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クルムバッハ:プラッセンブルク要塞の「錫人形博物館」は実に見ごたえがあった。

  • 5.0
  • 旅行時期:2009/04(約15年前)
jijidarumaさん

by jijidarumaさん(男性)

クルムバッハ クチコミ:1件

“北バイエルン;フランケン地方とオーバープファルツ地方を巡る旅(旅行記)  
:フランケンワイン、ボックスボイテル街道、古城街道;フランケン・シュヴァイツの
古城群、陶磁器・ガラス街道、マイン、ペグニッツ、ナーブ、レグニッツ川を巡る:

2009年4月17日(金)~5月1日(金)15日間の旅:4月22日(水)

4月22日(水) 今日も朝から大快晴。14~17℃。 158km

KulmbachクルムバッハはOberfrankenオーバーフランケン地方の中心にある人口27千人の小都市である。バイロイトの北西凡そ25km、白マイン川沿いに位置し、その町を見下ろす高台にプラッセンブルグ城があって、世界最大の錫人形コレクションを誇る錫人形博物館が名高い。
また世界で最強のビール醸造と炭火焼ソーセージ(子牛肉を多めに混ぜた良質の豚挽肉からできているもの)で知られている。

【Kulmbachクルムバッハ:Plassenburgプラッセンブルク要塞】

駐車場傍に要塞へのシャトルバスが運行されている。8人乗りのバンで、往復二人でEuro 4.4だった、15時に満員のお客と出発する。
旧市街を抜けると直ぐに、要塞への坂道を登り始める。緑の並木道を数分で上がる。眼下には白マイン川が見える。

<この町と要塞の歴史>

西暦900年頃にはこの地に、マイン川渡河に対する防衛の前線拠点があった。最も古い文献であるアルクィンの聖書(1028~1040年頃)に、クルムバッハの名は「Kulma」として登場する。この名はこの地を流れる小川の名前に由来する。(Culmin-aha, Culmna;その後、誤解から Kohlenbachコーレンバッハ炭の川と改名されている)

12世紀の前半、最初のプラッセンブルク城と現在「上の町」と呼ばれている所にマルクトや教会が建設され、その後、古いプラッセンブルク城の代わりに、メラニア公爵が町の高台にある、シュポルン山上に新しい城を建設し、居城とした。現在の要塞である。

1340年にホーエンツォレルン家一門のニュルンベルク城伯のものとなり、17世紀に至る間、城伯の宮廷があり、ホーエンツォレルン家のクルムバッハ侯領の首都であった。 
バンベルク、ニュルンベルク、エーガー(現在のチェコ領ヘプ)、ホフ、ライプツィヒを結ぶ古い通商路沿いにある地の利から、この町は交易が盛んになり、織物、フスティアン織り、染色、絹刺繍などの商いが行なわれた。

1430年のフス教徒の乱では、町は手ひどく破壊された。
また、1553年の第二次辺境伯戦争(当初は、ホーエンツォレルン家によるフランケン公領創設を目論むブランデンブルク=クルムバッハ辺境伯アルブレヒト・アルキビアデスと、これに抵抗するニュルンベルク市との戦闘)ではコンラディターク同盟軍に占領され、略奪を受けた。1554年10月に、城も戦火を受け、破壊されてしまった。


<プラッセンブルク城(要塞)の見学>

現在見られる要塞は4つの塔、強力な城壁をもち、ルネッサンス様式の城郭施設としては、ドイツでも最大級のものの一つである。
この城については1135年に初めて文献に出てくる。1338年~1791年の450年余りの間は、ホーエンツォレルン家の居城であった。名高い“Schoene Hof美しい中庭”には彫刻を施されたルネッサンス風のアーケードがある。
緑のまだ少ない中庭は魅力にいま一つだが、夏にはここに舞台が作られ、野外劇やコンサートが催されるとある。
要塞には州立博物館と錫人形博物館があり、前者にはフリードリヒ大王武器博物館 ・オーバーマイン地方博物館 の二つが含まれる。エプシュトルファーの世界地図のレプリカなど見るものも多いのだが、時間もなく省略して、錫人形博物館だけにした。

<錫人形博物館>

1929年に開館。1~5階にかけて、世界最大コレクションと言われる、30万体余りの錫人形が、各時代に分けて170ものブースに展示されていた。
石器時代の狩猟、ローマ、ゲルマン、中世の騎士、ナポレオンの戦争時代・・などである。やはり興味があるのは、様々な戦争シーン。数えきれない錫人形の騎士・傭兵、将軍・士官、兵が並んだ、戦闘シーンは規模も大きく、忠実に再現されて、実に面白い。

①1757年12月5日Schlacht von Leuthenロイテンの戦い(七年戦争(1756~63年;英仏の植民地戦争)中の会戦。フリードリヒ大王指揮のプロイセン軍がオーストリア軍を撃破した。先のロスバッハの戦いとあわせて軍事史上注目される戦い。双方の動員戦力は3.5万X7万人、死傷者は6千X1万人)

②クルムバッハは第二次辺境伯戦争では戦火を受け、破壊されてしまったが、1553年11月26日をDer Conraditagコンラードの日と称している。(即ち、Bundesstaedische Krieg= 第二次辺境伯戦争) その時の戦いを、19,500体の錫人形で表現している。左手に山上の要塞が見え、城下の町は城壁に囲まれ、守備軍の旗が並ぶ。手前から右手にかけては、攻城軍が(ニュルンベルグ、バンベルグ、ヴュルツブルクの同盟軍など)軍旗をはためかせて、今にも戦闘が開始されようとする緊張感が伝わる。各軍団の色彩も鮮やかで美しい。この長い戦いの1日は“クルムバッハの暗黒の日”として、語り継がれていると云う。

③オーストリア継承戦争(1740~48年;つまり第一次・第二次シュレージェン戦争)に於ける、Schlacht bei Kesselsdorfケッセルスドルフの戦いは1745年12月14~15日に行われた会戦である。プロイセン軍とオーストリア軍とザクセン軍の連合軍が、エルベ川に注ぐ、小さな谷川に沿って戦ったもので、プロイセン軍が勝利した。冬季の小川とそのまわりの湿地は凍りついた状況で、凄まじい戦闘が行われたと云う。厳冬の戦いを錫人形で表現している様子も見応えあるもので、様々な人形が戦いの事細かなシーンを見せていた。
兵員の動員は3万X 3.1万と互角であったが、戦いの後は死傷者5千X 5千 + 捕虜となったものは1万人を数えたと云う。ザクセン軍は兵士の半数を失い、戦闘能力を喪失した為、首都Dresdenをプロイセンのフリードリヒ大王に明け渡した。シュレージェン割譲を承認するドレスデン条約が結ばれ、第二次シュレージェン戦争は終結となった。

その他にも、領主の結婚式、軍隊の行進、チューリンゲンの木組み建築の町の日常風景。番外ながら、ミニチュアの台所と様々な用具、頭や手足、胴が磁器やレザーで出来た人形、Maerklinメルクリンの模型電車も・・・。

(博物館入館料はEuro 14 ・自由見学で一時間)

施設の満足度

5.0

利用した際の同行者:
カップル・夫婦(シニア)
観光の所要時間:
1-2時間
アクセス:
3.5
コストパフォーマンス:
5.0
人混みの少なさ:
5.0
展示内容:
5.0

クチコミ投稿日:2023/08/02

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