戦後、ユダヤ人が故国に帰国するも、待ち受けていたのは悲惨な境遇であった、戦後のポーランド人の手によるユダヤ人虐殺事件として大きな問題を残したポグロム
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- 旅行時期:2019/11(約5年前)
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by ごーふぁーさん(非公開)
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ヤン・カルスキ協会(The Jan Karski Society / Stowarzyszenie im. Jana Karskiego)
キエルツェ ポグロムについては歴史博物館とは別に重要な史跡、資料館がある。それがヤン・カルスキ協会(The Jan Karski Society / Stowarzyszenie im. Jana Karskiego)、キェルツェ ポグロムの資料館であり、事件の中心現場となった建物でもある。
第二次世界大戦終結後の1946年、「ユダヤ人に誘拐されていた」との少年の嘘からユダヤ人の死者42人、重傷者50人にもおよぶ虐殺がここキェルツェで発生した。その虐殺をおこなったのがポーランド人であること、ナチスドイツが敗退した後の戦後であることもあって、このポグロムはポーランド国内で大きなしこりを残している。
少年が地下室に監禁されていたと嘘をついた場所が、このヤン・カルスキ協会の建物である。しかし、この建物に地下室はなく嘘は間もなく発覚した。しかし、住民達はそれでも暴走をやめず、この建物の中でもユダヤ人の虐殺が行われた。
このキエルツェ ポグロムは、教会や警察含めて住民皆が見ぬふりをした為に、詳細がなかなか判明しなかった。当時、ユダヤ人は子供の血を抜く等の妄言もまだ残っていたらしく、憎悪に満ちた環境が事件の露呈を阻んでいたようだ。戦後のポーランドにおいても、如何にユダヤ人差別が根深かったのかが、このことからもわかる。
このヤン・カルスキ協会には、当地でのユダヤ人問題やポグロムの資料が所狭しと展示されており、壁一面に説明書きがある様子は壮絶である。
例えば、キェルツェのユダヤ人史なども興味深い。
1833年 ポーランド王国がユダヤ人がキエルツェに永住することを許可したが、住民の抗議により撤回され、1862年に皇帝が法の前に平等であることを宣言して、やっとユダヤ人が町に定住し貿易や工芸品に従事するようになったとある。このことからも、かなり昔から反ユダヤの思考が強かったことがうかがえる。
そして、1918年にはユダヤ人の自治を求める集会で、反ユダヤの騒乱が起きる。この時は4人のユダヤ人が死亡、約200人が負傷し町中のユダヤ人商店が取り壊された。後年のポグロムの前触れのような出来事である。
しかし、キエルツェにはその後も多くのユダヤ人が住み続けていた。1931年の国勢調査では、キエルツェの住民58,236人のうち、40,784人がポーランド語を母国語とし、16,332人がイディッシュ語、879人がヘブライ語、140人がロシア語、ウクライナ語、ベラルーシ語、52人がドイツ語、49人が他の言語を話すという記録が残っている。イディッシュ語やヘブライ語を話す人がとても多く、実際に町の人口の29.5%をユダヤ人が占めていた。
第二次世界大戦直前の1938年にはキェルツェには2万人のユダヤ人が住んでおり、町の不動産の20.7%を所有し、そのほとんどが通りに面している好立地だったようだ。しかし、キエルツェ歴史博物館で見たように戦争開始直後にナチスドイツによってユダヤ人のゲットーが作られ、大半のユダヤ人がすぐに強制収容所に送られ絶命してしまう。
このゲットーからの悲痛な手紙がヤン・カルスキ協会で紹介されていた。ユダヤ人の少女が家族に宛てたもので、食料や石鹸をせがむ内容とともに、こちらのことは心配しないで、とある。逆にゲットーでの辛い日々が伝わってくる内容であった。結局、この手紙のやりとりをした家族はドイツ軍を避け、命からがらリヴィウに逃れたが、リヴィウがソビエトに支配されると全員シベリアに追放されたと言う。
ゲットーでのドイツ軍の虐待も酷かった。シナゴーグの前で男たちを裸にさせ雪玉を投げつけ、その後全員が銃殺されたという写真が掲示されている。
詳細はコチラ↓
https://jtaniguchi.com/kielce-poland-museum-jankarski-pogrom/
- 施設の満足度
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5.0
- 利用した際の同行者:
- カップル・夫婦
- 観光の所要時間:
- 1-2時間
- アクセス:
- 4.0
- コストパフォーマンス:
- 5.0
- 人混みの少なさ:
- 4.5
- 展示内容:
- 5.0
クチコミ投稿日:2020/11/23
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