2003/10/02 - 2003/10/03
11位(同エリア14件中)
EMUさん
テヘランから南東へ。
パキスタン国境近くの街バムにある
アルゲ・バムに行ってきた。
この遺跡に行こうと思ったきっかけは、ビデオ版「深夜特急」で登場し、その様子を見て、ぜひ行ってみたいと思ったからだ。
かつての栄光がうかがい知れる壮大な遺跡であった。
今となっては、完全な廃墟だがよくぞここまで残っていたものだと思えるくらい立派である。
しかし、この遺跡、私が訪れた3ヵ月後に地震によって崩壊してしまった。
先日、日本の某商社が復興を担当すると言う噂を耳にしたが、
おそらく元通りまではできないと思われる。
日本でニュースを聞いた時は、愕然としてしまった。
以下が地震の被害状況。
・ 総死者数:約43,200人。
・ 医療治療中の者:約15,000人。
・ 罹災者:約75,600人(約14,730家族)
・ 孤児:約2,000人
・ バム市内を中心として10kmの範囲が被害を受け、旧市街では80−100%、
新市街では60%の建物が倒壊した。
バムの人口は、約10万人である。
4割以上の人が死に4分の3以上が罹災者となった。
バムの宿の主人、遺跡まで案内せいてくれた地元の少年達、サンドイッチ屋の主人、バムの街の人々。彼らの無事を心から祈っている。
バム遺跡の被害状況
バム遺跡「アルゲ・バム(Arg-e-Bam:Bam Citadel)」は、
バム市の北東に位置する四方を城壁で囲まれた城塞都市遺跡。
今回の地震により、遺跡の80%以上が崩壊、
過去32年間にわたり修復活動が実施された部分は全て崩壊。
また、イラン文化遺産局バム事務所の倒壊により、
これまで蓄積された遺跡に係る記録文書の大半が埋もれた。
私が撮った写真に写っているほとんどが崩壊した事になる。
早期の復興を願う。
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テヘランの安宿に早朝まだ日の出前にタクシーを呼び、
バムに行く為、空港の国内線ターミナルに向かう。
確かこの時のタクシーと値段交渉で散々もめた。
私がホテルから聞いていた額より$2高い。
確か$5のはずが$7を請求された。
まあ、その程度だが、額より高くとられる方が腹が立つ。
空港についても延々と英語も通じない相手との交渉。お互い額をどなりあっているだけ。
埒が明かないので、近くを歩いている英語ができる人に助けを求めて、
結局、タクシー側が折れた。どう見ても納得していない様子であったが。
飛行機なのでかなり時間に余裕を見てきた為、待っている時間、暇だった。
どこの空港でも同じだが、すぐに飽きてしまう。
そんな時、ロビーで待っていると、どう見ても日本人のおじさんがいる。
でも服装とかは、地元の人みたいな感じ。
話しかけてみると、日本語は通じない。英語も微妙。
どうもこのおじさんアフガニスタン人で仕事で来ているのだそうだ。
顔立ちはどう見ても日本人でかなり驚かされた。
また、アメリカ軍のアフガニスタン侵攻後、アフガニスタン人に会えるという事も驚きであった。
2時間ほど待った後、ケルマン行きの飛行機に乗る。
隣に座ったのは、イスファハン工業大学?の教授だった。
日本の話、イランの話色々した。
日本人の印象は、まじめでよく働く。尊敬の対象だ。ような事を言っていた。
私が日本人だからかもしれないが、うれしかった。
旅行ルートの話をすると、イスファハンでこの教授は留守らしいが、
友達がいるから、ぜひ歓迎する、立ち寄れと連絡先をくれた。
会社に来ていたイラン国営放送IRIBのリポーターもイランに行くといったら、
イランに行ったら、歓迎するから絶対に連絡しろと連絡先をくれた。
イラン人は、いろいろ接待するのが好きみたいだ。
僕でも海外で会ったら、日本にきたら歓迎すると連絡先を渡したりするけれど、そんな感じかも。
ケルマン空港到着。
この教授を迎えに来ていた車に一緒に乗せてもらい、バスターミナルに向かう。
教授に感謝の言葉を言い、バスターミナルで別れた。
バスは運良く1時間後にバムに行きがあった。
ターミナル内は、さすがピスタチオの産地、
たくさんピスタチオが売っており、それを食べながら待っていた。
写真は、ケルマンからバムへ行くバスの中から。
沙漠の中を走っていく。
3時間、$1くらいだったと思う。やたら安い。さすが産油国。 -
ケルマンからバムへ行くバスの中で
隣に座っていた少年。
ケルマンに親戚に会いに来た帰りだそうだ。
デジカメを見せたら、興味があるらしく、撮ってあげた。 -
バムのバスターミナルに着き、安宿にチェックイン。
到着した時は、15時ごろだったので、
この日のアルゲ・バム見学はやめ、
市内観光とアルゲ・バムの場所確認をする事にした。
バムの市内は、活気があり、にぎわっていた。
特に欲しいものはなかったが、いろいろな物が売っていた。
気になったのが、プレイステーションができるゲームセンターみたいな店。
中でウィニングイレブンらしいゲームをしている。
日本製のゲーム機は、こんな遠くでもされているのか、すごいと思った。
写真の少年達にアルゲ・バムまで案内してもらった。
彼らとは、バム市内を歩いている時に出会った。
日本人だと言うと、「タカハラ!!」と言っている。サッカー選手の高原だ。
この時は知らなかったが、イランの有名選手マハダヴィキアと同じチームだから有名らしい。
その他にも「イナモト、ナカムラ、ナカタ」も知っていると言っていた。
私も「ダエイ、アジジ」と知っている名前を言って盛り上がった。
最後にアルゲ・バムの入り口で少年達と写真を撮って別れた。
地震後の彼らが無事でいる事を祈っている。 -
バムでの宿泊先は、
アクバル・ツーリスト・ゲストハウス。
1泊ドミトリー$3だったと思う。
インターネットも有料でできる。
写真が宿屋のオーナー。
元英語教師らしく、普通に英語が通じ、親切。
宿泊者は、フランス人、ドイツ人、日本人。
どこに行っても会うこの3国の人間。
日本人は、カップル1組、女一人旅1名、男一人旅2名(私を含む)。
女の人は、皆頭と顔を隠す布を被っている。かなり暑いそうだ。
宿は、アルゲ・バムから歩いて30分くらいあり、かなり遠いが、
安さと快適さを考えたら別に苦にならない。
アルゲ・バムくらいしか見所もないので、散歩ついでに丁度いいくらいの距離だ。 -
宿の情報ノート。
この宿、場所柄ユーラシア大陸横断中の旅行者が多い。
イラン滞在中、横断者以外の日本人に会わなかった。
この写真は、アフガニスタン情報が載っているノート。
アフガニスタンは、この時期とても安全と言えるような状態ではない。
丁度、この時泊まっていた男の人が書いたのでいろいろと話しを聞いてみた。
彼は、大学を1年休学して、大陸横断中らしい。
パキスタンからアフガニスタン横断のタクシーを日本人4〜5名でチャーターし横断したそうだ。
3つのルートがあり、
・最も険しくタクシーを押したりするようなAルート、しかし、最も安全。
・そこそこ険しいが、少し危険なBルート。
・かなり楽だが、かなり危険なCルート。
彼は、2つ目のBルートをとったらしい。
彼とは違うアフガニスタン横断したグループには、アメリカ人が一人いて、
見られるとかなりやばいので、ずっと顔を隠させ続けたとか。
横断中は、夜危険で走れないので、昼にとにかく走り続けるそうだ。
日本にいては、なかなか聞けない貴重な話であった。
他には、最近のアフガニスタンでの武力衝突の情報とかが載っていた。 -
アルゲ・バム入り口の写真。
午前中の最高気温に達する前に出発。
でも、かなり暑かった。
この先にチケット売り場がある。
先の情報ノートに係員にワイロを渡すと
安く入れると書いてあったので、とりあえず試すが、だめだった。
次に期限切れの国際学生証を見せて何とか安くしてくれと言う。
散々粘って成功するが、大した額安くなったわけではない。 -
アルゲ・バム入り口付近から砦上部を写した写真。
入り口を入ると、壁をずっと修復している人が数名いた。
見ていると、修復というより、製作という印象が強い。
この為、当時アルゲ・バムに行った人間に感想を聞くと、
皆、未だ建造中の遺跡と言っていた。 -
このような遺跡が続く。
-
少しメインルートから外れるとこういう感じ。
未だ修復、製作!?前なのだろう。 -
アルゲ・バム最上部近くまできました。
とにかく暑くてたまらなかった。
この時は、まだ遺跡を楽しむ余裕がありました。 -
最上部から遺跡を見下ろした写真。
-
アルゲ・バムの中にあるチャイハネの人々。
日差しから避ける場所の無いアルゲ・バムで
唯一のオアシス。
中では、水タバコとかも吸える。
ここで、チャイを飲んだ。
前年のトルコ以来、チャイは好きだ。
小さなコップの紅茶に角砂糖を溶かして飲む。
砂糖の糖分の効果なのか疲れが一気にとれる気がした。
チャイハネのおばちゃんと雑談していると、スイカ食べる??って聞いてきた。
喉が渇いていたし、おなかもすいていたので注文した。
すると、これがめちゃくちゃおいしかった。
丁度いい具合に冷えていて、かつ甘さもすごくあって、最高だった。
私の後に来る人にも勧めたが、冷えていたのはこの時だけだったみたい。
運が良かった。
地震でこのチャイハネももう無いと思うが、非常に印象深いチャイハネであった。 -
アルゲ・バム城壁沿いを歩いた。
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城壁から見える遺跡。
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城壁から見える遺跡。
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城壁から砦最上部を写した。
かつて戦争で城塞として機能していたであろう
アルゲ・バムが偲ばれる。 -
アルゲ・バムから宿に帰ってきて、
バスの時間まで時間をつぶす。
次は、ペルセポリス近くの町シーラーズ。
夜行バスで向かう予定。
直接バムから行くバスが無いと聞いていたので、ケルマン行きのバスの時間まで宿にいた。
丁度、宿の人間も何人かパキスタン国境を目指す人、私と同じケルマンに向かう人がいたので、一緒にタクシーに乗り、ターミナルに向かう。
写真は、バスターミナル。
ここで、チケット売り場で聞くと、シーラーズ直行のバスがあるらしい。
値段もガイドブックとほぼ同じ。というわけでシーラーズ直行バスにする事にした。
しかし、このチケット売り場の人間が言っている事は、嘘だった。
時間が来てバスに乗り、行き先を確認すると、このバスはケルマンまでしか行かないらしい。
チケットにもペルシア語でケルマンまでと書いてあるそうだ。
ケルマンまでにしては、チケットが高すぎる。しかもバスがぼろい。
腹を立てて、降りようとするとチケット売り場の奴がやってきた。
なんか説明しているが、ふざけるな金を返せと言って、
通常のケルマンまでの代金の半分くらいにさせた。
何度も説明したので勘違いでも何でもないと思う。
どうみても普通の公式のチケット売り場っぽいし、隣にもたくさん同じようなのが並んでいる。
何とも腹立たしく思いながら、ケルマンに向かった。
バムからケルマンに向かう途中、チェックポイントがあった。
来る時には、気がつかなかったので夜のみかルートが違うかのどちらかだと思う。
銃を持った兵士がバスの中に乗ってきて、パスポートの提示をさせられた。
この付近は、アフガニスタンから麻薬のルートになっているらしく、厳しいのだろう。
また、バム、ケルマン付近は、外国人旅行者が誘拐される事もあるらしく、
外務省の海外安全HPでは、「渡航の是非を検討して下さい」となっていた。
ケルマンのバスターミナルでシラーズ行きのバスに乗り換える。
これも丁度30分後とかにバスがあり、運が良かった。
この時夜10時ごろだったと思う。
夜行バスでシラーズに向かい、早朝到着。 -
イラン人の観光客親子。
時間つぶしに雑談していた。
ケルマンに帰るそうだ。 -
チェコ人カップル。
さすが東欧、美男美女。
服装も共産圏っぽいなあって思ってしまった。
彼らは、これからテヘランに行き、
列車でチェコまで戻るそうだ。長旅お疲れ様。
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