第二次世界大戦中、シュトラースブルク大聖堂は独仏両陣営から象徴とみなされていた。
- 4.0
- 旅行時期:2015/07(約9年前)
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by jijidarumaさん(男性)
ストラスブール クチコミ:2件
“ドイツ 黒い森とアルザス・シュヴァーベン地方の旅”
2015年7月14日(火)~7月28日(火)15日間の旅
<ライン川を越えて、フランス・シュトラースブルク観光へ>
7月18日(土) 晴 25.5℃~31℃ 69km
Oberkirchオーベルキルヒ =>B28 (Appenweierアッペンバイヤー)・E52 39km フランス・Strassburgシュトラースブルク
≪カテドラル・Liebfrauenmuenster zu Strassburg(Cathe’drale Notre-Dame-de-Strasbourgノートルダム・ド・ストラスブール大聖堂)≫
10:40~11:15
アルザス地方のどこからでも見え、遠くはヴォージュ山脈やライン川の反対側にある黒い森からも見えるというが、まだ一度も見ていない。
ヴォージュ産の砂岩を建材として使っており、それによって外観が薄茶色を呈している。観光本ではバラ色、ピンク色をしていると云うのだが、どう見ても外壁は汚染されているようだ。
Ill (Elsass)イル川の運河に囲まれた旧市街地区は地盤が弱いため高さ142mの尖塔が片方しかない。その為か、その昔見た時は大きいなと思ったが、ドイツの左右にそろった尖塔を持つゴシック建築を多く見てしまうと、それほどには見えない。
第二次世界大戦中、シュトラースブルク大聖堂は独仏両陣営から象徴とみなされていた。ヒトラーは1940年6月28日にシュトラースブルクを訪問し、大聖堂を「ドイツ人民の国家的聖域」にしようとした。これに対し、仏軍のフィリップ・ルクレール将軍は1941年3月1日、「クフラの誓約」として「シュトラースブルク大聖堂の上に再び我々の美しい国旗がたなびくまで、武器を置かない」と誓った。
また、ドイツ軍はシュトラースブルク大聖堂のステンドグラスを74枚取り外し、ドイツ本国のハイルブロン近郊の岩塩鉱山に隠した。戦後、アメリカ軍がこれを発見し、大聖堂に返還したと云う。大聖堂にはこうしたエピソードに事欠かない。
聖堂内の見どころは
①からくり時計(Horloge astronomique天文時計):
聖堂内には人の人生を表現したからくり時計(天文時計・18世紀)がある。
からくり時計の高さは18m、8階建ての構造で、毎日12時半には上部キリストの前を12使徒が行進し、ニワトリが歌う。6~18時までは15分おきに死者の骸骨が現れる。
時計の前は観光客で徐々にいっぱいになる。12時半に動き出すからくり時計が目的のようだったが、そこまで見る気もなく、退散した。
②天使の柱 (Pilier des anges):
天文時計の傍にはゴシック彫刻の名作と称される“最後の審判”の様子が表現された支柱がある。
③ステンドグラスのバラ窓:
聖堂中央のファサードに大きなバラ窓(特にゴシック建築におけるステンドグラスで作られた円形の窓の事を言う)が見られ、模様と色彩がじつに美しい。
関連旅行記:
黒い森とアルザス・シュヴァーベン地方の旅⑫ライン川を越えて、フランス・シュトラースブルク観光へ
https://4travel.jp/travelogue/11073073
- 施設の満足度
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4.0
- 利用した際の同行者:
- カップル・夫婦(シニア)
- 観光の所要時間:
- 1-2時間
- アクセス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 2.5
- 展示内容:
- 4.0
クチコミ投稿日:2019/05/05
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