チチェン・イツァ遺跡の中にあるツォンパントリと呼ばれる構造物。
この構造物は四角形の形をしていて、その側面にはひたすら髑...
続きを読む髏が何百個と掘られている。
ツォンパントリが作られたのは新チチェン文明の時期なので11世紀から16世紀の初頭と推定され、この建築物の目的は、その骸骨が示すように心臓を取り出され神への供物となった生贄たちの頭蓋骨のお披露目台だ。
それだけではたいして面白くないのだが、実はこのチチェン・イツァー遺跡から1000km離れたところで栄えたアステカ文明の遺跡(テンプロ・マジョール;メキシコシティ中心部にある)からも同様に頭蓋骨を彫刻した大きな台座が見つかっている。
メキシコ北部のアステカ文明が栄えたのは15世紀からなので、チチェン・イツァー遺跡を作ったマヤとアステカの文明の重なりが約100年間位はあったのではないかと考えられる。
しかし、長距離移動の出来る船などを持たなかったマヤ・アステカの人々。
それぞれの文明の間には危険な動物たちが住むジャングルという壁があった。
しかし、その壁を乗り越えて、彼らはお互いの文明の交流があったのか…。
現在の考古学では、マヤ・アステカの人々の間では交流があり、マヤの生贄文明がアステカにもたらされた。もしくは10世紀頃からお互いの文化(この場合はアステカ文明の前駆体であるトルテカ文明とマヤ文明)の間には交流があり、お互いの習慣がそれぞれの文明に持ち込まれ独自の発展を遂げたのではないかと考えられている。
そして、生贄文明はアステカ文明において更に豪華な生贄体制となり、花戦争と呼ばれる生贄を生け捕るための戦争(戦争で戦い傷ついた戦士たちが流す血が地面に咲く真っ赤な花の様だ…という事でアステカ人たちは生贄ぶんどり合戦を花戦争と名づけた)を起こす…という類を見ないアステカ文明が生まれたのではないかとされている。
閉じる
投稿日:2015/09/14