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この雑記は、私が日本のソフト会社を辞めて、観光ビザで渡米し、カリフォルニアのでソフトウェアの仕事を見つけるまでを日記風に記録したものです。表題を雑記としたのは、日記とするには、日付や内容が、あまりにテキトーだからです。 <br /><br />東京(川崎)での生活<br />1992年頃<br />私は、思った。 <br />なして、こんなに、内容の濃い仕事をしているのに、給料が安いんだ。 なして、こんなに、CとかUNIXとか知っているのに、ボロアパート に住んで、車も変えないんだ。なして、英語とかフランス語とか知っているのに、貧乏くさい生活をしかきゃいかんのか。「なんでやねん」を繰り返し叫んでいる毎日であった。 <br />私は、考えた。 <br />今の私の経験と知識を活かせる仕事は、なんであろうか。要は、頭に来たので、勤めていた会社を辞めて、渡米し、仕事を見つける事にした。日本でのソフトウェアエンジニアの環境は悲惨であった。体力勝負で、労働時間だけは多く給料は少ない。年功序列で、若くて仕事が出来ても、命令だけしている部長の半分の給料だ。しかも、大学の理系の同期で銀行や証券会社に行った奴らの方が給料が数段高い。「んな、あほな。」<br /><br />渡米を決心<br />そんな東京での生活が、イヤでイヤでたまらなくなり、なんとか生活環境を変えようと努力する。しかし、東京では、良いマンションに住むのにも、車を買うのにも、金がかかりすぎる。私の給料では、今の生活が精一杯であった。もう、どうなってもエエ。アメリカに行って仕事を見つけよう。今の自分のスキルだと、アメリカでの仕事の方が自分に合っているハズだ。若い時は実力主義のアメリカで仕事をし、歳を取ってから年功序列の日本に帰った方が効率はいい。要は、半分やけくそで、「よしなさい」の声を耳に貸さず、渡米の決意をした。 <br />(後注)年を取ってからでは、日本での再就職は難しいのは、後から発見しました。 <br /><br />インターネットとNIFTY Serve<br />当時(1992)は、パソコン通信がもてはやされ始め、インターネットはUNIXユーザー内では常識であったが、一般には広まってはいなかった。インターネットの日本とアメリカとの回線の幅はまだ細く、アメリカから大サイズのファイルをダウンロードする時には、時間帯に気を付けるようにと言われていた。私は家から、NIFTY Serve にアクセスしており、そこからシリコンバレーの情報が手に入らないのか、探り始める。すると、FUSLIFE という、フォーラムを見つた。そこは、アメリカ在住の日本人が多く参加していて、アメリカの生の情報に溢れていた。私は、そこで、シリコンバレーで、プログラマーの仕事を見つけられないかと質問してみた。そこで知り合ったのは、池川さんでした。彼とは、NIFTY のメールで何度かやり取りをして、ビザの情報等を質問しました。彼が弁護士から聞いた話によると、コンピュータ関連の学位があってアメリカで雇用先が見つかれば、就労ビザが出る可能性有り。道はあるらしが雇用先が見つかるかは未知数。 <br /><br />当初の予定と、現実の予算<br />渡米するにあたり、ビザの問題があります。私がまず考えたのは、昔からの念願であった、飛行機免許を取るために渡米し、そこで数ヶ月何らかビザで滞在、その間に就職活動をする。こんな計画でした。それには飛行機免許に50万。滞在にさらに30万が、車とかを買う事を考えれば100万は必要でした。しかし、その時点の貯金は、バブル後不況でボーナスも大幅にカットされ40万がやっとでした。私が勤めていた会社は中小ソフトハウスなので、ボーナス50%カットとがありました。大企業ならそこまではしません。 <br /><br />開戦前夜<br />とりあえず今の会社を辞めないといけません。社長に話しましたが、納得いかない様子でした。「アメリカに行く、そんなのが理由になるのか。それで成功する見込みがあるのか心配だ。」と言われましたが、なんとか1ヶ月後に辞めれました。会社の人も心配そうでした。航空券はシンガポール航空のLA行き片道を買う。2月なので7万くらいでした。パスポートは、更新したばかりでしたので大丈夫ですが、もう一度、B1-B2ビザ(観光ビザ)を取ろうと思い、アメリカ大使館に申請しましたが、なんと、ビザの発行が却下。無職の者にばビザは出せないらしい。しかたなく、パイロットプログラムを使う為に航空券をダミーの往復にしてもらう。ダミーの帰国便は3日後。出発1週間前あたりから、お別れパーティを連発し、前日は終電まで飲まされてしまう。 <br /><br />1993年2月19日この日は、私の25歳の誕生日である。<br />なんでこの日にしたのかは、覚えやすいのと、アメリカのレンタカー会社は24歳以下には車を貸さないから。24歳は、まだまだガキあつかいされてますな。それと、誕生日が日本とアメリカで2回来る、どっちも、誰も祝ってくれへんが。単に年を余計に取るだけかもしれん。前日のパーティの影響で、二日酔いのまま成田空港へ。京成電車の中で、ちょっとひらめく。前のパスポートには B1/B2ビザがある。パスポートの期限は過ぎているが、ビザの期限は残っている。もしかしたら、このビザは使えるのかもしれん。試しに、旅行代理店の人に聞いたら、このビザは使えるとの事。すごくラッキー、とうか、私の無知というか。。。このビザは、学生時代にカナダにワーキングホリデーに行った時に、アメリカを通過する為に取ったもの。当時は学生だったので、学生証と、カナダのワーキングホリデービザを見せたら、すぐにアメリカのB1-B2ビザをくれたのであった。<br /><br />まずは、LAへ<br />LAXのファイナルアプローチコースから、ダウンタウンが見えた。今日は珍しく天気が悪いらしい。雷も鳴っている。悪い事が起こる前兆か。そんな事は気にしていなかった。もう開き直っていたから。LA空港の入国審査は緊張した。きちんとビザは使えるのか? 帰りの航空券は3日後だが、3日しか滞在許可がでなかったらどう抗議するか?など。。いろいろ心配し、やさしそうな、移民局のおっちゃんの列に並ぶ。 たが、イミグレのおっちゃんは、一言も質問せずに、5ヶ月の滞在許可をくれた。あー良かった。 <br />LAの空港でレンタカーをし、右折を2回した所の安モーテルに泊まる。当時は、左折をするのが恐かった。到着日は、雷雨と集中豪雨がすごくて、雨水で道路がいたる場所でうもれていた。天気予報は、1週間連続の雨、雨、雨。これがカリフォルニアなのか?まぁ、俺は、長期滞在するから、雨の日が続いても関係ないや。  <br /><br />San Diego へ<br />次の日は雨も止み。なんとか車を走らせ、南に向かう。San Diego Freeway に乗りそこねて、マンハッタンビーチなどをうろうろしながら、やっと Freeway に乗る。途中、左側の追い越し車線に入るのが恐かったりしたが、ドライバーのマナーが最高に良くてびっくりする。San Diego に行き、従兄弟の家に泊めてもらう。いきなりビール1杯の飲酒運転をされられた。 <br />(後注)カリフォルニアは、血液中のアルコール濃度で飲酒運転を判断しているので、ビール2杯程度なら飲酒運転になりませんでした。 <br />

シリコンバレー就職活動雑記

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1993/02/19 - 1993/05/20

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Himadeus

Himadeusさん

この雑記は、私が日本のソフト会社を辞めて、観光ビザで渡米し、カリフォルニアのでソフトウェアの仕事を見つけるまでを日記風に記録したものです。表題を雑記としたのは、日記とするには、日付や内容が、あまりにテキトーだからです。

東京(川崎)での生活
1992年頃
私は、思った。
なして、こんなに、内容の濃い仕事をしているのに、給料が安いんだ。 なして、こんなに、CとかUNIXとか知っているのに、ボロアパート に住んで、車も変えないんだ。なして、英語とかフランス語とか知っているのに、貧乏くさい生活をしかきゃいかんのか。「なんでやねん」を繰り返し叫んでいる毎日であった。
私は、考えた。
今の私の経験と知識を活かせる仕事は、なんであろうか。要は、頭に来たので、勤めていた会社を辞めて、渡米し、仕事を見つける事にした。日本でのソフトウェアエンジニアの環境は悲惨であった。体力勝負で、労働時間だけは多く給料は少ない。年功序列で、若くて仕事が出来ても、命令だけしている部長の半分の給料だ。しかも、大学の理系の同期で銀行や証券会社に行った奴らの方が給料が数段高い。「んな、あほな。」

渡米を決心
そんな東京での生活が、イヤでイヤでたまらなくなり、なんとか生活環境を変えようと努力する。しかし、東京では、良いマンションに住むのにも、車を買うのにも、金がかかりすぎる。私の給料では、今の生活が精一杯であった。もう、どうなってもエエ。アメリカに行って仕事を見つけよう。今の自分のスキルだと、アメリカでの仕事の方が自分に合っているハズだ。若い時は実力主義のアメリカで仕事をし、歳を取ってから年功序列の日本に帰った方が効率はいい。要は、半分やけくそで、「よしなさい」の声を耳に貸さず、渡米の決意をした。
(後注)年を取ってからでは、日本での再就職は難しいのは、後から発見しました。

インターネットとNIFTY Serve
当時(1992)は、パソコン通信がもてはやされ始め、インターネットはUNIXユーザー内では常識であったが、一般には広まってはいなかった。インターネットの日本とアメリカとの回線の幅はまだ細く、アメリカから大サイズのファイルをダウンロードする時には、時間帯に気を付けるようにと言われていた。私は家から、NIFTY Serve にアクセスしており、そこからシリコンバレーの情報が手に入らないのか、探り始める。すると、FUSLIFE という、フォーラムを見つた。そこは、アメリカ在住の日本人が多く参加していて、アメリカの生の情報に溢れていた。私は、そこで、シリコンバレーで、プログラマーの仕事を見つけられないかと質問してみた。そこで知り合ったのは、池川さんでした。彼とは、NIFTY のメールで何度かやり取りをして、ビザの情報等を質問しました。彼が弁護士から聞いた話によると、コンピュータ関連の学位があってアメリカで雇用先が見つかれば、就労ビザが出る可能性有り。道はあるらしが雇用先が見つかるかは未知数。

当初の予定と、現実の予算
渡米するにあたり、ビザの問題があります。私がまず考えたのは、昔からの念願であった、飛行機免許を取るために渡米し、そこで数ヶ月何らかビザで滞在、その間に就職活動をする。こんな計画でした。それには飛行機免許に50万。滞在にさらに30万が、車とかを買う事を考えれば100万は必要でした。しかし、その時点の貯金は、バブル後不況でボーナスも大幅にカットされ40万がやっとでした。私が勤めていた会社は中小ソフトハウスなので、ボーナス50%カットとがありました。大企業ならそこまではしません。

開戦前夜
とりあえず今の会社を辞めないといけません。社長に話しましたが、納得いかない様子でした。「アメリカに行く、そんなのが理由になるのか。それで成功する見込みがあるのか心配だ。」と言われましたが、なんとか1ヶ月後に辞めれました。会社の人も心配そうでした。航空券はシンガポール航空のLA行き片道を買う。2月なので7万くらいでした。パスポートは、更新したばかりでしたので大丈夫ですが、もう一度、B1-B2ビザ(観光ビザ)を取ろうと思い、アメリカ大使館に申請しましたが、なんと、ビザの発行が却下。無職の者にばビザは出せないらしい。しかたなく、パイロットプログラムを使う為に航空券をダミーの往復にしてもらう。ダミーの帰国便は3日後。出発1週間前あたりから、お別れパーティを連発し、前日は終電まで飲まされてしまう。

1993年2月19日この日は、私の25歳の誕生日である。
なんでこの日にしたのかは、覚えやすいのと、アメリカのレンタカー会社は24歳以下には車を貸さないから。24歳は、まだまだガキあつかいされてますな。それと、誕生日が日本とアメリカで2回来る、どっちも、誰も祝ってくれへんが。単に年を余計に取るだけかもしれん。前日のパーティの影響で、二日酔いのまま成田空港へ。京成電車の中で、ちょっとひらめく。前のパスポートには B1/B2ビザがある。パスポートの期限は過ぎているが、ビザの期限は残っている。もしかしたら、このビザは使えるのかもしれん。試しに、旅行代理店の人に聞いたら、このビザは使えるとの事。すごくラッキー、とうか、私の無知というか。。。このビザは、学生時代にカナダにワーキングホリデーに行った時に、アメリカを通過する為に取ったもの。当時は学生だったので、学生証と、カナダのワーキングホリデービザを見せたら、すぐにアメリカのB1-B2ビザをくれたのであった。

まずは、LAへ
LAXのファイナルアプローチコースから、ダウンタウンが見えた。今日は珍しく天気が悪いらしい。雷も鳴っている。悪い事が起こる前兆か。そんな事は気にしていなかった。もう開き直っていたから。LA空港の入国審査は緊張した。きちんとビザは使えるのか? 帰りの航空券は3日後だが、3日しか滞在許可がでなかったらどう抗議するか?など。。いろいろ心配し、やさしそうな、移民局のおっちゃんの列に並ぶ。 たが、イミグレのおっちゃんは、一言も質問せずに、5ヶ月の滞在許可をくれた。あー良かった。
LAの空港でレンタカーをし、右折を2回した所の安モーテルに泊まる。当時は、左折をするのが恐かった。到着日は、雷雨と集中豪雨がすごくて、雨水で道路がいたる場所でうもれていた。天気予報は、1週間連続の雨、雨、雨。これがカリフォルニアなのか?まぁ、俺は、長期滞在するから、雨の日が続いても関係ないや。

San Diego へ
次の日は雨も止み。なんとか車を走らせ、南に向かう。San Diego Freeway に乗りそこねて、マンハッタンビーチなどをうろうろしながら、やっと Freeway に乗る。途中、左側の追い越し車線に入るのが恐かったりしたが、ドライバーのマナーが最高に良くてびっくりする。San Diego に行き、従兄弟の家に泊めてもらう。いきなりビール1杯の飲酒運転をされられた。
(後注)カリフォルニアは、血液中のアルコール濃度で飲酒運転を判断しているので、ビール2杯程度なら飲酒運転になりませんでした。

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  • 車を購入<br />San Diego の従兄弟の家にいる間に、アメリカ生活に必要な環境を整える。まずは、 Social Security Number を取る。そして車を探す、しかも前記の理由で予算は、$1,000。とりあえず、日本車が良いとの事で、中古車ディーラーをあたってみる。$1,500でホンダのまともそうなのがあったが、ちょっと高い。個人売買をあたってみる。Auto Trader という雑誌を買い、片っ端から電話する。さすがに、この金額だと、まともな車があまりない。フロントガラスが割れていたり、クラッチがむちゃ重いのとか問題がある車を、No problem. No problem とか言って、平気で売ろうとする。 1週間借りたレンタカーを返す日に、1977年度版ホンダアコードを、$1000にて購入した。なんとも疲れた。日本では買えなかった車を、アメリカで買えた事に非常に満足し、駐車場代、高速代、車検などの無く、貧乏人にも車が持てるアメリカ社会に感謝した。

    車を購入
    San Diego の従兄弟の家にいる間に、アメリカ生活に必要な環境を整える。まずは、 Social Security Number を取る。そして車を探す、しかも前記の理由で予算は、$1,000。とりあえず、日本車が良いとの事で、中古車ディーラーをあたってみる。$1,500でホンダのまともそうなのがあったが、ちょっと高い。個人売買をあたってみる。Auto Trader という雑誌を買い、片っ端から電話する。さすがに、この金額だと、まともな車があまりない。フロントガラスが割れていたり、クラッチがむちゃ重いのとか問題がある車を、No problem. No problem とか言って、平気で売ろうとする。 1週間借りたレンタカーを返す日に、1977年度版ホンダアコードを、$1000にて購入した。なんとも疲れた。日本では買えなかった車を、アメリカで買えた事に非常に満足し、駐車場代、高速代、車検などの無く、貧乏人にも車が持てるアメリカ社会に感謝した。

  • シリコンバレーへ<br />San Diegoで、仕事探しをしようかとも思ったが、やはり一度シリコンバレーに行って、様子をみなければいけない。シコンバレーでダメなら納得できる。アメリカに来て1ヶ月後の日曜日、サンノゼに向けて出発する。果たして、$1000のボロ車で、500mile(800km)の長丁場を持ちこたえるかが心配だ。もし車が故障でもすると、予算の都合で計画自体がダメになる可能性がある。 I-5を北へ向かいロサンゼルスにエリアに入る。ダウンタウン地区は一気に走り抜けたいので、手前の街で休憩をとる。心配なのは迷路のようなフリーウェーを間違えずに、Bakersfield方面に走り抜けられるかだ。薄霧のなかから、LAの摩天楼が見えてくる。一ヶ月ぶりの姿だ、大都会に来た気分がする。同時に迷路が始まる。標識を気を付けて見る。どうやらこの車線をまっすぐ行くと、I-5の北方向、サクラメント方面に抜ける事が判明。余計な車線変更をしなくて済んだ。そして、オーバーヒートすることなく、山を抜け、 San Joaquin Valleyと、定規で引いたような、どこまでも真っ直ぐなフリーウェーが見えてくる。やはりアメリカの風景はすごい。感動しまくりのまま、Bakersfield に着き、 モーテル6に泊まる。プール付きで一泊 $19 とは、安すぎだ。 翌日は特に問題なく北上して、San Joseに着いた。しかし、何もない。ただの住宅地ではないか。家と店とが点在しているだけ。LAのような摩天楼もないし、San Franciscoのような橋もない。ここが本当にシリコンバレーでしょうか?そんな疑問がわいてきた。とりあえず、Super Asciiに載っていた簡単な地図をたよりに、Fry’s に行く。San Diego の CompUSA と大差ない。しかも、金が無いので買うものもない。しょうがないので、Golden Gate Bridge を見に San Franciscoまで行っちゃいました。  <br /><br />住む場所が見つからない<br />前からの計画どおり、最初は、ユースホステルに泊まる。ドミトリーで一泊$11(税込)。あまりに安いので、ここに住もうかと考えるが、電話が使えないので、就職活動不可能。とりあえず、電話とネットが使える環境にせねば何も始まらない。住むところは、カナダの時に経験した、ルームシェアあるいは、ルームメートという形式。普通の家の1部屋だけを借りて、キッチン、リビング、トイレなどは、家の人と共有する。地元の新聞 San Jose Mercury News を毎日買い、Room for Rent, Shared housing のコーナーを見て、めぼしい所に電話。ここで重大問題が発生。 <br />学生でもない仕事もない怪しい外国人に部屋を貸してくれる家が見つからない。<br />確かに、もし私が、逆の立場なら、もっと安心できる学生か、家賃をきちんと払ってくれそうな職を持った人に、部屋を貸すだろう。ルームメイトは信頼できる人を選ばないとトラブルが多いからだ。さらに、1993年3月20日からの10日間、北カリフォルニアは、記録的な毎日の大雨。私が住む場所を探している間、一日も雨が降らない日はなかった。

    シリコンバレーへ
    San Diegoで、仕事探しをしようかとも思ったが、やはり一度シリコンバレーに行って、様子をみなければいけない。シコンバレーでダメなら納得できる。アメリカに来て1ヶ月後の日曜日、サンノゼに向けて出発する。果たして、$1000のボロ車で、500mile(800km)の長丁場を持ちこたえるかが心配だ。もし車が故障でもすると、予算の都合で計画自体がダメになる可能性がある。 I-5を北へ向かいロサンゼルスにエリアに入る。ダウンタウン地区は一気に走り抜けたいので、手前の街で休憩をとる。心配なのは迷路のようなフリーウェーを間違えずに、Bakersfield方面に走り抜けられるかだ。薄霧のなかから、LAの摩天楼が見えてくる。一ヶ月ぶりの姿だ、大都会に来た気分がする。同時に迷路が始まる。標識を気を付けて見る。どうやらこの車線をまっすぐ行くと、I-5の北方向、サクラメント方面に抜ける事が判明。余計な車線変更をしなくて済んだ。そして、オーバーヒートすることなく、山を抜け、 San Joaquin Valleyと、定規で引いたような、どこまでも真っ直ぐなフリーウェーが見えてくる。やはりアメリカの風景はすごい。感動しまくりのまま、Bakersfield に着き、 モーテル6に泊まる。プール付きで一泊 $19 とは、安すぎだ。 翌日は特に問題なく北上して、San Joseに着いた。しかし、何もない。ただの住宅地ではないか。家と店とが点在しているだけ。LAのような摩天楼もないし、San Franciscoのような橋もない。ここが本当にシリコンバレーでしょうか?そんな疑問がわいてきた。とりあえず、Super Asciiに載っていた簡単な地図をたよりに、Fry’s に行く。San Diego の CompUSA と大差ない。しかも、金が無いので買うものもない。しょうがないので、Golden Gate Bridge を見に San Franciscoまで行っちゃいました。

    住む場所が見つからない
    前からの計画どおり、最初は、ユースホステルに泊まる。ドミトリーで一泊$11(税込)。あまりに安いので、ここに住もうかと考えるが、電話が使えないので、就職活動不可能。とりあえず、電話とネットが使える環境にせねば何も始まらない。住むところは、カナダの時に経験した、ルームシェアあるいは、ルームメートという形式。普通の家の1部屋だけを借りて、キッチン、リビング、トイレなどは、家の人と共有する。地元の新聞 San Jose Mercury News を毎日買い、Room for Rent, Shared housing のコーナーを見て、めぼしい所に電話。ここで重大問題が発生。
    学生でもない仕事もない怪しい外国人に部屋を貸してくれる家が見つからない。
    確かに、もし私が、逆の立場なら、もっと安心できる学生か、家賃をきちんと払ってくれそうな職を持った人に、部屋を貸すだろう。ルームメイトは信頼できる人を選ばないとトラブルが多いからだ。さらに、1993年3月20日からの10日間、北カリフォルニアは、記録的な毎日の大雨。私が住む場所を探している間、一日も雨が降らない日はなかった。

  • 就職活動開始<br />やっと見つかった家は、San Jose の南にある John の家。彼は、ダイナミックなアメリカ人で、少々の事は気にしないタイプのカリフォルニアンだ。私がルームメイトになる時も、I trust you.と言って、学生でもなく仕事もない事を問題にしなかった。家で、車のメカニックの仕事もしているので、車が故障した時も安心だ。ただ、故障の度合いにもよるけどね。電話も共同で使えるので、これから就職活動を始動した。まず、NiftyServeの FUSLIFE で知り合った、Mountain Viewに住む池さんと連絡を取った、メールアドレスしか知らなかったので、ネットに繋がるようになってからしか連絡が取れなかった。すると彼も、駐在員として働いていた会社から突然に帰国命令が出てしまい、その会社を辞めて、今は就職活動中とのこと。しかも、日本人で、UNIX C データベース経験有りなので、私とモロにダブる。とにかく、お互いに大変な時期なので全面協力はできないが、池さんが行きたくない会社にポジションがあれば私に紹介してくれるとの事。それと、リクルータの電話番号も教えてもらった。  <br /><br />レジュメ(履歴書)を送りまくる<br />とにかく、日本人を探している会社を情報を集めまくる。San Jose Mercury Newsの日曜版は毎週目をとおす。インターネットのニューズグループを、毎日チェックする。リクルータには、片っ端からレジュメを送り電話もする。Sun, Adobe, SGI, Apple などの有名企業には募集がなくてもレジュメを送る。  <br /><br />ビザは、どうする<br />ここで、最大の難問がビザです。本当にビザは大丈夫でしょうか?もちろん、不安です。MicroTimesに広告が載っていたイミグレーション専門の弁護士にレジュメを送って相談する。相談は無料であった。私は理系の大学を卒業しているので、就職先が決まり、会社がスポンサーになってくれれば3年有効のH1ビザが出る。面接の時には、「ビザの件は弁護士にたのめば手数料$2000で手続きしてくれるので心配ない。」と言えば大丈夫だそうだ。しかし、この手数料を出してスポンサーに、なってくれる会社があるかどうかが、これからの問題だ。  <br /><br />初めての面接<br />就職活動を始めて1週間目、池さんから教えてもらったリクルータの紹介で、GO Corporation という会社へ面接に行く。GO Crop.は、当時、ペンコンピュータ用OSの最先端を走っている会社で日本語化に力を入れていた。募集しているポジションはQAで、ソフトのテストを行うものだ。自分としてはプログラマーの仕事をしたいが、テストの仕事もできる。何はともあれ、面接を一回ぐらいしておいた方が良いだろうという事で、面接( Interview)に行った。 場所は、Foster City。San Mateo の隣、San Jose からは車で30分かかる。最初は、担当の人に案内してもらい、面接をする人は4人だと聞かされる。そのうち、1人は日本人。初めは、部長クラスだと思う人と話しをした、私の英語が下手なのと、英語での面接が始めてなのでボロボロであった。2人目も日本人のQAの人とは、ホッとしすぎたのか、給料の事とか、プログラマーの仕事をするには、など、ズケズケと聞きすぎた。3人目の人と話している時に、担当の人が割り込んできて、今から会議をするので、面接はここで終わりです。と言われた。当時は、まだ理解していなかったが、話しても時間の無駄なので、とっとと切り上げたらしい。 <br />(後注)面接の時は相手から話しがあるまで、給料の話をしてはいけません。<br /><br />

    就職活動開始
    やっと見つかった家は、San Jose の南にある John の家。彼は、ダイナミックなアメリカ人で、少々の事は気にしないタイプのカリフォルニアンだ。私がルームメイトになる時も、I trust you.と言って、学生でもなく仕事もない事を問題にしなかった。家で、車のメカニックの仕事もしているので、車が故障した時も安心だ。ただ、故障の度合いにもよるけどね。電話も共同で使えるので、これから就職活動を始動した。まず、NiftyServeの FUSLIFE で知り合った、Mountain Viewに住む池さんと連絡を取った、メールアドレスしか知らなかったので、ネットに繋がるようになってからしか連絡が取れなかった。すると彼も、駐在員として働いていた会社から突然に帰国命令が出てしまい、その会社を辞めて、今は就職活動中とのこと。しかも、日本人で、UNIX C データベース経験有りなので、私とモロにダブる。とにかく、お互いに大変な時期なので全面協力はできないが、池さんが行きたくない会社にポジションがあれば私に紹介してくれるとの事。それと、リクルータの電話番号も教えてもらった。

    レジュメ(履歴書)を送りまくる
    とにかく、日本人を探している会社を情報を集めまくる。San Jose Mercury Newsの日曜版は毎週目をとおす。インターネットのニューズグループを、毎日チェックする。リクルータには、片っ端からレジュメを送り電話もする。Sun, Adobe, SGI, Apple などの有名企業には募集がなくてもレジュメを送る。

    ビザは、どうする
    ここで、最大の難問がビザです。本当にビザは大丈夫でしょうか?もちろん、不安です。MicroTimesに広告が載っていたイミグレーション専門の弁護士にレジュメを送って相談する。相談は無料であった。私は理系の大学を卒業しているので、就職先が決まり、会社がスポンサーになってくれれば3年有効のH1ビザが出る。面接の時には、「ビザの件は弁護士にたのめば手数料$2000で手続きしてくれるので心配ない。」と言えば大丈夫だそうだ。しかし、この手数料を出してスポンサーに、なってくれる会社があるかどうかが、これからの問題だ。

    初めての面接
    就職活動を始めて1週間目、池さんから教えてもらったリクルータの紹介で、GO Corporation という会社へ面接に行く。GO Crop.は、当時、ペンコンピュータ用OSの最先端を走っている会社で日本語化に力を入れていた。募集しているポジションはQAで、ソフトのテストを行うものだ。自分としてはプログラマーの仕事をしたいが、テストの仕事もできる。何はともあれ、面接を一回ぐらいしておいた方が良いだろうという事で、面接( Interview)に行った。 場所は、Foster City。San Mateo の隣、San Jose からは車で30分かかる。最初は、担当の人に案内してもらい、面接をする人は4人だと聞かされる。そのうち、1人は日本人。初めは、部長クラスだと思う人と話しをした、私の英語が下手なのと、英語での面接が始めてなのでボロボロであった。2人目も日本人のQAの人とは、ホッとしすぎたのか、給料の事とか、プログラマーの仕事をするには、など、ズケズケと聞きすぎた。3人目の人と話している時に、担当の人が割り込んできて、今から会議をするので、面接はここで終わりです。と言われた。当時は、まだ理解していなかったが、話しても時間の無駄なので、とっとと切り上げたらしい。
    (後注)面接の時は相手から話しがあるまで、給料の話をしてはいけません。

  • なんとか、なりそうや<br />面接の結果は、ダメであった。GO が言うには、「アメリカで4年制大学を卒業した程度の英語力を持った人を探している。」からだそうだ。QAより、プログラマーの仕事をしたいと言った、私の希望と、会社の募集との不一致もあったのだろう。英語力は、今後かなり問題になるのは必至だ。しかし、面接の時には、ビザの問題は会社が手続きをするから大丈夫と言っていたし、仕事の募集もあるにはある。渡米する前に、ダメな時は全く感触もなくダメ、成功する可能性が少しでもあれば、会社を探しまくれば大丈夫。そう思っていたから、可能性は見えてきた。後は、自分の能力に合致したポジションを募集している会社を探せばいい。  <br /><br />駆け引き<br />こんどは、日系のリクルータからの話で、LSIをテストするシステムを作っている会社から話があった。さっそく面接のアポがとれたので、面接に行く。面接の基本として、あまり行きたくない会社でも、「この会社が私の第一希望です」といった態度をとらないといけない。 <br />その会社の面接は、日本語だけで行われた。なんでも、日本語が話せて、Z80アセンブラを知っているエンジニアを探しているらしい。Z80とは、今から10年以上前に全盛期であったCPUです。そんな昔の技術を持っているエンジニアは、私以外にいない。面接ではそう感じた。リクルータの話では、一回目の面接の後、その会社からは、すぐにも雇いたいとの声があったそうである。 <br />しかし、いまさらアセンブラのプログラミングでは時代に逆行しているし、再就職の際にもキャリアアップになりそううにない。技術面を考えると、前の日本の会社の方がマシかもしれない。この会社は、滑り止めにしなければならない。リクルータの話では、たった1回の面接でオファーが出そうだったので、こちらからお願いして、もう一度面接してもらうことにする。2回目の面接で、私は時間稼ぎをしないといけない。だが、プー太郎で、どこからもオファーをもらっていない私には、時間稼ぎの理由がない。しょうがないから、「グリーンカードの申請をしてくれないと行かないよ」 作戦にでることにした。 だが面接中に、「なぜ、そんなにグリーンカードが必要なのかね」と聞かれ。私が答えに困っていると、「この会社を辞めて別の会社に行きたいからでは、ないかね」と図星をつかれ、私は、マゴマゴしてしまった。 <br /><br />オファーをもらう<br />それから、しばらくは、その会社からは連絡がこなくなった。そして、しばらくは、何も連絡がない日々が続いた。今までの感触としては、少しは引きがあるので、私の技術にハマル会社があれば、仕事は見つかるだろう。ビザも問題ないかな。 <br />そして、ピタリとハマりそうな会社からE-MAILがあった。だが場所がちょっと遠い。San Joseから南に車で3時間いった、San Luis Obispo という田舎町だ。電話面接で、日本人のエンジニアの人と技術的な話をした。私が会社でやった、SHIFT-JIS と、PC98の知識が役に立った。早速、面接の日が決まり、車をモントレー経由でゆっくりドライブして、San Luis Obispo まで行った。 <br />面接は、アメリカ人のエンジニアと少し話をしただけで、あとはプログラミングのテストになった。このプログラミングテストは、英語が苦手だが、技術力には自信がある私には有利であった。大学のプログラミングクラスの宿題のような問題が与えられ、私は2時間足らずで解くことができた。プログラミングでは合格のようだ。あとは、日本人のエンジニアの人と詳しい話はしたので、なんとかなりそうな雰囲気である。 <br />翌日、社長と社長室で話をしてオファーが出た。しかし、オファーを受けるかどうか即答してもらいたいようである。しかし、まだ、San Jose から引っ越しをする決心をしていないので、1日だけ待ってもらうことにした。 <br /><br />第一希望の会社からの電話<br />それから San Joseに帰る途中、車の調子がおかしくなった。ブレーキを踏むと、ガタガタ音がするのである。フリーウェーを走っている間は大丈夫だが、交差点でブレーキを踏むと、いまにもタイヤが外れそうなくらい、すごい音がする。ヒヤヒヤもんで、なんとか家までたどりついた。もう、車も壊れそうだから、San Luis Obispoの会社に決めようかな。そう思っていた。 <br />すると、驚いた事に、私が留守にしたいた2日間、第一希望であった会社から、何度も電話がかかってきていたのである。その担当の人に電話して、面接の時間を決める。そして、San Luis Obispo の会社には、断りの電話を入れた。あちらも、断りの電話には、大変びっくりした様子であった。 <br />そして、第一希望の会社に面接に行く、募集しているポジションは、OEMのマネージャーのようだ。ちょっと待て。私の経験から、マネージャーは向いていない、というか無理だ。少し、話をそらして、プログラマーのポジションが別の部門にないか。と聞いてみるが、別の部門の事はよく知らないらしい。んーん、感触がいまいちの面接であった。 <br />それから、しばらく第一希望の会社から電話を待ったが掛かってこなかった。Eメールで結果を聞いても返事がなく、数日後に、ダメなのが判った。 <br /><br />ちゃん、ちゃん<br />それから数日後、San Luis Obispo の会社から連絡があり、「もし、まだ行く会社が決まっていなかったら、いらっしゃい。前と同じ条件で迎えます。」とのこと。 <br />もう、San Jose で粘ろうとしても、B1ビザの期限も迫ってきている。それに、金が底をついた。という理由で、San Luis Obispo に引っ越す決心をした。その会社にて、ビザをH1-Bに切り替えてもらい、合法的に仕事を始める事ができました。1993年5月のことでした。

    なんとか、なりそうや
    面接の結果は、ダメであった。GO が言うには、「アメリカで4年制大学を卒業した程度の英語力を持った人を探している。」からだそうだ。QAより、プログラマーの仕事をしたいと言った、私の希望と、会社の募集との不一致もあったのだろう。英語力は、今後かなり問題になるのは必至だ。しかし、面接の時には、ビザの問題は会社が手続きをするから大丈夫と言っていたし、仕事の募集もあるにはある。渡米する前に、ダメな時は全く感触もなくダメ、成功する可能性が少しでもあれば、会社を探しまくれば大丈夫。そう思っていたから、可能性は見えてきた。後は、自分の能力に合致したポジションを募集している会社を探せばいい。

    駆け引き
    こんどは、日系のリクルータからの話で、LSIをテストするシステムを作っている会社から話があった。さっそく面接のアポがとれたので、面接に行く。面接の基本として、あまり行きたくない会社でも、「この会社が私の第一希望です」といった態度をとらないといけない。
    その会社の面接は、日本語だけで行われた。なんでも、日本語が話せて、Z80アセンブラを知っているエンジニアを探しているらしい。Z80とは、今から10年以上前に全盛期であったCPUです。そんな昔の技術を持っているエンジニアは、私以外にいない。面接ではそう感じた。リクルータの話では、一回目の面接の後、その会社からは、すぐにも雇いたいとの声があったそうである。
    しかし、いまさらアセンブラのプログラミングでは時代に逆行しているし、再就職の際にもキャリアアップになりそううにない。技術面を考えると、前の日本の会社の方がマシかもしれない。この会社は、滑り止めにしなければならない。リクルータの話では、たった1回の面接でオファーが出そうだったので、こちらからお願いして、もう一度面接してもらうことにする。2回目の面接で、私は時間稼ぎをしないといけない。だが、プー太郎で、どこからもオファーをもらっていない私には、時間稼ぎの理由がない。しょうがないから、「グリーンカードの申請をしてくれないと行かないよ」 作戦にでることにした。 だが面接中に、「なぜ、そんなにグリーンカードが必要なのかね」と聞かれ。私が答えに困っていると、「この会社を辞めて別の会社に行きたいからでは、ないかね」と図星をつかれ、私は、マゴマゴしてしまった。

    オファーをもらう
    それから、しばらくは、その会社からは連絡がこなくなった。そして、しばらくは、何も連絡がない日々が続いた。今までの感触としては、少しは引きがあるので、私の技術にハマル会社があれば、仕事は見つかるだろう。ビザも問題ないかな。
    そして、ピタリとハマりそうな会社からE-MAILがあった。だが場所がちょっと遠い。San Joseから南に車で3時間いった、San Luis Obispo という田舎町だ。電話面接で、日本人のエンジニアの人と技術的な話をした。私が会社でやった、SHIFT-JIS と、PC98の知識が役に立った。早速、面接の日が決まり、車をモントレー経由でゆっくりドライブして、San Luis Obispo まで行った。
    面接は、アメリカ人のエンジニアと少し話をしただけで、あとはプログラミングのテストになった。このプログラミングテストは、英語が苦手だが、技術力には自信がある私には有利であった。大学のプログラミングクラスの宿題のような問題が与えられ、私は2時間足らずで解くことができた。プログラミングでは合格のようだ。あとは、日本人のエンジニアの人と詳しい話はしたので、なんとかなりそうな雰囲気である。
    翌日、社長と社長室で話をしてオファーが出た。しかし、オファーを受けるかどうか即答してもらいたいようである。しかし、まだ、San Jose から引っ越しをする決心をしていないので、1日だけ待ってもらうことにした。

    第一希望の会社からの電話
    それから San Joseに帰る途中、車の調子がおかしくなった。ブレーキを踏むと、ガタガタ音がするのである。フリーウェーを走っている間は大丈夫だが、交差点でブレーキを踏むと、いまにもタイヤが外れそうなくらい、すごい音がする。ヒヤヒヤもんで、なんとか家までたどりついた。もう、車も壊れそうだから、San Luis Obispoの会社に決めようかな。そう思っていた。
    すると、驚いた事に、私が留守にしたいた2日間、第一希望であった会社から、何度も電話がかかってきていたのである。その担当の人に電話して、面接の時間を決める。そして、San Luis Obispo の会社には、断りの電話を入れた。あちらも、断りの電話には、大変びっくりした様子であった。
    そして、第一希望の会社に面接に行く、募集しているポジションは、OEMのマネージャーのようだ。ちょっと待て。私の経験から、マネージャーは向いていない、というか無理だ。少し、話をそらして、プログラマーのポジションが別の部門にないか。と聞いてみるが、別の部門の事はよく知らないらしい。んーん、感触がいまいちの面接であった。
    それから、しばらく第一希望の会社から電話を待ったが掛かってこなかった。Eメールで結果を聞いても返事がなく、数日後に、ダメなのが判った。

    ちゃん、ちゃん
    それから数日後、San Luis Obispo の会社から連絡があり、「もし、まだ行く会社が決まっていなかったら、いらっしゃい。前と同じ条件で迎えます。」とのこと。
    もう、San Jose で粘ろうとしても、B1ビザの期限も迫ってきている。それに、金が底をついた。という理由で、San Luis Obispo に引っ越す決心をした。その会社にて、ビザをH1-Bに切り替えてもらい、合法的に仕事を始める事ができました。1993年5月のことでした。

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この旅行記へのコメント (5)

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  • 千さん 2010/08/31 23:50:29
    先輩!と呼ばせてください!
    始めまして私も10月からSanJoseで仕事探しをする予定の35歳女性です。
    学歴職歴が異なるものの、私もとりあえず観光ビザでアメリカに乗り込み仕事を探しVisa申請・・・と言った流れで計画をしております。
    しかし時には不安になる事もあり、たまたまアメリカでの仕事探しについて検索していてHimadeusさんのブログを発見しました。
    とってもためになりました。勇気も出ました。

    私が今一番不安なのはスキルです。Himadeusさんと違ってこれと言った分野がなくOLしてきてしまったのでとても不安です。
    あとアメリカで始めに車を購入するときは日本で発行した国際免許だけでしたか?国際免許で車って買えるんでしょうか?当時とルールが違うかもしれませんが現在3ヶ月以上のVisa(観光Visaでは不足)ではCAドライバーズライセンスは取得できないようです。
    でもアメリカってNY以外は車無いと何もできないですよね。足を確保しないと!

    ?住む場所は確保済みです。なので現地に着いたら?まずは車Getでしょうか?
    ?現地のリクルーターを探さないとですね。あとJapanTownでGetできる新聞もチェックします!
    ?Resume送りまくりってとこでしょうか?

    日本人向けのリクルーターにアクセスしたんでしょうか?

    Himadeusさんが就職活動したころからだいぶ時がたっていると思いますがアドバイスや有力な情報がありましたら是非教えてください。

    よろしくお願いいたします。

    Himadeus

    Himadeusさん からの返信 2010/09/01 15:23:21
    RE: 先輩!と呼ばせてください!
    私が渡米したのは、1993年ですので、かなり古い情報になります。
    新移民に対しての法律が厳しくなりましたので、最新の情報に基づいて
    行動してください。ネットでも新しい方の情報を仕入れましょう。

    現在では、観光ビザでは運転免許が取得できないと思います。
    銀行口座も開けないかな。車GETも現金のみになるかな。

    現地のリクルータですが、日本からでもネットで、探せます。
    日本からでもレジュメを送って、手ごたえを見たほうがよいでしょう。

    San JoseはITエンジニア向きの街です。別のスキルがあるのでしたら、
    そのスキル向きの街に行ったほうがよいかと思います。San Jose
    は家賃等、生活コストが高いです。

    千さん からの返信 2010/09/02 21:47:44
    RE: 先輩!と呼ばせてください!
    早速のお返事ありがとうございます。

    アドバイス頂いたとおり早速現地の?(と言っても事務所はSanJoseではありませんが)お仕事紹介所に登録しまくりResumeを送ってみました。
    でもまだSanJoseに事務所を構えるリクルーターは探せていません。
    どこか良いところご存知でしたら是非教えてください。

    私は以前留学していたので銀行口座はあります。あとSocialSecurityNumberも。
    あと住む場所もなんとか確保済みなので、やっぱりSanJoseがいいなーと。
    とりあえず10月中旬に渡米を予定しているので、日本でやれる事はできるだけやってから行きたいと思います。がんばります。

    ドキドキです。
  • michelleさん 2005/07/30 11:55:39
    はじめまして、michelleと申します♪
    こんにちは。
    シリコンバレーの旅行記、大変興味深く拝見させていただきました♪
    実は今知り合いが全く同じ状況でして、昨夜夢中になって読んでしまいました。
    でもまだ工事中でしたので、早く先が読みたいよ〜なんてミステリー小説の続きを待つ感じで今日もアクセスしてみると、完成されたようだったのでまたもや夢中になって読んでしまいました。

    文章自体もなんだか、引き込まれるような、本当に小説のようですね。
    多分、知り合いにも薦めたのでものすごく参考になったと思います。

    私自身、香港に4年半ほど移住していたことがありますが(私の場合1997年でした)、Himadeusさんがシリコンバレーに行かれたバイタリティに近いものを感じました。「行こう!」と決めたらまず行っちゃえ!みたいな(笑)ビザも何とかなるはず!みたいな。

    私も駐在という形ではなく、何社か面接を受けての現地採用でしたから、住宅を探すことなども含めて共感しました。私も行った当初は間借りしていました。そして私も一度断った会社に、再度依頼して入ったクチなので(笑)

    この後、現在に至るまでのHimadeusさんの軌跡、非常に気になります!!
    期待しておりますので、ぜひぜひUPして下さいね。楽しみにしております。

               ***** michelle *****

    Himadeus

    Himadeusさん からの返信 2005/07/31 14:52:22
    RE: はじめまして、michelleと申します♪
    michelle さん、はじめまして、
    同じ移住でも、会社側が住宅や車を用意してくれるのと、自分で用意するのとでは、苦労度が違いますね。私の場合は、時期がシリコンバレーが好景気になる直前だったのが幸いしています。違う時期だと、東大大学院卒でも就職先を見つけるのは難しかったでしょう。12年前ですが、今から読み直しても、若すぎだったかな。と思ってしまいます。

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