下りた場所から塔の見える方向へ進むと、三日月の形をした月牙泉に至る。月牙泉は東西200m、巾50mあり深さは平均5mである。沙漠の真ん中にある池であるが枯れることはないという。地下に水脈のあるオアシスになっているのである。
月牙泉の畔にはお寺が建っていて堂内の一室では鳴砂山をテーマにした写真展が開かれていた。吹き寄せる砂が寺の屋根瓦に堆積していた。
平成16年7月5日(月)
朝9時に敦煌賓館を出発して沙漠の中をひた走った。羊や山羊が放牧されているのを眺めたり、祁連(きれん)山脈を横に見ながら沙漠のマッサージに身を委ねていた。道路に平行して寿命3000年と言われるポプラ並木がけなげにも続いているのでその生命力の強さに感動を覚えて眺めていた。途中、道路が通行止めになっている箇所があり、舗装されてない旧道を迂回した。今まで気がつかなかったが、旧道に入ると道路の傍らに側溝が掘られており沙漠の中を雪解け水が奔流のように流れていた。側溝はコンクリートで固められた巾1m程のささやかなものであり、本線を通っているとその存在に気がつかなかったであろう。そしてこの側溝に水が流れているから枯れもせずポプラ並木が続いているのだと了解した。と同時に沙漠の中にこの側溝と道路を付設した人間の弛まざる営為のことに思いを馳せていた。
昼食を安西市内のレストランで摂ってから楡林窟へむけて走った。やがて楡林ダムと楡林川を横に見たと思ったら楡林窟へ到着していた。
楡林窟は敦煌の東南約170kmのところにある石窟群で莫高窟と異なり、西洋人による収奪を受けていない。海抜1660m、長さ650m、巾約100mの楡林河が大地を浸食して形作る雄大な渓谷の中にある。
ここでも窟内は写真撮影が禁止されているので現地で購入した「安西楡林窟」というパンフレットに搭載されている写真から転載することとし、訪問した順序に従って画像を示す。
平成16年7月6日(火)
朝8時に安西の瓜州賓館を出発して嘉峪関へ向かった。安西市の官庁や会社は丁度始業時間にあたり、職員や社員達が道路に出て整列し朝の体操をしていた。その体操は太極拳の要素をとりいれたような動きである。また市民達はそれぞれに太極拳をしていた。中には扇子をもって大見得を切る人もいて通りすがりにみていても楽しいものである。バスはひたすら嘉峪関へ向けて長駆する。
途中風力発電用の柱が林立し先端で羽が回転している所を目撃することもできた。経済発展が急速に進む中国では深刻な電力不足を抱えており、それを補完するためこのような風力発電にも取り組んでいるであろう。電力事情といえば、ホテルやレストランに入っても照明が暗く、ホテルの廊下等は消灯しており、足元がよく見えないということもしばしばであったし、トイレも薄暗くしており、不用不急の電力は節電しようという官民あげての取り組みを知ることもできた。
正午過ぎにやっと嘉峪関市内へ到着した。都市計画が進んでいて道路も広く新しいビルが建ち並びここでもクレーンがそちこちに建ち並び今まさに普請中の観を呈していた。
嘉峪関は明の長城の西端に当たり、高さ11mの城壁によって囲まれており、「天下の雄閣」として国防の要地であった。北馬?山、南祁連山脈の麓まで長城によって河西回廊をふさいでいた。
城郭内には燕が沢山飛んでいたし、「撃石燕鳴」と称する石が置いてあって石に穿たれている穴に別の石を打ちつけると燕の鳴き声のような音がした。
構内の広さは33,500m2に及び城郭は内城、瓮城、羅城、外城、城壕からなっており、高さ13mの三層の城楼は嘉峪関のシンボルとなっている。
続いて嘉峪関から東20kmの沙漠の中にある魏晋壁画墓の見学に行った。広大な沙漠の中に1,600もの魏晋時代の墓の埋まっている箇所がある。これらの墓には魏晋時代、五胡十六国時代の壁画や彩色画が埋もれている。そのうち第6号窟を見学した。この窟は深さ9.8mであって、1972年に鉄鋼工場が下水道を掘っている最中に偶然発見したものである。
墓の中は前室、中室、後室と三つに分かれていて、前室前には力士が描かれている。
前室には牛を殺す場面や料理をする姿、駱駝等が描かれている。中室にはシシカバブや羊料理、酒を飲む姿、桑を摘む姿が描かれている。後室は夫婦の柩を安置したところである。撮影禁止のため内部の絵は絵葉書から転写することにする。
魏晋壁画墓地を後にして沙漠の中を走りやがてオアシス都市酒泉へ到着した。酒泉公園に先ず立ち寄った。夕方5時半になろうというのに日はまだ高い。
この公園は目下工事中であったが、地名発祥の源となった泉を見学した後池の周辺で時間を潰した。ここで有名なのは霍去病が匈奴征伐に戦功を挙げ、漢の武帝から賜った褒美の酒が全兵士に行き渡るようにと泉に注いだ故事である。酒が注がれると泉からは酒が滾々と湧き出て泉の水が美酒に変わったというのである。その泉は現存していまなお清水が湧き出ていた。どこの名泉にもあるようにここでも泉の中にはコインが泉源めがけて多数投げ込まれていた。商売上手の中国人であるから多分「酒泉」と銘うった地酒があるかとガイドに聞いたり、酒屋で探したがそれはないということで意外に思った。もし日本人であれば本家争いをする程に沢山の似たような銘柄の地酒が土産物屋の店頭には氾濫しているだろうというのに・・・
平成16年7月7日(水)
朝8時にホテルの服務員達に見送られて酒泉市内の鐘鼓楼を見学にでかけた。今日は沙漠の中を次のオアシス都市張掖まで沙漠の中を長駆する日である。
鐘鼓楼は4世紀中頃建てられたが消失し、清時代に再建された。東西南北にそれぞれ次のような門額が掲げられていて、東西南北を結ぶ要衝の地であったことが窺える。
東迎華岳(東は華山を迎え)
南望祁連(南は祁連を望む)
西達伊吾(西は伊吾に達す。伊吾は現在の哈蜜)
北通沙漠(北は沙漠に通ず)
酒泉市内の楡の並木路が街の姿に風格を添えていた。
張掖市近郊の黒水城へ立ち寄った。漢の時代に造られた古城跡であり、東西2km、南北やく2.5kmあり、見るべき建物は残っていなかったが狼煙台の跡は確認できた。
張掖市のホテルへ到着し沙漠走行中の汗と埃を流してからホテル近くの大仏寺の見学にでかけた。大仏寺の創建は西夏の永安元年(1098年)で大仏殿の中には体長34.5m、肩の幅7.5mの釈迦仏の涅槃像が横たわりその周辺には十大弟子の塑像がずらりとならんでいた。
大仏寺の後にはチベット仏教式の土塔が建っていたし、各堂塔の庇に吊るされた風鈴がカランカランと涼しげに音をたてていた。燕が沢山飛び交っていたのも印象的であった。この寺の縁起は西夏時代にある国師が座禅をしていると物音が聞こえたので掘り返してみると地下から仏が一体出土したということである。
バスで走行中、今日は日本では七夕でいろんな行事があるが、中国ではどのような行事をするのかとガイドの王さん、劉さんに聞いてみたが、本人達に知識がないのか特別な行事はしないという回答が返ってきた。本来1月1日、3月3日、5月5日、7月7日、9月9日は陰陽五行説からは陽の日であり、祝い事が行われる。何れにしてもこのような行事の本家は中国であろうと思っていたが現地人ガイドが何も知らないというのは意外であった。
平成16年7月8日(木)
この日は珍しく雨が降っていた。地元の人達は恵みの雨だと喜んでいたが、旅行者にとっては雨は鬱陶しいものである。幸い本日は移動日のようなもので雨が禍することもなかろう。
朝9時に張掖市のホテルを出発して、次なる目的地、張掖市粛南裕固族自治県へ向かった。この当たりは河西回廊の中でも南北の幅が最も狭い地域であり、バスはやがて祁連山脈の麓へと入っていった。標高は2000m位である。小雨が降っているせいもあるが肌寒さを感じる程度である。
バスを降りて前方を見ると祁連山脈の山々を後に控えてパオが幾つも並んでいる。裕固族の村落である。手前には地域活性化の目的で観光客誘致目的で建てられたと思われる新しい建物が軒を並べている。中国沿海部の発展に刺激されて山間の僻地にも開発の波が押し寄せてこれから売り出そうという村の意志が窺える。
この村落へ向かって暫く歩いて行くとジーパン姿でほっぺの赤い若い女性が出迎えてくれてパオ村の方へ誘導してくれた。ほっぺが赤いのは化粧しているのではなく、霜焼けしているのである。パオへ到着すると5人の若い女性が民族衣装を纏って、客人一人一人に白い布を肩にかけてくれて歌を歌いながら杯に酒を酌んで勧めてくれる。
客人を歓迎する最初の儀式である。みると先程道案内をしてくれた女性も民族衣装に早変わりしている。考察してみると彼女はジーパンの上にスカートをつけているのだ。最初あったとき、なんだかお腹が膨らんでいるなという印象をもったが、スカートの裾をまくりあげて上着の下に隠していたのである。そのためお腹が膨らんでみえたという次第である。
パオと書いたが我々が招き入れられたのは厳密にはパオではなく、仮設テントにすぎない。ここにも観光を売り物に地域活性化を図ろうとする中国人の悪しき商業主義が垣間見える。田舎者の純朴さを装った狡賢いしたたかさを感じ取ったのは筆者だけであろうか。 パオの中で椅子に着席すると、油で揚げたパンとそば粉を水に溶いたような飲み物が振る舞われた。バターも添えられている。当然の事ながら仮設テントであるから絨毯は一枚もなく、丁度品もない。従って客人は靴を脱ぐ必要もない。
客人達が全員着席したのを見届けると、彼女達は客人に対し一人三回ずつ酌をしてまわりその都度声を合わせて歓迎の歌を歌うのである。
歓迎の酌が終了したところで、5人の若い女性達による民族舞踊が始まった。音楽はCDに録音された曲である。三種類ほどの踊りが終了した時点で今度は客人も中に入って踊るよう誘いかけてきた。いよいよフィナーレであるらしい。旅の恥はかきすてとばかりに誘われるままに最初に踊りの輪の中に入っていくと、これに刺激されたように次から次へと客人達も加わり見よう見まねで踊り、楽しく交歓することができた。やがて終わりの時がきて今度は惜別の杯の勧めである。度のきつい白酒をしこたま飲まされて客人達は皆ご機嫌であった。
裕固族というのはウイグル族の先祖にあたり高地で遊牧と農業に従事してきてこの地に住み着いた少数民族である。この自治県に約二万人住んでいるが、中国に56種族ある少数民族の中でも最も人口の少ない民族であるという。
裕固族の訪問を終えて山沿いにある馬蹄寺の石窟を遠くから見学した。
張掖のホテルへ一旦帰って昼食を摂った後、武威まで長駆280kmの沙漠のドライブである。途中漢代と明代の長城の遺構を発見し、バスを停めて写真を撮った。
18時過ぎに武威の天馬賓館に投宿した。
平成16年7月9日(金)
9時に出発して武威市内の雷台に向かった。市内の会社や官庁の始業時間と重なる時間帯だったので道路のあちこちで始業体操を目撃した。また武威市も普請中であった。
雷台とは、雷神廟の土台という意味で名付けられた史跡である。1969年9月に後漢時代の大型墳墓が発見され、耳室から沢山の馬軍が出土した。墓は前室、中室、後室、耳室とからなり、19mの長さがある。出土品では「馬踏飛燕」が有名である。長さ34.5cm、高さ45cm重さ7.5kgの銅製の奔馬である。この墓は張という将軍の墓であったことが判っている。墓内部の埋葬物は盗掘にあって殆ど残っていない。粘土を使わずに煉瓦を組み上げて造った墓はアーチ構造になっており、1927年に発生した7.8度の地震にも耐えて現在にその姿を止めている。
雷台の次に甘粛省で最大の孔子廟である文廟を見学した。
この文廟は中国の中では3番目に数えられ、明代の1439年に創建された。
孔子廟の天井に掲げてある沢山の掲額は文曲星という道教の神に捧げるために著名な書道家や彫刻家などの文化人が奉納している。
庭には香港返還の年1998年に香港の篤志家が建てた大きな孔子の銅製像が佇立している。
また博物館には西夏文字の大きな碑があり女性研究員達が拓本
をせっせと採っていた。 再び天馬賓館に戻り昼食を摂った後、蘭州へ向けて沙漠のドライブが始まった。途中海抜3000mの鳥鞘嶺(うしょうれい)峠から眺めた山並みと一面の菜の花畑の美しさは筆舌に尽くし難いし、馬鹿チョンカメラをもってしてもうまく表現できない。
鳥鞘嶺での絶景を堪能してからバスは山間の沙漠を蘭州へ向けてひた走った。大概の乗客は沙漠の景色には見飽きて居眠りを始めていたが、筆者は飽きることなく窓外に移りゆく景色に何か発見はないかと眺め続けた。
そのうち周囲の禿げ山に鉢巻き状の筋が一定の間隔で刻まれているのに気がついた。これが植林のための土壌作りだと気がつくまでに時間はかからなかった。かつて内モンゴルへ遊んだ時、これと大同小異の光景を見たことを思い出した。バスがこの鉢巻きに接近した時、この考えに間違いのないことを確信した。それは鉢巻き状の線は近くで見ると幅をもった溝になっており、ビニール袋に穴の空けたものが置かれている。これは肥料と土壌改良剤の混合したものが入っているのだろう。灼熱の太陽に焼き付けられて肥料と土壌改良剤が地山と緩やかに反応して土壌が形成されるのである。ある程度土壌が出来上がったところで今度は苗木を植えていくのである。それはそれは気の遠くなるような時間のかかる大事業であり、人間の弛まざる営為の産物なのである。沙漠の中にある山という山にこの鉢巻き状の線条が刻まれているのである。内モンゴルで聞いた話ではこの植林のための作業のために税として農民の労力が駆り出されるということであった。残念ながらガイドは西安育ちだからこのことについては何も知らなかった。
この禿げ山の線条に緑の小さな苗木の植えられているのが目につくようになつた頃、漸く蘭州近郊に到着していた。蘭州市内に入るとこの緑化運動は蘭州から始まっていることが歴然としてきた。緑化センターという看板も見えたし、かなり成長したポプラ等の植樹が帯状に生い茂っているのを目撃したのは蘭州市内に入ってからであったからである。
更にもう一つの発見は蘭州市内に入ってくると緑の増えてきた山の断崖に穴が掘られているのが沢山目につくようになった。これは黄土地帯に古くからあったヨートンという住居跡ではないかと見当をつけた。この推定が正しいかどうか執拗にこの横穴に注目していた。今は廃墟と化して打ち捨てられているものもあれば、ごみ捨て場や物置に転用されているようものもあることに気がついた。更にこれがヨートンに違いないと確信したのはこの穴に窓と扉がつけられて人間が住んでいる穴を幾つか目撃したからである。高速で動いているバスからなので写真が鮮明に撮れなかったのが残念である。
夕暮れに到着した蘭州の中心地でも普請は続いており、夕方遅くまでクレーンが作動して新しいビルの建設作業中であった。
夕方蘭州の飛天大酒店に到着し、市内のレストランで蘭州名物の牛肉麺に舌鼓を打った。
平成16年7月10日(土)
朝早く蘭州の飛天大酒店を出発して沙漠の中をを劉家峡ダムへ向けて疾駆した。
目的地は炳霊寺石窟の見学である。約2時間走行して劉家峡ダムの船着場へ到着した。船着場からはモーターボートに乗ること約1時間で45km先の炳霊寺に到着した。今は渇水期にあり水位は相当下がっておりモーターボートも浅瀬に乗り上げないようエンジンを切って漂うように進むこともあった。
モーターボートのスピードが意外に早いのは驚きであったが、更に驚いたのは、モーターボートのどこにも救命胴着が設置されていないことであった。乗船前にも後にも安全に対する注意はひとこともなかった。膨大な人口を抱える中国社会の人命や人権に対する評価の程度が推し量れるなと思ったし安全意識の水準は相当低いなとも思った。
河の水の色が茶褐色であったのもちょっとした驚きであった。粘土質の黄土が溶け込んでいるのでこのような色になるのであろうか日本の河川では見られない色である。
炳霊寺とはチベット語で千仏万仏を意味するという。石窟数は183箇所あり、西秦時代から清時代に渡って石窟は造られたがその80%は唐代のものである。高さ27mある唐時代の大仏は炳霊寺のシンボルとなっている。上半身は石彫で下半身は泥塑像である。 見学したのは6窟、9窟、11窟、70窟、16窟である。
平成16年7月11日(日)
昨日夕方蘭州から再び西安に飛び西安賓館で最後の夜を過ごして今回の旅の締め括りとして西安市内の西の城門を訪ね、シルクロードの起点から西へ伸びる河西回廊を感慨をもって眺めた。今回の旅の印象は素晴らしい芸術作品に触れたことと、中国の内陸部にも開発の波が押し寄せ至る所で普請が行われていることであった。恐れるべし中国の活力。
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旅程地図
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西安空港の新しい建物
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西安市内近くの道路工事
道路の片側を囲っていた。 -
工事現場に出入りの車
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西安市内の建築中のホテル
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西安市内の新しいビル
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西安市近郊の地上げ現場
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鐘鼓楼 生憎逆光で鮮明な画像が撮れなかった。
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鐘鼓楼近くの餃子で有名な店
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俯瞰した沙漠の中のオアシス
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手前のオアシスの向こうに沙漠を挟んで崑崙山脈の雪山が見える
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敦煌上空から見た俯瞰図
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西千仏洞の窟の穿たれている断崖
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西千仏洞のある渓谷に生い茂るポプラ↑ 手前の砂岩の下方の断崖に窟がある。
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「陽関農家園」の田舎料理
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陽関の狼煙台遺跡
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陽関博物館
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玉門関
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敦煌博物館
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敦煌名物料理「雪山駝掌」
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ガイドの楊麗英女史
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莫高窟の入り口にある飛天の像
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莫高窟の入り口の門
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断崖に手摺りのつけられた窟群
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96窟の8層の楼
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莫高窟の全景
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市場の野菜売り
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月牙泉の畔の寺院
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月牙泉
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鳴砂山
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沙漠の山羊飼
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手前はラクダ草、山は祁連山脈
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幹線道路から眺めたポプラ並木
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迂回した旧道側を流れる雪解け水
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楡林窟の入り口から見た窟全景
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楡林窟の洞と手摺り
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ここでも窟内は写真撮影が禁止されているので現地で購入した「安西楡林窟」というパンフレットに搭載されている写真から転載することとし、訪問した順序に従って画像を示す。
▼2窟 西夏時代
西壁北側 水月観音 -
西壁南側 水月観音
前掲の画像とともに、これらの観音像は顔面と光背の部分の顔料が変色して黒っぽくなっている。 -
▼3窟 西夏時代
西壁南側 普賢菩薩 -
西壁北側 唐僧取経図
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西壁北側 文殊菩薩
北側の水月観音では画像には表示しきれないので上の図に別に示すように、川の対岸に玄奘三蔵取経図を表しており、玄奘は袈裟を纏い、観音に向かって拝んでいる姿が描かれている。その後には孫悟空と白馬も控えている。 -
▼3窟 西夏時代
東壁南側 千手観音 -
▼4窟 元時代
北壁東側 釈迦多宝並座説法図 -
▼4窟 元時代
南壁西側 説法図 -
▼25窟 中唐時代
北壁 弥勒経変 -
▼25窟 中唐時代
北壁 弥勒経変中嫁娶 -
▼25窟 中唐時代
北壁 弥勒経変中耕獲 -
▼25窟 中唐時代
南壁 観無量寿仏経変 -
▼25窟 中唐時代
西壁北側 文殊菩薩及び侍従 -
▼19窟 五代時代
左 窟通路北壁 涼国夫人供養像
右 窟通路南壁 曹元忠供養像
▼6窟 唐時代 一番大きな唐代の大仏が石壁を彫ってその上に粘土を塗って作られた。晋の時代に金箔を塗った。大仏の下部は川の洪水で浸水したため壁画が消失した。天井や壁には千仏が描かれている。画像は示せない。 -
▼17窟 初唐時代
赴会菩薩
この洞窟は唐時代に造られ。五代、宋代、西夏、清時代に改修されたが図示してある五体の法会行き菩薩は宋代に描かれたものである。この菩薩は華やかな服装で顔が広く体も大きく表情が穏やかである。呉道子の画風が再現されている。
この窟には1907年、スタインの通訳の名前が落書きされていた。 -
▼15窟 中唐時代
前室頂南端 笛吹飛天
この洞窟は宋、西夏、元、清時代に再建されたが、前室の天井の南端に描かれた笛吹飛天は中唐期の原作である。唐時代の傑作である。尚この窟には迦葉、阿難の像もある。 -
▼16窟 五代時代
この窟は曹氏一族によって造られ、壁には家族が描かれている。
前室西壁北側 供養天女
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▼16窟 五代時代
通路南壁 曹議金供養像 -
風力発電のプロペラ
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嘉峪関の入り口
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嘉峪関
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嘉峪関の建物、後方が三層の城楼
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嘉峪関の城郭内
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嘉峪関より南へ伸びる長い城壁
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こんもりした小山の下に墓がある。煙突様のものは換気のためのもの
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下の短冊型二枚は魏晋墓壁画
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魏晋墓壁画
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酒泉公園の泉
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ホテル服務員の見送り
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鐘鼓楼
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酒泉市内の楡の並木路
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黒子城跡
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黒子城狼煙台跡
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大仏寺の本堂、この中に涅槃仏が祀られている
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チベット仏教式の塔
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祁連山脈の山々の麓にある村落のパオ
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バスの発着場付近にできた新しい建物
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歓迎の白い布を客人一人一人に捧げる
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着席した客人に歓迎のお酌
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民族舞踊
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客人と共にフィナーレ
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馬蹄寺の石窟
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中央に盛り上がっているのが長城
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朝の始業体操
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地上げ中の武威市内
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雷台から出土した馬軍のレプリカ
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馬踏飛燕の像の前で始業体操中の郵便局員達
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文廟の門
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文廟 天井の掲額
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香港返還記念に香港の篤志家
が寄贈した孔子のブロンズ像 -
峠の鳥鞘嶺(うしょうれい)から見た菜の花畑と山並
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蘭州郊外 植林のため線条に土壌作り
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蘭州市内 帯状に苗木の育っている山とヨートンの跡
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廃墟となったヨートン 幾つも穴がある
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山腹のヨートン、まだ使われている。
穴に扉と門がつけられているのが判る -
蘭州市内のクレーン作業
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手打ち蕎麦の実演
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蘭州名物牛肉麺
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劉家峡ダム
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茶褐色の河の水
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炳霊寺のシンボルの大仏
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炳霊寺石窟
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炳霊寺石窟周辺の光景
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炳霊寺石窟内の仏像
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蘭州市内を貫流する黄河
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西安の西門の起点から西へ伸びるシルクロード
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