2002/08 - 2002/08
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crosswordさん
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■兵庫県内のふたつの城を巡ってみました。天守閣は残っていませんが、「竹田城址」に立ったときの360度の眺めは、すばらしいのひと言です!世界遺産にも登録されている「姫路城」、こちらからは木造建築の良さが十分に伝わってきます。
【なぜ竹田城?】そう思うのももっともです。ほとんどの人は、自分も少し前にはそうだったのですが、竹田城という存在をおそらくまったく知らないだろうと思います。いまから4年ほど前に城崎で研修会があったとき、バスガイドさんがこの城の説明をしていただいたのが、竹田城について知るきっかけでした。
さらにいろいろと調べていくうち、天守閣が残っていないにもかかわらず、この城の人気が高いこと。また竹田城をモチーフにした写真が『サライ』をはじめ、いくつかのコンテストで賞を取っていることもわかりました。よし!ではその竹田城へ行ってみようと計画したのが、今回の「青春18切符の旅」となった次第です。
■行ってみた感想は、素直にすごい!そのひと言です。ただ写真でどこまで伝わるかは非常に難しいのですが、まさしく百聞は一見に如かず、この言葉を体現した城址であることは間違いありません。
それでは2つの城をお楽しみください。まずは竹田城から!
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この小高い山の上に城跡があります。JR播但線竹田駅から竹田城のある山へは歩いて30-40分の道のりですが、なんと車でも行けます。頂上近くに駐車場もあるからです。
でも、かつての屋敷跡が残っているのを見るには歩きに限ります。
今から400年ほど前は竹田城の城主や家臣の屋敷があったとされる屋敷跡があり、政務や戦いのときなどには、そこからお城に登り、それ以外の時は麓の屋敷で暮らしていたそうです。
写真から少し歩いて行くと屋敷跡です。 -
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■見付からの素晴らしい眺め
手すりも柵もないところにベンチがひとつ。しかしここからの眺めは最高です。いつまでもここに留まっていたい、そんな気持ちに
なります。ここに城を築いた理由もおのずとわかります。 -
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■竹田駅を眼下に望む
ほぼ真下にJR竹田駅が見えます。ここまでの斜面が結構急なことが、この眺めからもわかります。かつて、城主や家臣はいったいどんな思いを
もって、この眺めを見てきたのでしょう! -
■別名「虎臥城」(とらふすじょう・こがじょう)
竹田城は、山の地形を巧みに活用し、縄張り(平面構成)は南北400m、東西100m。完存する遺構としては全国屈指のものです。 -
竹田城は、嘉吉年間(1441〜43)、但馬の守護大名、山名宗全が出石城の出城として播磨・丹波から但馬への侵略路に位置するこの地に、13か年を費やして築いたと伝えられています。当時は、土塁をもとに作られた城と考えられ、山名氏の武将、太田垣氏が5代にわたって城主となり治めます。しかし、天正5年(1577)、秀吉の2度の但馬征伐で竹田城は落城、山名氏とともに太田垣氏は没落します。
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その後、秀吉の弟、秀長の属将的な地位にあった桑山修理太夫重晴、続いて播磨龍野城主赤松政秀の子、赤松広秀が城主となります。広秀は朝来郡2万2000石を領有し、文禄年間から慶長の初期(1600年頃)に、現在のような豪壮な石垣積みの城郭を築きます。
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■二の丸より南千畳の眺め
石垣の積み方は、安土城と同じ技術で石の声を聞きながら積むという近江穴太衆(あのうしゅう)の手による穴太流石積み技法が用いられています。 -
■石材
石材は現地の山ろく付近から集めたものと考えられ、花崗岩で最大のものは5トンと考えられています。 -
■北千畳と和田山方面
本丸付近から望遠レンズを使っての眺めです。北千畳には当時使っていたと思われる井戸の跡も残っていました。
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