2004/07 - 2004/07
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ソフィさん
エルミタージュ美術館に来ると、今年(2005)発生100年目に当たっている、血の日曜日事件(1905年1月)を思い出す。
その印象が、あまりにも生々しいからだろう。
ロシア人のガイドに、この事件を彼等はどう捉えているかを質問する。
すると、思いがけない答えが返ってきた。
「そんな事件は確かにあった筈ですが、ずっと離れたどこかの広場で起こったものです」
本当に知らないのか、知っていてもとぼけているのか判らないが、この事件を隠そうとする気持が、どこかにあるようだ。
血の日曜日事件は、日露戦争(1904-1905)のさなか、旅順開城のほぼ二週間後に起こった。
日露戦争の終結は同じ年の9月だが、1月に起こったこの事件が、ロシアの敗戦を決定的にしたとの見方が専らである。
当時首都だったサンクトペテルブルグでは、1905年1月16日、プチロフ金属機械工場の労働者12,000人が、4人の解雇に対する抗議の、全員ストライキに入った。
しかし会社は誠意を見せず、ストライキは日を追って拡大。
ガポン神父(同時に国家秘密警察に給与を受ける工作員)のリード(扇動?)で、1月22日日曜日、ペテルブルクの全労働者が冬宮広場に集まり、「請願書」を直接ニコライ2世皇帝に差し出そうとの方針を決定した。
1月21日までに、ストにはいった工場は456、ペテルブルクの全労働者数180,000人中参加者は111,000人。
政府は、翌日に迫った冬宮請願行進にそなえて、歩兵12,000人、騎兵3,000人を出動させ、いかなる行進も許さないよう、橋・広場・主な道路の警備を固めることを決定した。
請願の内容は、労働者の法的保護、日露戦争の中止、憲法の制定、基本的人権の確立などで、搾取・貧困・戦争に喘いでいた当時のロシア民衆の素朴な要求を代弁したものだった。
当日の参加者60,000人。
雪はこの日もペテルブルクの街路を一面に埋めつくしていたが、珍しく雲一つない好天気で、日の光が白い雪の上にまぶしく輝いていた。
グループは行進を始めたが、すぐに待ち構えた騎兵隊に行く手を阻まれた。
行列の先頭は崩れ、歩兵の構えた銃がいっせいに火を吹いた。
それでもなお多くの労働者が冬宮広場に向かっていた。
冬宮前にも、かなりの部隊が配置されていた。
だが群衆は引き下がらず、口々に叫んだ。
「撃つなら撃ってみろ!」
「おまえらだって勤務が終われば、おれたちと同じひどいくらしに戻るんだぞ!」
群衆は、まさか兵士が本当に発砲するとは思っていなかった。
しかし、時計塔が2時を知らせると同時にラッパが3回鳴った。
その瞬間、近衛連隊の兵士の銃声が、広場の空気を鋭く引き裂いた。
冬宮前の広場の白雪に、血がみるみるうちににじんでいった。
この時の死者数は1,000人〜4,000人以上。
「同志諸君! ロシアの労働者諸君! われわれにはもうツァーリはいない。今日、ツァーリとロシア人民との間に、鮮血の川が流れた。ロシアの労働者が、ツァーリ抜きで人民の自由のための闘争を始めるべき時が来た」(ガポン)
これが、ロシア革命の幕開けと見られる。
この日、皇帝ニコライ2世は、ツァールスコエ=セロの離宮におり、冬宮広場に血が流れている時間に、お茶を飲んでいた。
請願書は、もちろん読んでいない。
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