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エカテリーナ宮殿と聞けば、彼のことを思い出す。<br />大黒屋光太夫(1751-1828)は、伊勢に住んでいた船乗り。<br />1783年(天明2年 イギリスがアメリカ独立を承認した年)遭難がきっかけで、エカテリーナ女帝時代のロシアを数年かけて横断し、はるばるサンクトペテルブルグにエカテリーナ2世を訪ね、ロシアの情報を鎖国時代の日本にもたらすと共に、日露国交樹立のきっかけを作る。<br /><br />天明2年、総勢18名を乗せた神昌丸は、伊勢の白子港を出港。<br />4日後駿河沖で突然の嵐にあい遭難、帆柱も折れ、櫨も失って操縦不能になってしまう。<br />半年以上も漂流の後、アリューシャン列島のアムチトカ島に漂着。<br /><br />4年後、この島にラッコの皮を取りに来たロシア人が、一行をカムチャッカ半島のロシア人の町ニジニカムチャッカに連れて行った。<br />ここで光太夫らは日本に帰りたいと当地の役人に願い出るが、当時日本は鎖国中。<br />願いは不許可となり、この段階で既に何人もの仲間を亡くしていた。<br /><br />残った6人は翌1788年シベリア総督に直接帰国を願い出ようと、ソリで8ヶ月をかけ、1789年2月バイカル湖のほとりイルクーツクにたどり着く。<br />しかしシベリア総督も、彼等の日本送還を決断できなかった。<br /><br />失意の彼らに救いの手を伸べたのはフィンランド出身の植物学者キリル・ラクスマン。<br />彼はイルクーツクで光太夫たちと知り合って同情し、自分と一緒に首都ペテルブルグまで行って皇帝から直接帰国許可と支援を願い出ようと誘う。<br /><br />1791年一行を代表して光太夫が、ラクスマンとともに、速ソリでペテルブルグに向かう。<br />カムチャッカからイルクーツクまでは4000kmで8ヶ月もかかっているのに、ラクスマンが使ったソリは、サンクトペテルブルグまで6000kmをわずか2ヶ月で到達。<br /><br />サンクトペテルブルグでは、ラクスマンと光太夫は皇帝エカテリーナ2世に2度謁見に成功。<br />エカテリーナ2世は彼らに同情すると共に、これを機会にかねてから考えていた日本との交易を実現したいと、ラスクマンの息子アダム・ラクスマン陸軍中尉(当時26歳)に、遣日使節の命を与え、光太夫らと共に日本に行くよう命じる。<br /><br />この時点で、イルクーツクまでたどり着いた6名のうち1名が死亡、2名はロシアに残留。<br />残りの3人が帰国する。<br />1792年(寛政4年 フランス革命の年)、漂流から9年半後、ラクスマンは彼ら3人を連れて根室港に入港。<br /><br />漂流民の送還を名目とし、ロシア皇帝の親書を持った使節の突然の来航。<br />その知らせを受けて幕府は騒然となるが、当時幕府の中心人物であった老中・松平定信は、米の生産調整(出来すぎた年にロシアに輸出し、不作の年にロシアから麦などの穀物を輸入)のため、ロシアとの限定的な貿易を考えていた。<br /><br />翌年1793年松前で、ようやく光太夫たちは日本側に引き渡された。<br />根室で仲間の1人は病死し、この時点で残された者は、光太夫と最年少の礒吉(1766生)の2人だけだった。<br />そしてラクスマンには、今後長崎入港を許可する信牌が渡された。<br /><br />しかし光太夫が江戸に着く前に、老中・松平定信が突然失脚。<br />彼ら2人は一転して「鎖国の禁を破った犯罪者」となり、軟禁される。<br />その後光太夫は一時帰郷を許され、1802年(享和2年)20年ぶりに故郷に帰るが、妻は既に再婚。<br />彼は江戸に戻り、別の人と結婚して子供をもうける。<br />

ロシア【6】女帝エカテリーナ2世と会った大黒屋光太夫

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2004/07 - 2004/07

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ソフィ

ソフィさん

エカテリーナ宮殿と聞けば、彼のことを思い出す。
大黒屋光太夫(1751-1828)は、伊勢に住んでいた船乗り。
1783年(天明2年 イギリスがアメリカ独立を承認した年)遭難がきっかけで、エカテリーナ女帝時代のロシアを数年かけて横断し、はるばるサンクトペテルブルグにエカテリーナ2世を訪ね、ロシアの情報を鎖国時代の日本にもたらすと共に、日露国交樹立のきっかけを作る。

天明2年、総勢18名を乗せた神昌丸は、伊勢の白子港を出港。
4日後駿河沖で突然の嵐にあい遭難、帆柱も折れ、櫨も失って操縦不能になってしまう。
半年以上も漂流の後、アリューシャン列島のアムチトカ島に漂着。

4年後、この島にラッコの皮を取りに来たロシア人が、一行をカムチャッカ半島のロシア人の町ニジニカムチャッカに連れて行った。
ここで光太夫らは日本に帰りたいと当地の役人に願い出るが、当時日本は鎖国中。
願いは不許可となり、この段階で既に何人もの仲間を亡くしていた。

残った6人は翌1788年シベリア総督に直接帰国を願い出ようと、ソリで8ヶ月をかけ、1789年2月バイカル湖のほとりイルクーツクにたどり着く。
しかしシベリア総督も、彼等の日本送還を決断できなかった。

失意の彼らに救いの手を伸べたのはフィンランド出身の植物学者キリル・ラクスマン。
彼はイルクーツクで光太夫たちと知り合って同情し、自分と一緒に首都ペテルブルグまで行って皇帝から直接帰国許可と支援を願い出ようと誘う。

1791年一行を代表して光太夫が、ラクスマンとともに、速ソリでペテルブルグに向かう。
カムチャッカからイルクーツクまでは4000kmで8ヶ月もかかっているのに、ラクスマンが使ったソリは、サンクトペテルブルグまで6000kmをわずか2ヶ月で到達。

サンクトペテルブルグでは、ラクスマンと光太夫は皇帝エカテリーナ2世に2度謁見に成功。
エカテリーナ2世は彼らに同情すると共に、これを機会にかねてから考えていた日本との交易を実現したいと、ラスクマンの息子アダム・ラクスマン陸軍中尉(当時26歳)に、遣日使節の命を与え、光太夫らと共に日本に行くよう命じる。

この時点で、イルクーツクまでたどり着いた6名のうち1名が死亡、2名はロシアに残留。
残りの3人が帰国する。
1792年(寛政4年 フランス革命の年)、漂流から9年半後、ラクスマンは彼ら3人を連れて根室港に入港。

漂流民の送還を名目とし、ロシア皇帝の親書を持った使節の突然の来航。
その知らせを受けて幕府は騒然となるが、当時幕府の中心人物であった老中・松平定信は、米の生産調整(出来すぎた年にロシアに輸出し、不作の年にロシアから麦などの穀物を輸入)のため、ロシアとの限定的な貿易を考えていた。

翌年1793年松前で、ようやく光太夫たちは日本側に引き渡された。
根室で仲間の1人は病死し、この時点で残された者は、光太夫と最年少の礒吉(1766生)の2人だけだった。
そしてラクスマンには、今後長崎入港を許可する信牌が渡された。

しかし光太夫が江戸に着く前に、老中・松平定信が突然失脚。
彼ら2人は一転して「鎖国の禁を破った犯罪者」となり、軟禁される。
その後光太夫は一時帰郷を許され、1802年(享和2年)20年ぶりに故郷に帰るが、妻は既に再婚。
彼は江戸に戻り、別の人と結婚して子供をもうける。

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